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2024年08月03日

カテゴリ『阿弥陀』

 春先に浄土真宗僧侶だった父が旅立った。

 出立の春

 葬送、四十九日までの七日ごとの法要、そして百箇日が過ぎるまでの間、経本の類をあらためて開くことの多い日々だった。
 真宗の信仰対象の阿弥陀如来については、当ブログ『縁日草子』開設当初からいずれ取り組まなければならないと思ってはいたのだが、大切なテーマだけに中々手を出せなかった。
 この度の父のことと、この先何があるか分かったものではない自分の「残り時間」を考えた時、とにかくスタートだけは切っておこうと強く感じた。

 まずはブログ内の阿弥陀関連カテゴリ、記事の整理から。

 記事:ビル越しの阿弥陀
 カテゴリ:蓮如
 カテゴリ:石山合戦
 カテゴリ:原風景
 カテゴリ:須弥山

 日本の中世以降の阿弥陀信仰については、折々触れてはきた。
 今回のカテゴリ:阿弥陀では、古代インドで成立した原典である浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の内容について、直接扱っていきたい。

 三部経の中でも『無量寿経』は阿弥陀如来のキャラクター設定が詳述されており、真宗の教義で重視されている。
 長い御経なので日常勤行されることはないが、葬儀や法事の際には抜粋がお勤めされる。
 普段使いの「日常勤行聖典」に収録されているのは『無量寿経』の中に含まれる『讃仏偈』『重誓偈』という偈文の箇所だ。
 そういえば亡父は、法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠った『重誓偈』の方をよく読んでいた。

 このたび『無量寿経』の現代語訳を少し読み返してみたが、かなり面白く感じた。
 二十代の頃、岩波文庫の訳を通読した時は、とにかく概略を知るので精一杯だった。
 あれから三十年、あちこち大きく何周も周回して、感じ方も変わっているのだろう。
 とくに阿弥陀如来の前身の法蔵菩薩が、六欲天や色究竟天などの王(しばしば魔王的な性質を持つ)を経験した上で成仏したと読める点、ゾクゾクする。

 第六天
 色究竟天

 無量寿経や他の仏典に描かれるような、如来が膨大な数の仏国土を弟子の眼前に出現させて見せたり、膨大な情報量を一気に流し込んだりする描写は、デジタル技術が普及した今だと、一般人でも「わかる」感覚で読めると思う。
 昔は抽象化の訓練を積んだ一部僧侶にしか理解できなかった概念が、技術の発達で一般人にもリアリティを感じられる状況を作ってしまったのだ。

 カテゴリ:阿弥陀、こんな感じでぼちぼち行きます。

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posted by 九郎 at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 阿弥陀 | 更新情報をチェックする

2024年08月04日

カテゴリ『阿弥陀』参考図書

 カテゴリ:阿弥陀に関連する手持ちの参考図書の紹介。

 浄土真宗では『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」が重視されている。
 仏説のお経で読むのはほぼこの三部に限られ、一般には宗派を問われない『般若心経』も、真宗では読まれない。
 中でも日常的に読むのは比較的短い『阿弥陀経』だけで、『無量寿経』『観無量寿経』は、葬儀や法事の際に抜粋して読まれる。
 熱心な門徒というわけではない私は、『無量寿経』『観無量寿経』について、法事ではたぶん数回くらいしか読んだことがない。

 三部経は文庫で読み易い現代語訳が各種出ており、「内容をちゃんと読みたい、知りたい」という場合はそれにあたるのが良い。
 私が経典の類を文庫で探して読み漁っていた90年代当時は、岩波文庫ぐらいしか出ていなかったと記憶している。
 日本の仏典は史上長らく漢訳本から読み下すことを基本にしてきたが、サンスクリット原典まで遡って完全に現代語訳にする流れは、この岩波文庫版から始まったものだろう。
 私も若い頃、非常に興味深く読んだスタンダード中のスタンダードである。

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●『浄土三部経』上下巻(岩波文庫)
 https://amzn.to/3Yr9sRW
 https://amzn.to/3YxmuNU


 あれから三十年経ってあらためて探してみると、文庫の類は他にも充実してきたようだ。
 今回よく開いて読んだのは、西本願寺から出ている文庫版。
 家の宗派の「公式見解」でまとめてあることと、解説が豊富なこと、比較的価格が安く、何よりも字が大きいのが助かる(笑)

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●『浄土三部経』(本願寺出版社)
 https://amzn.to/4fo26Vg


 三部経は他に角川ソフィア文庫で、無量寿経の詳しい解説はちくま学芸文庫で出ている。

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●『浄土三部経』大角修(角川ソフィア文庫)
 https://amzn.to/4dx01or
●『無量寿経』阿満利麿(ちくま学芸文庫)
 https://amzn.to/4d6WVrr


 お経も手にとってみると意外と面白く読めるのだが、なにぶん古代インドの世界観なので、とっつきがたいと感じることもあるかもしれない。
 もう少し手に取りやすく、現代日本の感覚のフィルターを通したものとしては、西村公朝師の文庫本がある。

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●『極楽の観光案内』(新潮文庫)
 主に浄土三部経の内容を平易に絵解き。
 https://amzn.to/3WuWHmF
●『ほとけの姿』(ちくま学芸文庫)
 仏教全般の宇宙観やビジュアルを絵解きしたなどなど。
 https://amzn.to/3WQsHDl


 三部経、阿弥陀信仰全般、起源まで概説してある以下の本も良い。

●『浄土経典』中村元(東京書籍)
 https://amzn.to/3WQa7uU


 これらの本を読みながら、ぼちぼち絵解きしていきます。
posted by 九郎 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 阿弥陀 | 更新情報をチェックする

2025年02月28日

21世紀の阿弥陀と浄土

 仏教について、阿弥陀如来と浄土信仰について、史実としてわかっている事、わかっていないことを一度まとめておきたいと思う。

■仏教と浄土信仰の起源
 釈迦はおよそ2500年前の古代インド、実在の可能性の高い人物とされている。
 中国の孔子やギリシアのソクラテスと近い年代で、イエス・キリストの活動は500年ほど後になる。
 ヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれ、29歳で城を捨てて出家し、修業の後35歳で悟りを開いて「仏陀」となる。
 在世中は主にインド北部のガンジス川中流域で活動、当時としては超人的な高齢の80歳まで教えを説いたとされる。

 釈尊在世中の教えに比較的近いとされる初期仏教は、セイロン島を経由して主に東南アジアへ伝えられた。(南伝仏教)
 紀元前後に「大乗仏教」が成立し、インド北西部の文化の影響も受けながら、シルクロード沿いに中国へ。そこで経典が漢訳され、朝鮮半島、日本へも伝えられた。(北伝仏教)
 7世紀頃には「密教」が成立。その後13世紀にインド本国で仏教が衰えてからは、チベット、モンゴルへと伝えられた。(チベット仏教)
 試みに、この伝来過程を絵図にしてみた。

●仏教文化圏絵図(クリックで画像拡大)
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 ためしにジョジョで喩えてみると、

 修業が必要な初期仏教は第一部〜二部。
 中期の大乗仏教がスタンドバトルになった第三部以降。
 単体で独自の人気の浄土教が第四部。
 真言密教で世界が一巡して第六部完。
 本場がチベットに移って第七部以降。

 …みたいな感じだろうか?


 浄土教と阿弥陀如来の起源については、はっきりわかっていない。
 阿弥陀如来を意訳すると「さえぎるもののない光の仏」とか「かぎりない命の仏」ということになる。
 根源的な「光」「命」というものに対する崇拝は世界各地に古くからあったはずで、阿弥陀の場合はおそらくインド北西、ガンダーラかその周辺あたりで仏教に取り入れられたのだろうとされている。
 浄土教の根本経典「浄土三部経」の中の『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来の誕生ストーリーが語られているが、これはもちろん「史実」ではないし、実在の人物としての釈迦が直接説いた教えでもない。
 21世紀の今現在「阿弥陀」「浄土」と向き合うなら、こうした事実関係は知りつつ、信仰するにしてもその上でのことになる。

■21世紀の阿弥陀と浄土
 そもそも仏教は時代や地域に応じ、さまざまにアレンジされて伝えられてきた。
 浄土信仰は釈尊の没後数百年後に成立した、仏教の範疇ではかなり特殊な信仰であるし、インド、中国、日本と伝来して以降も、じわじわと独自アレンジが重ねられてきた。
 親鸞を開祖とする浄土真宗内だけでも無数のアレンジが存在し、本願寺教団内では「公式」で一番新しいアレンジが蓮如の言説ということになるのだろう。
 近代化以降、史実と虚構、現実と空想の峻別が厳しくなり、阿弥陀如来や浄土に対する信仰も質を変えざるを得なくなった。
 私自身も、浄土真宗が成立した中世〜本願寺教団が世に定着した近世の門徒と同じように素朴に「信仰」することは、正直なところ困難だ。
 その代わり、戦後サブカルチャーの隆盛期をリアルタイムで育ってきた1970年代生まれなので、フィクションであろうとなかろうと、その物語やキャラクターが魅力的であれば、心の底から楽しみ、「信じる」ことが可能なのはよく知っている。
 そしてフィクションはフィクションと認識した上でのそうした読み方であっても、根本経典の浄土三部経や、親鸞・蓮如の言説は十分に魅力的であると思っている。
 また、祖父から続く私の家の物語も、阿弥陀如来の物語への感情移入の材料になっているのだ。
posted by 九郎 at 17:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 阿弥陀 | 更新情報をチェックする