2021年10月01日

カテゴリ「叛」

 2020年正月、以下のような書初めをした。

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 まだコロナ禍が始まる直前のことだったが、長きにわたる安倍政権の悪政にほとほと嫌気がさしていた時期の気分を反映していた。
 そして同年の2月から、日本はコロナ禍に本格的に突入し、収束の見通しも無いままに二年近くの月日が流れようとしている。
 この間、twitterにおいておりおり投稿してきた呟きを元に、私にとってのコロナ禍の記録をぼちぼち残して行こうと思う。

 今年2021年正月の書初めにちなみ、カテゴリ名は「叛」としたい。

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2021年12月27日

映画「JOKER」

 今年のハロウィンの日、そしてコロナ禍において対応を失敗し続けた自公維が、にもかかわらず大勝した閉塞感漂う衆院選の同日、「京王線無差別刺傷事件」が起こった。
 誘発されるように似た傾向を持つ無差別殺傷事件、あるいは「拡大自殺」と思しき事件が頻発するようになり、この年末に至っている。
 発端となった京王線の事件では容疑者の服装が映画「ジョーカー」のものに似ているとされ、また警察の取り調べに対し、「容疑者がジョーカーへのあこがれを口にしている」との報道があった。
 こうした事態を受け、問題になった作品の地上波テレビ放送が完全にお蔵入りになったという。

 動画配信が既に一般化し、円盤ソフトも溢れかえっている今現在、「地上波で放送しない」ということにどれほどの意味があるか疑問であるし、そもそも件の容疑者が「どのジョーカー」をモデルにしたのか定かではない。
 ジョーカーというキャラクターはアメコミヒーロー「バットマン」の最も有名な悪役であり、登場する作品は数限りない。
 報道で容疑者の服装を見る限り、問題とされた映画「ジョーカー」のものとは異なっているし、最重要な表象である「ピエロのメイク、あるいは仮面」を身に付けていない。
 コスプレから犯行の手口から全部「雑」で、どれか特定のジョーカーの熱烈なファンとも考え難い。
 せいぜいファスト動画ザッピングくらいではないかという印象を持った。

 問題になった映画「ジョーカー」とはいかなる作品か?
 私は二年前の公開当時、映画館に足を運んで鑑賞している。
 以下に映画鑑賞後の呟きを加筆編集して採録してみよう。


●ジョーカー(トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス主演)

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 映画「ジョーカー」を観た。
 信頼する目利きの皆さんが「ダークナイト超えたかも!」と評しているのを目にして「マジで?!」と半信半疑だったが、マジだった。
 ビンボー人の私が、映画館で観てパンフまで買うのは、大事件である。

映画「ダークナイト三部作」については、「大人になってからもっともハマった映画」としてレビューしたことがある)

 ダークナイトは「徹底的にリアルにこだわったバットマン」だったが、「ジョーカー」はバットマンの存在以前に時間を戻すことで「リアル」をもう一段徹底させた印象。
 バットマンにリアリティを持たせる場合のネックの一つがウェイン家という「善良な富豪」の存在で、今回の「ジョーカー」はその虚飾を剥ぎとっている。
 ただ、単純に「金持ち=悪」にもなっておらず、あくまで「凡庸な俗物」という描写である。
 バットマンの主人公であるブルース・ウェインの父トーマスは、これまでのバットマンでは「高潔な富豪」として描かれてきた。
 本作「ジョーカー」では俗物扱いであったけれども、その二つは実は矛盾しない。
 幼い頃、父母と死別した孤独なブルースにとって、とりわけ父親は「神格化」されやすかっただろう。
 ウェイン親子というのはかなり「マンガ的」なキャラで、しかも物語の根幹部分の設定なので動かしがたく、バットマンという世界観の中で「リアル」をやろうとするときの、最後のハードルとなる部分。
 それを今回の「ジョーカー」は、「見る者の数だけ真実はある」という視点で乗り越えたのだと思う。
 あくまで「マンガ発祥」という但し書き無しで鑑賞できるリアルのグレードに導いた脚本こそが、最大の功績ではないだろうか。

 今回の「ジョーカー」であるアーサーの出自については、パンフレットに「母親の妄想」という解釈が公式見解であるかの如く記述されているが、作中では「真相は藪の中」と、含みを持たせて描いてある。
 薬物の影響で主人公の事実認識が揺らいだ描写の入った時点で映画の解釈は迷宮化し、ラストもそれを強く印象付けている。
 パンフの解説をそのまま受け入れる必要は全くない。
 薬物の影響でアーサーの現実認識が揺らぎ、妄想との境が崩れた様は、「ダークナイト」でのジョーカーがその場限りの出まかせをもっともらしくしゃべり続けたこととつながる気もする。

 並外れた「大富豪」を生む社会構造は、必ず過酷な「搾取」と膨大な数の「棄民」の存在を前提としている。
 両者はどちらも単独では存在しえない。
 血縁上の親子関係がどうあれ、困窮する主人公アーサーと、そのネガである犯罪者ジョーカーは、ウェイン家の「落とし子」であり、バットマンであるブルースの「魂の兄弟」であることは間違いないのだ。
 貴種流離譚は時代や地域を超えて愛好されるが、映画「ジョーカー」はその暗黒面か?

 ダークナイトのジョーカーを「邪悪のカリスマ」とするなら、今回のジョーカーは悲しいくらいに「邪悪」ではない。
 結果的に「カリスマ的な位地」に祭り上げられるが、「アイドル/偶像」と言った方が良い。
 主人公の連続殺人者に「邪悪」が欠落し、むしろ祭り上げる周囲に邪悪が生じる様は、マンガ「ザ・ワールド・イズ・マイン」を思い出させる。
 今回の作品は「ジョーカー」というキャラクターの誕生を描く「エピソード0」の体裁であるが、ダークナイトのジョーカーと同一人物には見えない。
 しかし今回のあの「弱く哀しきジョーカー」が、あと何度か、更なる絶望=悪のイニシエーションを経たなら、あるいはと思わせる内容だった。

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 元弱視児童たる私は、昨今の日本における「社会的弱者がさらに弱者を殺傷する」タイプの事件を、この上なく嫌悪する。
 であるからこそ、そうした「棄民の犯罪」が発生する構造に切り込んだ作品は、コロナ禍における日本国政府の棄民が現在進行形である中、きちんと鑑賞して評価していかなければならないと思っている。
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2021年12月28日

映画「MINAMATA−ミナマタ−」

 前回記事で紹介した映画「JOKER」は閉塞感漂う世相が呼び込んで再浮上した作品だったが、この秋公開の映画にも、まさに今観ておくべきものがあった。
 ジョニー・デップ制作、主演の映画「MINAMATA−ミナマタ−」である。



 タイトル通り、水俣病の惨禍をアメリカ人写真家ユージン・スミスとアイリーンの視点を通して描く作品で、制作発表された段階から強い関心を持って情報を追っていた。
 70年代に子供だった私にとって、公害の問題は幼いなりに報道を通して心の奥底に焼き付いており、その後もずっと関心を持っていたのだ。
 当ブログでも何度か水俣については取り上げてきた。

 呪と怨
 「怨」の幟旗、石牟礼道子、公害企業主呪殺祈祷僧団、等。

 「しゅうりりえんえん」
 三年前の石牟礼道子の訃報へのリアクション。

 良い映画になってほしいと公開を楽しみに待つ間にも、続報は流れてくる。
 その中でも気になったのが「6月末に水俣市が上映会の後援を拒否した」というニュースだった。
 報道によると市はその理由を「作品が史実に基づいているのかや製作者の意図が不明で、差別、偏見の解消に役立つのか判断できない」とし、水俣病問題を忘れたいと思う市民の存在にも触れて説明したという。
 一方で、熊本県は後援を承諾したとのこと。

 市の姿勢を単純に批判することは避けたいが、「環境絵本」などの取り組みもしていたことを知るだけに、残念な印象は受けた。
 そう言えば十年ぐらい前、当時の市長から「いつまでも公害のイメージを負わされるのは…」というような意味合いの話を聞いたことがある。
 一応意見としては理解しつつも感じた小さな疑問が、時を経て蘇ってきたように感じた。

 そしていよいよ映画公開。
 観てよかった。
 二時間のエンタメ映画の範疇でこのテーマが描かれたことの価値ははかり知れず、良くできた映画だった。
 エンタメとかフィクションの役割は「香具師」 であろう。
 虚実交えて面白おかしく耳目を集め、そこに一滴の良心、まことを仕込み、種を撒く。
 史実との相違は数あれど、スタッフキャスト共に、それで地獄に堕ちる覚悟は感じられる作品だと感じた。

 ノンフィクションの記録映像ではなく、あくまでエンタメ作品であるので、この映画を元に事実関係を分かった気になってはいけないが、提示された論点は重要だ。
 公害による被害を「しょせん極少数である」として切り捨て、企業の利益、社会の発展を盾に封殺する企業主、国家の姿勢を抉り出したことが重要なのだ。
 全ての公害、薬害、棄民を生む発想の根源がそこにある。


 元弱視児童であり、現絵描きである私の個人の思いとして、常に切り棄てられる少数派側の立場を忘れずにいたいのだ。
 コロナ禍の最中においても、今現実に世界中の人間に突きつけられている視点であると考える。
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2021年12月29日

白土三平「カムイ伝」

 本年後半、劇画の巨匠の訃報が相次いだ。
 10月には白土三平と作画担当の実弟の岡本鉄二、12月には平田弘史が逝去。

 いずれも私の思い入れ深い劇画の巨匠。
 平田弘史については以下の記事を参照していただくとして、

 平田弘史「薩摩義士伝」

 今回は白土三平「カムイ伝」について、過去記事の内容も振り返りながら集成してみたい。
 日本のマンガ、アニメの世界で、リアルな「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。

 白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
 十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
 1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
 並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
 他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。

 児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
 白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
 登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
 強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
 しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
 その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。


●「カムイ伝 第一部」
 私にとっては、他のどれよりも本作の印象が強い。
 孤高の抜け忍・カムイの物語としては、アニメ化された「カムイ外伝」の方が、一般の認知度は高いかもしれない。
(実はアニメ「忍風カムイ外伝」の後番組が「サザエさん」だったりする)
 並行して往年の「ガロ」で描かれた本編「カムイ伝 第一部」は、抜け忍・カムイに加えて武士の草加竜之進、農民の正助という三人の主人公が存在した。
 とくに中盤からは正助の比重が増し、ストーリーの本流は壮大な百姓一揆に収斂されていった。
 脇へと一歩引いたカムイの活躍をシンプルに描く場が、スピンアウトして「外伝」になったということだろう。
 子供の頃、既にアニメ化されていたこともあり、この「外伝」の方は私もかなり早い時期から読んでいた覚えがある。
 本編「カムイ伝」に手が伸びたのは思春期に入ってからで、マンガ版「デビルマン」とともに、当時最もハマって読み耽った作品だった。

 主人公を始め、登場するキャラクターたちは、物語の進行と共に多くのものを失っていく。
 失うのは身体の部位であったり、顔であったり、身分であったり、愛する人であったりするのだが、それでも生き残った者はより強く成長していく。
 欠損することでオリジナルを得、失うことで心定まるキャラクター達の生命力に、思春期の私は深く感情移入していた。
 作中の「抜け忍」の孤独や強さに憧れ、感化されたことで、私は中高生の頃の酷い虐待指導をサバイバルできたのだった。

 中二病真っ盛りの読み方にとどまらず、「カムイ伝」は武術や民俗学に関する知識をを一巡した後読むと、更に面白い。
 登場する剣術「無人流」は、作中最強ながら「手段を選ばない魔剣」扱いだったが、描写を見ると「武器術も包含した柔術」と言う感じで、今読むとむしろド真ん中の武術だ。
 極端な遠間か密着でしか戦わず、剣の間合いで戦う他流の技をまとめて無効化するという理屈はかつてのグレイシー柔術の他流試合と同じ構造で、大人になってから読み返すと一々腑におちる。
 農民の生活描写にとどまらない、山民や海民、芸能者等の民俗学的な描写についても、ある程度知識を得てから読み返すとあらためて唸らせられるのである。


 私が思春期に「第一部」を読み耽ってから数年後のタイミングで、「第二部」の連載がビッグコミックで始まった。
 その後90年代を通じて断続的に執筆され、現在は一応「完結」したセットが刊行されている。



 90年代当時の私はこの「第二部」の内容が、正直あまりピンと来なかった。
 壮大なカタルシスのあった「第一部」の印象に引きずられ、いつまでもプロローグが終らずにページだけが重ねられていくような不満を感じていた。
 もちろん、今は全く違った感想を持っている。
 青年から大人に成長した主人公たちは、熱狂や祝祭のカタルシスではなく、淡々と続く日常の中でそれぞれの足場を固めながら、なお「志」を持続させるステージに至っていたのだ。
 年齢を重ねた「かつての青年」が読むべきは、むしろこの「第二部」であろうと、今現在は感じている。


 そして長らくの沈黙の後、2018年4月発売のマンガ雑誌「ビッグコミック」に、白土三平インタビューが掲載された。
 久々の露出、そして久々のカムイのイラストに引きよせられて雑誌を手に取った。
 いまだ描かれぬ「第三部」について、何か情報がないものかと淡い期待をいだいたのだが、主な内容は本人が日々続けているという「狩猟」だった(苦笑)
 インタビューの中で、まだ描かれていない「第三部」についても、最後に質問されていた。
 笑いながら言葉を濁している白土御大だったが、私は「おや?」とかすかな期待を抱いた。
 活きた線で描かれた雀と戯れるカムイのイラストと、第三部についての質問も避けないその姿勢に、「まだ種火が残っているのではないか」と感じたのだ。

 当初の第三部の構想通り「シャクシャインの戦い」を長尺で描くことまでは望まない。
 流れ流れて北の地に至ったカムイが、アイヌの暮らしの中に安息を見出す短編など、叶うことなら読んでみたい……
 そんな空想を楽しんでいたのだが、今となってはそれもかなわなくなった。

 
 閉塞感漂うコロナ禍の世相の中、「一揆」や「抜け忍」について、再び考えることが多くなった今日この頃である。
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2021年12月30日

物語の終わり、終わらない物語

 本年は90年代以来の日本のサブカルチャーをてきた牽引してきた二大作品が、一応の「終結」を見たことでも記憶に残る。
 アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」と、マンガ「ベルセルク」である。
 両作品ともに、70年代のカルトバイブル的なマンガ「デビルマン」へのリアクションとも言える作品だった。
 マンガ「デビルマン」と70年代の永井豪作品については以下の記事を参照。

 70年代サブカルカイザー・永井豪

【劇場版アニメ「シン・エヴァンゲリオン」】
 アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は95年のTV放映以来、マンガ版や劇場版、劇場版リメイクを重ね、2021年4月ついに「完全なる完結編」が公開された。
 最初のTV放映当時、私は阪神淡路大震災に被災したり、あと色々あってそれどころではなく(笑)、評判を知ってはいたが、ちゃんと鑑賞はしていなかった。
 その頃の私の「二十代半ば」という年齢が、ぴったりハマるには年を取り過ぎ、一周回ってハマるには若すぎるという、微妙な年代だったせいもあろう。
 一応横目に見てはいるけど、作品そのものよりヒットしている社会現象であるとか、「庵野秀明、心の旅路」を見守る関心だった。
(付記すると現在の「鬼滅」も似た感じで、引用元を知りすぎていて本当にはハマれないけど、観察して楽しんでいる)

 きちんと「作品」として向き合えたのはごく最近で、今年の完結編公開に先立ち、無料配信されていた過去三作を視聴したあたりからだった。
 たいへん面白く、そして色々思うところあり。
 十代の少年少女が登場するリアルロボ作品は、やっぱり彼彼女らの日常描写の尺が不可欠なのだが、劇場版になるとそれが不足しがちで、最初のTVシリーズのバックグラウンドがあってこその劇場版なのだなというのが、まず一つ。
 公開当時色々論争された問題の「Q」は、「そらそうよ、こうなりますわな」と思ってしまった。
 どんな形であれ一回燃え尽きた作品を、長い期間を経て「もう一回」と要請されれば、作り手の心象は否応なく作品に映り込む。
 無理矢理作品に引き戻された主人公の困惑と、もうストレートな続編を作ると嘘っぽくなってしまう作り手の心象が噛み合って、あのような世界観の変更になったのだろう。
 最初のTVシリーズの流れを汲む完結編は、今となってはマンガ版で十分なのではないかと思った。
 最初のTVシリーズの時点からその傾向はありましたが、ストーリーと言うより受け手が色々妄想を膨らませるための世界観を提供する作品で、「Q」はそこに特化しているようにも見えた。

 そして4月、コロナ感染の合間を縫って、完結編である「シン・エヴァンゲリオン」を観た。
 公開時の社会状況も含め、「2021年」に刻まれる作品として、観ておくべきだと思った。
 そもそも「新劇場版」シリーズは、「ストーリーの続き」というより「世界の上書き」という構造を持っているので、これまでのエヴァ未見の人も、たぶん単体でも普通に観られるのではないだろうか。
 実体も心象も含めた「風景」描写が素晴らしい。
 キャリアも実績もある監督が、ここにきて心の恥部をさらけ出すような絵作りをしてきたからこそ、刺さるのだと思う。
 そして、さらけ出すだけでなくきっちり消化・昇華しているのがなお良い。
 そこにたっぷり尺を割き、感情表現をどっぷり込めながら、なおメカもアクションも堪能できる。
 最初のTVシリーズから三十年近く引っ張ったキャラクター間の感情にも、次々に決着が付けられていく。
 本当に良かったのは、最後の戦いに赴く前の、アスカの「好きだったんだと思う」という告白だ。
 その一言が言えなかったり聴けなかったりで何十年も引きずっているかつての少年少女の背負った荷物を、少しだけおろしてくれたのではないだろうか。
 アスカはシンジ不在の間戦い続け、眠るシンジを守り続け、完結編の時点では半ば以上「人間」の範疇から外れてしまっている。
 あの一言は、薄れていく人間としての感情の中でも、後生大事に抱きしめていた最後の一欠片だったのではないだろうか。
 そして物語の核心、ゲンドウとシンジの父子の感情の決着。
 ゲンドウのサングラスが飛んで異形化した目が現れた瞬間、なんとなく「勝負あったな」と感じた。
 ついにサングラスをはずしてシンジと目を合わせることはなく、逃げ切ってしまったのだなと。
 人間を捨てることで父親として息子と直接対決することを避けたからには、それで大きな力を得たとしても息子に勝てるわけがなく、逆に救済されてしまうしかないのだなと。
 映画館で鑑賞しながら、「Q」で開けた感情移入の端緒がどんどん拡大し、完結編の「シン」ではじめてシンクロできたのを感じながら、2時間35分の鑑賞を終えたのだった。

 絵描きとして語るなら、やはりとにかく自分の記憶の底に沁みついた「風景」を描くべきなのだなと思った。
 年月をかけて身に付けた技量の全部を傾け、極私的な風景を描くことができれば、それで自ずと普遍に到達できるのだという思いを新たにした。


【マンガ「ベルセルク」】
 完全決着した「エヴァ」とは違う形の終幕を見たのが、マンガ「ベルセルク」で、作者・三浦建太郎の急逝による絶筆という幕切れだった。
 デビュー当時から注目していた、まだそんな年齢でもないマンガ家の死はショックだったし、「ベルセルク」のストーリー上の未完はたいへん残念だけれども、ガッツとキャスカの心の平安は、大方描ききれていたのではないかと感じた。
 壮大な暗黒神話体系を三十年以上背負い、ここまで描ききったことに、惜しみない賛辞をおくりたい。

 この年末には作者による筆の入ったエピソードが収録された「最終巻」が刊行された。



 私は年齢的にも「作品が形としてきっちり完結する」ことに対する拘りは、もうない。
 これまでにも多くの長編の作者が完結前に亡くなってきたし、こちらが作品の完結前に亡くなるかもしれない可能性も見えてきた。
 だから長期間執筆された作品については、ストーリー上は道半ばであっても、作中で主要キャラクター達の「鎮魂」が成っていれば「納得」できる術が身についてきた。
 私にとっての「ベルセルク」は、既にその領域だったのだ。

 当初のベルセルクは「復讐物語」で、その怨念の源泉であるキャスカの地獄が描かれたのが、前半のクライマックス。
 そこから物語は質的に変化して、壊れたキャスカの魂の救済が大きなテーマになったと読んでいた。
 一度壊れたものは二度と「元通り」にはならない。
 ガッツは長い戦いと旅の果てに、その苦い真実を受け入れ、キャスカの魂は曲がりなりにも帰還していた。
 ここまで描かれただけで、私にとっては素晴らしい物語体験だったと思うのだ。
 作者の胸先三寸で「昔のままのキャスカ」の帰還を描くことも不可能ではなかったはずだがが、ぎりぎりまで掘り下げ、リアルに息づいたキャラクターたちの感情が、そうした「作りごと」「嘘っぽさ」を許さなかったのだろう。
 だからこそ、絶筆になったベルセルクの終盤は、あんなにも苦く、美しいのだ。
 ガッツとキャスカ以外の主要なキャラクターについても、それぞれに「バランスされた状態」にはなっていたのではないかと思う。
 それはむしろ、ここから先を描くのが難しそうに感じるくらいで、作者の急逝に驚きつつも、私はどこか「納得」を感じてしまっていた。


 物語の終わり、終わらない物語、人生の終幕について、あれこれもの想う2021年だった。
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