もう何年も前のこと、ある秋の日に和歌浦へ向った。
和歌浦にいくつかある小さなビーチの一つ、波打ち際で遊ぶ子供達の姿。
その中の、熱心に石ころや貝を並べている幼児のことが、ふと気になった。
幼児の向かいに座り込んで、何をしているのか聞いてみると、「実験や」と答えてくれた。
「なんの実験?」
幼児は真ん中に渡してある針金を指差しながら説明してくれる。
「この線で石と石がひっついて、太陽が沈んだらこの線を通って、朝になったらまた出てくるんや」
なにやら宇宙的な実験中らしい。
私がすっかり感心して「年いくつ?」と尋ねると、幼児は「これだけ」と、右手の指を四本出して見せてくれた。
壮大な宇宙観と、まだ数がよくわからないことの、可愛らしいアンバランス。
私はまだまだ暑い秋の和歌浦で寝転がって、いつまでも続く幼児の宇宙的な実験を、横からずっと見学させてもらった。
そのときの思い出を元に描いたのが下の絵。
8号カンバスにアクリル絵具の、アナログ作品だ。
2009年09月02日
2009年09月23日
雑賀衆に関する参考図書1
戦国時代における雑賀衆の活躍を絵物語にしたいと思っているのだが、まだ時間がかかりそうなので参考図書などについて先にまとめておこう。既に紹介したことのある本もこの際一まとめに。
雑賀衆と言えば「雑賀孫市」その人にスポットライトが当たりがちだが、実はこの名も含めて後世の「物語」による脚色が多い。
史実にフィクションを交えて出来上がったヒーロー「孫市」の系譜の集大成は、なんといっても司馬遼太郎「尻啖え孫市」だろう。
私が持っているのは講談社文庫一冊にまとまったものだが、最近はリニューアルされて復刊しているらしい。
この小説が物凄く面白く、作中の「孫市」があまりに魅力的であることは、実在した「雑賀衆」の姿が現代の世に理解される上で、大きな可能性にもなり、また制約にもなっている。
かく言う私もまた、この小説の「孫市」像に心ひかれて雑賀衆のことを調べ始めたのだが、一筋縄ではいかない実在の「鈴木孫一」という謎めいた人物と区別をつけるまでに時間がかかった。
もっとはっきり言うならば、愛すべき司馬版「雑賀孫市」がフィクションの中だけに存在する人物像であると納得することに、心が抵抗を示していたのだと思う。
しかし一旦史実の謎に足を踏み入れ、当時の時代背景や一向一揆、石山合戦に取り組んでみれば、それはそれで豊かな謎と物語の世界が広がってくるのだった。
戦国の同時代、同テーマを扱った小説作品には、他にも面白く読めるものがある。
●「雑賀六字の城」津本陽(文春文庫)
●「火焔浄土―顕如上人伝」津本陽(角川文庫)
まずはこうした読み易いフィクションを楽しんだ上で、史実の世界に足を踏み入れてみよう。
雑賀衆や「雑賀孫市」は、並居る戦国キャラクターの中ではマイナーな部類に入る。他の戦国大名とは出自も行動原理も違っているので、非常に実態が伝わりにくい面がある。
専門に扱った書籍も少なく、小説を除けば一般向けで雑賀衆単独テーマの本は、以下の二冊くらいしか見当たらないだろう。
●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
雑賀衆を扱った専門に扱った書籍が少ない中、史実として確認できる雑賀衆の姿と、物語の中の姿を丁寧に区別しながら、実像を浮かび上がらせている。
司馬遼太郎「尻啖え孫市」に描かれる姿とは違うが、中央から離れた紀州の地で、独自の方法論でしたたかに生き抜いてきた雑賀衆の姿が描き出されている。
鉄砲を用いた戦術についても詳しく述べてあり、色々と眼からうろこが落ちるような読後感があった。
今現在入手の容易な「雑賀衆」本は、これ一冊と言ってよい。
●「紀州雑賀衆鈴木一族」鈴木真哉(新人物往来社)
同じ著者の本だが1984年刊なのでやや入手は困難。図書館をこまめに探すのがお勧め。
上掲の新書より内容的にはこちらの方が詳しく、いわゆる「雑賀孫市」の実像により迫れるだろう。
ここから先へ進むには、もう原資料に当たって「研究」するしかなくなってくるかもしれない。そんな本だ。
雑賀衆と言えば「雑賀孫市」その人にスポットライトが当たりがちだが、実はこの名も含めて後世の「物語」による脚色が多い。
史実にフィクションを交えて出来上がったヒーロー「孫市」の系譜の集大成は、なんといっても司馬遼太郎「尻啖え孫市」だろう。
私が持っているのは講談社文庫一冊にまとまったものだが、最近はリニューアルされて復刊しているらしい。
この小説が物凄く面白く、作中の「孫市」があまりに魅力的であることは、実在した「雑賀衆」の姿が現代の世に理解される上で、大きな可能性にもなり、また制約にもなっている。
かく言う私もまた、この小説の「孫市」像に心ひかれて雑賀衆のことを調べ始めたのだが、一筋縄ではいかない実在の「鈴木孫一」という謎めいた人物と区別をつけるまでに時間がかかった。
もっとはっきり言うならば、愛すべき司馬版「雑賀孫市」がフィクションの中だけに存在する人物像であると納得することに、心が抵抗を示していたのだと思う。
しかし一旦史実の謎に足を踏み入れ、当時の時代背景や一向一揆、石山合戦に取り組んでみれば、それはそれで豊かな謎と物語の世界が広がってくるのだった。
戦国の同時代、同テーマを扱った小説作品には、他にも面白く読めるものがある。
●「雑賀六字の城」津本陽(文春文庫)
●「火焔浄土―顕如上人伝」津本陽(角川文庫)
まずはこうした読み易いフィクションを楽しんだ上で、史実の世界に足を踏み入れてみよう。
雑賀衆や「雑賀孫市」は、並居る戦国キャラクターの中ではマイナーな部類に入る。他の戦国大名とは出自も行動原理も違っているので、非常に実態が伝わりにくい面がある。
専門に扱った書籍も少なく、小説を除けば一般向けで雑賀衆単独テーマの本は、以下の二冊くらいしか見当たらないだろう。
●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
雑賀衆を扱った専門に扱った書籍が少ない中、史実として確認できる雑賀衆の姿と、物語の中の姿を丁寧に区別しながら、実像を浮かび上がらせている。
司馬遼太郎「尻啖え孫市」に描かれる姿とは違うが、中央から離れた紀州の地で、独自の方法論でしたたかに生き抜いてきた雑賀衆の姿が描き出されている。
鉄砲を用いた戦術についても詳しく述べてあり、色々と眼からうろこが落ちるような読後感があった。
今現在入手の容易な「雑賀衆」本は、これ一冊と言ってよい。
●「紀州雑賀衆鈴木一族」鈴木真哉(新人物往来社)
同じ著者の本だが1984年刊なのでやや入手は困難。図書館をこまめに探すのがお勧め。
上掲の新書より内容的にはこちらの方が詳しく、いわゆる「雑賀孫市」の実像により迫れるだろう。
ここから先へ進むには、もう原資料に当たって「研究」するしかなくなってくるかもしれない。そんな本だ。
2009年09月28日
雑賀衆に関する参考図書2
戦国時代に特異な光を放った「雑賀衆」を単独で扱った書籍は数少ない。しかし一旦「雑賀衆」の存在を知り、それを前提に「中世」や「一向一揆」をテーマにした本を読んでみると様々な発見があり、バラバラのパズルピースが次々に頭の中で繋がり合い、思ってもみなかった「雑賀衆」の姿が描き出される不思議な体験をすることになる。
主に扱っている時代は戦国以前になるが、中世社会を独自の視点で見つめた網野善彦の本は、「雑賀衆」が生み出された時代背景を理解するために欠かせない。
数ある著作の中から手に取りやすい入門書的なものを紹介しておこう。
●「河原にできた中世の町」網野善彦/司修(岩波書店 歴史を旅する絵本)
一冊目は絵本である。しかし単なる網野本の「絵解き」ではない。名手・司修が網野史学と真っ向から切り結び、様々な絵巻物から自在に風景を引用・再構築し、現代の目からは異様に映る中世を巧みに描き出している。
河原は水と陸の境であり、人と神の境であり、境に生きる流浪の人々が仮の宿を求める所であった。そうした無縁の地であればこそ、日頃がんじがらめの縁に繋がれた里の人々が解放され、市が開かれてその場限りの後腐れのない商行為が可能になり、仮設の小屋では一夜の夢としての芸能が催された。
この絵本には直接「雑賀衆」は登場しないが、雑賀衆が本拠地とした紀ノ川河口部は巨大な「河原」であった。そこに集まった人々がどのような出自を背負っていたかを感覚的に捉えるのに、絶好の一冊である。
巻末の解説も分かり易い。
●「日本中世に何が起きたか」網野善彦(洋泉社MC新書)
文章であれば数十ページ、数百ページを費やす内容を、たった一枚の絵が感覚的に伝えてしまうこともあるが、同時に絵だけでは伝えるのが困難な事柄も多い。
本書は網野善彦が自身の仕事を「語り」で紹介する調子でまとめてあり、網野本の「一冊目」としてお勧めだ。
●「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて」沖浦和光(岩波新書)
陸路の交通機関が発達しきった現代人には理解しづらくなっているが、中世において「水路」は交通・物流の中心だった。とりわけ西は関門海峡から東は紀淡海峡にまで及ぶ「瀬戸内」は、交通の大動脈であった。海や河川の道を中心に据えてみれば、現在は僻地にしか見えない孤島や浦が、交通の要地として賑わっていた事実が浮かび上がってくる。
この本にも「雑賀衆」はほとんど登場しないが、同じ瀬戸内の非常に緊密に交流し合っていた「海賊」「水軍」に関する記述を読んでいると、「海の民」としての雑賀衆が理解できてくる。
何故こうした「海の民」に本願寺の信仰が広まり、一向一揆、そして石山合戦を戦い抜いた力の源泉になったのかが明らかになってくる。
司馬遼太郎「尻啖え孫市」に登場する「雑賀孫市」は、ほとんど陸上で傭兵活動を行っているだけで、せいぜい小舟に揺られながら釣りをする程度だ。しかし実在の雑賀衆・鈴木孫一の場合は、おそらく「本業」は海運業で、傭兵活動は「割のいい副業」だったのではないだろうか。
主に扱っている時代は戦国以前になるが、中世社会を独自の視点で見つめた網野善彦の本は、「雑賀衆」が生み出された時代背景を理解するために欠かせない。
数ある著作の中から手に取りやすい入門書的なものを紹介しておこう。
●「河原にできた中世の町」網野善彦/司修(岩波書店 歴史を旅する絵本)
一冊目は絵本である。しかし単なる網野本の「絵解き」ではない。名手・司修が網野史学と真っ向から切り結び、様々な絵巻物から自在に風景を引用・再構築し、現代の目からは異様に映る中世を巧みに描き出している。
河原は水と陸の境であり、人と神の境であり、境に生きる流浪の人々が仮の宿を求める所であった。そうした無縁の地であればこそ、日頃がんじがらめの縁に繋がれた里の人々が解放され、市が開かれてその場限りの後腐れのない商行為が可能になり、仮設の小屋では一夜の夢としての芸能が催された。
この絵本には直接「雑賀衆」は登場しないが、雑賀衆が本拠地とした紀ノ川河口部は巨大な「河原」であった。そこに集まった人々がどのような出自を背負っていたかを感覚的に捉えるのに、絶好の一冊である。
巻末の解説も分かり易い。
●「日本中世に何が起きたか」網野善彦(洋泉社MC新書)
文章であれば数十ページ、数百ページを費やす内容を、たった一枚の絵が感覚的に伝えてしまうこともあるが、同時に絵だけでは伝えるのが困難な事柄も多い。
本書は網野善彦が自身の仕事を「語り」で紹介する調子でまとめてあり、網野本の「一冊目」としてお勧めだ。
●「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて」沖浦和光(岩波新書)
陸路の交通機関が発達しきった現代人には理解しづらくなっているが、中世において「水路」は交通・物流の中心だった。とりわけ西は関門海峡から東は紀淡海峡にまで及ぶ「瀬戸内」は、交通の大動脈であった。海や河川の道を中心に据えてみれば、現在は僻地にしか見えない孤島や浦が、交通の要地として賑わっていた事実が浮かび上がってくる。
この本にも「雑賀衆」はほとんど登場しないが、同じ瀬戸内の非常に緊密に交流し合っていた「海賊」「水軍」に関する記述を読んでいると、「海の民」としての雑賀衆が理解できてくる。
何故こうした「海の民」に本願寺の信仰が広まり、一向一揆、そして石山合戦を戦い抜いた力の源泉になったのかが明らかになってくる。
司馬遼太郎「尻啖え孫市」に登場する「雑賀孫市」は、ほとんど陸上で傭兵活動を行っているだけで、せいぜい小舟に揺られながら釣りをする程度だ。しかし実在の雑賀衆・鈴木孫一の場合は、おそらく「本業」は海運業で、傭兵活動は「割のいい副業」だったのではないだろうか。
2009年10月04日
雑賀衆に関する参考図書3
雑賀衆の在り方を考えるとき、「寺内町」という概念は避けて通れない。
寺内町は「じないまち」または「じないちょう」と読む。中世では特に本願寺の寺院を中心とした寺内町が栄えたという。
本願寺の寺内町の多くは川の中州のような土地に作られた。そうした土地は参考図書2で紹介したように、縁に縛られた農村社会から外れ、市場経済や都市生活が芽生え始めた所だった。
河原や中洲では農耕民以外の様々な民衆、海の民・山の民・職能民・芸能民が集い、新たな勢力となりつつあった。蓮如の再興した本願寺の信仰は、それまでの仏教が救いの手を差し伸べなかった、そうした様々な民衆に対しても開かれており、寺とそれを支える民が一蓮托生の関係で力を合わせて寺内町が形成されていった。
本願寺の寺内町のうち、戦国時代に最大規模を誇ったのが大坂の石山本願寺であり、今の大阪城跡地がほぼ所在地と重なる。後の「城下町」の中には、本願寺の寺内町が解体された後、それに覆いかぶさるようにして形成されたものが多数ある。
城下町はあくまで城に住まう武士階級を中心とした構造で、一度戦争が起これば周囲の町は即切り捨てられる発想で形成されている。これに対して寺内町は、町全体を外堀や水路で囲み、中心にある寺と一蓮托生で自衛措置がとらている。そして、各地の寺内町と水路によって繋がれた強力なネットワークがその力の源泉であった。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町について専門書以外で平易な解説をしている本は数少ないが、これはそんな本の中の一冊。「大阪」という都市の成り立ちについて、過去に存在し、今は埋没してしまった石山本願寺の寺内町を切り口に、縦横に語っている。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(五木寛之 こころの新書)
参考図書2で紹介した沖浦和光「瀬戸内の民俗誌」と、上掲の五木寛之の著書を繋ぐ一冊。
二冊とも「雑賀衆」について直接触れた本ではないが、その存在を念頭において読むと、理解できることが多い。
雑賀衆の本拠地の紀ノ川河口部には相当な規模の寺内町が形成されていた。「雑賀孫市」率いる雑賀衆が、織田信長と本願寺による戦国最大の戦い・石山合戦において、本願寺方の主力部隊であった史実がある。
石山合戦は中世一向一揆の最後を飾る大戦争であった。一般に「一向一揆」と言うと「南無阿弥陀仏」の六字名号の筵旗を掲げた農民たちが、農具を武器に、死を恐れない一種の「狂信的」な信仰に支えられて領主に反抗し、時には追い出した、と言うようなイメージがある。
特に、戦国武将の中では人気の高い織田信長側の視点からの作品では、そのように描かれがちではある。
しかし実際の一向一揆は農民だけでなく、武士や職能民、芸能民、海の民や山の民たちが、本願寺の信仰により身分を超えた「同朋」として一致協力し、自治を勝ち取る戦いを繰り広げたものだった。
そこには「当時としては」という限定はつくものの、精神の解放や生き方の自由があったはずで、だからこそ一揆に参加した人々は死をも恐れぬ戦いができたのだろう。
利にさとい傭兵集団の雑賀鉄砲衆が、石山合戦に際しては採算度外視で多大な貢献をしたことを考えるとき、その動機が単純な「信仰」だけでは説明がつきづらく感じる。
雑賀衆が守ろうとしたのは、様々な民衆が集い、身分に関係なく実力次第で存分に活躍できた、「当時としては」先進的な寺内町の「自治・自由」だったのではないだろうか。
寺内町は「じないまち」または「じないちょう」と読む。中世では特に本願寺の寺院を中心とした寺内町が栄えたという。
本願寺の寺内町の多くは川の中州のような土地に作られた。そうした土地は参考図書2で紹介したように、縁に縛られた農村社会から外れ、市場経済や都市生活が芽生え始めた所だった。
河原や中洲では農耕民以外の様々な民衆、海の民・山の民・職能民・芸能民が集い、新たな勢力となりつつあった。蓮如の再興した本願寺の信仰は、それまでの仏教が救いの手を差し伸べなかった、そうした様々な民衆に対しても開かれており、寺とそれを支える民が一蓮托生の関係で力を合わせて寺内町が形成されていった。
本願寺の寺内町のうち、戦国時代に最大規模を誇ったのが大坂の石山本願寺であり、今の大阪城跡地がほぼ所在地と重なる。後の「城下町」の中には、本願寺の寺内町が解体された後、それに覆いかぶさるようにして形成されたものが多数ある。
城下町はあくまで城に住まう武士階級を中心とした構造で、一度戦争が起これば周囲の町は即切り捨てられる発想で形成されている。これに対して寺内町は、町全体を外堀や水路で囲み、中心にある寺と一蓮托生で自衛措置がとらている。そして、各地の寺内町と水路によって繋がれた強力なネットワークがその力の源泉であった。
●「宗教都市と前衛都市」五木寛之(五木寛之こころの新書)
寺内町について専門書以外で平易な解説をしている本は数少ないが、これはそんな本の中の一冊。「大阪」という都市の成り立ちについて、過去に存在し、今は埋没してしまった石山本願寺の寺内町を切り口に、縦横に語っている。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(五木寛之 こころの新書)
参考図書2で紹介した沖浦和光「瀬戸内の民俗誌」と、上掲の五木寛之の著書を繋ぐ一冊。
二冊とも「雑賀衆」について直接触れた本ではないが、その存在を念頭において読むと、理解できることが多い。
雑賀衆の本拠地の紀ノ川河口部には相当な規模の寺内町が形成されていた。「雑賀孫市」率いる雑賀衆が、織田信長と本願寺による戦国最大の戦い・石山合戦において、本願寺方の主力部隊であった史実がある。
石山合戦は中世一向一揆の最後を飾る大戦争であった。一般に「一向一揆」と言うと「南無阿弥陀仏」の六字名号の筵旗を掲げた農民たちが、農具を武器に、死を恐れない一種の「狂信的」な信仰に支えられて領主に反抗し、時には追い出した、と言うようなイメージがある。
特に、戦国武将の中では人気の高い織田信長側の視点からの作品では、そのように描かれがちではある。
しかし実際の一向一揆は農民だけでなく、武士や職能民、芸能民、海の民や山の民たちが、本願寺の信仰により身分を超えた「同朋」として一致協力し、自治を勝ち取る戦いを繰り広げたものだった。
そこには「当時としては」という限定はつくものの、精神の解放や生き方の自由があったはずで、だからこそ一揆に参加した人々は死をも恐れぬ戦いができたのだろう。
利にさとい傭兵集団の雑賀鉄砲衆が、石山合戦に際しては採算度外視で多大な貢献をしたことを考えるとき、その動機が単純な「信仰」だけでは説明がつきづらく感じる。
雑賀衆が守ろうとしたのは、様々な民衆が集い、身分に関係なく実力次第で存分に活躍できた、「当時としては」先進的な寺内町の「自治・自由」だったのではないだろうか。
2009年10月05日
雑賀衆に関する参考図書4
雑賀衆という特異な集団を通して戦国史を見直すと、通説とは違った様相が見えてくる。
織田信長と本願寺教団との間に勃発した戦国最大の戦、石山合戦において、雑賀鉄砲衆は本願寺方の主力部隊として活躍した。単に「活躍した」と言うだけでなく、強大な信長軍を卓越した鉄砲戦術で翻弄し、石山合戦を十年間に及ばせて、信長の天下布武のスケジュールを大幅に遅らせた。
信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、本願寺の寺内町でも既に同様の経済活動が行われていた。
石山合戦は信長が本願寺へ大坂寺内町からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力を、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。
●「第六天魔王信長―織田信長と異形の守護神」藤巻一保(学研M文庫)
織田信長と言えば戦国随一の合理主義者であり、無神論者であるかのような印象がある。しかし実際には様々な異形の神を勧請したり、「第六天魔王」を名乗ったりと、必ずしも無神論から仏教教団を攻撃し続けたのではないことが分かってくる。
著者は中世の秘教的な神仏の研究者であり、安倍晴明関連の著作でも知られているが、本質的には「作家」だろう。丁寧に材料を集めた後、独自に想像の翼を広げる所に真骨頂がある。
この本の中には安土城について「これは須弥山を模しているのではないか」という説が提示されているが、物語としては十分「有り」であると思わせてくれる材料を示してあり、興味深い。
信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。
織田信長と本願寺教団との間に勃発した戦国最大の戦、石山合戦において、雑賀鉄砲衆は本願寺方の主力部隊として活躍した。単に「活躍した」と言うだけでなく、強大な信長軍を卓越した鉄砲戦術で翻弄し、石山合戦を十年間に及ばせて、信長の天下布武のスケジュールを大幅に遅らせた。
信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、本願寺の寺内町でも既に同様の経済活動が行われていた。
石山合戦は信長が本願寺へ大坂寺内町からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力を、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。
●「第六天魔王信長―織田信長と異形の守護神」藤巻一保(学研M文庫)
織田信長と言えば戦国随一の合理主義者であり、無神論者であるかのような印象がある。しかし実際には様々な異形の神を勧請したり、「第六天魔王」を名乗ったりと、必ずしも無神論から仏教教団を攻撃し続けたのではないことが分かってくる。
著者は中世の秘教的な神仏の研究者であり、安倍晴明関連の著作でも知られているが、本質的には「作家」だろう。丁寧に材料を集めた後、独自に想像の翼を広げる所に真骨頂がある。
この本の中には安土城について「これは須弥山を模しているのではないか」という説が提示されているが、物語としては十分「有り」であると思わせてくれる材料を示してあり、興味深い。
信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。