70年代に地方で幼少期を過ごした私の原風景は、基本的には昔の子供とあまり変わらないものが多かったのではないかと思う。
車道のアスファルト舗装は一通り終わっていたが、近所に田んぼや草むら、山林や河川、ため池などは残されており、四季の植物や生き物はとても身近な存在だった。
今で言うところの「昔遊び」(コマ、剣玉、凧、ビー玉、メンコ等)は、まだ「昔」ではなく現役バリバリだった。
子供の生活、遊びの中で、70年代以前との一番大きな違いは、カラーTVの完全普及ではないだろうか。
家庭で、基本的に無料で視聴できる映像メディアの浸透は、私を含めた子供の心理に多大なインパクトを与えたはずだ。
50年代に発祥し、60年代を通じて生み出された子供向けTVコンテンツの数々は、70年代に入ると加速的に進化・爛熟していき、私たち子供はまともにその渦に巻き込まれていった。
70年代の子供向けTVコンテンツの起源は、ほとんど全て50〜60年代まで遡ることができる。
私はもちろん当時をリアルタイムでは知らないが、後の作品に影響を与えたヒット作は、再放送やリメイクなどでまだ十分に「現役」だった。
前史として敗戦の45年以降の流れを抑えておこう。
敗戦直後の46年、「サザエさん」連載開始。
新聞四コマ発で「ファミリー向け」ジャンルを開拓していく。
戦前からの幼年向けマンガ家たちも活動を再開し、その中の一人、杉浦茂は50年代半ばには活動の黄金期を迎える。
53年、TV本放送開始。
同時に力道山プロレス、街頭テレビ始まる。
50年代後半からは高度経済成長期に入り、三種の神器「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」への需要が高まる。
59年、当時の皇太子成婚、64年の東京五輪を経て、TVの普及は加速。
それと同時に「お子様向け」番組も充実していく。
50年代の段階で既に、今の子供向けサブカルコンテンツにも濃密な影響を残している三作品があり、いずれも映像(的)メディアの作品であることで共通している。
【月光仮面】変身・アウトロー・強さ
【ゴジラ】冒険・怪奇・異形
【鉄腕アトム」メカ・未来・SF
結果論ではあるけれども、それぞれがとくに「男の子向け」コンテンツの「受ける」要素を代表していると思われる。
以下にもう少し詳しく紹介してみよう。
●TVドラマ「月光仮面」(58〜59)
故・川内康範が中心となって制作された和製TVヒーローの草分けである。
勧善懲悪の仮面ヒーロー時代劇を、50年代当時の日本を舞台にアップデートした内容で、主人公は大人の探偵、変身した月光仮面はバイクを駆り、銃を操る。
こうした要素は、後の変身ヒーローの属性として引き継がれていくことになる。
川内康範は政治的にも右派のご意見番として名高く、薬害肝炎問題で当時の福田首相と直談判におよび、解決を促したエピソードで知られる。
単なる「右翼」で済ませるには、あまりに懐の深い人物であったことは、数々の作品を見れば一目瞭然だ。
実家はお寺で、幼少の頃から仏教には親しんできたそうで、月光仮面も薬師三尊の脇仏・月光菩薩に由来するという。
あまりに有名な主題歌には「正義の味方」という言葉が出てくるが、これも造語。
この世に完全なる「正義」は神仏以外にあり得ない。
月光仮面はあくまで人間なのだから、絶対的な正義ではなく「正義の味方」に過ぎない。
どこまでも「脇役」でしかない。
これが「月光仮面」に対する位置づけで、番組キャッチコピーは以下のようなあまりに平和的なものだった。
「憎むな! 殺すな! 赦しましょう!」
むき出しの「正義」に対する懐疑、逡巡は、以後の日本のエンタメ作品にも通奏低音のように受け継がれていく。
川内康範は70年代以降も様々な形で、子供向けに限定されず、エンタメの世界に重要な関与をしていくことになる。
●映画「ゴジラ」(54)「ゴジラの逆襲」(55)
ゴジラは初代から「核」であり、「放射能」であり、「人類の生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くし、善人も悪人も等し並みに蹂躙する巨大モンスター、名付けて「怪獣」だった。
50年代の初期二作は完全にシリアスであり、必ずしも「子供向け」作品ではなかったが、その志の高さ、本気の表現は当然の如く子供にも届き、60年代以降のシリーズ化に向けた出発点となった。
●マンガ「鉄腕アトム」(52〜68)
手塚治虫は1928年、大阪生まれで宝塚に育った。
幼少の頃からマンガを描き続け、敗戦直後の46年、18歳でプロデビューし、翌47年には酒井七馬原案の赤本『新寳島』を刊行。
スピーディーで「映像的」な画面作りとストーリー展開で当時の子供たちに衝撃を与え、累積40万部のヒットとなった。
その後も医学生と両立しながら「ジャングル大帝」等を執筆し、52年24歳で医師免許取得、同時期「鉄腕アトム」の雑誌連載が開始され、68年の完結まで「日本初のTVアニメ化」をはさみつつ執筆が続けられた。
手塚治虫が戦後のサブカル作品に及ぼした影響は極めて多岐にわたるが、子供向けエンタメの主要ジャンルとして、文明批評を含んだ近未来SFやメカ・ロボットアクション、そして美少女表現の要素を定着させた点は特筆されるだろう。
以上首相三作品以外にも、50年代後半には貸本漫画の世界で水木しげるや白土三平が活動を開始しており、60年代のヒットへとつながっていく。
そして50年代も終盤に入った59年、「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」創刊。
それまで月刊誌が中心だったマンガ連載の熱は一気に週刊誌に移行していくことになる。
2019年06月07日
2019年06月14日
70年代サブカル前史:60年代TVアニメの誕生
クリエイターにとっての20代後半〜三十代前半という期間は、デビューの初期衝動そのままに上り詰めた、最初のピークにあたっているケースが多い。
わが日本の誇る「マンガの神様」手塚治虫の場合はどうだったか?
主要な作品制作についてのトピックを挙げてみよう。
52年(24歳)「鉄腕アトム」開始。
53年(25歳)「リボンの騎士」開始。
54年(26歳)「ジャングル大帝」完、「火の鳥」開始。
56年(28歳)「ライオンブックス」開始。
(この頃から当時台頭していた劇画を意識し始める)
61年(33歳)アニメ「ある街角の物語」制作開始。
63年(35歳)国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映開始。
65年(37歳)国内初のカラーTVアニメ「ジャングル大帝」開始。
66年(38歳)アニメ「鉄腕アトム」完。
67年(39歳)雑誌「COM」創刊。
68年(40歳)マンガ「鉄腕アトム」完。
初期の単行本書き下ろしスタイルから雑誌連載に本格的に移行し、代表作「鉄腕アトム」の執筆開始から、日本初の30分枠TVアニメ化に至るまでの過程が、まさにその年齢にあたっているのがわかる。
そもそも日本のTVアニメは、近未来SFロボットアニメから始まったのだった。
手塚治虫によって、週一回30分のアニメ制作が可能であること、それがどうやらキャラクタービジネスに結びつくらしいことが実証されたが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
手塚治虫は戦後日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在の、とくにアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまった。
作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
内容的には人間とコミュニケーション可能な知能を持つ等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部を抽出したり、新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
低予算手法としてのリミテッド・アニメの制作は、数々の有能な人材を輩出し、後の日本アニメの基礎を形成した。
ビジネスモデルとしてのメディアミックス、キャラクターグッズ展開は、「ロボットモノ」の枠を超え、子供向けエンタメの世界に広く浸透していくことになる。
アトムの成功の直後、さっそく二つの「競合作」がTVアニメ化された。
マンガ「鉄人28号」「8マン」である。
●「鉄人28号」横山光輝
マンガ「鉄人28号」の連載開始はかなり早く、「マンガ「鉄腕アトム」の開始から四年後の1956年、月刊誌『少年』で執筆が始まり、66年まで続いた。
59年のラジオドラマ、60年の実写TVドラマの後、「アトム」のアニメ化と同年の63年10月、モノクロアニメ「鉄人28号」放送が開始された。
原作マンガの執筆時期からアニメ放映期間(63〜66)を通じ、「アトム」の最大の競合作の趣がある。
原点である「アトム」から巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、リモコンで「人間が操る」という要素を加えることにより、「意思の無い兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れが分岐した。
この流れこそが、後の70年代巨大ロボットアニメの水源と言えるだろう。
●『8マン』(原作:平井和正/マンガ:桑田二郎)
週刊少年マガジンの看板作品とすべく、編集主導で原作と作画が選抜され、1963〜65年まで連載された。
TVアニメ版「エイトマン」は連載開始と同63年〜64年まで放映、先行する「アトム」「鉄人」とデッドヒートを繰り広げた。
成人男性を主人公とした変身ヒーロー、世を忍ぶ仮の姿は探偵という構図は先行する「月光仮面」から受け継ぎ、「アトム」からはコミュニケーション可能な等身大メカニックの要素を受け継ぎ、さらに「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」の創出した流れは、後のサイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。
60年代中盤、TVアニメの創成期に繰り広げられた激しい視聴率争いは、結果として手塚治虫の本業をも消耗させてしまった感はある。
手塚治虫は本質的には「SF作家」であり、「鉄腕アトム」の物語は「人間に似たロボットを通した文明批評」の構造を持つが、人気の要素として強かったのはあくまで「ロボット・バトル」の部分だった。
とくにアニメの「アトム」はバトル要素を増やさざるを得ず、手塚治虫が本来志向していたSF的な内容からは離れることが多くなった。
そして同じSFマンガ・アニメの土俵上にある「鉄人」「エイトマン」だけでなく、60年代後半から70年代初頭にかけて他にも次々と台頭してくる子供向けエンタメ作品の奔流に、「マンガの神様」と言えども抗いがたく「低迷」の時期を迎えることになるのだ。
わが日本の誇る「マンガの神様」手塚治虫の場合はどうだったか?
主要な作品制作についてのトピックを挙げてみよう。
52年(24歳)「鉄腕アトム」開始。
53年(25歳)「リボンの騎士」開始。
54年(26歳)「ジャングル大帝」完、「火の鳥」開始。
56年(28歳)「ライオンブックス」開始。
(この頃から当時台頭していた劇画を意識し始める)
61年(33歳)アニメ「ある街角の物語」制作開始。
63年(35歳)国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映開始。
65年(37歳)国内初のカラーTVアニメ「ジャングル大帝」開始。
66年(38歳)アニメ「鉄腕アトム」完。
67年(39歳)雑誌「COM」創刊。
68年(40歳)マンガ「鉄腕アトム」完。
初期の単行本書き下ろしスタイルから雑誌連載に本格的に移行し、代表作「鉄腕アトム」の執筆開始から、日本初の30分枠TVアニメ化に至るまでの過程が、まさにその年齢にあたっているのがわかる。
そもそも日本のTVアニメは、近未来SFロボットアニメから始まったのだった。
手塚治虫によって、週一回30分のアニメ制作が可能であること、それがどうやらキャラクタービジネスに結びつくらしいことが実証されたが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
手塚治虫は戦後日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在の、とくにアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまった。
作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
内容的には人間とコミュニケーション可能な知能を持つ等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部を抽出したり、新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
低予算手法としてのリミテッド・アニメの制作は、数々の有能な人材を輩出し、後の日本アニメの基礎を形成した。
ビジネスモデルとしてのメディアミックス、キャラクターグッズ展開は、「ロボットモノ」の枠を超え、子供向けエンタメの世界に広く浸透していくことになる。
アトムの成功の直後、さっそく二つの「競合作」がTVアニメ化された。
マンガ「鉄人28号」「8マン」である。
●「鉄人28号」横山光輝
マンガ「鉄人28号」の連載開始はかなり早く、「マンガ「鉄腕アトム」の開始から四年後の1956年、月刊誌『少年』で執筆が始まり、66年まで続いた。
59年のラジオドラマ、60年の実写TVドラマの後、「アトム」のアニメ化と同年の63年10月、モノクロアニメ「鉄人28号」放送が開始された。
原作マンガの執筆時期からアニメ放映期間(63〜66)を通じ、「アトム」の最大の競合作の趣がある。
原点である「アトム」から巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、リモコンで「人間が操る」という要素を加えることにより、「意思の無い兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れが分岐した。
この流れこそが、後の70年代巨大ロボットアニメの水源と言えるだろう。
●『8マン』(原作:平井和正/マンガ:桑田二郎)
週刊少年マガジンの看板作品とすべく、編集主導で原作と作画が選抜され、1963〜65年まで連載された。
TVアニメ版「エイトマン」は連載開始と同63年〜64年まで放映、先行する「アトム」「鉄人」とデッドヒートを繰り広げた。
成人男性を主人公とした変身ヒーロー、世を忍ぶ仮の姿は探偵という構図は先行する「月光仮面」から受け継ぎ、「アトム」からはコミュニケーション可能な等身大メカニックの要素を受け継ぎ、さらに「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」の創出した流れは、後のサイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。
60年代中盤、TVアニメの創成期に繰り広げられた激しい視聴率争いは、結果として手塚治虫の本業をも消耗させてしまった感はある。
手塚治虫は本質的には「SF作家」であり、「鉄腕アトム」の物語は「人間に似たロボットを通した文明批評」の構造を持つが、人気の要素として強かったのはあくまで「ロボット・バトル」の部分だった。
とくにアニメの「アトム」はバトル要素を増やさざるを得ず、手塚治虫が本来志向していたSF的な内容からは離れることが多くなった。
そして同じSFマンガ・アニメの土俵上にある「鉄人」「エイトマン」だけでなく、60年代後半から70年代初頭にかけて他にも次々と台頭してくる子供向けエンタメ作品の奔流に、「マンガの神様」と言えども抗いがたく「低迷」の時期を迎えることになるのだ。
2019年07月01日
70年代サブカル前史「60年代の怪と異」
1950年代から60年代半ばにかけて、活動の最初のピークをむかえていた「マンガの神様」手塚治虫。
とくに63〜66年、国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映期間は、絶頂期にあったと言って良い。
ほぼ同時期のTVアニメ「鉄人28号」「エイトマン」は、競合作であると共に、「SF・ロボット」というジャンルを盛り上げる同志的作品でもあった。
真の意味で子供向けTV番組の王座から手塚治虫を追い落としたのは、同じロボットアニメではなく、特撮による「怪獣」であったのではないだろうか。
【60〜70年代映画ゴジラシリーズ】
怪獣の始祖にして王者である「ゴジラ」は、マンガ版「鉄腕アトム」連載開始から二年後の54年に映画第一作、翌55年には第二作「ゴジラの逆襲」が公開され、一世を風靡した。
映画のゴジラシリーズが復活したのは62年の第三作「キングコング対ゴジラ」からで、64年の第四作「モスラ対ゴジラ」以降、75年の第十五作「メカゴジラの逆襲」まで毎年映画が公開された。
60年代以降は、ゴジラと他の怪獣の対決を描くバトル路線の導入で人気が安定したのである。
TVでも折々で放映された一連のゴジラ映画や、その他にも多数制作された怪獣映画により、「怪獣」は子供向けエンタメの定番の一つとして、がっちり定着したのである。
【60年代初期ウルトラシリーズ】
そしてゴジラが切り開いた「怪獣」「特撮」というジャンルをより深く子供たちの心に食い込ませたのが、TVで毎週放映の30分番組としての「ウルトラシリーズ」だった。
現在に続くウルトラシリーズの原点になった60年代の初期作は、円谷プロ制作の以下の三作品。
●「ウルトラQ」(66年1月〜7月、全28話)
●「ウルトラマン」(66年7月〜翌4月、全39話)
●「ウルトラセブン」(67年10月〜翌9月、全49話)
第一作「ウルトラQ」では「毎週30分の特TV撮番組」という高いハードルが克服され、「鉄腕アトム」で実現された「毎週30分のTVアニメ」と並ぶ子供向けエンタメジャンルの柱となった。
同時期にTVアニメ制作の渦中にあった手塚治虫は「毎週違うゴジラが出る特撮TV番組」が準備中という噂を聞きつけ、脅威を感じたという。
実際、この初期ウルトラシリーズの人気沸騰が「アトム」を過去の作品にしてしまった面はあるだろう。
第二作から登場したヒーロー「ウルトラマン」の存在も極めて大きい。
それまで巨大怪獣の脅威を前に右往左往するしかなかった人類に、強力な味方が現れたのだ。
東洋の仏像を思わせる「光の巨人」としてのヒーローデザインも素晴らしく、子供の持つ変身ヒーローへの憧れを巧みにすくい取り、敵味方の分かりやすいシンプルなバトルの構図が完成した。
以後「怪獣退治する巨大変身ヒーローの特撮番組」という形式は定番化し、幾多の作品、シリーズが生み出されていくことになる。
近未来SFの描く科学文明の光の反作用のように、そしてお茶の間に毎週襲来する巨大モンスターが呼び水となったように、高度経済成長に打ち捨てられた土俗の暗闇から蘇ってくる「怪異」もあった。
妖怪である。
【水木しげるの妖怪ブーム】
水木しげる(本名:武良茂)は1922年生まれ。
幼少期を鳥取県境港で過ごし、43年には帝国陸軍に召集、ラバウルに出征した際、左腕を失う。
46年、24歳で幅員し、美術を学びながらも職を転々とする。
1950年頃から神戸でアパート経営の傍ら紙芝居制作を開始、51年には「水木しげる」のペンネームで紙芝居作家としての活動を始める。
その後、急速なTVの普及と共に衰退した紙芝居に見切りをつけ、マンガ家への転身を目指し、57年に35歳で上京。
雑誌マンガに圧され、こちらも斜陽の貸本漫画の世界で貧窮しながらも、60年代前半には「墓場鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」等、後の代表作となる作品の数々を執筆。
幼少の頃からの怪異体験や、戦地ラバウルでの現地人たちとの交流が、浮上の契機を作っていく。
そして苦節後の65年、43歳にして講談社「別冊少年マガジン」でメジャーデビューし、看板雑誌「週刊少年マガジン」にて『墓場の鬼太郎』連載開始。
翌年には水木プロダクション設立され、「悪魔くん」のTVドラマ化。
68年、「墓場の鬼太郎」から改題した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化、妖怪ブームを巻き起こし、古の精霊たちが大挙して戦後日本に復活した。
アトム、怪獣、妖怪、それぞれに、本来の構図としては「文明批評」というメインテーマが含まれていたのだが、人気が定着するにあたって最も機能したのは「バトル要素の導入」であった。
子供、とくに男の子向けのエンタメにおいて、バトルは極めて強い訴求力を持つのだ。
バトル路線以外で人気が取れるとすれば、それはやはり「笑い」になってくる。
60〜70年代の代表的な児童ギャグマンガ家の軌跡を見ておこう。
【赤塚不二夫のギャグマンガ】
赤塚不二夫は1935年、満州生まれ。
敗戦により大陸から引き揚げ、困難な暮らしの中で幼少の頃からマンガを描き続けた。
中学卒業後は働きながら「漫画少年」に投稿を続け、18歳で上京した後、56年頃から貸本漫画家としての活動を開始。
当時は少女漫画を執筆していた。
メジャー誌で活躍し始めた62年、「おそ松くん」(週刊少年サンデー)、「ひみつのアッコちゃん」(りぼん)で一躍人気マンガ家になる。
66年「おそ松くん」TVアニメ化、67年「天才バカボン」」(週刊少年マガジン)「もーれつア太郎」(週刊少年サンデー)連載開始、69年「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」TVアニメ化、71年「天才バカボン」TVアニメ化と切れ目なくヒットが続き。ギャグマンガ家としての人気が不動になる。
初期には日常生活の中に侵入してくる異形のキャラクター達の面白さ、魅力で人気を集め、70年代には次第にそうした「生活ギャグ」から離陸し、スラップスティック、シュールの領域へ踏み込んでいく。
【藤子不二雄】
ペンネーム「藤子不二雄」は、藤本弘(1933生)と安孫子素雄(1934生)のコンビ名でもある。
二人は富山県高岡市出身、小学校時代からの同級生だった。
子供の頃からマンガを通して友人関係を築き、高校時代からは合作で作品を執筆するようになる。
54年、二人で上京してからは、主に手塚治虫の影響下にあるシリアスな作品を制作し続ける。
64年連載開始の「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー〜66年)が大ヒットした後は、ギャグマンガ家として広く人気を博すようになる。
この「オバQ」で創案された、平凡な主人公の少年の家庭に「異物」としてのキャラクターが居候し、騒動と笑いを巻き起こすスタイルは藤子不二雄マンガの定番となり、数多くの作品が描かれた。
その中にはデビュー以来の本来の持ち味であるSF的なアイデアを存分に盛り込んだ「モジャ公」(69〜70)がある。
ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれ、単行本ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われた傑作であったが、ハードなSFに振れ過ぎたせいかヒットとはならなかった。
その直後に連載開始された「ドラえもん」(70〜)では、SFセンスと大衆性は巧みにバランスされ、「オバQ」を超える代表作へと成長していくことになる。
手塚治虫が切り開いた戦後児童マンガ、TVエンタメの世界は、60年代後半には手塚治虫によって誘引された多数の優れた才能により「世代交代」が起こった。
そして、児童マンガで育った世代が青年期を迎える頃には、その受け皿になる対象年齢高めの作品が求められるようになって行った。
60年代後半から加速する「劇画」の隆盛も、その顕れ方の一つだった。
とくに63〜66年、国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映期間は、絶頂期にあったと言って良い。
ほぼ同時期のTVアニメ「鉄人28号」「エイトマン」は、競合作であると共に、「SF・ロボット」というジャンルを盛り上げる同志的作品でもあった。
真の意味で子供向けTV番組の王座から手塚治虫を追い落としたのは、同じロボットアニメではなく、特撮による「怪獣」であったのではないだろうか。
【60〜70年代映画ゴジラシリーズ】
怪獣の始祖にして王者である「ゴジラ」は、マンガ版「鉄腕アトム」連載開始から二年後の54年に映画第一作、翌55年には第二作「ゴジラの逆襲」が公開され、一世を風靡した。
映画のゴジラシリーズが復活したのは62年の第三作「キングコング対ゴジラ」からで、64年の第四作「モスラ対ゴジラ」以降、75年の第十五作「メカゴジラの逆襲」まで毎年映画が公開された。
60年代以降は、ゴジラと他の怪獣の対決を描くバトル路線の導入で人気が安定したのである。
TVでも折々で放映された一連のゴジラ映画や、その他にも多数制作された怪獣映画により、「怪獣」は子供向けエンタメの定番の一つとして、がっちり定着したのである。
【60年代初期ウルトラシリーズ】
そしてゴジラが切り開いた「怪獣」「特撮」というジャンルをより深く子供たちの心に食い込ませたのが、TVで毎週放映の30分番組としての「ウルトラシリーズ」だった。
現在に続くウルトラシリーズの原点になった60年代の初期作は、円谷プロ制作の以下の三作品。
●「ウルトラQ」(66年1月〜7月、全28話)
●「ウルトラマン」(66年7月〜翌4月、全39話)
●「ウルトラセブン」(67年10月〜翌9月、全49話)
第一作「ウルトラQ」では「毎週30分の特TV撮番組」という高いハードルが克服され、「鉄腕アトム」で実現された「毎週30分のTVアニメ」と並ぶ子供向けエンタメジャンルの柱となった。
同時期にTVアニメ制作の渦中にあった手塚治虫は「毎週違うゴジラが出る特撮TV番組」が準備中という噂を聞きつけ、脅威を感じたという。
実際、この初期ウルトラシリーズの人気沸騰が「アトム」を過去の作品にしてしまった面はあるだろう。
第二作から登場したヒーロー「ウルトラマン」の存在も極めて大きい。
それまで巨大怪獣の脅威を前に右往左往するしかなかった人類に、強力な味方が現れたのだ。
東洋の仏像を思わせる「光の巨人」としてのヒーローデザインも素晴らしく、子供の持つ変身ヒーローへの憧れを巧みにすくい取り、敵味方の分かりやすいシンプルなバトルの構図が完成した。
以後「怪獣退治する巨大変身ヒーローの特撮番組」という形式は定番化し、幾多の作品、シリーズが生み出されていくことになる。
近未来SFの描く科学文明の光の反作用のように、そしてお茶の間に毎週襲来する巨大モンスターが呼び水となったように、高度経済成長に打ち捨てられた土俗の暗闇から蘇ってくる「怪異」もあった。
妖怪である。
【水木しげるの妖怪ブーム】
水木しげる(本名:武良茂)は1922年生まれ。
幼少期を鳥取県境港で過ごし、43年には帝国陸軍に召集、ラバウルに出征した際、左腕を失う。
46年、24歳で幅員し、美術を学びながらも職を転々とする。
1950年頃から神戸でアパート経営の傍ら紙芝居制作を開始、51年には「水木しげる」のペンネームで紙芝居作家としての活動を始める。
その後、急速なTVの普及と共に衰退した紙芝居に見切りをつけ、マンガ家への転身を目指し、57年に35歳で上京。
雑誌マンガに圧され、こちらも斜陽の貸本漫画の世界で貧窮しながらも、60年代前半には「墓場鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」等、後の代表作となる作品の数々を執筆。
幼少の頃からの怪異体験や、戦地ラバウルでの現地人たちとの交流が、浮上の契機を作っていく。
そして苦節後の65年、43歳にして講談社「別冊少年マガジン」でメジャーデビューし、看板雑誌「週刊少年マガジン」にて『墓場の鬼太郎』連載開始。
翌年には水木プロダクション設立され、「悪魔くん」のTVドラマ化。
68年、「墓場の鬼太郎」から改題した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化、妖怪ブームを巻き起こし、古の精霊たちが大挙して戦後日本に復活した。
アトム、怪獣、妖怪、それぞれに、本来の構図としては「文明批評」というメインテーマが含まれていたのだが、人気が定着するにあたって最も機能したのは「バトル要素の導入」であった。
子供、とくに男の子向けのエンタメにおいて、バトルは極めて強い訴求力を持つのだ。
バトル路線以外で人気が取れるとすれば、それはやはり「笑い」になってくる。
60〜70年代の代表的な児童ギャグマンガ家の軌跡を見ておこう。
【赤塚不二夫のギャグマンガ】
赤塚不二夫は1935年、満州生まれ。
敗戦により大陸から引き揚げ、困難な暮らしの中で幼少の頃からマンガを描き続けた。
中学卒業後は働きながら「漫画少年」に投稿を続け、18歳で上京した後、56年頃から貸本漫画家としての活動を開始。
当時は少女漫画を執筆していた。
メジャー誌で活躍し始めた62年、「おそ松くん」(週刊少年サンデー)、「ひみつのアッコちゃん」(りぼん)で一躍人気マンガ家になる。
66年「おそ松くん」TVアニメ化、67年「天才バカボン」」(週刊少年マガジン)「もーれつア太郎」(週刊少年サンデー)連載開始、69年「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」TVアニメ化、71年「天才バカボン」TVアニメ化と切れ目なくヒットが続き。ギャグマンガ家としての人気が不動になる。
初期には日常生活の中に侵入してくる異形のキャラクター達の面白さ、魅力で人気を集め、70年代には次第にそうした「生活ギャグ」から離陸し、スラップスティック、シュールの領域へ踏み込んでいく。
【藤子不二雄】
ペンネーム「藤子不二雄」は、藤本弘(1933生)と安孫子素雄(1934生)のコンビ名でもある。
二人は富山県高岡市出身、小学校時代からの同級生だった。
子供の頃からマンガを通して友人関係を築き、高校時代からは合作で作品を執筆するようになる。
54年、二人で上京してからは、主に手塚治虫の影響下にあるシリアスな作品を制作し続ける。
64年連載開始の「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー〜66年)が大ヒットした後は、ギャグマンガ家として広く人気を博すようになる。
この「オバQ」で創案された、平凡な主人公の少年の家庭に「異物」としてのキャラクターが居候し、騒動と笑いを巻き起こすスタイルは藤子不二雄マンガの定番となり、数多くの作品が描かれた。
その中にはデビュー以来の本来の持ち味であるSF的なアイデアを存分に盛り込んだ「モジャ公」(69〜70)がある。
ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれ、単行本ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われた傑作であったが、ハードなSFに振れ過ぎたせいかヒットとはならなかった。
その直後に連載開始された「ドラえもん」(70〜)では、SFセンスと大衆性は巧みにバランスされ、「オバQ」を超える代表作へと成長していくことになる。
手塚治虫が切り開いた戦後児童マンガ、TVエンタメの世界は、60年代後半には手塚治虫によって誘引された多数の優れた才能により「世代交代」が起こった。
そして、児童マンガで育った世代が青年期を迎える頃には、その受け皿になる対象年齢高めの作品が求められるようになって行った。
60年代後半から加速する「劇画」の隆盛も、その顕れ方の一つだった。
2019年07月11日
70年代サブカル前史:60年代「忍者」から「スポ根」へ
過去記事で、戦後の子ども向けエンタメ(とくに男の子向け)の祖型となった三つの50年代作品を元に、「うける」要素として以下のものを仮定してきた。
【月光仮面】バトル・変身・アウトロー
【ゴジラ】怪奇・異形
【鉄腕アトム】メカ・SF
50〜60年代の児童向けエンタメの中心軸は、「アトム」に代表される「メカ・SF」に、かなり引き寄せられた。
しかしそれは手塚治虫という異能であればこそ可能になった力技であって、基本的にはマニアックなジャンルであり、本来は児童向けエンタメの「王道」にはなり得ないものであった。
昔も今も、時代を超えて男の子が憧れる一番人気のテーマと言えばやはり「戦い」「強さ」であり、50年代のTV黎明期で言えば「月光仮面」がそれを代表していたのではないだろうか。
さすがの手塚、さすがのアトムと言えども、人気を安定させるためには本来の「文明批評SF」路線だけでなく、「ロボットバトル」の要素を大幅に導入せざるを得なかったのだ。
マンガ、アニメの世界で直接「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。
【白土三平の忍者ブーム】
白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。
児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。
白土三平の忍者マンガは時代劇であったが、現代劇の中でもSF設定に頼らずに直接「強さ」を扱う作品も、60年代には次々にヒットするようになった。
不良少年のケンカ沙汰をメインテーマにした「番長モノ」である。
【子供向けヤクザ映画としての番長モノ】
法令順守、アウトロー排除の風潮が、私などから見れば行き過ぎと思えるほどに徹底される現代にあっても、ヤクザやヤンキーを主題としたフィクションは、根強い人気を持っている。
アウトローを主人公とした物語が好まれる傾向は時代を超えていて、直接的には江戸時代あたりまで遡ることができるだろう。
近代に入ってからも、たとえば浪曲のヒーローは大半がやくざ者であり、サブカルチャーの世界ではむしろそれが主流であったと言って良い。
少年マンガは戦後長らく子供向けサブカルチャーの華であったが、おそらく先行する浪曲の世界や、同時代に流行したやくざ映画の影響を受けていたはずだ。
番長モノの主人公の多くは「ケンカ自慢の不良」とは言うものの、恐喝等の犯罪行為や集団暴力に関与することは無い。
組織を嫌う一匹狼タイプであることが多く、一般生徒に手を出したり、犯罪行為を行う「悪い不良」を懲らしめ、改心させる役割を担う。
こうした作劇は、浪曲等に登場する「良いヤクザ」の任侠の世界観そのままで、ストーリー自体も下敷きにされている場合が多々ある。
そこに対象年齢を低くするための少年マンガ的な設定が加えられる。
物語冒頭は学園等の子供の日常空間を舞台とし、主人公はそこに通学する中高生とする。
バトルは「素手のタイマン」(一対一で武器は使用しない)が基本ルールで、あくまで「遺恨を残さない子供のケンカ」の範囲内で決着が付けられ、生死にかかわることはあまりない。
舞台設定が身近な「地元」からじわじわ拡大し、「強さのインフレ」とともに広域化して行く傾向は、現実の戦後やくざの抗争広域化、それをネタにした映画作品の影響があるかもしれない。
主人公は「純情硬派」タイプで、性的にはむしろ潔癖であることが多い。
こうして列挙してみると、ウケるための二大要素である「バイオレンス」「エロ」に一定の歯止めがかけられているのがわかる。
そこで描かれるのは、義理人情、純情硬派、弱きをたすけ強きをくじく任侠道など、極めて古風な倫理観である。
不良を主人公とした少年マンガ作品が、アウトロー的な世界を描いているにもかかわらず、社会問題化することが少ないのもうなずけるのである。
私は世代的に60年代リアルタイムでは読んでいないが、アニメ化されたものを再放送で視たりして、一応記憶には残っている。
代表的な作品は、以下のものになるだろう。
●「ハリスの旋風」ちばてつや(65〜67年、週刊少年マガジン)
●「夕焼け番長」原作:梶原一騎、作画:荘司としお(67〜71年、冒険王)
●「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志(68〜73年、週刊少年ジャンプ)
この三作を並べてみると、少年マンガ誌の王道中の王道テーマである「バトル」の基本的な創作スタイルは、「番長モノ」の系譜の中で形成されたのではないかと思えてくる。
とくにジャンプ創成期のヒット作である「男一匹〜」あたりの連載時期になると、後の「バトル作品」でも繰り返されることになる「強さのインフレ」や「無理な連載の引き延ばし」等も含め、良くも悪くも様々な要素が出揃っている感がある。
現実世界を舞台とし、あくまで少年同士のケンカに限定された「番長」の枠を取り外すと、後の様々な「バトル作品」に進化するのだろう。
SFやファンタジーの要素を導入すると、お話のスケールが大きくなり、絵的にも派手になるが、その分「強さのインフレ」の度合いも桁外れになり、構成が崩れやすくなる。
ちばてつやと梶原一騎はそのあたりのバランス感覚と、当時の少年マンガの中でのリアリズムの作り方が非常に巧みなマンガ家、原作者であったということだろう。
この二人は並行して「スポ根モノ」のヒット作も作り上げていく。
【60年代後半、スポ根モノの隆盛】
少年マンガのカテゴリで現代劇としてバトルを描く場合、様々な制約が生まれてくる。
いくらフィクションとは言え凄惨な戦いをリアルに描くことは難しく、武士や忍者の登場する時代劇でもないかぎり、殺し合いのような生の「実戦」を扱うことは不可能になる。
先に紹介した「番長モノ」の場合、一対一の素手のタイマンをバトルの基本ルールとすることで、最低限の倫理観はクリアされたが、「不良のケンカ」を作中で肯定的に描くことは、どこまで行ってもグレーゾーンでしかありえない。
そうした問題点を完全に払拭できるのが、バトル要素をスポーツ競技の枠内に収める「スポーツ根性モノ」だった。
スポーツであればルールがはっきりしているので勝敗が分かりやすく、団体競技ならチームバトルの面白さも出てくる。
格闘技のような極めて激しい戦いであっても「あくまでルール内の出来事」として、いわば「言い訳」が効くわけだ。
単に「スポーツ」を扱ったマンガ作品はそれ以前にも連綿と存在したが、梶原一騎が主導して付け加えた「根性」の部分に、60年代後半から隆盛を迎える「スポ根モノ」の独自性があった。
主人公が超人的な「根性、努力」により、必殺技や魔球を会得する様や、最先端のリアルな劇画調の絵柄は、先行する白土忍者マンガの要素をなぞっているけれども、何より読者がマンガと同じ競技を実際に体験できるのが強みだった。
この路線では「巨人の星」「タイガーマスク」を代表とする多くの作品が制作された。
中でも梶原一騎とちばてつやという、この分野の「二大巨頭」がタッグを組んだ最高傑作と言えるのが、1968年から週刊少年マガジンで連載された「あしたのジョー」だった。
この作品は通常、人気が定着し、TVアニメ第一作が放映されたタイミングから「70年代」と認識されることが多いと思うが、作中で描かれる時代背景は、どちらかと言うと60年代的な雰囲気が強い。
ちば作品の中では珍しく、梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
そしてあまりにも有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンは、思春期前後の青少年の心に突き刺さる、奇跡のような一枚になったのだ。
60年代後半から70年代初頭にかけて、少年向けエンタメの中心軸は、アトムに発祥する「メカ・SF」から、バトルを中心軸に置いた「スポ根」に完全に移行していたのである。
【月光仮面】バトル・変身・アウトロー
【ゴジラ】怪奇・異形
【鉄腕アトム】メカ・SF
50〜60年代の児童向けエンタメの中心軸は、「アトム」に代表される「メカ・SF」に、かなり引き寄せられた。
しかしそれは手塚治虫という異能であればこそ可能になった力技であって、基本的にはマニアックなジャンルであり、本来は児童向けエンタメの「王道」にはなり得ないものであった。
昔も今も、時代を超えて男の子が憧れる一番人気のテーマと言えばやはり「戦い」「強さ」であり、50年代のTV黎明期で言えば「月光仮面」がそれを代表していたのではないだろうか。
さすがの手塚、さすがのアトムと言えども、人気を安定させるためには本来の「文明批評SF」路線だけでなく、「ロボットバトル」の要素を大幅に導入せざるを得なかったのだ。
マンガ、アニメの世界で直接「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。
【白土三平の忍者ブーム】
白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。
児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。
白土三平の忍者マンガは時代劇であったが、現代劇の中でもSF設定に頼らずに直接「強さ」を扱う作品も、60年代には次々にヒットするようになった。
不良少年のケンカ沙汰をメインテーマにした「番長モノ」である。
【子供向けヤクザ映画としての番長モノ】
法令順守、アウトロー排除の風潮が、私などから見れば行き過ぎと思えるほどに徹底される現代にあっても、ヤクザやヤンキーを主題としたフィクションは、根強い人気を持っている。
アウトローを主人公とした物語が好まれる傾向は時代を超えていて、直接的には江戸時代あたりまで遡ることができるだろう。
近代に入ってからも、たとえば浪曲のヒーローは大半がやくざ者であり、サブカルチャーの世界ではむしろそれが主流であったと言って良い。
少年マンガは戦後長らく子供向けサブカルチャーの華であったが、おそらく先行する浪曲の世界や、同時代に流行したやくざ映画の影響を受けていたはずだ。
番長モノの主人公の多くは「ケンカ自慢の不良」とは言うものの、恐喝等の犯罪行為や集団暴力に関与することは無い。
組織を嫌う一匹狼タイプであることが多く、一般生徒に手を出したり、犯罪行為を行う「悪い不良」を懲らしめ、改心させる役割を担う。
こうした作劇は、浪曲等に登場する「良いヤクザ」の任侠の世界観そのままで、ストーリー自体も下敷きにされている場合が多々ある。
そこに対象年齢を低くするための少年マンガ的な設定が加えられる。
物語冒頭は学園等の子供の日常空間を舞台とし、主人公はそこに通学する中高生とする。
バトルは「素手のタイマン」(一対一で武器は使用しない)が基本ルールで、あくまで「遺恨を残さない子供のケンカ」の範囲内で決着が付けられ、生死にかかわることはあまりない。
舞台設定が身近な「地元」からじわじわ拡大し、「強さのインフレ」とともに広域化して行く傾向は、現実の戦後やくざの抗争広域化、それをネタにした映画作品の影響があるかもしれない。
主人公は「純情硬派」タイプで、性的にはむしろ潔癖であることが多い。
こうして列挙してみると、ウケるための二大要素である「バイオレンス」「エロ」に一定の歯止めがかけられているのがわかる。
そこで描かれるのは、義理人情、純情硬派、弱きをたすけ強きをくじく任侠道など、極めて古風な倫理観である。
不良を主人公とした少年マンガ作品が、アウトロー的な世界を描いているにもかかわらず、社会問題化することが少ないのもうなずけるのである。
私は世代的に60年代リアルタイムでは読んでいないが、アニメ化されたものを再放送で視たりして、一応記憶には残っている。
代表的な作品は、以下のものになるだろう。
●「ハリスの旋風」ちばてつや(65〜67年、週刊少年マガジン)
●「夕焼け番長」原作:梶原一騎、作画:荘司としお(67〜71年、冒険王)
●「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志(68〜73年、週刊少年ジャンプ)
この三作を並べてみると、少年マンガ誌の王道中の王道テーマである「バトル」の基本的な創作スタイルは、「番長モノ」の系譜の中で形成されたのではないかと思えてくる。
とくにジャンプ創成期のヒット作である「男一匹〜」あたりの連載時期になると、後の「バトル作品」でも繰り返されることになる「強さのインフレ」や「無理な連載の引き延ばし」等も含め、良くも悪くも様々な要素が出揃っている感がある。
現実世界を舞台とし、あくまで少年同士のケンカに限定された「番長」の枠を取り外すと、後の様々な「バトル作品」に進化するのだろう。
SFやファンタジーの要素を導入すると、お話のスケールが大きくなり、絵的にも派手になるが、その分「強さのインフレ」の度合いも桁外れになり、構成が崩れやすくなる。
ちばてつやと梶原一騎はそのあたりのバランス感覚と、当時の少年マンガの中でのリアリズムの作り方が非常に巧みなマンガ家、原作者であったということだろう。
この二人は並行して「スポ根モノ」のヒット作も作り上げていく。
【60年代後半、スポ根モノの隆盛】
少年マンガのカテゴリで現代劇としてバトルを描く場合、様々な制約が生まれてくる。
いくらフィクションとは言え凄惨な戦いをリアルに描くことは難しく、武士や忍者の登場する時代劇でもないかぎり、殺し合いのような生の「実戦」を扱うことは不可能になる。
先に紹介した「番長モノ」の場合、一対一の素手のタイマンをバトルの基本ルールとすることで、最低限の倫理観はクリアされたが、「不良のケンカ」を作中で肯定的に描くことは、どこまで行ってもグレーゾーンでしかありえない。
そうした問題点を完全に払拭できるのが、バトル要素をスポーツ競技の枠内に収める「スポーツ根性モノ」だった。
スポーツであればルールがはっきりしているので勝敗が分かりやすく、団体競技ならチームバトルの面白さも出てくる。
格闘技のような極めて激しい戦いであっても「あくまでルール内の出来事」として、いわば「言い訳」が効くわけだ。
単に「スポーツ」を扱ったマンガ作品はそれ以前にも連綿と存在したが、梶原一騎が主導して付け加えた「根性」の部分に、60年代後半から隆盛を迎える「スポ根モノ」の独自性があった。
主人公が超人的な「根性、努力」により、必殺技や魔球を会得する様や、最先端のリアルな劇画調の絵柄は、先行する白土忍者マンガの要素をなぞっているけれども、何より読者がマンガと同じ競技を実際に体験できるのが強みだった。
この路線では「巨人の星」「タイガーマスク」を代表とする多くの作品が制作された。
中でも梶原一騎とちばてつやという、この分野の「二大巨頭」がタッグを組んだ最高傑作と言えるのが、1968年から週刊少年マガジンで連載された「あしたのジョー」だった。
この作品は通常、人気が定着し、TVアニメ第一作が放映されたタイミングから「70年代」と認識されることが多いと思うが、作中で描かれる時代背景は、どちらかと言うと60年代的な雰囲気が強い。
ちば作品の中では珍しく、梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
そしてあまりにも有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンは、思春期前後の青少年の心に突き刺さる、奇跡のような一枚になったのだ。
60年代後半から70年代初頭にかけて、少年向けエンタメの中心軸は、アトムに発祥する「メカ・SF」から、バトルを中心軸に置いた「スポ根」に完全に移行していたのである。
2019年07月12日
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
戦後まもなくの50年代から始まる戦後サブカルチャーの歩みは徐々に加速し、60年代からはTVアニメ・ドラマとマンガのメディアミックス、関連グッズによるキャラクタービジネスが開始された。
それと共に雑誌連載マンガは読者を開拓していき、マンガを読む習慣を持つ年齢層は次第に広がり、70年頃には少年誌が青年読者にも購読されるようになった。
その過程は、戦後生まれの団塊世代が物心ついて以来の50〜60年代、マンガ・アニメ・TVの発達と共に消費者として成長し、成人年齢に達してきた歩みともシンクロしているはずだ。
1970年前後の雑誌連載マンガは「受ける」「売れる」ためのテーマやノウハウが一通り出揃った感がある。
質的にも一つのピークをむかえており、後続の作品に多大な影響を及ぼしたものは数多い。
読者の年齢層が上がり、単に「売れる」というにとどまらない「歯ごたえ」が求められるようになった。
必ずしもハッピーエンドにならず、主人公の死や破滅が描かれる作品も数多くあり、さらには70年代初頭の終末ブームの世相を背景に、幾多の「世界滅亡」までが描かれるようになった。
70年代前後に青年層に支持され、「青年の死」や「世界滅亡」が描かれた作品の中で、後続作品に多大な影響を残した例として、以下の四作を挙げてみたい。
以下に制作年と当時の作者の年齢をまとめてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【幻魔大戦】【新幻魔大戦】(1967年、1971〜74年)
原作:平井和正(29歳、33〜36歳)
マンガ:石森章太郎(29歳、33〜36歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
・1970年前後に制作され、青年層に支持される。
・シリアスでリアルな展開の末、主人公の「死」が描かれる。
・作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
・描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家やマンガ原作者のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
早熟な場合はこの時期からヒットを飛ばす。
そして幾多の淘汰を超え、構成力や画力が向上し、体力的にも充実した三十歳前後のタイミングで、「完全燃焼」の作品が生まれる……
週刊マンガ誌を追っていると、そんなケースを目にすることが多い。
デビューが早く、純粋培養のマンガ家は、「マンガを描く」以外の社会経験に乏しい。
三十歳前後の年齢で一度「元々持っているもの=青少年期の感性」が全部吐き出され、作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
それで本当に燃え尽きてしまい、作品が描けなくなるマンガ家も多い。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ない。
子供なりに築き上げた「自分」というものが社会に出ることで一度リセットされる、疑似的な死と再生の刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすいに違いない。
鮮烈に描かれた「青年の完全燃焼の死の物語」は、民俗を喪失した現代の青年に、一種の「通過儀礼」として機能しているのかもしれないのだ。
少なくとも私には、その心当たりがあった。
とりわけ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した「終末サブカルチャー」は、危うい魅力を持っている。
いつの時代も青年は自分しか見えていないものだ。
今の自分が無くなるなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなる。
本物の物語作者は、「死」や「終末」を描いた後に、そのまま読者を放置したりしない。
必ず蘇って「再生」を描く。
先に挙げた作品で言えば、白土三平は後に「カムイ伝 第二部」を描き上げた。
平井和正と石森章太郎は「幻魔大戦」で滅びを描き、「新幻魔大戦」で再生を描いた。
ちばてつやは「ジョー」の直後に「おれは鉄兵」を描き、永井豪は「デビルマン」の直後に「バイオレンスジャック」を描いた。
それらの作品には、前作ほどの衝撃や切れ味はないかもしれない。
それでもしぶとく描かれた作品は、不思議な懐の深さをもって、青年の危機を迎えた読者に「それでも死ぬな。しぶとく生きろ」と語りかけたのである。
サブカルチャー作品の在り様で見る限り、60年代末から70年代初頭にかけて、様々な試みは既に「一周」してしまっている。
70年代も中盤以降はリバイバル、バリエーション、そしてパロディの周回に突入しており、そこには新たな顧客層が用意されていた。
50〜60年代サブカルを存分に浴びて育った団塊世代が成人し、「団塊ジュニア」が巨大なボリュームゾーンとして産み落とされた。
以後のサブカルチャーは団塊ジュニアによって消費されながら、TVを中心に咲き乱れていくことになる。
そして大枠で言えば、私自身もその真っ只中で成育歴を重ねてきたのだ。
それと共に雑誌連載マンガは読者を開拓していき、マンガを読む習慣を持つ年齢層は次第に広がり、70年頃には少年誌が青年読者にも購読されるようになった。
その過程は、戦後生まれの団塊世代が物心ついて以来の50〜60年代、マンガ・アニメ・TVの発達と共に消費者として成長し、成人年齢に達してきた歩みともシンクロしているはずだ。
1970年前後の雑誌連載マンガは「受ける」「売れる」ためのテーマやノウハウが一通り出揃った感がある。
質的にも一つのピークをむかえており、後続の作品に多大な影響を及ぼしたものは数多い。
読者の年齢層が上がり、単に「売れる」というにとどまらない「歯ごたえ」が求められるようになった。
必ずしもハッピーエンドにならず、主人公の死や破滅が描かれる作品も数多くあり、さらには70年代初頭の終末ブームの世相を背景に、幾多の「世界滅亡」までが描かれるようになった。
70年代前後に青年層に支持され、「青年の死」や「世界滅亡」が描かれた作品の中で、後続作品に多大な影響を残した例として、以下の四作を挙げてみたい。
以下に制作年と当時の作者の年齢をまとめてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【幻魔大戦】【新幻魔大戦】(1967年、1971〜74年)
原作:平井和正(29歳、33〜36歳)
マンガ:石森章太郎(29歳、33〜36歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
・1970年前後に制作され、青年層に支持される。
・シリアスでリアルな展開の末、主人公の「死」が描かれる。
・作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
・描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家やマンガ原作者のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
早熟な場合はこの時期からヒットを飛ばす。
そして幾多の淘汰を超え、構成力や画力が向上し、体力的にも充実した三十歳前後のタイミングで、「完全燃焼」の作品が生まれる……
週刊マンガ誌を追っていると、そんなケースを目にすることが多い。
デビューが早く、純粋培養のマンガ家は、「マンガを描く」以外の社会経験に乏しい。
三十歳前後の年齢で一度「元々持っているもの=青少年期の感性」が全部吐き出され、作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
それで本当に燃え尽きてしまい、作品が描けなくなるマンガ家も多い。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ない。
子供なりに築き上げた「自分」というものが社会に出ることで一度リセットされる、疑似的な死と再生の刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすいに違いない。
鮮烈に描かれた「青年の完全燃焼の死の物語」は、民俗を喪失した現代の青年に、一種の「通過儀礼」として機能しているのかもしれないのだ。
少なくとも私には、その心当たりがあった。
とりわけ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した「終末サブカルチャー」は、危うい魅力を持っている。
いつの時代も青年は自分しか見えていないものだ。
今の自分が無くなるなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなる。
本物の物語作者は、「死」や「終末」を描いた後に、そのまま読者を放置したりしない。
必ず蘇って「再生」を描く。
先に挙げた作品で言えば、白土三平は後に「カムイ伝 第二部」を描き上げた。
平井和正と石森章太郎は「幻魔大戦」で滅びを描き、「新幻魔大戦」で再生を描いた。
ちばてつやは「ジョー」の直後に「おれは鉄兵」を描き、永井豪は「デビルマン」の直後に「バイオレンスジャック」を描いた。
それらの作品には、前作ほどの衝撃や切れ味はないかもしれない。
それでもしぶとく描かれた作品は、不思議な懐の深さをもって、青年の危機を迎えた読者に「それでも死ぬな。しぶとく生きろ」と語りかけたのである。
サブカルチャー作品の在り様で見る限り、60年代末から70年代初頭にかけて、様々な試みは既に「一周」してしまっている。
70年代も中盤以降はリバイバル、バリエーション、そしてパロディの周回に突入しており、そこには新たな顧客層が用意されていた。
50〜60年代サブカルを存分に浴びて育った団塊世代が成人し、「団塊ジュニア」が巨大なボリュームゾーンとして産み落とされた。
以後のサブカルチャーは団塊ジュニアによって消費されながら、TVを中心に咲き乱れていくことになる。
そして大枠で言えば、私自身もその真っ只中で成育歴を重ねてきたのだ。
(70年代サブカル前史:戦後〜60年代編、了)