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2020年08月29日

70年代終末サブカルチャー

 70年代サブカルチャーの人気テーマの一つに「終末ブーム」があった。
 五島勉「ノストラダムスの大予言」の刊行が73年だが、それ以前から少年マンガの世界でも「人類滅亡」は数多く描かれていた。
 70年代終末ブームの元祖のように扱われることが多い五島勉の著作は、実際には終末テーマにある程度人気が出て定着した後のヒットだったのだ。

 週刊少年マンガ誌における同テーマでは、マガジン連載、平井和正原作/石森章太郎作画の「幻魔大戦」(67〜68)がかなり早く、セリフの一部ではあるが、既にノストラダムスも登場している。
 原作担当の平井和正は、60年代にSF作家としてデビュー、「エイトマン」のヒット以来、まずマンガ原作者として地歩を築いた。
 数多くのヒット作を送り出したが、元来作家志向が強く、70年代は徐々にSF小説に軸足を移す時期にあった。
 持ち前の重厚な作風に漫画原作で培ったエンタメ性を接ぎ木した「ウルフガイ・シリーズ」「新幻魔大戦」「ゾンビ―ハンター」等、マンガ原作を下敷きにしながら、小説として新たに書き下ろすことでさらに強力になった作品群で人気を博し、70年代を代表する流行作家の一人になった。
 そして79年から、再び「ハルマゲドン」テーマである「幻魔大戦」シリーズの本格小説化に取り組み始めることになる。

 ハルマゲドンという言葉は、元来はユダヤ、キリスト、イスラムの終末思想で使用される語で、善と悪の最終決戦が行われる地名とされている。
 現在では「終末」全般を指す言葉として、とくにサブカルチャーの世界では世界的に通用している。
 永井豪「デビルマン」(72〜73)では、デーモン軍とデビルマン軍の決戦が「最終戦争(アーマゲドン)」と呼称されていた。
 表記に多少の異同はあるが、これがサブカル作品で「ハルマゲドン」の語が使用された嚆矢にあたるのではないだろうか。

 後のサブカルチャーへの影響と言う点では、「幻魔大戦」「デビルマン」の二作は特筆される。

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 70年代後半で言えば、つのだじろう「メギドの火」(76)も、当時のオカルト、終末ブームのエキスが滴るような傑作である。
 超能力、UFO、古代文明といったオカルトの主要なテーマを、「恐怖新聞」「百太郎」とは違った文明批判SFのアプローチで描いており、「悪人を抹消する超能力を突然得た少年」と言う点では「デスノート」の要素も含まれている。
 破滅に向かう地球に介入した宇宙人勢力の片方に「悪を抹消する能力」を与えられた主人公は、それを意識的に行使することはなく、その能力が世界を救うこともなかった。
 二つの宇宙の勢力は、結局は地球の破滅を加速しただけだった。
 今読むと核兵器での滅亡を「地面」から見上げるような、救いのないダークなラストで、同時期の横山光輝「マーズ」(76〜77)と共に印象に刻まれる。



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 70年代後半は、マンガに限らず終末予言をテーマにしたサブカルが溢れていた。
 小学校の図書室にあるSF児童文学でも読んだ覚えがあるし、子供向けの雑誌のカラーページ等でも様々なパターンの「この世の終り」が描かれていた。
 私が子供心にリアルに感じたのは「石油は後三十年で枯渇し、現代文明は崩壊する」というタイプの終末で、ちょうど1999年の予言と時期的に一致していたこともあり、具体的な道筋に思えた。

 そうした終末描写にリアリティを与えているのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
 東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終しまいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
 サブカルは戯画化され、誇張された現実の反映に過ぎないのだ。
 終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
 20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
 21世紀を待たずにこの世は終わる……
 70〜80年代の空気を体感した少年少女で、そんな未来像を、真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。

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 70年代後半の私も、数限りない終末サブカルを興奮しつつ享受しながら、実はさほど深刻にはとらえていなかった。
 この辺りは微妙な世代の差があると思うのだが、少し上の世代の感じたわりと真剣な不安とは違って、その頃になると「終末」もかなり消費されつくしており、食傷気味と言う感じもあったのだ。
 ノストラダムスの1999年滅亡予言をわりとシリアスに恐れていたのは、私より少し上の60年代生まれの子供たちだったのではないかと思う。

「もし終末予言が当たったなら、自分はその時三十歳近くになるはずだ」
「大人になっているし体力も残っているから、この世の終わりを迎えるタイミングとしてはマシな方かな?」

 そんな風に、わりと能天気に妄想していたことを覚えている。
posted by 九郎 at 01:53| Comment(2) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする

2020年08月30日

戦争ごっこと反戦平和

 子供は「戦争ごっこ」が大好きだ。
 広い意味で「闘争」の要素が含まれる遊び全般というほどの意味にしておくと、男の子的な遊びの大半は「戦争ごっこ」になるだろう。
 サブカルチャーの分野でも、「男の子向け」はバトルもので占められているが、子供の素朴な欲求に合わせきることが求められる分野である以上、これは仕方のないことだろう。
 テレビ番組やマンガ、ゲームなどのサブカルチャーは、「心の駄菓子」だ。
 駄菓子ばかりではいけないが、子供がこの修羅の巷である娑婆世界を強く生き抜くためには、大人の推奨しがちな「清潔なもの、優良なもの」ばかりでもいけない。
 多少の「俗悪」は必要なのだ。
 戦後の60年代には第二次大戦をモチーフにした戦争モノの少年マンガが流行した時期もあったが、戦中の戦意高揚プロパガンダそのものではなく、それなりに戦争の悲惨さを伝えるものではあった。
 70年代に入るまでには「戦争」そのものを扱わなくとも、SFやスポーツでフィクションとして「たたかい」を表現するノウハウとビジネスが確立され、人気を博すようになった。
 子供を持つ親は男の子向けサブカルのバトルシーンの多さ激しさにほとほと呆れ、眉をひそめることもあるだろうけれども、日本のサブカルチャーのビッグネームの中には、筋金入りのミリタリーマニアがけっこう多く存在する。
 アニメの世界では、たとえばジブリの宮崎駿やガンダムの富野由悠季がそうであるが、彼らはかなり古典的な反戦主義者でもある。
 戦争ごっこと反戦平和は、クリエイターの中でも子供の中でも、共存し得るのだ。
 わがニッポンの子供向けサブカルチャーの作り手は、玩具メーカーの先兵という一面を持ちながらも、同時に子供たちの心に夢と希望の種を植える理想主義も捨てきらない所がある。
 これは戦後の子供向けサブカルの始祖である手塚治虫から、脈々と受け継がれる作り手の良心である。
 一定の批判とともに、一定の信頼を置いても良いと考えている。

 必ずしも男の子に限らないが、標準装備されているかに見える「闘争心」が、果たして動物的本能によるものなのか、または性差の文化・教育の中で刷り込まれたものなのかは一旦棚に上げるとして、現状それは確かに存在する。
 自分の中の闘争心や攻撃性は「無いものとして抑圧する」のはかえって危険なので、どうしようもなく在るものとしてまずは認め、それを飼いならさなければならない。
 闘争心を暴発させるのではなく、友人関係が破綻しない範囲での制御は、主に遊び、「戦争ごっこ」の中で培われる。
 遊びの際のモラルの在り方を示すのが、男の子向けサブカルチャーの役割なのだ。

 戦いは、なるべく避けるべきである。
 戦いは、誰かを守るためのものである。
 戦いにおいても、恥ずべき振る舞いはある。
 そして戦いは、最終的には平和を守るためのものである。

 以上のような基本パターンを身につけるには、物語の中で繰り返し味わい、遊びの中で体験するのが一番だ。
 私から見ればやや潔癖に過ぎる昨今の風潮の中では、公教育で「喧嘩をするな」と教えることはできても、「喧嘩のやり方」を教えるのは不可能だ。
 清く正しい建前から外れた領域は、保護者がサブカルチャーもうまく活用しながら教えていく他ない。

 とは言え、バトルもののサブカルチャーが、子供の心のモラル育成において万能であるというわけではもちろんない。
 テレビを見ていればOK、マンガを読んでいればOK、ゲームをやっていればOKなどという、単純な話ではない。
 バトルのパターンを浴びるほど体験することで攻撃性が助長されることもある。
 とくにゲームなどで「人の姿に見えるキャラクター」を、反射神経で殴打したり銃撃しまくるような表現をとるものには注意が必要だ。
 人は闘争心や攻撃性を持っているが、同時に人の姿を持つものにたいして攻撃を抑制する心の働きも持っている。
 リアルな表現で人間的なキャラを攻撃対象とするゲームは、そうした抑制機能を解除してしまうケースがあるのだ。
 戦いをシミュレートしたいなら、武道や格闘技などで、生身の人間を相手に、自分でも実際に痛みを味わいながら体験する方が、より望ましい。

 戦争ごっこも、バトルもののサブカルチャーも、武道や格闘技も、子供の攻撃性を馴致するのに、決して万能ではない。
 戦争や軍隊、特攻精神を、現実を無視して美化してしまう弊害はある。
 悪く作用すれば粗暴者やいじめ、ハラスメント体質を量産してしまう危険はもちろんある。
 単純に禁止するのではなく、放置するのでもなく、注意深く見守ってあげてほしい。
 そして可能であれば「ワクチン」として、美化されない戦争の悲惨な現実を描いた「はだしのゲン」や、水木しげるの南方戦記物なども合わせて鑑賞できるよう、環境を整えてみるのが良いのではないかと思う。

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posted by 九郎 at 00:31| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

70年代後半「宇宙戦艦ヤマト」リアル表現の衝撃

 幼児の頃のロボダッチから始まった私のプラモ制作は、小学生になると多少技術が上がった。
 それまで「はめ込み式」一辺倒だったのが、接着剤を使うものも作れるようになってきた。
 今のプラモデルはかなり精巧なものでも「はめ込み式」が主流になってきているが、当時は模型の箱の中に接着剤の包みが付属していた。
 平行四辺形の包みの尖った先端を切って部品に接着剤を塗るのだが、切るときに失敗すると、大量の接着剤がこぼれてしまうという、なんとも使いにくい代物だった。
 接着剤付きプラモで最初にハマったのは「宇宙戦艦ヤマト」のシリーズだった。一番小さいスケールのものが一箱百円だったので、子供のお小遣いでもコレクションしやすかった。

 74年のTVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」は放映時の視聴率は振るわなかったものの、70年代半ばを過ぎてから人気が上がり、77年に劇場版が公開された前後には再放送が何周か回っていたはずだ。
 当時の記憶の断片に、私が幼児期に昼間の時間を過ごしていた祖父母の家のTVで、「地球滅亡まであと〇〇〇日!」という例のエンディングを観ているシーンが残っている。
 その頃通っていた幼稚園の園長室の前に、宇宙戦艦ではない方の「戦艦大和」の大きな模型が飾ってあり、そこの廊下まで粘土板と油粘土をもっていって、目の前で見ながら作っていたことも覚えている。
 子供心に「ヤマト」と「大和」が違うことは認識していた。
 アニメ作中で、赤茶けた「大和」の残骸から、脱皮するように「ヤマト」が発進するシーンの印象は強烈だったのだ。
 一応違いは認識しながらも、つもりとしては「宇宙戦艦」の方を作りたかったので、園長室の模型はあくまで参考資料だった。
 自分の粘土作品の方には、先端部分に波動砲の穴をグリグリ開けたり、あちこちに戦艦大和には存在しない「角」をつけたりしていた。
 当時「角」と呼んでいたスタビライザーは、実用性はさておき、SFっぽい意匠としてとにかくカッコよく見えた。
 ただこの「角」は粘土で作るとへたりやすくて、自立させるためにはかなり太く野暮ったく作らねばならず、子供心に無念を感じていた。
 艦底に釣り下がる第三艦橋が作れなかったのも残念だった。
 実在の戦艦大和を元に「リアル」を担保し、SF的な洗練された雰囲気を加味するというデザイン意図は、幼児にもほぼ正確に伝わっていたのだ。
 今思うと、大和の残骸から脱皮するあの鮮烈なヤマトの発進シーンは、物語の構図やデザインの方向性を一発で伝える、絶妙の演出だったのだと分かる。
 実在の兵器を元にしたリアルと、SF的な再構成という構図は、「ヤマト」の作品全編を通じて巧みに使用されている。

 粘土で作っていた幼児期を過ぎ、小学校に入ってからはぼちぼちヤマトのプラモデル作りにハマっていった。
 あらためて確認すると、それは第二作の白色彗星帝国編が流行っていた時期と重なっていたようだ。
 当時の私のヤマトプラモの買い方は、まずは普段のお小遣いで100円のメカコレクションを集めることから始まった。
 少しお金が貯まったり、誕生日などの機会には、500円から1000円くらいの値段帯のものをいくつか入手でき、それ以上の高額プラモも買えるのは、お年玉などの臨時収入があった時に限られた。
 あの頃のプラモ好きの小学生は、みんな大体似たような感じだったと思う。
 小サイズのメカコレは成型色一色の仕様だったが、大きいサイズのプラモは一部色分けされている場合があり、高級感があった。
 今のプラモの色分けはプラスティック自体の成型色で分けられているが、昔は吹き付け塗装がしてあり、たとえば主役戦艦のヤマトなら、艦体の下半分が赤で塗られた状態で製品化されていた。
 アニメ作中のイメージが製品の素の状態で再現されているのは嬉しかったが、この吹き付け塗装というのがけっこう難物で、うまく組み立てないと接着剤で塗料が溶け出してきてグチャグチャになってしまうことがあった。
 接着剤の使用は最小限に、なるべくキットの素の状態を活かしながら組み上げ、必要であれば一部塗装するのが、当時のヤマトプラモ制作の定番スタイルだった。

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(写真は70年代当時一箱百円だったプラモの再販品を、近年組立・着色したもの)

 ヤマトプラモの一番の魅力は、アニメ作中のメカの高い再現度にあった。
 それまでのアニメプラモは、超合金等の玩具の廉価版という位置づけにあり、形状もかなり玩具的にアレンジされたものが多かった。
 それに対してヤマトプラモは、リアルなアニメ作中のデザインをそのまま再現してあり、小学校高学年以上、中高生の審美眼にも十分耐えうるものだったのだ。
 この時期のヤマトプラモブームにより、私は超合金等の完成品玩具からは、完全に卒業してしまった。
 元々物作りが好きだったので、自分で手を動かして作るキャラクタープラモの魅力に憑りつかれ、一気に興味を失ってしまったのだ。
 クリスマスや誕生日の時期、超合金に比べるとはるかに安価なプラモを欲しがる私に、ちょっと拍子抜けしたような表情を浮かべる母親の姿を、なんとなく覚えている。

 ヤマトプラモの思い出の中では、何と言っても当時発売されていた最大サイズのものを作ったことが記憶に残っている。
 行きつけのプラモ屋の棚の最上段、いつもチラチラ気になる巨大な箱があった。
 心のどこかに、幼稚園に置いてあった「戦艦大和」の巨大模型への憧れが残留していたのかもしれない。
 今試みに探してみると、たぶん以下のものと同一モデルだ。


●「1/500 ニューコズミックヤマト」
 当時の定価は忘れもしない3500円。
 温存していたお年玉の入った封筒を手に、プラモ屋のおばちゃんに脚立を使って最上段から取ってもらい、一年間ぐらいずっと欲しかったこのプラモをついに手に入れた。
 たぶん小学校三年から四年くらいのことである。
 私は子供の頃から割と生真面目な慎重派だったので、その巨大ヤマトを購入するまでに、自分なりに「修行」を積んでいた。
 100円のメカコレで細かい部品の接着や一部塗装を練習し、1000円くらいまでのモデルで、サイズの大きなパーツや、吹き付け塗装パーツの接着を練習した。
 自分なりに「今ならヤツを完成できる!」と自信ができるまでに一年ぐらいかかったのだ。
 執念深く狙っていた最上段のプラモは、さすがにデカ過ぎ高過ぎで、売れずに残っていてくれた。
 そして私は小学生なりに持てる技術の全てを注ぎ込み、両手で抱える程の巨大なヤマトは完成した。
 作っている間、そして完成の瞬間までの至福の時間は、今でも鮮明に覚えている。
 その時なんとなく理解できたのは、私が本当に欲しいのはプラモ自体ではなく、「そのプラモを上手く作ることができる自分」を求めているのだということだった。
 こうした傾向は、今も全く変わらず続いている。

 それだけハマったヤマトプラモだったが、私の「熱」はこの後急速に去っていった。
 その理由は、一つには最上級モデルを完成させてしまった達成感だっただろうし、さらには次のムーブメントである「ガンプラブーム」が始まりかけていたこともある。

 何より大きかったのは、実在の「大和」とアニメの「ヤマト」の微妙な関係に、そろそろ気づきはじめる年齢にさしかかっていたことである。 
posted by 九郎 at 23:23| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする

2020年09月05日

「宇宙戦艦ヤマト」リアルな表現の危うさ

 日本のTVアニメにおいては、74年放映の「宇宙戦艦ヤマト」あたりからよりリアルなSF描写、戦争描写が導入され始めた。
 それまでの子供(主に男の子向け)番組の主人公は、単独または少数精鋭のチームで「善玉」を担当し、「悪玉」にあたる敵役は、見た目から明らかに人間離れしたモンスターであることが基本だった。
 ストーリーはわかりやすい「勧善懲悪」であり、30分枠の一話完結で、過不足なく見せ場を繋げる定型を持っていた。
 こうした低年齢向けの番組スタイルは、時代を超えて一定の需要が見込めるので、アップデートを繰り返しながら連綿と今に続いている。
 マジンガーZを始祖とするスーパーロボットものも、単独のアニメ番組としては下火になっているものの、男の子向け番組の中の一アイテムとして、たとえば特撮のスーパー戦隊シリーズの中では健在なのだ。

 低年齢向けの定型は温存されながら、観る側と作る側の成熟により、TVアニメの表現は「次なる段階」への進化も模索された。
 小学校高学年から中学生にかけて、本来なら子供番組から卒業する年代の鑑賞にも堪える要素として導入されたのが「よりリアルな表現」であり、その嚆矢が「宇宙戦艦ヤマト」だったのだ。
 ストーリー構成は一話完結方式から一歩踏み出し、放映一回分は「目的を持った長い宇宙航海」のエピソードの中の一つであることが、毎回強調された。
 何よりも大きな変化は、敵役が(異星人ではあるが)あくまで「人間」であったことだろう。
 ガミラス星人は肌の色が薄いブルーであることを除けば、外見も体格も能力も地球人と大差はなく、宇宙戦艦や宇宙戦闘機、各種火器で戦闘を行い、地球人と同じような感情を持ち、同じように死傷する。
 科学力の優位で地球側を圧倒しているけれども、ほとんど人間にと同じに見える異星文明との戦争であるという点が、低年齢向けの「わかりやすいモンスターをやっつける」定型とは一線を画した「リアル」を醸し出したのだ。

 ただ、「宇宙戦艦ヤマト」のヒット要因として、ややためらいを感じつつもどうしても挙げておかなければならないのは、作中に含まれる「旧日本軍的アイテム」、もっと言えば「軍国趣味」がある。
 作品タイトルにもなっている主役宇宙戦艦は、そもそも旧日本海軍の巨大戦艦大和の残骸を改造し、姿も名も近似した「ヤマト」であったし、ヒットした主題歌も「軍歌」のイメージ(実際は軍歌よりはるかに高度な音作りなのだが、あくまでイメージとして)が重ねられている。
 そして作中では「神風特攻隊」を思わせる自爆攻撃が、戦闘シーンのクライマックスとして印象に残る。
 史実としての戦艦大和は時代遅れの大鑑巨砲主義でろくに稼働しないまま撃沈され、史実としての特攻隊はしょせん戦局を左右し得ない苦し紛れの戦術であったが、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」の作品世界では、どちらも乾坤一擲、起死回生の戦果をあげ、感動を呼んだ。
 また、史実としての大日本帝国は、ナチスドイツと同盟して連合国と戦ったのに対し、アニメ作中でのヤマトは「連合国」的な地球軍を代表し、ナチスドイツを思わせるガミラス帝国と戦った。
 しょせん「お話し」の中でのこととは言え、このあたりの「歴史の捻じ曲げ方」にはちょっと「あやうさ」を感じざるをえない。
 大人になってから振り返ってそう感じるというだけでなく、ヤマトプラモのヒット当時高学年にさしかかり、歴史の学習が始まっていた小学生時代の私も、自分がヤマトファンであることに対してなんとなく「居心地の悪さ」のようなものは感じていた覚えはある。
 TVアニメで「人間同士の戦争」を「リアルに」「カッコよく」描くことは、一歩間違うと「戦争賛美」「戦意高揚」のプロパガンダになりかねないのだ。

 こういう葛藤は、たぶんヤマトファンの内の一定数が、あえて言葉にせずとも感じていたのではないかと思う。
 ストーリーだけで考えるなら、主役の宇宙戦艦に旧日本軍の「戦艦大和」のイメージを重ねる必要は全くなかったはずだ。
 もっと他にSF的なデザインはあり得るし、実際作品の企画段階では、主役艦は別の名、別の姿を持っていた。
 しかし、「ヤマト」以外の名とデザインでは、作品の大ヒットが見込めなかったであろうことも、よくわかる。
 今も昔も日本では、「純粋にSFだけのファン」のマーケットは限られており、広く一般にアピールするためには+αの要素が不可欠だ。
 ヤマトの作品内容を主導したのが誰であるかということについては諸説あるが、旧日本軍や旧ドイツ軍のイメージを導入したのは、マンガ家の松本零士で間違いないだろう。
 作品内のメカニックデザインの中でもやや異質なヤマトの懐古趣味や、美麗な松本キャラの容姿は、ヒット要因の中でも最大のものだったはずだ。
 あやうい意匠を持ち込んだ張本人でありながら、同時に松本零士は作品が「軍国主義」や「戦争賛美」につながることを、神経質なくらい避けようと努めたという。
 地球側の艦隊の描写では極力「軍国主義」に見える意匠を避け、あくまで侵略に対する自衛であるという表現を徹底させた。
 敵方であるガミラス星にはガミラス星なりの「大儀」があったことも描かれ、敵も味方も死傷する戦争の「痛み」の部分も強調された。

 そうした「細心の配慮」は認めつつも、「ヤマト」は子供向けサブカルから一旦は切り離された「戦争モノ」と言うジャンルを、再び土俵に引っ張り込んでしまった面は否めない。
 男の子向け番組を作って関連商品を売るというビジネスモデルは、どのように言いつくろっても男の子の「戦争ごっこ好き」の性質を煽って飯のタネにするという側面を持つ。
 ウケてなんぼ、ウケなきゃゼロの厳しい世界だが、そんな制約の中でも作り手のギリギリの良心というものが光る瞬間がある。
 そして前々回記事でも述べた通り、男子のミリタリー趣味と反戦平和は両立し得るのだ。

 戦争ごっこと反戦平和

 しかしそれには、「史実の学習」というプロセスが欠かせない。
 私が高学年になるにつれ、ヤマトに対して「微妙な距離」を感じるようになったのは、ごく自然な反応とも言える。
 アニメと現実の違いをきちんと認識することは、子供の楽しみ方から大人の楽しみ方へ移行する時に誰もが体験することだ。
 私の場合はその時期にガンプラブームが重なったこともあって、ヤマトに含まれる軍国趣味について、それ以上に掘り下げて考えることはなかった。
posted by 九郎 at 10:04| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする

2020年09月06日

70年代末、マンネリなんかはなんのその

 ここまでのまとめとして、70年代半ばから末に至るまで、日本のサブカル事情に大きな影響を持った、SF的な表現を含む主要な映像作品について概観してみよう。

●74年
 TVアニメ「グレートマジンガー」
 TVアニメ「ゲッターロボ」
 TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」
 TV特撮「ウルトラマンレオ」
(ウルトラマンシリーズ休止)
 TV特撮「仮面ライダーアマゾン」
●75年
 TVアニメ「UFOロボグレンダイザー」
 TVアニメ「ゲッターロボG」
 TVアニメ「勇者ライディーン」
 TVアニメ「タイムボカン」
(タイムボカンシリーズ、スタート)
 TV特撮「仮面ライダーストロンガー」
(仮面ライダーシリーズ休止)
 TV特撮「秘密戦隊ゴレンジャー」
(後のスーパー戦隊シリーズ、スタート)
●76年
 TVアニメ「超電磁ロボ コン・バトラーV」
 TV特撮「宇宙鉄人キョーダイン」
●77年
 TVアニメ「ザンボット3」
 TVアニメ「ヤッターマン」
 TVアニメ「ルパン三世」(第二作)
 劇場版「宇宙戦艦ヤマト」
 TV特撮「ジャッカー電撃隊」
 TV特撮「大鉄人17」
(映画「スター・ウォーズ」第一作公開)
●78年
 TVアニメ「ダイターン3」
 劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」
 TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト2」
 TVアニメ「銀河鉄道999」
 TVアニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」
 TVアニメ「未来少年コナン」
 TV特撮「スパイダーマン」
 劇場版「ルパンVS複製人間」
●79年
 TVアニメ「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」
 TVアニメ「ザ☆ウルトラマン」
 TVアニメ「ゼンダマン」
 TVアニメ「機動戦士ガンダム」
 TV特撮「仮面ライダー(スカイライダー)」
 TV特撮「バトルフィーバーJ」
 人形劇「プリンプリン物語」
 劇場版「銀河鉄道999」
 劇場版「ルパン三世カリオストロの城」
(映画「エイリアン」第一作公開)

 以上おおまかにまとめてみたが、これらの映像作品は、「男の子向けSF」に限った、しかも全体の一部にしか過ぎない。
 70年代後半は団塊ジュニア世代が順次就学年齢に達し、一大市場になりつつあった時期で、TV番組は「子供向け」中心の構成になっていた。
 曜日を問わずゴールデンタイムはアニメや特撮で占められており、「女の子向け」も含めればもっと膨大な数に上る。
 70年代前半を牽引した「スーパーロボット」「変身ヒーロー」という要素は様々な試行の末、特撮の「スーパー戦隊」に収斂し、現在まで続く低年齢向けフォーマットとして完成していく過程が見える。
 この間、「TVの30分枠で玩具を売る」ビジネスモデルはあらゆるパターンが開発されて一周回ったのだ。
 アニメ作品はむしろ対象年齢を上げる傾向が見て取れ、リアルなメカ表現の使い手として松本零士、スタジオぬえが力を発揮し、ドラマを深化させていく方向性の富野喜幸(後に由悠季)が頭角を現している。
 そうした70年代サブカルの流れの最終ランナーとして「機動戦士ガンダム」が登場したのだ。

 もう一つ面白い傾向としては、「玩具の30分CM」としての役割を逆手に取り、自虐ギャグ化することに成功した「タイムボカンシリーズ」だ。
 シリーズ第二作「ヤッターマン」で頂点に達したセルフパロディ、視聴者も巻き込んだ楽屋オチ、メタフィクションの手法は、今振り返ってみると80年代サブカルの先駆けになっていたのではないだろうか。
 天野喜孝キャラの、どこか退廃的な雰囲気も良かった。
 毎週毎週やられながら、それでも懲りずにイカサマ商売を思いつき、メカを開発する悪役・ドロンボー三人組は、子供心にとても楽しげに感じられた。
 ボヤッキーは自称の通り、紛れもない天才ではなかっただろうか?
 もし毎週のノルマを免除され、じっくり腰を据えてメカを開発したら、ヤッターマンにボロ勝ちできたのではないかと今でも思う。
 しかしそうした地道な努力とは無縁の山っ気が、またドロンボーを魅力的に見せるのだ。
 エンディング曲はドロンボーのテーマになっていたのだが、「やられてもやられてもなんともないない」「おれたちゃ天才だ」「マンネリなんかはなんのその」と言う歌詞は、ギャグを超えて痛快に響いたものだった。

 好評につき二年間続いた「ヤッターマン」本放送の最終回のドロンボー三人組の姿は、今でも鮮烈に記憶に残っている。
 夢破れてトボトボと歩く三人組の前に、三本の分かれ道が現れる。
 ちょうど良い、ここらで分かれて、これからは別々の道を歩もうと提案するドロンジョ。
 涙ながらに同意するトンズラーとボヤッキー。
 最終回に相応しい感動の幕切れかと思いきや、徐々に引いていくカメラに映るのは、分かれ道のその先が再び一つになっている様子。
 そして何事もなかったかのように、次の週からはほぼ同じ趣向の「ゼンダマン」が放映開始になった……

 代り映えもしない日常をそこそこ楽しみながら、それでも少しずつは変化していく小学生の日々とシンクロして、「ヤッターマン」最終回はとても印象に残っているのである。
 それはたぶん、何事もない日常に倦み、ふと「この世の終わりでも来ないかな?」と冒険を夢想する心と同根だ。
 70年代後半の「宇宙戦艦ヤマト」「ヤッターマン」のヒットは、表裏一体の関係にあったのではないかと、今は思う。
(「青春ハルマゲドン」70年代編、完)
posted by 九郎 at 15:41| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする