70年代も後半に入る頃、私は小学生になっていた。
幼児期の私は、親が共働きだったので昼間の時間帯を母方祖父母宅で過ごしていたのだが、入学後の生活圏は終日自宅周辺になった。
環境の変化、交友関係の変化、そして弱視児童で眼鏡っ子だったこともあり、いつもどこかで「抜け忍気分」を味わっていたことは、前回記事で紹介した。
小学生になり、自分の小遣いで買い物ができるようになると、楽しみになってくるのが「駄菓子屋」だ。
便宜上「駄菓子屋」と表記するが、レトロ趣味で言う「おばあちゃんの経営する昭和の駄菓子屋」そのものは、当時の私の生活圏にはあまり残っていなかったと記憶している。
今思うとおそらく、経営者の高齢化と共に「代替わり」が起こっていたのではないだろうか。
私の知る限りでは、パン屋、文具店、本屋などの店先に設けられた子供向けの「駄菓子コーナー」が、団塊ジュニアの成長、需要の拡大と共に占有面積が広がり、結果として「駄菓子屋風」に収斂したお店が多数あった。
当時の駄菓子屋の店先は、今で言うところの「キャラクター商品」が主力になっていた。
駄菓子、玩具、マンガなど、人気商品の多くはTVの子供向け作品とのタイアップ(いわゆるバッタものも含め)になっていた。
70年代前半の石森章太郎、永井豪の全盛期を土台に、後半は二人が切り開いた地平を後続作品が様々に展開していく爛熟期にあった。
仮面ライダーをはじめとする変身特撮ヒーローや、スーパーロボットアニメ、60年代から続くウルトラシリーズは既に何度も周回し、関連商品が溢れていた。
そんな中でも男の子向けのキャラクターグッズの頂点に位置したのが「超合金」だった。
マジンガーZから発売が始まった頑丈で豪華なダイカスト素材の超合金、そして大型玩具のジャンボマシンダーの流れは、当時の男の子の憧れの的だったが、同時に高価でなかなか買ってもらえない高嶺の花で、駅前繁華街の玩具店の棚でなければ並んでいなかった。
ただ、超合金を買ってもらえない層への救済措置的な玩具はちゃんと用意されていた。
それが小型で素材を簡易にした廉価版の超合金とプラモデルで、これらは近所の駄菓子屋での取り扱いもあった。
プラモデルはさらに大小のサイズに分かれ、末端の百円以下から数百円のプラモなら、一応誰でも入手可能だった。
たとえば「グレートマジンガー」であれば、写真のようなものが一番お手軽なプラモになる。
超合金をそのまま縮小したようなスタイルで、一応ブレーンコンドルやロケットパンチの着脱が可能である。
私の場合は幼児の頃からお絵かきや工作が好きだったこともあり、就学前からプラモデルを作ってきた。
最初にハマったのはイマイの「ロボダッチ」シリーズだったと記憶している。
当時よくTVコマーシャルで「♪人間だったら友達だけど〜、ロボットだからロボダッチ♪」という歌が流れていて、子供達の購買意欲をそそっていた。
このシリーズはアニメ等のキャラクターを玩具で再現したものではなく、プラモデルだけで展開されたものだった。
安い値段のロボット単体のプラモだけでなく、そうしたロボットたちを活動させるための、少し高価な情景モデルまで揃っており、「世界観」を提供する商品展開になっていた。
各キャラクターの性格付けや物語は、プラモデルの箱の横面や組み立て解説書に断片的に記されているのだが、シリーズを集めて情報が蓄積されてくると、けっこう壮大な「物語」が顕れてくる。
子供時代の私はプラモデルを集めているのと同時に、実はそうした物語の断片を集めて、より大きな物語が頭の中に出来上がることを喜んでいたはずだ。
こうした商品の特性は、後のヒット商品「ビックリマン・シール」の、一枚一枚の断片的神話情報をつなぎ合わせると壮大な神話体系が浮かび上がってくる構造にも共通するだろう。
プラモデルを組み立てていると、子供心にはまるで自分が本当にロボットを作っているように感じられた。「組み立て解説書」のことを「設計図」と呼び、熱中していた。
メカものの模型にとっては「まるでホンモノを組み立てているような感覚」は強い訴求力を持っているらしく、最近よくある大人向けの「週刊〜」のシリーズでもよく使われている売り文句だ。
「ロボダッチ」は、プラモデルの成型色に2〜3色は使われていて、細かな色分けのためのシールもついていたので、解説書通りに組み立てれば、箱絵に近い仕上がりになった。
魅力的な箱絵と微妙に違った色や形になることもあり、それが不満でなんとか同じ色に出来ないかと試してみたが、サインペンやクレパス、水彩絵具ではプラモにうまく着色できないことはすぐに学習した。
「プラモは買ったままの色で満足するしかない」
そんな風に思っていた時期がけっこう長く続き、塗装の面白さに目覚めるのはもう少し学年が進んでからのことだった。
2020年06月25日
2020年06月26日
70年代後半、消しゴムとガチャガチャ
もう一つ低学年の頃の私がハマっていたのが、当時「ガチャガチャ」と呼んでいた、一回20円のカプセルトイの走り「怪獣消しゴム」である。
単色成型の軟質素材でウルトラシリーズに登場する怪獣が小サイズのデフォルメスタイルで再現されており、通称は「消しゴム」だったが鉛筆の線を消す実用にはほとんど使えなかった。
多種多様な怪獣のバリエーションでコレクション性が高く、しっかり自立するものが多くかったので、トントン相撲のコマとして大流行した。
この「怪獣消しゴム」が今で言うガシャポンフィギュアの嚆矢で、このブームがあったからこそ何度も繰り返す「〇〇消しゴムブーム」を経て、今に続くカプセルトイ文化、SD文化が生まれたのだ。
子供はなんでも勝負事にするので、トントン相撲もすぐにエスカレート、怪獣消しゴムを取り合う遊びが過熱して、トラブルが起こったりもした。
当時はゴミ焼却炉が学校にあり、熱くなった外壁に怪獣消しゴムの足面を押し付けて接地面積を広げ、強化する「反則」が横行したりした。
この手の悪知恵にかけては子供に敵う者はいない(笑)
そのような危険な行為や射幸性が問題になり、結局「取り合い」は学校からご禁制のお達しが出ることになった。
私自身は勝負派ではなくコレクション派で、お気に入りの怪獣が取られるが嫌で、取り合いにはあまり参加しなかった。
トントン相撲自体は好きだったので、一人で毎日のように取り組みを繰り返し、大きさ別に階級分けしたり、番付け表を作ったりしていた。
それぞれの怪獣の形状によって、基本的な強弱や動きの特徴があり、「決まり手」らしき勝負のつき方があって飽きなかった。
ノーマルな小さいサイズではアーストロンとかレッドキングが強かったと記憶している。
小学校低学年とは言え私は既に絵描きだったので、収納兼土俵の箱はオリジナルに飾り立てられていた。
その際活用したのが「ウルトラマンプリント4000」だった。
ウルトラマンや怪獣、文字などのプラ製の型の絵柄を、カーボン紙を使って紙にプリントする簡単なプレス版画トイで、「組み合わせで4000通りデザインができる!」というのが売りだった。
私は当時から自分で絵を描くだけでなく「編集」や「印刷」に興味津々だったので、誕生日だかクリスマスだかに買ってもらい、活用していた。
今振り返ると「神代文字」みたいな創作表音文字の「ウルトラ文字」の一覧表が付属していて、覚えて暗号文に使ったりしていたが、もちろん今は一切覚えていない(笑)
70年代はビデオ等の録画機器が存在せず、TV番組は基本放映された時に観るしかなかったので、怪獣消しゴムや各種トイは貴重な資料でもあった。
あと、当時の子供の重要資料としては、ケイブンシャの「全怪獣怪人大百科」が人気だった。
ウルトラシリーズの怪獣と仮面ライダーシリーズの怪人が全部載っているという夢のような大百科で、私はこの本の煽りで「網羅」という言葉を知った。
私はこのポケットサイズの「大百科」をボロボロになるまで読み込み、「ツインテールは食べるとエビの味がする」等の無駄知識をせっせと吸収した。
他にも様々な資料があり、足跡や鳴き声から怪獣の名前が言えたりしたものだが、こちらも今は一切覚えていない。
知識については全くの無駄であったけれども、「何かに興味を持ち、資料を集め、実習を繰り返して研鑽する」という、ものごとを学ぶ基本パターンを身に付けるには大いに役立ち、今の私を形成する根っこの部分になっているのではないかと思う。
単色成型の軟質素材でウルトラシリーズに登場する怪獣が小サイズのデフォルメスタイルで再現されており、通称は「消しゴム」だったが鉛筆の線を消す実用にはほとんど使えなかった。
多種多様な怪獣のバリエーションでコレクション性が高く、しっかり自立するものが多くかったので、トントン相撲のコマとして大流行した。
この「怪獣消しゴム」が今で言うガシャポンフィギュアの嚆矢で、このブームがあったからこそ何度も繰り返す「〇〇消しゴムブーム」を経て、今に続くカプセルトイ文化、SD文化が生まれたのだ。
子供はなんでも勝負事にするので、トントン相撲もすぐにエスカレート、怪獣消しゴムを取り合う遊びが過熱して、トラブルが起こったりもした。
当時はゴミ焼却炉が学校にあり、熱くなった外壁に怪獣消しゴムの足面を押し付けて接地面積を広げ、強化する「反則」が横行したりした。
この手の悪知恵にかけては子供に敵う者はいない(笑)
そのような危険な行為や射幸性が問題になり、結局「取り合い」は学校からご禁制のお達しが出ることになった。
私自身は勝負派ではなくコレクション派で、お気に入りの怪獣が取られるが嫌で、取り合いにはあまり参加しなかった。
トントン相撲自体は好きだったので、一人で毎日のように取り組みを繰り返し、大きさ別に階級分けしたり、番付け表を作ったりしていた。
それぞれの怪獣の形状によって、基本的な強弱や動きの特徴があり、「決まり手」らしき勝負のつき方があって飽きなかった。
ノーマルな小さいサイズではアーストロンとかレッドキングが強かったと記憶している。
小学校低学年とは言え私は既に絵描きだったので、収納兼土俵の箱はオリジナルに飾り立てられていた。
その際活用したのが「ウルトラマンプリント4000」だった。
ウルトラマンや怪獣、文字などのプラ製の型の絵柄を、カーボン紙を使って紙にプリントする簡単なプレス版画トイで、「組み合わせで4000通りデザインができる!」というのが売りだった。
私は当時から自分で絵を描くだけでなく「編集」や「印刷」に興味津々だったので、誕生日だかクリスマスだかに買ってもらい、活用していた。
今振り返ると「神代文字」みたいな創作表音文字の「ウルトラ文字」の一覧表が付属していて、覚えて暗号文に使ったりしていたが、もちろん今は一切覚えていない(笑)
70年代はビデオ等の録画機器が存在せず、TV番組は基本放映された時に観るしかなかったので、怪獣消しゴムや各種トイは貴重な資料でもあった。
あと、当時の子供の重要資料としては、ケイブンシャの「全怪獣怪人大百科」が人気だった。
ウルトラシリーズの怪獣と仮面ライダーシリーズの怪人が全部載っているという夢のような大百科で、私はこの本の煽りで「網羅」という言葉を知った。
私はこのポケットサイズの「大百科」をボロボロになるまで読み込み、「ツインテールは食べるとエビの味がする」等の無駄知識をせっせと吸収した。
他にも様々な資料があり、足跡や鳴き声から怪獣の名前が言えたりしたものだが、こちらも今は一切覚えていない。
知識については全くの無駄であったけれども、「何かに興味を持ち、資料を集め、実習を繰り返して研鑽する」という、ものごとを学ぶ基本パターンを身に付けるには大いに役立ち、今の私を形成する根っこの部分になっているのではないかと思う。
2020年07月11日
70年代後半、小学生の外遊び
70年代後半の子供は、まだまだ外遊びが多かった。
様々な理由が考えられるが、やはり「ゲームがない」という要素が大きいはずだ。
コンピューターゲーム自体は存在したが、遊べるのは喫茶店など、子供には敷居の高い場所に限られており、TVにつなぐゲーム機もまだまだ数が少なかった。
初の小型携帯電子ゲーム「ゲームウォッチ」の発売が80年からで、子供の世界にゲームが進出してきたのはそれ以降、そして子供の家遊びが本格化したのは83年のファミコン発売以降ではないかと思う。
もっと根本的な要素としては、団塊ジュニア世代が就学年齢に達しつつあったことだろう。
やたらに子供が多く、家から出れば必ず誰か遊べる相手がいたのだ。
近所にもいたし、公園や駄菓子屋に行けば打率百パーセントだったので、学校から帰ったら「とりあえず外に出ようか」と言うことになった。
おやつを食べるのも外だし、なんならマンガやプラモも外だった。
駄菓子屋で安いプラモとかビッグワンガムとかを買って、そのまま公園で組み立てたりしていた。
都心部以外では、まだまだ身近に子供が遊べる自然が残っていたということもある。
同時代の人気マンガ「おれは鉄兵」「釣りキチ三平」の自然描写、冒険描写に、感情移入できる環境があったのだ。
当時私が住んでいた地域は都市部と郡部の中間ぐらいで、住宅地と田んぼがモザイク状になっていた。
ため池がたくさんあり、フナ、コイ、ライギョ、カエル、ザリガニ、水棲昆虫など、子供が好む淡水生物は一通りいた。
そこにブラックバスやブルーギルが無断放流され、釣りが一気に流行した時期だった。
ただ、バスやギルはまだそんなに数はいなくて、ルアー釣りが子供には難しかったこともあり、実際はそんなに楽しめなかった。
当時の私は釣りの上手い友達がいて、そいつはルアー釣りをちょっとバカにしていた。
低学年の頃から同じ組だったその「達人」によると、「ルアーは金がかかるわりに釣れないから、面白くない」という意見だった。
私は同じクラスのその「達人」に、釣りを一から教わった。
いきつけの駄菓子屋には釣り道具も置いてあって、竹竿と仕掛けで確か300円ぐらいからあった。
達人は100円の仕掛けセットを買い、竿には適当な木の枝を使い、エサはメリケン粉を水で練ったものを使用していたので、私もそれにならった。
達人に連れて行かれたのは、ため池から田んぼへ水を引くための幅2mほどの農業用水路で、さほどきれいな水ではなかったが、小鮒の魚影がたくさん見えた。
達人は私に糸の結び方や仕掛けのつけ方、小鮒のよくいそうな場所を伝授してくれた。
釣り糸を垂らすと、暗い水中にメリケン粉のエサが白くぼんやり浮かぶ。
達人は私に、エサをつつく黒い魚影とウキの動きをよく見比べろと教えた。
何度か様子見でつついた後、小鮒は一気にエサを吸い込むので、それに「アワセ」ろと教えた。
完全に飲み込んでからでは針が外しにくいし、無駄に殺してしまうことになると教えた。
ここでコツをつかめば、直接見えなくてもウキの動きだけで水中の様子が分かるようになると教えた。
用水路の小鮒釣りで基本を学んだ私は、確かに少しばかり釣りの腕が上がった。
それから達人と一緒にため池に繰り出し、流行りのルアーで一向に釣れない子供たちを尻目に、安物の仕掛けと木の枝で、フナを釣りまくった。
コイがかかった時にはさすがに木の枝が折れてバラしてしまい、リベンジを誓った私たちはお年玉などをためて釣具屋で竿やリールを購入。
その後、コイやライギョなど、「ご近所の大物」にトライするようになったのだった。
達人は釣りの他にも、凧作りの名人でもあった。
ゴミ袋と竹ひご、タコ糸、セロテープさえあれば、高価なゲイラカイトよりよほど飛ぶ凧が作れるのだ(笑)
流行りのゲイラカイトで苦戦する子供たちを尻目に、例によって達人はありあわせの材料で作った凧を、その場の気象条件に合わせて調整し、グングン飛ばして見せていた。
まさに「弘法筆を選ばず」という言葉を体現したような子供だったのだ。
もちろん私はその凧の作り方を教えてもらった。
当時の達人の「金をかけなくても手持ちのもので凄い成果を上げる」という姿がめちゃくちゃカッコよく見え、私は今でもどこか、そういうカッコよさを追い求めているところがあるのだ。
様々な理由が考えられるが、やはり「ゲームがない」という要素が大きいはずだ。
コンピューターゲーム自体は存在したが、遊べるのは喫茶店など、子供には敷居の高い場所に限られており、TVにつなぐゲーム機もまだまだ数が少なかった。
初の小型携帯電子ゲーム「ゲームウォッチ」の発売が80年からで、子供の世界にゲームが進出してきたのはそれ以降、そして子供の家遊びが本格化したのは83年のファミコン発売以降ではないかと思う。
もっと根本的な要素としては、団塊ジュニア世代が就学年齢に達しつつあったことだろう。
やたらに子供が多く、家から出れば必ず誰か遊べる相手がいたのだ。
近所にもいたし、公園や駄菓子屋に行けば打率百パーセントだったので、学校から帰ったら「とりあえず外に出ようか」と言うことになった。
おやつを食べるのも外だし、なんならマンガやプラモも外だった。
駄菓子屋で安いプラモとかビッグワンガムとかを買って、そのまま公園で組み立てたりしていた。
都心部以外では、まだまだ身近に子供が遊べる自然が残っていたということもある。
同時代の人気マンガ「おれは鉄兵」「釣りキチ三平」の自然描写、冒険描写に、感情移入できる環境があったのだ。
当時私が住んでいた地域は都市部と郡部の中間ぐらいで、住宅地と田んぼがモザイク状になっていた。
ため池がたくさんあり、フナ、コイ、ライギョ、カエル、ザリガニ、水棲昆虫など、子供が好む淡水生物は一通りいた。
そこにブラックバスやブルーギルが無断放流され、釣りが一気に流行した時期だった。
ただ、バスやギルはまだそんなに数はいなくて、ルアー釣りが子供には難しかったこともあり、実際はそんなに楽しめなかった。
当時の私は釣りの上手い友達がいて、そいつはルアー釣りをちょっとバカにしていた。
低学年の頃から同じ組だったその「達人」によると、「ルアーは金がかかるわりに釣れないから、面白くない」という意見だった。
私は同じクラスのその「達人」に、釣りを一から教わった。
いきつけの駄菓子屋には釣り道具も置いてあって、竹竿と仕掛けで確か300円ぐらいからあった。
達人は100円の仕掛けセットを買い、竿には適当な木の枝を使い、エサはメリケン粉を水で練ったものを使用していたので、私もそれにならった。
達人に連れて行かれたのは、ため池から田んぼへ水を引くための幅2mほどの農業用水路で、さほどきれいな水ではなかったが、小鮒の魚影がたくさん見えた。
達人は私に糸の結び方や仕掛けのつけ方、小鮒のよくいそうな場所を伝授してくれた。
釣り糸を垂らすと、暗い水中にメリケン粉のエサが白くぼんやり浮かぶ。
達人は私に、エサをつつく黒い魚影とウキの動きをよく見比べろと教えた。
何度か様子見でつついた後、小鮒は一気にエサを吸い込むので、それに「アワセ」ろと教えた。
完全に飲み込んでからでは針が外しにくいし、無駄に殺してしまうことになると教えた。
ここでコツをつかめば、直接見えなくてもウキの動きだけで水中の様子が分かるようになると教えた。
用水路の小鮒釣りで基本を学んだ私は、確かに少しばかり釣りの腕が上がった。
それから達人と一緒にため池に繰り出し、流行りのルアーで一向に釣れない子供たちを尻目に、安物の仕掛けと木の枝で、フナを釣りまくった。
コイがかかった時にはさすがに木の枝が折れてバラしてしまい、リベンジを誓った私たちはお年玉などをためて釣具屋で竿やリールを購入。
その後、コイやライギョなど、「ご近所の大物」にトライするようになったのだった。
達人は釣りの他にも、凧作りの名人でもあった。
ゴミ袋と竹ひご、タコ糸、セロテープさえあれば、高価なゲイラカイトよりよほど飛ぶ凧が作れるのだ(笑)
流行りのゲイラカイトで苦戦する子供たちを尻目に、例によって達人はありあわせの材料で作った凧を、その場の気象条件に合わせて調整し、グングン飛ばして見せていた。
まさに「弘法筆を選ばず」という言葉を体現したような子供だったのだ。
もちろん私はその凧の作り方を教えてもらった。
当時の達人の「金をかけなくても手持ちのもので凄い成果を上げる」という姿がめちゃくちゃカッコよく見え、私は今でもどこか、そういうカッコよさを追い求めているところがあるのだ。
2020年07月12日
70年代後半、小学生の愛読書
私は70年代当時の子供として、放課後は外遊びが基本だったが、家で一人、マンガを読んだり絵を描いたり工作したり、プラモを作ったりするのも好きだった。
時代を「70年代後半」に限定すると、子供向けの娯楽の王様は、やっぱりマンガかアニメだったのではないかと思う。
ゲームは80年代に入ってからで、プラモもガンプラブーム以前なので「みんなやっている」というレベルではなかった。
当時の時代背景では、マンガやTVアニメ、特撮などの子供向けサブカルは、「男の子向け、女の子向け」の区分がはっきりしていたが、幼年から少年にさしかかった男子児童の私の見ていた風景の中では、「現役トップスター」のマンガ家は藤子不二雄、石森章太郎、永井豪、ちばてつやあたりになるだろうか。
中でも藤子不二雄(今思い返すと主にF先生)は、私が生まれてはじめて認識した「好きな作家」だった。
小学校に上がったばかりの頃、確か風邪で休んでいた時に、親が小学舘の学習雑誌「小学一年生」を買ってきてくれた。
そこではじめて「ドラえもん」を読み、ハマってしまったのだ。
確か付録の小冊子がドラえもん特集で、藤子不二雄先生が二人コンビであることや、ドラえもん創作秘話、鉛筆で下描きしてペン入れと言うマンガ絵の描き方や道具の解説があったと思う。
昔はサジペンとインクくらいはある家が多く、親に聞いて見るとうちにもたまたまあった。
さっそくドラえもんの模写を描いたのが私のマンガ絵の始まりだった。
とにかくドラえもんを描きまくった。
後のアニメの「ドラえもんえかきうた」が、子供心にちゃちに感じられるくらいに描いた。
キャラクターの「似顔絵」だけでなく、好きなエピソード丸写しなどもやった記憶がある。
今考えるとF先生の極上ネームのコピーは、もっとやっておけばよかった。
あの時周囲の大人の反応は「写してどうする」的にイマイチだった。(無理もないが)
歴史改変ができるなら、エピソード丸写しにしている小学生の自分に「すごい! もっとやれ!」「オリジナルとか後でいいから、好きなものを写せ!」と正しくアドバイスしてあげられるのだが、タイムマシンが無いのでかなわぬ夢想である(笑)
藤子不二雄作品は幼児の頃からアニメの「オバQ」で親しんでいたが、同時代のマンガ作品としてハマったのはドラえもんが初だった。
F先生A先生お二人であることは知っていたが、作品ごとの区別はついていなかった。
振り返ってみると、当時好きだったのはF先生のクールなSFテイストで、「ドラえもん」はSFショートショートとして楽しんでいたのだと思う。
A先生の良さが身に染みたのは、もっと大人になってからだった。
そうこうしているうちに、77年には「コロコロコミック」が創刊された。
当時は週刊少年マンガ誌の読者の年齢層が上がっており、幼年向けの「テレビマガジン」「テレビランド」の少し上、小学生をメインターゲットにしたマンガ雑誌が空白域になっていたのだ。
毎号「ドラえもん」掲載、他のマンガも満載で極厚ボリュームの「コロコロ」は、当時の小学生にとって夢のような雑誌だったが、完全に「マンガ」なので親に買ってもらえるかどうかは微妙だった。
その点では「小学〇年生」の方が、たとえマンガと付録が主目的でも「学習雑誌」という建前があったので、買ってもらいやすかった。
まだまだマンガは日陰者だったのだ。
読み捨ての雑誌よりは買ってもらいやすかったので、「ドラえもん」の単行本は、どこの家にも最低一冊はあったと思う。
とくにアニメ版本格スタート以前に、まずマンガで読み込んでいたケースでは影響が大きいはずだ。
ロジカルな展開を楽しみ、知らぬ間に「読解力」「論理的思考」の下地を築いた子供は、実はかなり多いのではないだろうか。
科学や文明に対し、素朴な憧憬とともに批判的な視点も持てたし、また「当たり前のように反戦」という要素も外せない。
藤子不二雄はごく初期から手塚治虫の流れを汲むSF作品を描いてきたが、私が「ドラえもん」と並行して大好きだったのが、マイナーながら傑作の「モジャ公」だった。
F先生の低年齢向けのとぼけたギャグ作風の中に、初期作から続く文明批評が存分に叩き込まれており、加えて仮想現実や終末カルトまでテーマに入っている。
宇宙に家出で、ずぼらで行き当たりばったりで、異文化交流で、それでも結構命がけの冒険で、「裏・ドラえもん」みたいなリミッターの外れ方が本当に素晴らしかった。
私は子供の頃から、マンガ家のそういう「裏」作品に惹かれるところがあり、「モジャ公」にハマったのは幸運だった。
後に、「終末カルト」というテーマと向き合わざるを得なくなったことから考えても、そう本当にそう思う。
時代を「70年代後半」に限定すると、子供向けの娯楽の王様は、やっぱりマンガかアニメだったのではないかと思う。
ゲームは80年代に入ってからで、プラモもガンプラブーム以前なので「みんなやっている」というレベルではなかった。
当時の時代背景では、マンガやTVアニメ、特撮などの子供向けサブカルは、「男の子向け、女の子向け」の区分がはっきりしていたが、幼年から少年にさしかかった男子児童の私の見ていた風景の中では、「現役トップスター」のマンガ家は藤子不二雄、石森章太郎、永井豪、ちばてつやあたりになるだろうか。
中でも藤子不二雄(今思い返すと主にF先生)は、私が生まれてはじめて認識した「好きな作家」だった。
小学校に上がったばかりの頃、確か風邪で休んでいた時に、親が小学舘の学習雑誌「小学一年生」を買ってきてくれた。
そこではじめて「ドラえもん」を読み、ハマってしまったのだ。
確か付録の小冊子がドラえもん特集で、藤子不二雄先生が二人コンビであることや、ドラえもん創作秘話、鉛筆で下描きしてペン入れと言うマンガ絵の描き方や道具の解説があったと思う。
昔はサジペンとインクくらいはある家が多く、親に聞いて見るとうちにもたまたまあった。
さっそくドラえもんの模写を描いたのが私のマンガ絵の始まりだった。
とにかくドラえもんを描きまくった。
後のアニメの「ドラえもんえかきうた」が、子供心にちゃちに感じられるくらいに描いた。
キャラクターの「似顔絵」だけでなく、好きなエピソード丸写しなどもやった記憶がある。
今考えるとF先生の極上ネームのコピーは、もっとやっておけばよかった。
あの時周囲の大人の反応は「写してどうする」的にイマイチだった。(無理もないが)
歴史改変ができるなら、エピソード丸写しにしている小学生の自分に「すごい! もっとやれ!」「オリジナルとか後でいいから、好きなものを写せ!」と正しくアドバイスしてあげられるのだが、タイムマシンが無いのでかなわぬ夢想である(笑)
藤子不二雄作品は幼児の頃からアニメの「オバQ」で親しんでいたが、同時代のマンガ作品としてハマったのはドラえもんが初だった。
F先生A先生お二人であることは知っていたが、作品ごとの区別はついていなかった。
振り返ってみると、当時好きだったのはF先生のクールなSFテイストで、「ドラえもん」はSFショートショートとして楽しんでいたのだと思う。
A先生の良さが身に染みたのは、もっと大人になってからだった。
そうこうしているうちに、77年には「コロコロコミック」が創刊された。
当時は週刊少年マンガ誌の読者の年齢層が上がっており、幼年向けの「テレビマガジン」「テレビランド」の少し上、小学生をメインターゲットにしたマンガ雑誌が空白域になっていたのだ。
毎号「ドラえもん」掲載、他のマンガも満載で極厚ボリュームの「コロコロ」は、当時の小学生にとって夢のような雑誌だったが、完全に「マンガ」なので親に買ってもらえるかどうかは微妙だった。
その点では「小学〇年生」の方が、たとえマンガと付録が主目的でも「学習雑誌」という建前があったので、買ってもらいやすかった。
まだまだマンガは日陰者だったのだ。
読み捨ての雑誌よりは買ってもらいやすかったので、「ドラえもん」の単行本は、どこの家にも最低一冊はあったと思う。
とくにアニメ版本格スタート以前に、まずマンガで読み込んでいたケースでは影響が大きいはずだ。
ロジカルな展開を楽しみ、知らぬ間に「読解力」「論理的思考」の下地を築いた子供は、実はかなり多いのではないだろうか。
科学や文明に対し、素朴な憧憬とともに批判的な視点も持てたし、また「当たり前のように反戦」という要素も外せない。
藤子不二雄はごく初期から手塚治虫の流れを汲むSF作品を描いてきたが、私が「ドラえもん」と並行して大好きだったのが、マイナーながら傑作の「モジャ公」だった。
F先生の低年齢向けのとぼけたギャグ作風の中に、初期作から続く文明批評が存分に叩き込まれており、加えて仮想現実や終末カルトまでテーマに入っている。
宇宙に家出で、ずぼらで行き当たりばったりで、異文化交流で、それでも結構命がけの冒険で、「裏・ドラえもん」みたいなリミッターの外れ方が本当に素晴らしかった。
私は子供の頃から、マンガ家のそういう「裏」作品に惹かれるところがあり、「モジャ公」にハマったのは幸運だった。
後に、「終末カルト」というテーマと向き合わざるを得なくなったことから考えても、そう本当にそう思う。
2020年07月18日
70年代後半、「学習マンガ」の隆盛
70年代後半だと、まだまだマンガに対する世間の評価は低かった。
いくら人気があってもあくまで「サブカルチャー」であり、美術や図工の教科書には決して載らず、授業課題でマンガっぽい絵を描こうものなら注意を受ける時代だった。
それでも当時の小学生の親世代がマンガ育ちなせいもあり、「OKなマンガ」という領域が生じつつあった。
手塚作品や藤子不二雄作品はけっこうOKで、「はだしのゲン」は学校図書室でも読めるマンガ、後は各種「学習マンガ」の類がOKだった。
これは世代を超えた共通の条件になると思うが、お小遣い頼みの小学生のサブカルは、「親の同意」という要素が常に付きまとう。
いくら子供がハマっても、スポンサーが出資してくれるものでなければ商品として売れないのだ。
そういう意味では「子供が読みたい」と「親が買ってくれる」領域がうまく重なったのが、「学習マンガ」というジャンルだったのだろう。
子供は意外と「科学」「宇宙」「生命」「進化」「歴史」みたいな大きなテーマが好きで、当時はそうしたテーマをわりときちんとした内容で扱うマンガの市場が形成された時期だった。
中でも72年スタートの「学研漫画ひみつシリーズ」は人気で、初期名作「宇宙のひみつ」「恐竜のひみつ」「昆虫のひみつ」あたりは今でもよく覚えている。
団塊ジュニア需要に後押しされた当時の学研の勢いは凄まじく、私の身の回りの「小学館の学習雑誌」読者は、学年が進むと共に「学研の科学と学習」に鞍替えするケースが多かった。
何と言っても付録の品質が段違いだった。
紙製ですぐ壊れる「小学〇年生」の付録に対し、「科学と学習」ではプラ製の、わりとしっかりした実験用具や模型などが毎号ついていた。
雑誌の内容もマンガも載っていたがかなり「勉強」よりで、スポンサーである親の納得が得られやすかったのではないかと思う。
付録では縄文土器の制作セットや遣唐使船の模型が記憶に残っていて、直販スタイルの「学研のおばさん」が毎月届けてくれるのが本当に楽しみだった。
学研では、図鑑シリーズも好きだった。
何冊か買ってもらっていたが、「大むかしの動物」「人とからだ」が特にお気に入りだった。
恐竜だけでなく古生物全般を、時代の流れとともにパノラマで紹介した「大むかしの動物」は、今思うと絵がブリアン等のパクりだったと思うが、当時は図像の引用にはまだまだ寛容(またはルーズ)な時代だった。
過去の優れた図像を踏襲するのは「博物画」というジャンルの伝統でもあるので、今の感覚とは分けて考えた方が良いと思う。
もう一つの「人とからだ」の方も、写真、イラスト共に面白いものが満載だった。
まるで宇宙船のメカニックのように精緻な眼球や内蔵の断面図や、荒野に立つ血管だけで描かれた男性像、足元にはゼリーのような血球が転がっている迫力満点のイラストに、二才下の弟とともに興奮しながらページをくっていたのを思い出す。
それが生ョ範義の筆によるものと知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
両親が共産党支持だったので、赤旗日曜版と提携していた「少年少女新聞」掲載の、井尻正二/伊藤章夫「科学まんがシリーズ」もよく読んでいた。
古生物や生物の体の仕組みを扱った「いばるな恐竜ぼくの孫」「先祖をたずねて億万年」「ぼくには毛もあるヘソもある」「キネズミさんからヒトがでる」「ドクターカックは大博士」等、当時の私の趣味にぴったりだった。
これらのマンガを読み込んでいたおかげで、私は大学入試に至るまで生物の授業で苦労せずに済んだ(笑)
少し下って80年代初頭には、小学館「少年少女日本の歴史」、赤塚不二夫「ニャロメのおもしろ数学教室」(シリーズ化)が刊行され、私の世代は随分楽に勉強できる環境があったのではないかと思う。
同時代では民放TVアニメでも「親と子供の利害が一致」していた番組があった。
75年放映開始の「まんが日本昔ばなし」と「世界名作劇場」である。
名作劇場で私たちの中で連続性があるのは、74年の「アルプスの少女ハイジ」以降、「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」「ペリーヌ物語」「赤毛のアン」、そして80年の「トム・ソーヤーの冒険」以後も長くシリーズは続いた。
私も含め、これらのTVアニメを間口にしてオーソドックスな読書の魅力を知った子供は多数にのぼるだろう。
こうした恵まれたサブカル環境は、当時の作り手の志の高さももちろんあるが、つまるところは「団塊ジュニア需要」に支えられていたのだと思う。
いくら人気があってもあくまで「サブカルチャー」であり、美術や図工の教科書には決して載らず、授業課題でマンガっぽい絵を描こうものなら注意を受ける時代だった。
それでも当時の小学生の親世代がマンガ育ちなせいもあり、「OKなマンガ」という領域が生じつつあった。
手塚作品や藤子不二雄作品はけっこうOKで、「はだしのゲン」は学校図書室でも読めるマンガ、後は各種「学習マンガ」の類がOKだった。
これは世代を超えた共通の条件になると思うが、お小遣い頼みの小学生のサブカルは、「親の同意」という要素が常に付きまとう。
いくら子供がハマっても、スポンサーが出資してくれるものでなければ商品として売れないのだ。
そういう意味では「子供が読みたい」と「親が買ってくれる」領域がうまく重なったのが、「学習マンガ」というジャンルだったのだろう。
子供は意外と「科学」「宇宙」「生命」「進化」「歴史」みたいな大きなテーマが好きで、当時はそうしたテーマをわりときちんとした内容で扱うマンガの市場が形成された時期だった。
中でも72年スタートの「学研漫画ひみつシリーズ」は人気で、初期名作「宇宙のひみつ」「恐竜のひみつ」「昆虫のひみつ」あたりは今でもよく覚えている。
団塊ジュニア需要に後押しされた当時の学研の勢いは凄まじく、私の身の回りの「小学館の学習雑誌」読者は、学年が進むと共に「学研の科学と学習」に鞍替えするケースが多かった。
何と言っても付録の品質が段違いだった。
紙製ですぐ壊れる「小学〇年生」の付録に対し、「科学と学習」ではプラ製の、わりとしっかりした実験用具や模型などが毎号ついていた。
雑誌の内容もマンガも載っていたがかなり「勉強」よりで、スポンサーである親の納得が得られやすかったのではないかと思う。
付録では縄文土器の制作セットや遣唐使船の模型が記憶に残っていて、直販スタイルの「学研のおばさん」が毎月届けてくれるのが本当に楽しみだった。
学研では、図鑑シリーズも好きだった。
何冊か買ってもらっていたが、「大むかしの動物」「人とからだ」が特にお気に入りだった。
恐竜だけでなく古生物全般を、時代の流れとともにパノラマで紹介した「大むかしの動物」は、今思うと絵がブリアン等のパクりだったと思うが、当時は図像の引用にはまだまだ寛容(またはルーズ)な時代だった。
過去の優れた図像を踏襲するのは「博物画」というジャンルの伝統でもあるので、今の感覚とは分けて考えた方が良いと思う。
もう一つの「人とからだ」の方も、写真、イラスト共に面白いものが満載だった。
まるで宇宙船のメカニックのように精緻な眼球や内蔵の断面図や、荒野に立つ血管だけで描かれた男性像、足元にはゼリーのような血球が転がっている迫力満点のイラストに、二才下の弟とともに興奮しながらページをくっていたのを思い出す。
それが生ョ範義の筆によるものと知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
両親が共産党支持だったので、赤旗日曜版と提携していた「少年少女新聞」掲載の、井尻正二/伊藤章夫「科学まんがシリーズ」もよく読んでいた。
古生物や生物の体の仕組みを扱った「いばるな恐竜ぼくの孫」「先祖をたずねて億万年」「ぼくには毛もあるヘソもある」「キネズミさんからヒトがでる」「ドクターカックは大博士」等、当時の私の趣味にぴったりだった。
これらのマンガを読み込んでいたおかげで、私は大学入試に至るまで生物の授業で苦労せずに済んだ(笑)
少し下って80年代初頭には、小学館「少年少女日本の歴史」、赤塚不二夫「ニャロメのおもしろ数学教室」(シリーズ化)が刊行され、私の世代は随分楽に勉強できる環境があったのではないかと思う。
同時代では民放TVアニメでも「親と子供の利害が一致」していた番組があった。
75年放映開始の「まんが日本昔ばなし」と「世界名作劇場」である。
名作劇場で私たちの中で連続性があるのは、74年の「アルプスの少女ハイジ」以降、「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」「ペリーヌ物語」「赤毛のアン」、そして80年の「トム・ソーヤーの冒険」以後も長くシリーズは続いた。
私も含め、これらのTVアニメを間口にしてオーソドックスな読書の魅力を知った子供は多数にのぼるだろう。
こうした恵まれたサブカル環境は、当時の作り手の志の高さももちろんあるが、つまるところは「団塊ジュニア需要」に支えられていたのだと思う。