2007年12月23日

縁あって熊野

 学生時代のある夏、ふとしたきっかけで十津川村を訪れた。
 
 十津川村は奈良県南部をたった一村で占める「日本で一番大きな村」だ。温泉地として知られるこの村の真ん中を流れるのが十津川で、この流れは下流になると熊野川と名を変え、熊野灘へと注いでいく。
 川の両岸は山また山の連続で、国道168号沿いにポツポツと集落が点在するが、まずは秘境と言って差し支えない。

 私がはじめて訪れた当時は、まだ熊野の山々は世界遺産に指定されておらず、観光地としてもそれほど知られた場所ではなかった。中世「蟻の熊野詣」の賑わいは時の流れとともに消え果てて、ひなびた静かな温泉地の風情しかなかった。「自然と信仰の癒しの場」としての場熊野が脚光を浴びはじめるのは、それから数年後のことだった。

 この村に鎮座する「熊野の奥の院」と呼ばれる神社を訪れたことが、縁の始まりだった。以後私は毎年のように夏には「熊野詣」を繰り返すようになり、山中をさまようようになった。 

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 熊野については語りたいことが多すぎて、なかなかこのブログでは書き出せないでいた。万全を期そうとすると、どうしても身構えは固くなり、筆は重くなる。
 このままではいつまでたっても語りだせそうにないので、ともかくカテゴリ「熊野」をスタートさせてしまうことにした。

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 熊野詣に出掛ける前は、いつも畏れの心が起こる。
 果たして今度も無事に歩き通せるものかどうか。
 地形図上の密な等高線の重なりと、延々と続く細い破線は、道行の困難を予感させるに十分だ。
 それでも一歩踏み出してみれば、なんとかなってしまうのもまた熊野なのだ。

 断続的に、一歩ずつ、このカテゴリを進めて行きたいと思う。

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2007年12月28日

熊野への道

 中世に隆盛した熊野詣から遥かに時は流れた近年、再び「熊野」と呼ばれるエリアが度々メディアに取り上げられるようになった。
 とくに定義されることもなく「熊野」と一言で表現されることが多いが、その範囲は必ずしも明確ではない。通常「熊野」は和歌山県、奈良県、三重県の南部、つまり紀伊半島南部の「南紀」と呼ばれるエリアとほぼ重なると考えて差し支えない。
 しかしそれで「熊野」の全てをカバーできているかと言うと、必ずしもそうは言えない。
 大体の感じをつかんでもらうために、絵図を一つアップしておこう。

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(↑画像をクリックすると大きくなります)

 絵図の中に何本かの道筋が表記してある。いずれも古来から熊野参詣のために歩き継がれてきた道だが、現在一般に「熊野古道」と呼ばれるのは以下の三つ。
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posted by 九郎 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

熊野の核

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 一般に「熊野古道」と呼ばれる参詣道は、熊野三山(本宮、新宮、那智)に向かう道だが、中でも熊野本宮はどのルートを辿っても到達する中心的な位置にある。
 明治時代に今の位置に移動するまでは、熊野川のほとりに鎮座していた。現在その旧社地は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれており、鬱蒼とした木立の中に小さな祠が祀られているのみだ。
 そこは「何も無いことの力」の漲る静かな静かな聖地で、熊野好きの私が中でも大好きな場所だ。

 上掲の絵図にまとめてあるが、この地は風水の理想形にもかなり近いと感じられる。

 本宮が遷座されるきっかけとなったのが明治22年の「明治大水害」で、この自然災害により、旧本宮大社は社殿ごと濁流に流されてしまった。
 水害の原因は明治に入ってからの度を越した木材伐採であると言われている。「木の国・熊野」に相応しい壮大な潔斎が自然現象として現出し、森のバランスを崩した人間に対する御気付けがあったのだろう。



 毎年この季節に訪れる花粉症も、人間の都合優先で多様な森を杉一色に塗り替えてしまったことへの、御気付けなのかもしれない。
posted by 九郎 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

熊野への入り口

 中世の熊野詣では、京都から出発して淀川沿いの水路を辿り、現在の大阪府内から陸路の参詣道が始まっていた。野を越え山を越え、はるか熊野本宮までの各所には「王子」と呼ばれる拝所が点在していて、「熊野九十九王子」と称された。

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 近年、熊野古道の調査が重ねられるようになり、今はもうほとんど消えてしまった大阪府内の古道も、その痕跡は辿ることができるようになった。京都からの水路の終着点にあたる八軒屋船着場も、現在の天満橋付近の店先に石碑だけは見ることが出来、近くに案内板も設置されている。

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 熊野古道はこのあたりにあったらしい窪津王子から始まることになっているが、川を挟んだ対岸には大阪天満宮が控えている。
 天満宮の参道は川までまっすぐ伸びており、川を挟んではいるが、ほぼ同じ軸で熊野古道が始まっている。
 参詣の人々が、すぐ近所にある地域を代表する大きな神社を素通りするとは考えにくいので、実質は「天神さん」が出発点ではないのかと思うのだが、そのあたり、私はまだ調べ切れていない。
 あるいは祭神が「あの」菅公であることが、何らかの遠慮につながっているのではないかと妄想したくなってくるが、特に資料的な根拠があるわけではないのでここまでにしておく。

 府内の熊野古道や王子は、そのほとんどが痕跡しか残っていないのだが、いくつかは往時を偲べるスポットがあり、そのうちのいくつかは陰陽師・安倍晴明ゆかりの地に重なっている。
 天王寺から南下した阿倍野区や、大阪南部の和泉国に点在する陰陽道のイメージを抜けると、修験の色濃い和泉山脈、さらに古層の神仏の世界が残る和歌山県へと熊野古道は続いていく。
posted by 九郎 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする

2008年04月29日

熊野への入り口2

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 熊野古道は大阪天満から始まっているけれども、大阪府内の古道はほぼ消滅していると言ってよい。現在は調査が進んでその痕跡は辿ることが出来るが、各所に断片的に史跡が残っているだけで、正直「ルートを辿ること」や「歩くこと」自体が楽しいものではない。
 和泉葛城山脈を越えて和歌山県内に入ると、ようやく「熊野の入り口」を実感することが出来る。

 和泉葛城山脈を越えると空気がパッと明るくなり、気候も温暖に変わる感がある。解放的な海辺の雰囲気は「海の熊野」の持ち味だ。
 熊野には「海」と「森」の要素があって、前者は「常世の国」へ、後者は「死の国」へと続く。図式化すると「明るい海」と「暗い森」なのだけれども、熊野の場合はそれほど単純ではなく、「明るい海」にも死の影は濃いし、「暗い森」にも再生の光は差す。
 和歌山市周辺は、どちらかと言うと「海の熊野」の要素が強い。
 熊野古道だけではなく、葛城修験の道や淡嶋街道などの紀ノ川沿いの街道の数々や、高野参詣道も交錯しており、往時には聖俗入り乱れた様々な交流があった地域だ。
 役の行者の強い影響下にある葛城友ヶ島、更に古層の神話の風景が垣間見える和歌浦、そして弘法大師の高野山へと、信仰の道は様々に絡み合う。
 和歌山市はその交差点だ。
 さすがに和歌山市内の市街地には古道の雰囲気は存在しないが、海南市の藤白王子神社辺りから下津町にかけては、往時を偲べる古道の雰囲気が各所に残っている。大阪経由で熊野に入る場合、手軽に「熊野」を体感できるルートになるだろう。
posted by 九郎 at 22:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする