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2010年03月05日

蓮如と石山御坊

 織田信長と本願寺による十年戦争「石山合戦」の舞台になったのが、大坂石山本願寺だ。この本山は合戦終結後、火災によって失われ、現存していない。
 所在地も確定はしていないのだが、現在の大阪城のある辺りが、ほぼその場所ではないかと言われている。
 河川に囲まれ、護りに堅く、交通の要地でもあったので、この恵まれた立地を信長がのどから手が出るほど欲したことが、石山合戦の根本原因ではないかと思われる。

 蓮如はその最晩年である82歳のおり、この地に御坊を築き、それが後の本山に発展していったわけなのだが、その経緯について蓮如自身の言葉を確認してみよう。

【蓮如「御文章」四帖第十五通:大坂建立章】
 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
それについて、この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過し、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。それについて愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。まことに当流法義にもあひかなふかのあひだ、本望のいたりこれにすぐべからざるものか。
しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。

 
 全体に遺書のようなトーンが漂う内容だ。事実、蓮如はこの文を書いてさほど時をおかず、85歳で亡くなっている。
 いくつか気になる点があるので、以下の参考図書の内容も踏まえながら読んでみよう。


●「蓮如 畿内・東海を行く」岡村喜史(国書刊行会)
●「宗教都市と前衛都市」 (五木寛之 こころの新書)
●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会

  まず冒頭部分。

 そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。


 当時の御坊があった大坂上町台地の北端部分は、淀川や大和川などが大阪湾に流れ込む際に複雑に絡み合っており、水路を中心とした交通が発達していた。
 しかし七世紀頃には「難波宮」が存在したその場所も、交通の要地ではありながら、古都の風情は影も形も無く、蓮如の息子のややオーバーな表現によれば「虎狼のすみかなり、家の一もなく畠ばかりなりし所なり」という有様だったようだ。

 伝承によれば、蓮如が堺に行く途中、たまたま四天王寺の法要に参詣したところ、「聖徳太子の使者」と名乗る不思議な童子に導かれて、かの地にたどり着いたという。聖徳太子と言えば、蓮如の祖先にあたる浄土真宗の開祖・親鸞もまた、太子の導きを受けたという伝承がある。
 そしてそこに御坊を立てようとしたところ、土の中から礎石や瓦が大量に出てきたり、井戸を掘ればあっという間に清水がわいて、わずかな期間で坊舎を築くことができたという。後の「石山本願寺」と言う名も、このとき大量に出土した礎石の類にちなんでつけられた名前だという。
 これなどは単なる伝説かもしれないが、あるいは過去に存在した難波宮の遺構となんらかの関係があるのかもしれない。
 
 一代の風雲児であった蓮如の眼には、その土地の過去と未来について、なにごとかありありと見えてくるものがあったのかもしれない。上掲の御文章の中盤部分には、私のような「全て終わった後世の人間」が読んでいて、思わず息を呑むようなことも書かれている。
 
またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、むつかしき題目なんども出来あらんときは、すみやかにこの在所において執心のこころをやめて、退出すべきものなり。これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人の御本意にたりぬべきものか。


 自分の死後、子孫である顕如や教如が巻き込まれる石山合戦の顛末を、まるでそのまま予見しているかのような内容である。

蓮如と言えば中世一向一揆の生みの親のようなイメージがあるかもしれないが、実際は門徒の武装蜂起に関しては、抑制の立場に回ることの方が多かった。
 このことはまた、いずれじっくりと検討しなければならないが、十年以上に及ぶ石山合戦を戦い抜いた顕如が、最後の最後には篭城をといて大坂を後にした心情の中に、蓮如のこの御文章があったことは間違いないだろう。


 蓮如上人、なかなか一筋縄では理解できない人物である。
posted by 九郎 at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

大坂本願寺の風景を求めて

 この一年ほど、素人なりに石山合戦関連の資料を探してきた。
 まず何をおいても知りたかったのは、舞台になった大坂・石山本願寺の情景だ。(この「石山」という言葉は、合戦当時使われていたものではなく、江戸時代に入ってからの名称であるらしいのだが、ここでは通例に従ってそのまま使用しておくことにする)

 ところが、無いのである。
 まず、大坂本願寺が隆盛を極めた当時の絵図が見つけられない。当時の絵図がもし存在するのなら、石山合戦を扱った書籍をあたって行けば引用ぐらいはされているはずなのだが、私の探したかぎりでは一枚も見当たらなかった。
 強いて言えば「石山合戦絵伝」という、江戸時代に描かれたものがあるにはあるが、史実としての正確さを求められる類のものではない。
 大坂本願寺に先行する蓮如の時代からの本願寺の拠点・吉崎御坊の絵図は数種載っているのだが、肝心の大坂本願寺の絵図を例示した資料自体が見つからない。引用された図版すら見つからないのは、以下の1〜3の理由が考えられる。
1、そもそも描かれなかった
2、描かれたが現存しない
3、現存するが非公開

 戦国時代には日本国中の富の大半が集中したとも伝えられ、日本一の境涯、無双の城と称えられた大坂本願寺が、参詣絵図の一枚も描かれなかったと考えるのは極めて不自然なので、まず1は除外されるだろう。
 大坂本願寺は一応、現在の大阪城のあたりに建っていたとする説が有力なのだが、はっきりした所在地や寺内町の区割りは諸説あって結論は出ていない。研究者それぞれが全く違った構成の図を発表している。考えてみれば、当時の絵図が非公開であれ一枚でも残っているならば、これほど意見が分かれるはずもなので、やはり「描かれたが現存していない」と考えるのが自然だろう。

 それではなぜただの一枚も現存していないのだろうか?
 神仏与太話ブログとしては、
 「合戦終結後に信長あたりが大坂本願寺に対する崇敬を『根切り』にするため、一か所に集めて焚書したのではないか?」
 などと筆を滑らせたくなるところだが、これはあくまで妄想、妄想(笑)

 大坂本願寺に関する意見が分かれているため、現代に描かれた復元図の類も様々だ。近年観光の戦国テーマのムック本等に載っている3DCG復元図は、建物は丹念に再現してあるものの、水上交通の要所としての立地や、上町台地北端の見上げるような急峻な斜面、数万人が籠城したという寺内の巨大な規模が表現されていないものが多く、あまり良質とは言えない。
 そもそも専門の研究者の皆さんの間ですら意見の分かれているのだから「これぞ決定版」という復元図が出てこないのは仕方がないだろう。
 私も自分なりの復元図が描いてみたいので、ぼちぼち資料を集めているところだ。

 これまであたった資料の中から、大坂という土地についての読みやすい概論的な書籍を紹介しておこう。



●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)
 古代から戦国時代までの大坂のありようを、それぞれの専門家が紹介してあり、なぜこの地が日本の要所となっていったのかが非常によくわかる一冊。
●「天下統一の城・大坂城」 (新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」)
 大阪城がメインテーマの本だが、一章を割いて大坂本願寺に関する諸説を紹介してある。上掲「難波宮から大坂へ」以降、江戸期までの流れが把握できる。

 また、大坂本願寺の風景を再現するには、そこに集まる人々の姿も重要になってくる。特に本願寺寺内町には、農民や武士とは違う様々な職能民や芸能民、民間宗教者も集まっていたと考えられ、そうした極めて中世的な人々の行きかう様は、時代劇などで描かれる江戸時代の情景とは全く違ったものだったはずだ。
 そうした情景については時代的に近い「洛中洛外図屏風」や「一遍上人聖絵」が参考になるのではないかと思うのだが、ごく最近発行された本に面白そうなものがあったのでご紹介。



●「新発見 豊臣期大坂図屏風」高橋隆博 編集(清文堂)
 残念ながら大坂本願寺そのものの絵図を扱った本ではないが、石山合戦から数十年後、豊臣期の大坂城下を詳しく描写した屏風を紹介した一冊。
 城下に住む庶民の様子が見易い図版で多数収録してあり、こうした人々の姿は、おそらく時代的に近い本願寺時代とも共通するものだろう。



 じわじわ進めていきましょう。。。
posted by 九郎 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年06月22日

物語の中の石山合戦

 戦国ブームが浸透している昨今、統計を取ったわけではないが、若い世代の一番人気はやはり織田信長ではないかという感じがする。
 漫画やゲームでキャラクター化された「魔王・信長」が活躍するにつれ、「信長を最も手こずらせた男」としての「雑賀孫市」にも注目が集まるようになってきた。
 現在連載中、もしくは最近発表作の中にも、たくさんの孫市像や、雑賀衆の活躍が描かれつつある。

●「戦国八咫烏」小林裕和(週刊少年サンデー連載)
 主人公は「雑賀孫一」名義になっており、日本神話の中に登場する導きの神「八咫烏」の末裔としての性格が強調されている。来るべき外国勢の日本侵略に備え、国内の英傑を導いて成長させることを行動原理としている。少年漫画としては中々面白いアプローチで、今後避けがたく描かれるであろう本願寺との関わり方が注目される。

●「雷神孫市」さだやす圭(隔週刊プレイコミック連載)
 戦国時代を舞台に、雑賀孫市を使っておなじみのさだやす無頼派ヒーローの活躍が描かれている。登場する孫市は、もちろん非門徒だ。

●「孫市がいくさ」わらいなく(月刊COMICリュウ掲載)
 同誌の主催する新人賞受賞作品。
 何よりも絵が素晴らしい。新人らしく荒削りなタッチだが、この作者にしか出せない強烈な個性がある。ちょっとデビュー当時の三浦建太郎(「ベルセルク」作者)を思わせる勢いを感じるので、今後必ず活躍する人だと思う。選評でも触れられているが、絵・物語ともに、作品中に現われている以上の、奥行きと余裕がありそうだ。歴史物ではなく、完全なフィクションに向いているのかもしれないが、今回の作品の背景に横たわる、まだ描かれていない巨大な物語も、十分な商業漫画の経験値を積んだ後に、いつの日か見てみたい。
 私が見た範囲に限って言えば、ここ数年の新人漫画家の中では突出したものがあると感じた。

●「雑賀六字の城」(歴史街道増刊「コミック大河」連載)
 カテゴリ和歌浦これまでにも度々紹介してきた作品。現在発売中の号で、ついに「鈴木孫一」が登場している。
 原作小説を書いている津本陽の作品では、「孫一」の扱いはどれもそっけない。おそらく先行する司馬遼太郎作品との差別化をはかる意味もあるのだと思うが、漫画版では「本願寺方の猛将」として描かれるようだ。数少ない「門徒としての孫一」が見られる作品。
 比較的史実に沿った石山合戦を漫画で見たい場合は、この作品が現時点ではベストだと思う。

 実在の人物としての「鈴木孫一」も、キャラクター化された「雑賀孫市」も、ともに主戦場は信長と本願寺の戦いであった。徐々にではあるが、初心者向けの解説本などにも「石山合戦」や「大坂本願寺」「顕如」についての記事が出始めている。
 しかし現存する特定宗派(浄土真宗本願寺派)の教義とも絡んでくるせいか、あまりそのあたりに踏み込んだ作品や解説は出ていないようだ。
 信長の宿敵「雑賀孫市」の設定も、本願寺の信仰とは一線を画した形で描かれることが多い。
 そうした人物設定の嚆矢は、やはり司馬遼太郎「尻啖え孫市」だろう。この作品に描かれる、女性を愛し、何物にも縛られない非・門徒の「自由な孫市」像があまりに魅力的だったため、以後登場した孫市像の下敷きになっているのだろう。
 実在の「鈴木孫一」の場合は、いくつかの状況証拠から、本願寺の熱心な門徒であった可能性が高いと私は考えているが、現代の物語作品で広く一般に「ウケる」ヒーロー像としては、あまり宗派性を出さない方が良いと判断されることは理解できる。
 一方で、司馬遼太郎以前の物語の中で描かれた「孫市」は、全く違う姿だった。たとえば司馬遼太郎自身も参照していると思われる「石山軍記」等の中での孫市は、本願寺を守る門徒のヒーロー的な存在だ。

 実在の人物としての鈴木孫一が、史料に乏しい人物であることが、逆に様々な読み替えを可能にしているのだろう。
 それぞれの時代、求められるヒーロー像は様々だ。いずれまた、「門徒としての孫市」が輝きを放つ時期が来るかもしれない。
 また、中世において身分制を超えた自由都市であった「寺内町」や、その在り方の中核としての親鸞・蓮如の思想も、何かと息苦しい格差社会たる現代に、プラスのイメージで描かれる時期が来るかもしれない。

 実在の「孫一」や史実としての「石山合戦」に関心がある人は、以下の本をお勧めしておく。



●「戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆」鈴木真哉(平凡社新書)
●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
posted by 九郎 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年06月23日

巧みな嘘、まことの感情

 この一年半ほど、遅々とした歩みながら「石山合戦」や「雑賀衆」の実像を求めて資料を渉猟し続けている。
 直接の興味の対象は上記の二つなのだが、それを理解するためには戦国時代全般の知識も、当然必要になってくる。
 調べ始める前の私は自分のことを、をさほど濃くは無いものの一応「歴史ファン」であると思っていた。学生時代から日本史や中国史の成績はまあまあだったし、有名どころの歴史小説などにも一通りは目を通していた。端的にいえば、「そこそこ知っている」つもりだったのだ。
 ところがいざ「史実」ということにこだわりながら調べ始めてみると、自分の戦国時代に関する知識の大半が、実は史実であるかどうか疑わしいものばかりであることが分かってきた。なんのことはない、私は「歴史ファン」ではなく、小説や漫画やTV番組などの「歴史モノファン」だったわけだ。

 ゴメンナサイ、これからはちゃんと勉強します。

 と反省して事が済めば簡単なのだが、事態はそれほど単純ではない。 色々調べていると、疑う余地もないほど定説と化しているように思えたアレコレや、歴史モノの創作物ではない、一応マジメに出された歴史解説本の中にも、数え切れないほどのフィクションが混入していることが分かってきたのだ。
 試みに石山合戦の一方の主役である織田信長について、まとめてみよう。

【長篠の合戦における「鉄砲の三段撃ち」は無かった】
 まず、このお話のソースが後世に作られた軍記物であり、同時代の史料には一切出てこないという根本的な問題がある。
 その上、過去の歴史教科書等でも記述され、私も感心していた「三千丁の鉄砲を三隊に分けて、入れ替わり立ち替わり一斉射撃をした」という描写が、全く現実性のないものである点が致命的だ。
 当時の織田軍にはせいぜい千五百丁の「寄せ集め」の鉄砲隊しかおらず、生の火や火薬を扱う大量の火縄銃を、号令とともに整然と操れるような環境にはなかった。
 そもそも「三段撃ち」の的になった「武田の騎馬隊」自体の存在が疑わしく、舞台になった長篠の地理条件からも「馬による一斉突撃」はあり得なかった。

 もはや戦国の常識と化しているかに見える「長篠の合戦・織田軍三段撃ち」の物語は、「戦国時代に一人近代を先取りした信長の先見性」「戦国最強・織田鉄砲隊」などの物語に現実味を与え、実物以上に信長を優れた戦国武将としてイメージアップしてしまった。
 ところが実際には、以下のような指摘が可能なのだ。

・織田軍は鉄砲戦では最後まで雑賀衆に歯が立たなかった。むしろ雑賀衆の戦術を積極的にパクることによって、戦力を高めていった。
・鉄砲戦術においても、経済戦略においても、信長の独創と呼べるものは少なく、むしろ雑賀衆や寺内町の在り方を学習し、奪った手法が多かった。

 現代の「歴史ファン」の多くが共有していると思われる「中世にただ一人近代を先取りした男・信長」というイメージは、おそらく司馬遼太郎の戦国テーマの作品あたりが出典ではないかと思われるが、そのイメージは有態に言えば「与太話」に過ぎない。
 念のために書いておくと、私は国民的作家を非難しているわけではない。司馬作品は大好きだ。
 もっともらしい材料を拾い集め、あるいはでっち上げて与太話にリアリティを持たせることは、まさに作家の本分なのだから、ここで私は作家を大絶賛しているつもりですらある。
 私が愛してやまない司馬版「孫市」も、初めて読んだ時にはあまりに生き生きと描かれているため、「こういう人物が本当に実在したのか!」と感激したものだが、今はいくつかの点で実在の「鈴木孫一」とは全く別物であることは理解している。
 司馬遼太郎「尻啖え孫市」作中の、自由と女性と孤独を愛するあの快傑は、小説の中だけに存在するフィクションであるけれども、彼が雑賀合戦で「南無阿弥陀仏」と唱える瞬間に爆発した感情のピークは、まぎれもない「まことの感情」として、確かに読む者に伝わった。
 あのシーンを読んだ時の感動が、私をここまで石山合戦にのめり込ませた原点になっているのだ。

 物語の最も強力な武器は、巧みな嘘の中から本物の感情を創り出せることにある。そうして創り出された本物の感情は、単なる史実を超えて人を動かし、新たな史実の掘り起こしや、新たな物語の読み替えを生み、連鎖していくのだ。




 ただ、フィクションではない戦国本の著者、編集者、専門の学者の方々には、もう少し史実と物語の区別をはっきりさせた本づくりをしてほしいなと思う今日この頃……
posted by 九郎 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

浄土真宗、本願寺、一向宗

 浄土真宗、本願寺、一向宗。
 中世の一向一揆や石山合戦を語る文脈の中で、この三つの言葉はあまり厳密に区別されずに使用される場合が多い。
 同義として扱われている場合がほとんどであると言ってよいだろう。
 私も長らくそれらの言葉が何を指すかについて意識せずにいたのだが、石山合戦について調べる過程で一度整理しておいた方が良いことに気づいた。
 備忘として記事にまとめておく。

【浄土真宗】
 鎌倉時代、六字名号「南無阿弥陀仏」の称名念仏を提唱し、日本仏教に「革命」を起こした法然(浄土宗)。その高弟の一人である親鸞を開山としたのが浄土真宗。

【本願寺】
 親鸞八世の子孫・蓮如の活躍で飛躍的に勢力を拡大した本願寺は、戦国〜江戸時代を通じて日本で最大の門徒を抱える巨大教団になった。
 その規模の大きさから「浄土真宗」といえば「東西本願寺」と認識しがちであるが、本願寺以外の浄土真宗の流れも一定の勢力を持って現存している。
 そもそも蓮如が登場するまでの本願寺は弱小勢力で、先行して勢力を広げていた浄土真宗高田派等から見れば「後発団体」に過ぎなかった。
 石山合戦の過程においても、浄土真宗全体が一枚岩となって織田軍と戦ったわけではなく、抗戦したのは主に本願寺勢力だった。高田派や三門徒派はむしろ織田方についており、各地域で降伏した本願寺派門徒を転宗させる際の受け皿になったこともあった。
 だから石山合戦を「浄土真宗vs織田軍」と認識するのは正確ではなく、「本願寺vs織田軍」とした方がより適切になるだろう。

【一向宗】
 今回まとめる三つのキーワード「浄土真宗、本願寺、一向宗」の中で、もっとも実態のつかみづらいのが、この「一向宗」という括りだ。
 石山合戦当時までに、浄土真宗に属する派の中で自ら「一向宗」と公称した例は無いはずだ。(時宗の一派にはその例がある)
 なぜ浄土真宗本願寺派の門徒が主導したと考えられる一揆勢力が「一向一揆」と呼ばれるにいたったのか、明確な理由は認識していなかったのだが、以下の参考図書に、一応納得できる解説があったので紹介しておこう。


●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館)
 この書籍の中では、「一向宗」と呼ばれる集団が、本願寺本体とは別個に存在したという仮説が提示されている。
 この「一向宗」の集団的特徴を様々な実例をひきながら解説しているのだが、私なりにまとめると以下のような点が挙げられている。
・阿弥陀一仏のみを尊び、その他の諸神諸仏を軽んじる。
・「どんな悪事を働いても念仏さえ唱えておれば救われる」と短絡し、自ら悪を為すことを避けない「造悪無碍」という傾向。
・山伏、社人(下級神官)、巫女、念仏僧、琵琶法師、旅人、商人などによって布教され、土俗的な霊能を布教手段としている。
・一揆を起こすことに積極的である。

 多少なりとも親鸞の教説を調べたことがあればすぐに気付くはずだが、これらの傾向はすべて、親鸞の在世当時から親鸞自身によって批判されてきた傾向だ。
 本願寺を中興した蓮如も、こうした傾向は変わらず批判しており、「一向宗」と「浄土真宗/本願寺」の間には、実は真逆と言ってよいほどの教義の相違が存在するのだ。
 つまり一向一揆勢力というものの全体像は、土俗的な信仰と反体制的な傾向を持った膨大な数の民衆が、頭に「本願寺」という教団組織を乗せて結集した一大勢力、という構図になってくる。
 このような構図を念頭に置くと、確かに石山合戦や一向一揆についての疑問点の多くに説明がつき易くなってくる。

 それではなぜ教義の全く違う集団同士が一致協力することができたのかと言えば、以下の二点がやはり重要になってくるだろう。
 まず「一向宗」側から見れば、「本願寺」は開山聖人・親鸞の血脈を引いているという、素朴な血脈信仰があっただろう。
 そして「本願寺」側から見れば、特に蓮如以降の布教傾向として、「一向宗」的な土俗的信仰を持った民衆こそが教化の主たる対象であった。
 両者が教義的には「ねじれ」を持ちながらも、石山合戦に至るまでの協力関係を築くことができたのはそんな経緯があったからだと考えれば、様々な点で辻褄が合ってくると感じる。
posted by 九郎 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする