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2023年04月06日

病み抜ける青春:「ムツゴロウ」畑正憲さんのこと

 本日、畑正憲さんの訃報があった。

 ムツゴロウ・畑正憲さんは、何人かいる私の「心の中の大先達」のお一人で、中高生の頃強い影響を受けた。
 一般にはTV「ムツゴロウの動物王国」で、動物たちと戯れていた風変わりなおじいさんというイメージが強いかもしれないが、格闘技やギャンブル、囲碁将棋などの勝負事にも造詣が深く、自身で達者なイラストも描き、映像作家の一面もあり、もちろん本職(?)は動物学者で……
 肩書きを並べれば並べるほど、ことの本質が見えなくなってしまうようで幻惑されてしまうのだが、それはともかく、数々の修羅場を潜り抜け、超人的なエピソードを持った「怪人」であった。

 十数年前の雑誌インタビューでの、動物との接し方についての答えを引用してみよう。

「植物はみんなそうですよね。ポッと出るんですけど、そこから落ちて病気みたいになる。でもまた殻を破って出てくる。それを囲碁の世界でも病み抜けるって言うんです。そうすると技量がフッと上がるんです。動物に対してもあれこれ考えて、ああしたらいいか、こうしたらいいとかっていろいろ思っててはダメです」


 ここでの「病み抜ける」という言葉は、実際の健康状態とは無関係に使用されているが、畑正憲さんこそが文字通り肉体を酷使して「病み抜ける」ことで数々の伝説を残してきた人だった。
 自分を極限まで追い込みながら苦難をむしろ楽しんで、そこから生還してくる様は、まるでサイヤ人の不屈の生命力を見るようだった。

 ムツゴロウ名義のTVタレントとしての活動が良く知られているけれども、私は畑正憲名義の著作の愛読者だ。
 中でも明暗織り交ぜた内面が赤裸々に描かれた自伝的な作品が好きで、何度も繰り返し読んでいる。
 中でも最初に書かれた自伝『ムツゴロウの青春記』は、今も色あせぬ青春文学の名著ではないかと思う。

 関連作品とともに、紹介しておこう。
 

●『ムツゴロウの少年記・青春記・結婚記』畑正憲(いずれも文春文庫)
 時系列で並べると上のようになるが、まずは『青春記』をお勧めしたい。
 中学生の頃の私はこの一冊の影響下で過ごしたと言っても過言ではない。
 物事を習得するということ、「学ぶ」ということの根本、若い時代の無鉄砲、後の奥さんとの出会い、数多くの個性的な先生との出会い……
 いまも私はお尻にその貝殻を引きずっている感じがする。


●『ムツゴロウの放浪記』畑正憲(文春文庫)
 上の三冊の続編にあたるのがこの『放浪記』で、私はたぶんこの一冊を畑正憲さんの著作の中でもっとも再読した。
 TV等でおなじみの明るいキャラクターは畑さん生来の資質であるけれども、光には必ず影がついて回る。
 ピカソの「青の時代」に似た雰囲気がある、と書けば、この作品の雰囲気の一端を表現できるだろうか。
 優れた才を持ちながら、かえって光に背を向けてしまうような陰鬱な青春時代。
 東大を離れ、奥さんを一人残し、流れ流れてどこまでも遠く旅は続き、その果ての病み抜け。
 そして闇の中、再び立ち上がるシーンで筆は置かれている。
●『命に恋して―さよなら「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」』畑正憲(フジテレビ出版)
 タイトル通り、TVシリーズ「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」の終了に合わせて出版された一冊だが、実質はこれまでに執筆されてきた自伝的作品の続編になると思う。畑正憲さんが繰り返してきた文字通りの「病み抜け」の中の、ごく近年の体験についても触れられている。

 そして、著作の中でも突出していると思われるのが、以下の一冊。


●『さよならどんべえ』畑正憲 (角川文庫)
 ちょっと表現する言葉が見つからないぐらい凄まじい一冊。
 「ムツゴロウさんは昔、北海道でクマと暮らしていたらしい」ということを知る人は多いだろう。
 しかしイメージだけで言えば一見牧歌的にさえ感じられるそのエピソードの実態を知る人は少ない。
 畑正憲さんは檻の中でヒグマを「飼育」し、サーカスのように鞭とアメで芸をさせていた訳ではないのだ。
 生まれたばかりの小熊をなるべく野生に近い状態で育てるために家族そろって無人島に移住し、やや成長してやむなく檻に入れた後も、自ら檻に入って生身で相対してきたのだ。
 そしてどうしようもなくやってくるどんべえの「親離れ」のとき。
 野生のヒグマが親離れ、子離れするための対決する時を、畑正憲さんは「親」として身をもって体験することになる。
 その「対決」のあと、やがてあっけなくやってくるどんべえとの別れ。
 悪化していく畑正憲さんの体調と不思議なリンクを感じさせる死は、読後ずっと記憶に残り続ける。
 数ある著作の中でも、特別な一冊ではないだろうか。
 今こうして短い紹介文を書いているだけでも、内容が蘇ってきて背筋がぞくぞくしてくる。
 人体というものは、生物学的には他の動物に比べて、その大きさの割りにとてつもなく脆いものだ。
 そういう人間が十分に成長したヒグマとまともに「親離れ」の儀式に臨み、生還したということ自体が、まず空前絶後だろう。
 そしてその生還者が稀有の作家であったという事例は、おそらく人類史上で二度と繰り返されることがないのではないか。

 自然だけ
 人間だけ
 事実だけ
 文学だけ

 そのどれでもなくて、自然と人間、事実と文学が渾然一体となった凄みが、この一冊に凝縮されている。
 同角川文庫『どんべえ物語』の続編にあたるので、あわせて読むのがお勧めだが、単独でも十分読める。



 私も五十才を過ぎ、色々青年期のことを振り返る日々である。
 中高生の頃に影響を受けた作品について、このカテゴリ青春文学でぼちぼちまとめて行きたいと思う。
posted by 九郎 at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする

2023年12月31日

下村湖人『次郎物語』

 いつ以来か思い出せないくらい久しぶりに下村湖人『次郎物語』を再読した。
 むかし読みふけった本のことが思い出され、気になりがちな五十代である。
 数年前からなんとなく主人公・次郎を思い返すことが多くなっていた。
 そもそもは母が昔愛読していて、私が中学に入るか入らないかのタイミングで勧められたと記憶している。
 周囲と今一つ距離を感じる思春期の少年少女には、必要な物語がある。
 自分と主人公を重ね合わせてともに成長するタイプの読書は大切で、私にとっては本作がそれだった。
 中高生の頃通っていたのが戦前の旧制高校に倣った私立だったので、作中の学校要素はものすごく身近に感じたものだ。
 今読むと親の立場、教える側の立場としてわかることも多いはずで、迫るファシズムへの戦い方、負け方も含め、後半の軍国主義が迫る青年期の巻をもう一度読みたいと思った。

 再読のため、あらためて本作について調べてみた。

・文庫で何度も刊行されており、最近刊で読みやすいのは岩波文庫版。
・青い鳥文庫上下巻は作者による年少者向けの抄本で、書店で確認してみたところ、個人的にはかえって読みにくいと感じた。
・昔読んだポプラ社文庫版は、実家にももう無いだろう。
・著作権は既にフリーになっているので、読むだけなら青空文庫やkindle無料本もあり。

次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人
次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人

次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人
次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人

 結局kindle無料本で第一部から読み始めた。
 なにしろ80年以上前に書きだされた作品なので、「説教臭いかな?」「文章硬いかな?」と身構えていたが、そういうことは全く無かった。
 意外に平易な語り口で、とくに第三部〜第四部の旧制中学編は、今の目で見てもかなりエンタメ要素を感じた。
 多くの個性的な中学生たちの活躍が「ガクエンもの」の雰囲気を作っており、とくに根拠はないが、「平井和正あたりもこの作品を読み込んでいたのではないか?」と直感した。

 作品の大まかな流れをメモしておこう。

【第一部】
 幼年編。母の死まで。
 一般に『次郎物語』と言えばここがイメージされることが多いだろう。

【第二部】
 少年編序章。
 尋常小学校〜旧制中学入学まで。

【第三〜四部】
 旧制中学編。
 朝倉先生と白鳥会。

【第五部】
 青年編序章。
 友愛塾と切迫する時局。
 恭一と道江。

 二カ月ほどかけてじっくり通読し、充実した時間を過ごした。
 内容は大方忘れていたが、少年時代に読んで救われ、強い影響を受けていたことをあらためて確認した。
 幼少時から周りの反応を読みすぎ、身を守るために「小細工」に長けていく次郎の姿が刺さる。
 私もまた、「心の葛藤を持て余しつつ、創作や教養を好む小柄な剣道少年」だった。
 そう言えば一年前に描いたマンガにも、無意識のうちにか『次郎物語』ぽさがあらわれている。

 マンガ『抜け忍サバイバー』
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 中学生当時はわがことのように次郎に感情移入するばかりで、背景の「大人の事情」はよくわかっていなかった。
 今回の再読ではその領域が興味深く、たぶん今までで一番よく味わえている。

 時代背景は、維新後一世代を挟んだ二、三世代目と言ったところだろうか。
 次郎の父俊亮は士族の一人息子で、当初は小吏を勤めていた。
 育ちの良い鷹揚な人柄だが、酒好きで飲むと気が大きくなる所があり、おだてられて地元の顔役気取りで喧嘩の仲裁や人助けをやっているうちに、先祖からの財産を失ったらしい。
 俊亮の善良さは中学生時代からわかっているつもりだったが、お坊っちゃん育ちの甘さ、ダメさについては今回はじめて理解できた。
 妻お民の余裕のなさや早逝も、責任の一端は俊亮にあるのだろう。
 それでもなお愛すべき人物であることは間違いなく、読んでいて友情めいたものを感じた。
 次郎の母お民については、昔は「厳しそうな人」という程度にしか思わず、療養に入ってからの人柄の変化はよくわかっていなかった。
 数十年たって親の立場になってみると、比較的裕福な実家から家運の傾いた士族の家に入り、出来た嫁であろう、恥ずかしくない子を育てる母であろうとするあまり必死だったのだなと、気の毒に思う。
 本田家の苦は、つまるところ士族の虚栄への執着で、そうした面は次郎の祖母おことが代表している。
 俊亮はそれを一旦清算する役割を担ったのだろう。
 どのみち時代の流れの中で多くの士族は没落したのであって、俊亮の家の畳み方は、ある意味「ましな部類」ではないかとも思った。

 中学生の頃は全く読み取れていなかったが、本作には様々な形で「士族の身の振り方」が描かれている。
 維新で武士としての禄を失った士族は、官吏や警察、そして教育者等の公職に転身する例が多かったのだろう。
 俊亮のように向いてもいない商売に手を出して失敗する者も多かっただろうけれども、母の実家の正木家のように農業で安定する例もあれば、新しい母お芳の大巻家のように武道や教養を大切に伝える家もある。
 作中に登場する教育者の多くはおそらく士族出身で、江戸期の身分制による教育格差は、維新後も数世代では縮まらなかったということなのだろう。
 私も今は一応育てる側、教える側の立場であるが、作中の人格的な影響力のある先生や親族のようには到底なれそうもない。
 せめて子供たちの知的好奇心を刺激し、それに応え、教養に向かう指導はしたいと思った。

 第一部の母の死までがよく読まれ、何度も映像化されている本作だが、今回の再読では第二部以降の旧制中学での次郎の活躍を興味深く読んだ。
 母の死後、ますます祖母との折り合いが悪くなる半面、兄恭一との信頼は深まる。
そして新しい母のお芳をきっかけに、その実家の大巻の面々と信頼関係を築く。
 中学入学を一度失敗した次郎だが、恭一や大巻家、権田原先生ら、知的な人々との交流が助けとなって翌年合格。
 入学直後、最上級五年生の素行の悪いグループに目を付けられるも、四年の兄恭一やその親友大沢、朝倉先生らとの交流で成長していく。
 その中で、自分の家に馴染めなかった原因である祖母を、自分との素養の相似に気付いて一応受け入れるまでになったのには感動した。
 次郎は本人もよくわかっている通り、恨みの念が強く、時に苛烈にそれを行動に移してしまうところがある。
 どんなに矯め直そうとしても折々牙をむく悪魔的素養との葛藤が、物語の核なのだ。

 今回の再読では、兄恭一の存在の大きさに改めて気づいた。
 兄弟の関係性は様々だが、この兄の知的で偉ぶらない性格もあり、あくまで対等な、次郎の一番の理解者になっていく。
 しかし次郎にとっての兄は、尊敬し、友情を感じながらも、「自分が心底欲しいものを、結局全部持っていく」存在として、いつも意図せず立ちはだかってくる。
 道江との関係にその全てが流れ込んでくることになる。

 第五部の友愛塾編で絶筆になったため、戦中戦後の次郎の動向が描かれることはなく、恭一、道江との関係もそのまま凍結されることになった。
 むかし読んだ時、この続きがないと知って、何とも言えないもどかしさを感じたが、今ならある程度の想像はできる。
 次郎のコメント付きの道江の私信を送られた恭一は、色々途中経過はあろうけれども、最後は次郎の思いについて道江に告げ、選択を道江自身に投げることになるだろう。
 この兄にはそうした論理性と感情の薄さ、意図せぬ残酷さがある。
 しかし、恭一にとっては弟と道江を思いやってのこの行動を、次郎は決して許しはしないだろう。
 そこから先は、想像の範囲を超える。

 この年になると、多くの愛すべき長期作品が絶筆になるのに立ち会ってきて、作品には必ずしも筋立て上の「完結」を求めなくなった。
 私にとっての次郎は、時代と恋情の前に立ち尽くし、静かに思い悩む青年のままが良い。
 それは懐かしのポプラ社文庫版、四〜五部の表紙絵のイメージとも重なる。

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 世界的にもファシズムの足音がひたひたと迫る気配が感じられる本年、『次郎物語』を再読できたことに物思う年末である。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする

2024年01月04日

宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』

 宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』を、割と公開直後に観た。
 公開当初、大方は「観る人を選ぶ作品」という世評の中、私は普通に「宮崎駿の最高傑作」だと感じた。
 とくに創作を志すタイプの若い人には観てほしい作品だった。
 事前情報が無く、公開後もしばらくはネタバレ無しが推奨されていたけれども、確かに白紙状態が望ましく、エンタメのテンプレや、なんなら監督名とか会社名も邪魔になるかもしれない。
 この作品のマイナス評価というのは、多くの場合、監督名や会社名に対して期待するものとの落差から生じているのではないかと感じた。
 マルチバースやパラレルワールドの世界観が一般化した2020年代の今だからこそ制作できたともとれるが、どちらかというと昔ばなしや神話、異世界譚をアニメ化していた50年前、それこそ宮崎駿の活動初期のアニメに先祖返りしているともとれる。
 以下、感じたところをメモしておきたい。

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●アニメ『君たちはどう生きるか』

 この作品、初見で私は「十四歳の魔境」を描いた物語ではないかとみた。
 主人公・眞人(まひと)の年齢は、作中では明示されていないはずだが、順当に受け止めればその心象は思春期に入った直後と感じられた。
 時代設定は第二次世界大戦中なので、当時の学制でいえば、尋常小学校高学年から旧制中学1〜2年あたりの年齢であろう。
 声変わりし、日々変化していく自分の心と体を持て余す年代ということは間違いない。
 作品冒頭、入院中の母が火災で亡くなっており、そこから一年後、父親とともに新しい母夏子の実家に引っ越し、転校した時点から物語は始まる。
 眞人の心の問題は早すぎる母の死に端を発しているが、父や新しい母との関係が、それを拗らせている。
 若く美しいまま炎にまかれた母ヒサコの死を、眞人がまだ受け入れられない状態で再婚した父。
 しかも相手は亡くなった母の実妹である。
 父・勝一は若くして軍需産業で成功した有能な実業家らしく、快活で裏表は無さそうだが、身内の微妙な心情を理解できそうなタイプではない。
 亡妻の妹との再婚というのも、もしかしたら勝一なりに息子に配慮した選択なのかもしれないが、実際は眞人にも、そして懐妊している夏子の心情にも、裏目に出てしまっている。
 思春期の入り口に立った少年にとって、亡くなった母と同じ顔をした母の美しい妹が、父の配偶者として目の前に立つという状況は、「ごく普通に自然に過ごす」には難易度が高く、手に余ってしまっている。
 新しい母に罪がないのは分かっており、申し訳ないと思いつつも、心に壁を作ってしまう。
 亡き姉への責任感もあり、なんとか眞人とうまくやっていきたい夏子も、頑なな息子の態度になす術がない。
 勝一はそうした新しい母子の間の微妙な空気は読めないらしく、忙しく事業に取り組んでいる。
 決して家庭を放棄した仕事人間というわけではなく、眞人が学校でトラブルに巻き込まれた際には問題解決に奔走している。
 力の及ぶ範囲では極めて有能だが、目の前の妻と息子の心情は全く読み取れないタイプなのだ。
 眞人も父親には一定の敬意は持ちつつ、自分の精神面への理解は一切期待していないようだ。
 自然豊な夏子の実家で、互いに悪意はないままに、眞人と夏子の心情は行き場を失って閉塞していく。
 行き場を失った少年の逃亡先になれる場として、屋敷の「裏山」が視界に入ってくる。
 眞人は自室の窓から目撃した奇妙な「鳥」に導かれるように、自作の武器を手に、じわりと「裏山」へ分け入っていく。
 裏山にそびえる封鎖された無人の塔。
 身内の伝説的な人物「大叔父」にまつわる不思議な逸話。
 気の病にとらわれ、裏山へ入って「神隠し」に巻き込まれる夏子。
 実母・ヒサコも過去の少女時代に同様の神隠しにあったことがあるという。
 じわりじわりと家系の秘密が明かされていく。
 眞人は継母を救うための旅に出て、物語はここからめくるめくファンタジー展開に入っていく。
 ロジカルな設定や筋書きを追うことが意味を持つのはここまでで、異世界譚に入って以降は、畳みかけるように展開されるイメージの洪水に、ひたすら没入していくことになる。
 異世界転生譚として鑑賞することもできるし、孤独な少年が裏山で観た幻想、心の中の旅路ともとることができる。
 
 眞人の傍らには常に眞人を異世界に誘い込んだ奇妙なサギ男、青サギがいる。
 そして助力者として現世で縁のあった老女の若き日の姿もある。

 神隠しになった新しい母夏子の行方を追う過程で、実母ヒサコとも出会うことになる。
 同年齢の少女の姿で現れた母は、この異世界では炎の化身ヒミであった。
 火は母を決して傷つけず、むしろ火は母を守護し、使役される力で、眞人に助力してくれる。
 ともに冒険する過程で、眞人の「火災で焼かれた母」の悲惨なイメージは昇華されていく。

 異世界からはたまに現世が垣間見えるのだが、そこでは父勝一が懸命に自分を助けようと、(全く的外れではあるが)奮闘している姿がある。
 その奮闘は、残念ながら眞人の異世界での戦いにはなんら貢献していないのだが、「父は自分を決して見捨てず、懸命に救おうとしている」という信頼感は、眞人に与えたようだ。
 父親といえども所詮他人、自分のことを本当には理解してくれないけれども、役割を果たそうとする姿を認めることはできる。
 そんな「親離れ」の形があってもよいと思わせる。
 異世界探訪の果てに、眞人は家系の因縁の出発点である大叔父と対峙する。
 大叔父は現世に出ることを拒否した眞人であり、眞人は現世に戻ってこられた大叔父だ。
 終末に向かう他ないどうしようもなく混濁した現世で、少年は自分も汚濁にまみれながら生きることを選択する。
 新しい母を取り返す任務を果たした眞人は現世への関門をくぐり、炎の化身ヒミも、最後は炎で焼かれることを知りながら、眞人を生むため過去の時制の現世に。
 悲嘆で崩されたバランスは、その悲嘆をリセットするのではなく、新たな意味を上書きすることで回復され、物語は閉じていく。
 現世ですでに起こってしまったことはもう変えられないが、現世とは違う価値観、異界の物語を通すことで、受け入れられる可能性が開かれる。

 劇場の画面からイメージの洪水を浴びながら、遠く過ぎ去った自分の思春期を様々に振り返る、濃密な映画鑑賞になった。
 魔境に足を踏み入れた十四歳は、武器を作って裏山に入り、さまよい、結界を張って机の下で眠るものだ。
 はるか昔の自分とも重なるイメージの断片の数々に、あの頃のことを懐かしくも痛く思い出した。

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 いつの時代も一部の少年少女には、逃げ込める「裏山」が必要だ。
 しかし今の子には武器を作るための使い込まれた肥後守は無いし、身近に裏山的な空間もない。
 文字通りの「神隠し」になれる時代ではないが、この世に疲れ傷ついたなら、一人隠れて傷を癒せる物語を探せばいい。
 そのためのツールや、膨大なフィクションなら、存分に用意されている現代である。
posted by 九郎 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする