織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗などなど、戦国武将の「定番」といえる人々については度々著名な漫画家の作品の題材になり、そうした作品を目にする機会も多々ある。
しかしわれらが雑賀孫市が漫画に登場する機会ははるかに少なく、せいぜい信長伝の敵役として少々顔を出す程度だ。
孫市が登場して主役級の活躍をする有名漫画となると、ほとんど見当たらなくなるのだが、そんな中から一作紹介してみよう。
●「修羅の刻(とき)―陸奥円明流外伝」川原正敏(講談社)
人気格闘漫画「修羅の門」の外伝。本編の主人公・陸奥九十九は千年以上続く一子相伝の古武術の継承者と設定されているのだが、外伝ではその主人公の祖先が、それぞれの時代の有名な歴史上の人物と絡み織り成すドラマを、表の歴史には現れない「秘史」として楽しむ趣向になっている。単行本11巻〜13巻が戦国時代のドラマに費やされており、双子の陸奥継承者候補が織田信長や雑賀孫一と関わりを持つ構成だ。われらが孫一は戦国最強の武器、鉄砲の使い手として、双子の主人公の片割れと戦う。つまりは戦国最強の人物として登場する訳で、マイナーな扱いを受け易い孫一としては破格と言える抜擢だろう。
孫一の人物造形は基本的には司馬遼太郎版「孫市」を踏襲しており、自由を愛し、本願寺の信仰は持たないと設定されている。一番大きな相違点は石山合戦のさなかに作中の孫一は死亡し、信長によってその首を晒されることになる点だろう。
雑賀「孫一」という名前の表記を見てもある程度わかるのだが、作者はかなりの程度史料に当たった上で描いているらしく、孫一の晒し首シーンでは注記として「宣教卿記にその記述がある。また、これ以降史書に登場する孫一は、その息子と思われる」と記している。
確かにそうした文書は存在するのだが、石山合戦の時点で実在の「鈴木孫一」が死亡した可能性は、おそらくきわめて低い。その説をとる学者・研究者もおらず、物語の中で採用している例も本作以外には皆無だろう。
もしかしたら作者本人も、史実としての可能性は低いと分かった上で、架空の古武術「陸奥圓明流」の物語としてのリアリティや整合性を優先させ、敢えてそうしたのかもしれない。
しかし「修羅の刻」はかなり売れている作品なので、今後は「孫一は信長との合戦中に死亡した」という描写のフォロワーが出てくるかもしれないし、そうした物語の筋立てに思い入れを持つ読者も増えていくかもしれない。
通俗の物語や稗史の世界なら、それはそれでよい。物語というものは「面白ければ正義」の原則でOKだ。ただ、読む方は史実とは全く違うことだけは理解しつつ、楽しむのが良いと思う。
作中の孫一が、信長を最も苦しめた男として描かれている点や、鉄砲の使用に際して「弾込め役」と「撃ち手」に分業している描写などは、綿密な調査が生きている部分だとは思う。
2009年12月28日
2009年12月29日
もう一人の孫市
雑賀衆について言及している書籍をあれこれ漁っているうちに、面白い小説を見つけたのでご紹介。
●「雷神の筒」山本兼一(集英社文庫)
著者は最近映画化された「火天の城」と同じ。「火天の城」は安土城築城に関わった技術者を主人公にした物語で、大名の華々しい活躍に焦点が向きがちな戦国時代小説として異彩を放っていた。
この「雷神の筒」は、織田信長の領国尾張で流通業を営んでいた橋本一巴が、商いの途中に出会った鉄砲の威力に魅せられ、やがて信長の鉄砲の師匠となり、織田軍鉄砲隊の中心人物になっていく様子が描かれている。われらが雑賀孫市も作中に登場し、主人公の手強い好敵手として活躍している。
主人公・橋本一巴は主に陸運業者として活動しているのだが、鉄砲の火薬に使用するため品薄になった塩硝を求めて旅するうちに、紀州から種子島、琉球までを股にかけて手広く海運業を営む雑賀孫市と出会うことになる。
雑賀孫市は鉄砲隊のリーダーとしての面ばかりが注目されがちであるが、実像の鈴木孫一は本業が漁業・海運業、他に割のいい副業として傭兵活動も行っていた可能性が高い。孫市の生業を史実に忠実な形で描写してある作品は珍しく、司馬遼太郎「尻啖え孫市」にも描かれていないので、そうした意味でもこの「雷神の筒」は興味深い。
流通業者であり、鉄砲隊を率いるリーダーでもある橋本一巴は、いわば織田家中の「もう一人の孫市」なのだ。
中でも興味深いのは、それまで海外からの輸入に頼るほかなかった塩硝が、国内で独自に精製され、流通に乗り始める描写だ。戦略物資の調達ルートの確保が物語の核になっている所など、知的興奮を呼び覚まされる。
鉄砲戦術についても詳細で、長篠の戦における有名な「織田鉄砲隊の三段撃ち」を冷静に否定する描写があり、リアリティに徹した姿勢は読んでいて心地よい。
孫市の登場する最近作の中では白眉だろう。
●「雷神の筒」山本兼一(集英社文庫)
著者は最近映画化された「火天の城」と同じ。「火天の城」は安土城築城に関わった技術者を主人公にした物語で、大名の華々しい活躍に焦点が向きがちな戦国時代小説として異彩を放っていた。
この「雷神の筒」は、織田信長の領国尾張で流通業を営んでいた橋本一巴が、商いの途中に出会った鉄砲の威力に魅せられ、やがて信長の鉄砲の師匠となり、織田軍鉄砲隊の中心人物になっていく様子が描かれている。われらが雑賀孫市も作中に登場し、主人公の手強い好敵手として活躍している。
主人公・橋本一巴は主に陸運業者として活動しているのだが、鉄砲の火薬に使用するため品薄になった塩硝を求めて旅するうちに、紀州から種子島、琉球までを股にかけて手広く海運業を営む雑賀孫市と出会うことになる。
雑賀孫市は鉄砲隊のリーダーとしての面ばかりが注目されがちであるが、実像の鈴木孫一は本業が漁業・海運業、他に割のいい副業として傭兵活動も行っていた可能性が高い。孫市の生業を史実に忠実な形で描写してある作品は珍しく、司馬遼太郎「尻啖え孫市」にも描かれていないので、そうした意味でもこの「雷神の筒」は興味深い。
流通業者であり、鉄砲隊を率いるリーダーでもある橋本一巴は、いわば織田家中の「もう一人の孫市」なのだ。
中でも興味深いのは、それまで海外からの輸入に頼るほかなかった塩硝が、国内で独自に精製され、流通に乗り始める描写だ。戦略物資の調達ルートの確保が物語の核になっている所など、知的興奮を呼び覚まされる。
鉄砲戦術についても詳細で、長篠の戦における有名な「織田鉄砲隊の三段撃ち」を冷静に否定する描写があり、リアリティに徹した姿勢は読んでいて心地よい。
孫市の登場する最近作の中では白眉だろう。
2010年01月11日
史料の狭間の物語
雑賀衆を扱った小説をまた一つ、紹介しておく。
●「海の伽耶琴 雑賀鉄砲衆がゆく(上)(下)」神坂次郎(講談社文庫)
雑賀孫市の息子(と設定されている)雑賀孫市郎を主人公にした小説だが、主人公以外の登場人物や、歴史背景の描写が大半を占めている。
戦国〜江戸期に書かれた様々な文献を大量に引用しつつ、その合間合間にストーリーが挿入される構成になっているので、エンターテインメントとして小説を楽しみたい読者にとっては、やや「物語が弱い」と感じられるかもしれないが、雑賀衆やその周辺についてより詳しく知りたいと思う読者には、非常に参考になる。
雑賀衆に関する参考図書1で紹介した鈴木真哉の著書二冊「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」「紀州雑賀衆鈴木一族」は様々な伝承の中から史実として確実なものだけを抽出していく方法を取っていたが、こちらは「過去に語られた雑賀衆」を最大限に集積し、隙間を想像力で埋めていくという方法を取っている。
上巻では「石山合戦」から雑賀衆が崩壊する「太田城水攻め」までが描かれており、孫市の出番も多い。石山合戦以降、雑賀衆が完全に分裂し、孫市が宿敵であるはずの信長・秀吉方に付くという、一見「寝返り」ともとれる史実は、雑賀衆と孫市を愛する多くの人々にとって複雑な思いで受け取られるのだが、この作品内では孫市に代表される沿岸部の「流通業者」と、雑賀内陸部の農業主体の地域との感受性の差が、その後の分裂につながったと分析されており、非常に説得力がある。
下巻では自治崩壊後の雑賀衆が描かれており、ようやく主人公・孫市郎が物語の中心になっていく。秀吉の国内統一、朝鮮出兵に従軍する雑賀鉄砲衆残党が、最後には秀吉に敵対していくところで終幕するのだが、このあたりは「伝承の狭間から立ち上ってきたリアルな夢」と言った趣だ。
著者は和歌山に住み、自身も火縄銃を打つというだけあって、雑賀の言葉や気風、鉄砲戦術の詳細を究めた描写が非常にリアルだ。小説冒頭でいきなり2ページにわたって鉄砲射撃の手順が解説されたり、雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べたりといった描写はこの著者ならではで、雑賀衆に興味を持つ人はそこだけでも一見の価値があるだろう。
現在、新本では見つからないようだが、Amazonでの入手は容易な模様。
●「海の伽耶琴 雑賀鉄砲衆がゆく(上)(下)」神坂次郎(講談社文庫)
雑賀孫市の息子(と設定されている)雑賀孫市郎を主人公にした小説だが、主人公以外の登場人物や、歴史背景の描写が大半を占めている。
戦国〜江戸期に書かれた様々な文献を大量に引用しつつ、その合間合間にストーリーが挿入される構成になっているので、エンターテインメントとして小説を楽しみたい読者にとっては、やや「物語が弱い」と感じられるかもしれないが、雑賀衆やその周辺についてより詳しく知りたいと思う読者には、非常に参考になる。
雑賀衆に関する参考図書1で紹介した鈴木真哉の著書二冊「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」「紀州雑賀衆鈴木一族」は様々な伝承の中から史実として確実なものだけを抽出していく方法を取っていたが、こちらは「過去に語られた雑賀衆」を最大限に集積し、隙間を想像力で埋めていくという方法を取っている。
上巻では「石山合戦」から雑賀衆が崩壊する「太田城水攻め」までが描かれており、孫市の出番も多い。石山合戦以降、雑賀衆が完全に分裂し、孫市が宿敵であるはずの信長・秀吉方に付くという、一見「寝返り」ともとれる史実は、雑賀衆と孫市を愛する多くの人々にとって複雑な思いで受け取られるのだが、この作品内では孫市に代表される沿岸部の「流通業者」と、雑賀内陸部の農業主体の地域との感受性の差が、その後の分裂につながったと分析されており、非常に説得力がある。
下巻では自治崩壊後の雑賀衆が描かれており、ようやく主人公・孫市郎が物語の中心になっていく。秀吉の国内統一、朝鮮出兵に従軍する雑賀鉄砲衆残党が、最後には秀吉に敵対していくところで終幕するのだが、このあたりは「伝承の狭間から立ち上ってきたリアルな夢」と言った趣だ。
著者は和歌山に住み、自身も火縄銃を打つというだけあって、雑賀の言葉や気風、鉄砲戦術の詳細を究めた描写が非常にリアルだ。小説冒頭でいきなり2ページにわたって鉄砲射撃の手順が解説されたり、雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べたりといった描写はこの著者ならではで、雑賀衆に興味を持つ人はそこだけでも一見の価値があるだろう。
現在、新本では見つからないようだが、Amazonでの入手は容易な模様。
2010年01月29日
本願寺側から見た石山合戦
戦国史上で有名な「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目」と呼ばれている。後の世から見て、日本の支配が徳川氏にほぼ確定した決戦と位置づけられているからだろう。
しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座に座ろうが、またはその他であろうが、頭がすげ変わるだけで基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の強烈な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。
信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
石山合戦のあらすじを理解するには最適。
しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座に座ろうが、またはその他であろうが、頭がすげ変わるだけで基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の強烈な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。
信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。
いずれにせよ、石山本願寺は紆余曲折を経て、信長の前に屈服して、足かけ十一年に及ぶ合戦に終止符を打った。
それは同時に、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となったのである。
本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となったのである。
そして、本願寺に協力して信長と、さらに秀吉の支配に最後まで抵抗した門徒衆の一部は、自由な生活形態を奪われ、身分的差別の対象とされるようになったのである。
まさに石山本願寺合戦は、日本の中世と近世を画す大きなエポックとなる戦いであったといえよう。
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
石山合戦のあらすじを理解するには最適。
2010年01月30日
蓮如の足跡
本願寺中興の蓮如上人は、その後半生を旅と布教に費やした。
雑賀衆の地元にも蓮如の足跡が遺されており、それぞれの場所が門徒の心の拠り所となって、後の石山合戦における雑賀衆の活躍の原動力となった。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
タイトル通り、畿内・東海における蓮如の足跡をまとめた一冊。史実にとどまらず伝説の類まで網羅してあるのだが、民衆の中に分け入った蓮如の活動を考えるときには、そうした部分も欠かせない。
大坂「石山」本願寺の名の由来や、御坊建設にまつわる物語も多数収録されている。
雑賀衆との関連では以下のような項目が挙げられている。
・蓮如上人が休んだ休腰山(和歌山市永穂)
・行き先を変えた御影(和歌山市鷺森)
・移動する御坊(和歌山市/海南市)
・喜六太夫の帰依(海南市冷水浦)
・蓮如上人休息の地(海南市藤白峠)
上記の「移動する御坊」では、蓮如が築いた紀伊の御坊が、清水・黒江・弥勒山・鷺森と、徐々に北へ移動していく過程が解説されている。
石山合戦の当時は、和歌浦近くの弥勒山あたりが中心地で、その後鷺森が合戦後の顕如を迎え、本山となった。
余談になるが私はずっと以前、熊野古道を辿っている途中、海南市藤白峠を通りかかったときに、「蓮如上人休息の地」で一休みしたことがある。
当時はまだ雑賀衆のことも蓮如上人のことも、ほとんど知識を持っていなかったのだが、木立の間から海にかけての眺めが素晴らしかったので腰を下ろした。
かたわらの石碑を見て「ほう」と思い、休憩ついでに念仏和讃などを唱えてみた。
そのときたまたま発声の加減で、喉の奥から口蓋にかけて不思議な響きが加わるのを感じて、「ああ、これはモンゴルのホーミーの基本かもしれないな」と、何か一つ得た気分になった。
そんな思い出がある。
雑賀衆の地元にも蓮如の足跡が遺されており、それぞれの場所が門徒の心の拠り所となって、後の石山合戦における雑賀衆の活躍の原動力となった。
●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
タイトル通り、畿内・東海における蓮如の足跡をまとめた一冊。史実にとどまらず伝説の類まで網羅してあるのだが、民衆の中に分け入った蓮如の活動を考えるときには、そうした部分も欠かせない。
大坂「石山」本願寺の名の由来や、御坊建設にまつわる物語も多数収録されている。
雑賀衆との関連では以下のような項目が挙げられている。
・蓮如上人が休んだ休腰山(和歌山市永穂)
・行き先を変えた御影(和歌山市鷺森)
・移動する御坊(和歌山市/海南市)
・喜六太夫の帰依(海南市冷水浦)
・蓮如上人休息の地(海南市藤白峠)
上記の「移動する御坊」では、蓮如が築いた紀伊の御坊が、清水・黒江・弥勒山・鷺森と、徐々に北へ移動していく過程が解説されている。
石山合戦の当時は、和歌浦近くの弥勒山あたりが中心地で、その後鷺森が合戦後の顕如を迎え、本山となった。
余談になるが私はずっと以前、熊野古道を辿っている途中、海南市藤白峠を通りかかったときに、「蓮如上人休息の地」で一休みしたことがある。
当時はまだ雑賀衆のことも蓮如上人のことも、ほとんど知識を持っていなかったのだが、木立の間から海にかけての眺めが素晴らしかったので腰を下ろした。
かたわらの石碑を見て「ほう」と思い、休憩ついでに念仏和讃などを唱えてみた。
そのときたまたま発声の加減で、喉の奥から口蓋にかけて不思議な響きが加わるのを感じて、「ああ、これはモンゴルのホーミーの基本かもしれないな」と、何か一つ得た気分になった。
そんな思い出がある。