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2006年01月14日

口伝と録音

 浄土真宗の勤行は記憶の底2で紹介したように、冊子に「唱え方」が表示してある。初音も「ハ調レ」など、西洋音階で指定してあり、五線譜すら掲載されている。かなり昔からテープは販売されていたし、近年ではもちろんCD化されている。
 今、私の手元には京都の本願寺売店でゲットしてきた声明のCDがあるが、そのジャケットには「読誦の練習に便利 頭出しを多く設定しました」と表記してある。いまやお経の読み方もCDで練習するのが普通になってきているようだ。
 私が子供の頃、祖父の後を受けて父が得度した時にも、よくテープを聴いて練習していた。子供心に、お経を録音したものが売られていること自体に驚愕した覚えがある。テープやレコードというのは、普通の音楽を聴くものだとばかり思っていたからだ。
 もちろん浄土真宗の歴史の中では、このように録音されたものが練習のお手本になった期間はごく短い。はるかに長い何百年もの期間は、当然ながら師から弟子へ、親から子へと、脈々と口承される以外に伝達方法は無かった。そこにはおそらく様々な唱え方の「流派」というか、「地方色」のようなものがあったのではないかと想像してしまう。
 例えば我が家の場合、祖父のお経の唱え方に少々独特のものがあったことが判明し、父の代になってから唱え方が修正されたことがあった。便利な時代なので、本山で管理している「正解」と比較対照されやすかったために起った出来事だ。これが録音技術や五線譜の無い、移動の不便な昔の時代であれば、祖父のお経の読み方は代々そのまま受け継がれて行った事だろう。
 新しい技術によって「正解」が記録され、お坊さんの練習も便利になった反面、おそらく日本中に数限りなく存在したであろう「唱え方のバリエーション」が、消えて行ってしまっている可能性はある。
 時代の流れかもしれないが、ちょっともったいない気もする。
posted by 九郎 at 22:23| カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

HALKO

 ここ数年、縁あってHALKO(桑名晴子)さんのライブに足を運んできた。
 とある小さな海岸の屋外ステージや、演奏者にほとんど手が届くほどのライブ会場で、年に何度か彼女の歌声を聞いてきた。
 ライブのはじまりは、そっと弦を爪弾き、囁きから徐々に発声へ。やがて空気がビリビリ震えるような、豊かな「声の物質化現象」へと。
 自分の声が空間にどう響き、聴き手にどう響いているか、彼女はその場の全てを我が物として巻き込むことが出来る。
 歌をうたう、音を奏でるという事が、ごく自然に体に組み込まれたような、構えのない自由自在の音遊びを体現している人だ。歌い手としての長いキャリアが確かに彼女に生きている。

 先頃、彼女の新しいCD「One」が発売された。
 ライブ活動はますます旺盛だ。

 今回のCDは、ここ数年の彼女のライブ活動の雰囲気をよく伝える一枚に仕上がっている。よく知られた「桑名晴子」名義の、以前の楽曲とは印象が違うかもしれない。

 「神仏与太話」を標榜する当ブログ「縁日草子」的には、三曲目の「イヨマンテ ウポポ」を取り上げておきたい。タイトル通り、アイヌの神に祈る儀式をテーマにした曲で、ライブでもよくうたわれている。

 ホイヤアア・・・
 ホイヤホ・・・オホホイ・・・オホホイヤ・・・

 焚き火の横の語り部のような、何かを思い出すような、何かを呼び出すような静かな出だし。
 徐々に激しさを増す発声、鼓動のようなリズム。

 アラサアホ ホイヤ・・・
 イヤハホ ホイヤ・・・
 ホイヤアホ・・・
 ホイヤアホ・・・

 やがて言霊が宿ったように、大和言葉も飛び出してくる。
 ふと、宣る言の葉。
 フトノリトゴト。

 こういう音、声には、どうしようもなく魂を揺さぶられ、馬鹿みたいに感動してしまうものだ。とくにライブで一緒になって声を出していると。
posted by 九郎 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2006年07月21日

私が民族音楽にハマったのは…

 民族音楽が好きだ。
 子供の頃から浄土真宗のお経に親しんできたせいもあるかもしれない。

 意識的に民族音楽を聴き始めたのは、もう十年以上前のこと。家電ショップのワゴンセールで特売CDを眺めていた時に「高砂族の音楽」を手に取った時のことだった。
 このCDは「世界民族音楽大集成」という、全100枚に及ぶ膨大なシリーズの中の一枚。内容は台湾高砂族の素晴らしい音楽で、中には首狩りの風習を持っていた一族の現地録音もある。森の中の少数民族の生み出す音は素朴でありながら壮大で、混声の響きは宇宙大に広がっていくかのようだ。
 言葉はわからないものの、発声は日本語に近く、メロディーは「私の民族音楽」である浄土真宗のお経とどこか似通っていた。
 すっかり気に入ってシリーズの他のCDも探したが、その後さっぱり見つからなかった。近所の図書館の書庫に全部揃っているのを発見し、狂喜乱舞したのはごく最近になってからだ。

 私の場合は、たまたま自分の持っている波長と近い「高砂族の音楽」に出くわす幸運に恵まれたが、民族音楽の世界は興味があってもなかなか入りこみにくい分野ではある。
 普通は「生の民族音楽」よりも、それを現代風にアレンジしてあったり、現代日本人が演じていたりすると耳に入り易くなる。
 本土で沖縄民謡がこれほど理解されたのも、THE BOOMの「島歌」の功績が大きいと思うし、元ちとせの歌声で奄美民謡に対する理解も深まったと思う。

 そうした民族音楽の「現代語訳」として私がお勧めしたいのは「芸能山城組」だ。現在でも入手しやすいのは↓この一枚。



●「Symphonic Suite AKIRA」芸能山城組
 映画「AKIRA」の音楽として知られている楽曲だが、映画から独立したオリジナルとしても素晴らしい。日本の民謡や声明、純邦楽が、ケチャやガムランなどの様々な民族音楽の世界とミックスされて、懐かしくもあり新しくもある祝祭空間が音で創出されている。
 芸能山城組の他の作品は現在入手困難な状況だが、「恐山」や「輪廻交響曲」など、機会があれば必聴!のアルバムは数多い。

 民族音楽のコアな世界への入り口として、これ以上無いほどの一枚。
posted by 九郎 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

お神楽を見る

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 お神楽を見る機会があった。岡山県に伝わる備中神楽だ。
 本当は現地で夜の神事としてのお神楽を見るのが一番なのだけれど、私が見たのは昼間の舞台公演。
 それでも途中休憩を挟んで五時間弱、代表的な五つの演目が並んだ本格的なお神楽だった。
 
 公演前、舞台を見ると、暗闇の中に装置がぽっかり浮かび上がっている。広い舞台の真ん中に十畳の畳が敷かれており、その空間が荒縄と白い和紙で区切られている。日本の民俗信仰の中の、聖なる空間の表現。
 十畳敷きの奥には幕が張られている。
 あるときは緞帳、あるときはソデ幕、またあるときは劇中の「天の岩戸」になるシンプルな装置。

 ふと、子供の頃の「ごっこ遊び」を思い出す。
 遊び場の地面につま先で引いた線が世界を区切る。たったそれだけの行為なのに、ごっこ遊びの最中にはその線が強い呪力をもって、子供達の心に結界を形成する。
 誰かが一本の木を指差して、それが世界の中心だと言葉を放てば、その言霊は子供達の心に共有されて、侵すことの出来ないルールとなる。
 その場限りで生まれては消える世界観。

 客席には徐々に人が集まってくる。誰に教えられなくても知っているお神楽の世界観の中に、舞台装置を見ただけで巻き込まれてしまう。

 私の隣に座った見ず知らずの御婦人が、私の腕をつついてくる。振り返ってみると、「飴ちゃんあげる」と小さな袋入りのキャンディーを手渡してくれる。
 そーゆー年でもないのだが(苦笑)、ありがたく頂戴して口に含む。
 甘さが口に広がると、そろそろ開演時間が近づいてくる……
posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2007年05月12日

仮面と直面

 直面は「ひためん」と読む。
 仮面無しの素顔を「直面」と、ことさらに表現するのは興味深い。
 素顔ではあるけれども、衣装を身に付け、神話のキャラクターになっている。その意味では神の仮面をかぶっており、人間としての「素の顔」ではないのだろう。

 私の観る機会のあった備中神楽では、同じ場面の中に仮面をかぶったキャラクターと、直面のキャラクターが混在する場合があった。
 演目「国譲り」においては、日本の国土を譲り渡す側の国津神たちは仮面をかぶっており、天津神側のフナツヌシノミコト、タケミカヅチノミコトの二神は直面だ。
 備中神楽は国津神たちがきわめて魅力的に活躍する神楽なのだが、記紀神話のセオリーに従って、アマテラスを中心とした天津神を正統としいる。だからフナツヌシ、タケミカヅチの二神と、国津神タケミナカタが戦うシーンでは、鬼のような仮面をかぶったタケミナカタを、凛々しい直面の天津神コンビが正義の味方としてやっつける構図になっている。
 観る者にとっては、より人間に近い直面姿に感情移入しやすいのはもちろんだが、その場を主導しているのは、仮面をかぶったタケミナカタの圧倒的な存在感や面白さだ。

 最後の演目「大蛇退治」のラストシーンでは、さらに突き詰めた形で「仮面と直面」の対決を見ることが出来る。

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 登場するのはスサノオとヤマタノオロチ。
 スサノオはこのラストシーンに至るまでは、大型の仮面をかぶった超人的な存在として演じられるのだが、大蛇退治の戦闘シーンだけは直面に変わる。それまでの大柄なイメージは一瞬にして切り替わり、「国譲り」の天津神二神に近い、俊敏な戦闘神に変化する。
 対するヤマタノオロチは、獅子頭にも似た異様な四本の蛇頭を頂き、長大な蛇腹を所狭しとのたうたせる怪物だ。十畳敷きの神楽舞台はグルグルと回転する蛇体に埋め尽くされ、ピューピューと響く大蛇の息吹が空気を振るわせる。そこには大蛇を演じているはずの、四人の生身の神楽太夫の面影すら見えない。
 人の面影すら無い「全身仮面」の怪物と、神から一歩人間に歩み寄った直面の英雄の、息もつかせぬ激しいバトルが繰り広げられる。十畳敷きに竹と荒縄・和紙による舞台が、破壊されずに無事であることが奇跡のように思える。
 そして最後には、スサノオのヤマタノオロチ退治が成就される。
 スサノオが、ヤマタノオロチの首を刈り、高々と差し上げる。
 直面が仮面を調伏し、幕の後ろに消え去ることで、特殊な神話の空間は消滅する。
 後には、何の変哲も無い「素」の畳敷きの空間が残っている。
posted by 九郎 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする