2010年07月18日

進者往生極楽、退者無間地獄

 現代に創作された戦国物語の中で、一向一揆や石山合戦を描いたシーンの中で必ずと言ってよいほど登場するのが、「南無阿弥陀仏」と墨書された筵旗を掲げた狂信的な農民集団だ。
 史実としての中世一向一揆は江戸時代の「農民一揆」とは全く異なり、専門の武装階級が実際の戦闘を担当していたので、「鋤鍬や竹槍を得物に、筵旗を掲げた農民の集団」が戦場に現れることはほとんどなかったと考えられるので、そのようなイメージは完全に間違ったフィクションだと言える。

 もう一つ、よく登場するのが、以下に画像で紹介するような軍旗だ。

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 進者往生極楽
 退者無間地獄

 進まば往生極楽、退かば無間地獄

 戦って死ねば極楽往生、逃げて生き延びても地獄行き……

 石山合戦に臨んだ門徒の熱狂的な信仰が端的に表現されたキャッチコピーなので、物語の中で使用されるととりわけ印象に残る部分ではある。
 しかしこの旗印自体は確実な資料によるものではなく、「毛利水軍の軍旗として使用したという伝承のある古い旗」を出典としているに過ぎないが、当時の一般門徒が合戦に臨む心情は、だいたいにおいてこのようなものだったであろうという推定は成り立つ。
 しかし、それはあくまで「一般門徒」の心情であって、教団としての「本願寺」が公式に「進者往生極楽、退者無間地獄」というコピーを使用したわけではない。(一向宗と本願寺の違いについては前回の記事参照)
 本願寺が石山合戦当時のリーダーである顕如の名において門徒に求めたのは、多くの場合あくまで「開山聖人・親鸞への恩返し」だった。
 自分たち門徒は親鸞の教えにより、凡夫であっても極楽往生できることを知った。その親鸞の恩に報いるためには、その親鸞の血を引き、教えを正しく伝えた本願寺の存続のために尽くすことが肝要であるというロジックで、
ここには「本山のために戦って死ねば極楽、逃げれば地獄」というニュアンスは含まれていない。
 それもそのはずで、実は親鸞・蓮如の教説の中には門徒が武装蜂起して圧制者に対抗せよという内容は含まれていないのだ。中世身分社会への本質的な批判や、教えが弾圧された場合の「逃散」の勧めはあるが、「武器をとって戦え」という明確な指示は為されていない。
 ただ、ここからが非常に微妙な領域に入ってくるのだが、石山合戦の過程において、本願寺教団側が一向宗側の熱狂的な信仰、本願寺の公式教義からは逸脱した部分もあった信仰を、半ば放置することによって「戦争利用」したのではないかと思える局面がいくつか認められる。
 顕如は門徒に石山合戦に対する協力を求める際に、「協力しないものは破門にする」という意味の檄を飛ばしている。あくまで「本願寺を破門する」と言っているのであって、「協力しないものは地獄行きである」と恫喝しているわけではないのだが、当時の素朴な「一向宗」の信仰を持つものにとって、本山からの破門はほぼ堕地獄と同義であっただろうことは想像に難くない。そこから生まれたのが、有名な「進者往生極楽、退者無間地獄」というフレーズだったのだろう。
 こうした在り方は、公式には教義と矛盾しないよう注意を払いつつ、ある部分では門徒の「誤解」にまかせた、本願寺教団の巧妙な戦略という風にも受け取れる部分だ。
 しかし一方、素朴な「一向宗」の心情としては、本願寺教団や宗主・顕如に「そのように振舞って欲しい」という願望も確実にあったことだろう。
 戦乱に明け暮れる乱世、名もない民衆にとって、この世に生きることはそのまま地獄に生きることでもあった。地獄のような娑婆世界に生きるためには種々の悪を行う他なく、このままでは後生の安泰もおぼつかない。
 そんな希望のない生活の中で、親鸞の教えは間違いなく一筋の光であっただろうし、本願寺寺内町の平等で活気に満ちた情景は「この世の極楽」と感じられたことだろう。

 こうした生きる喜びのある生活の場を守りたい。
 守るための戦いに身を投じたい。
 戦いに倒れた仲間には、死後の安楽を約束して欲しい。

 そのような心情を持つことはごく自然なことであろうし、自分たちのリーダーである顕如にはその先頭に立って欲しいと願うことも、また自然な人間感情というものだろう。これは何も中世の民衆に限らず、現代における戦争でも変わらぬ構図が世界中に存在するだろう。

 果たして本願寺は門徒の感情を「戦争利用」したのか?
 厳格に教義を守り通すことよりも、門徒の感情を汲むことを選ばざるを得なかったのか?
 あるいはその両方か?

 どうやらそのあたりに、私の中の「石山合戦」の核心部分がありそうに感じる。
posted by 九郎 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年07月30日

浄土真宗、本願寺、一向宗 2

 浄土真宗、本願寺、一向宗という記事の中で、それぞれの言葉の指す対象をまとめてみた。
 今回はもう少し詳しく検討してみよう。
 本願寺の信仰を端的に表現したものに、「領解文(りょうげもん)」という短い文章がある。
 本願寺門徒が蓮如の時代から朝夕の勤行に日常的に唱える一文で、今でも暗唱している人が多い。
 以下に引用してみよう。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、
このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、
御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、
次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟、
一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

 私は本願寺の信仰を正確に解説できる立場にはないのだが、文法的にはさほど難解でもなさそうなので極私的に読んでみる。以下のようなまとめ方で、大きく間違ってはいないはずだ。

「他力の念仏以外の様々な自力の行法をたのむ心をふり捨てて
 阿弥陀如来に後生をどうかお助けくださいと
 一心におすがりしましょう
 それだけで往生の心配はなくなるのだという信心が定まれば
 その後の称名念仏は助けていただいた感謝の言葉
 喜びの言葉となりましょう
 この理をお説きになった親鸞聖人の御恩と
 聖人の教えを正しく伝え、広めてくださった方々の御恩を
 深い感謝の心で受け止めております
 この上は定めおかれた掟を一生涯守ってまいります」

 当時としては平易な言葉遣いで、蓮如の受け止めた親鸞の思想が巧みに要約されている。
 石山合戦当時の門徒もおそらく日常的にこの「領解文」を唱えており、言葉の意味も大意としては理解していたはずだ。
 誰もが罪業を積まなければ生きてゆけない戦国の世、迷信を排し、罪を犯した者も救われるとする教えは、一条の光になったに違いない。
 しかし本願寺寺内町に集う膨大な数の一向一揆衆が、すべてこの「領解文」のような信仰の在り方を正しく身につけ、守っていたかというと、問題は別になってくる。
 一口に阿弥陀信仰と言っても、当時民衆の間に広まっていた信仰には非常に呪術的な要素を持つものも多かった。
 そうした呪術の担い手である民間宗教者や芸能民や、仏教がそれまで救いの対象としてこなかった層、農民よりも一段低く見られながらも経済的な実力を蓄えつつあった商工民、山の民、海の民に、蓮如以降の本願寺は積極的に布教していった。
 親鸞の教えは、構造こそシンプルであるけれども、それを本当に実践するためにはかなり高度な思索を要求される面がある。
 蓮如はその親鸞の教えをギリギリまで平易に語り、広めようとし、その際に、ともかく「多数の人を集め、広く知らしめる」ことに重点を置いたように見える。
 そうした蓮如の方向性が、雑多な信仰、雑多な職種を飲み込んだ「一向宗」を寺内町に集め、組織としての本願寺を神輿として担がせることを可能にしたのではないだろうか。

 石山合戦における「浄土真宗、本願寺、一向宗」の三者の関係について、試みに模式図を作成してみよう。
 一般的な理解としては下図のようになるだろう。

ik-02.png


 しかしこれはかなり単純化した理解であり、実際はそう簡単な話ではなかったことは、前回の記事でも解説した。
 石山合戦について、まだ私はほんの入り口に立ったばかりなのだが、現時点では下図のような図式が妥当ではないかと考えている。
 
ik-03.png

 
 一向宗と呼ばれた人々と本願寺の関係については、今後も注意深く考えていってみたい。
posted by 九郎 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年08月11日

試作「大坂本願寺絵図」

 まだまだ試作スケッチの段階だが、石山合戦当時の大坂本願寺や、周辺の地理条件を編集した絵図を描いてみた。

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(クリックすると画像が大きくなります)

 以前の記事大坂本願寺の風景を求めてでも書いたとおり、蓮如による創建〜石山合戦当時、直接その風景を見て描かれたと思われる絵図は、どうやら現存していないようだ。
 戦国時代、覇者・信長と真っ向勝負を戦い抜いた大勢力であるにも関わらず、当時の大坂本願寺の様子を知るための史料は非常に少ない。したがって、現代に制作された復元図や復元模型にも、「これが決定版」と呼べるものが中々無い。
 そもそも、大坂本願寺の厳密な所在地すら確定していない現状では、正確な復元図が描けるはずもなく、どれも「想像図」にならざるを得ない。
 それでも絵描きのはしくれとしては、興味のある歴史の舞台の風景はなんとか自分なりに再現してみたいという願望はあるので、ぼちぼち描き始めてみた。
 大坂本願寺やその寺内町については諸説ある中で、私が個人的に最も納得できたのは、以下の資料等で読むことができる仁木宏説だった。


●「難波宮から大坂へ 」(大阪叢書)

 今回はその仁木説を参考に試作してみた。今後も順次検討を加えていきたいと思っている。
 制作意図としては、正確な作図の鳥瞰図ではなく、感覚的に大坂本願寺と周辺の地理条件を理解できるようにしたイメージ図だ。
 本願寺の大寺院は、阿弥陀如来の西方極楽浄土を拝するために、寺院自体は東向きに建設されることが多い。当時の大坂本願寺も、上町台地北端の小高い丘陵から西方を遥拝するイメージで御堂を建てたとする説には説得力がある。寺内町はその御堂を中心に、地形なりに順次増設されて行っただろう。
 この「西を拝する」という要素が、大坂本願寺の基本的な構想であったとするならば、絵図もそれに従って西向きに描いて見るのが良いと判断した。

 織田軍と交戦状態になってからは、援軍の毛利・村上水軍は、真西から船で来訪することになる。本願寺に集う一般の一向宗にとって、日々遥拝する西方からの船団は、まさに西方極楽浄土からの援軍のように感じられたことだろう。
 また、さらに妄想を逞しくするならば、信長はその極楽からの援軍を、希望を込めた門徒達の眺めている前で「鉄甲船」によって殲滅することにより、精神的な揺さぶりを意図していたのではないかとも思えてくる。
 本願寺寺内町の一般門徒が一日の労働の疲れを癒せる一時であるはずの夕方の勤行や、新しい気力を充填する朝の勤行のとき、西方に広がる海を眺めてみると、そこに禍々しい黒色で巨大な「鉄甲船」が停泊しているのを見れば、「浄土から分断されている」という素朴な感想を持っても不思議はないのではないか。

 今回は大坂湾周辺を主に描きこんでみたが、欲を言えば、もっと左右の横幅を広げて、右は琵琶湖畔の安土城から、左は伊勢長島あたりまでを吉田初三郎ばりに空間を捻じ曲げて収録してみたいところだ(笑)
 その目標に向けて、今後もこのカテゴリ石山合戦を通じて妄想力を蓄積していきたい。 
posted by 九郎 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2010年12月06日

続きが読みたい!

 当ブログでは戦国時代に特異な存在感を示した「雑賀衆」と、その主戦場であった「石山合戦」についてぼちぼち記事をあげている。
 その中で雑賀衆の活躍するマンガについてもカテゴリ和歌浦等で紹介してきた。
 そして、雑賀衆の鉄砲戦術が極めてリアルに描かれた、マンガ「雑賀六字の城」を、現在連載中の一押し作品として度々取り上げてきた。
 津本陽「雑賀六字の城」
さいが」か「さいか」か
鉄砲戦術を絵にするということ

 毎月月末に掲載誌の「コミック大河」が発売されるのを心待ちにしていたのだが、悲しいことにこの雑誌、十月末発行の第十号で休刊(という名の廃刊)してしまった。
 ここ1〜2年の戦国ブームにも、そろそろ秋風が吹き始めたか……
 私の愛したマンガ版「雑賀六字の城」は、主人公が信長を今まさに遠距離狙撃する!!!!というシーンで中断。
 それはないっすよ(涙)
 あまりにもったいない。
 どこか引き受ける雑誌は無いのかな?

 というわけで、私は関係者でも何でもないのだが、一ファンとして、単行本の第一巻の宣伝に協力したい。

●「雑賀六字の城 壱」原作;津本陽 マンガ;おおのじゅんじ(PHP研究所)

 雑誌掲載分は、単行本の第一巻よりいくらか進行している。
 この第一巻の売り上げが伸びれば、次の展開も見えるのだろうから、雑賀衆や戦国時代、織田信長に関心のある人は、ぜひ一度、手に取ってみてください。
 完結すれば、「石山合戦」を描いたマンガの中で、現時点の決定版と言えるものになるかもしれないと思っています。
 一つ、夜露死苦!
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2011年02月04日

石山合戦に関する書籍

 当ブログでは雑賀衆や石山合戦について、継続的に記事をアップしています。
 和歌浦
 石山合戦

 他の記事も進めながらぼちぼち本を読んで勉強しているのですが、最近読んだものの中から参考になりそうなものを紹介しておきます。


●「歴史REAL vol.1」(洋泉社MOOK)
 一月に発行されたDVD付きムック本。
 やや熱の冷めてきた感のある昨今の戦国ブームだが、たまにこうした「当たり」の特集本が出るのでありがたい。
 内容は当ブログでも何度か紹介してきた鈴木真哉や、藤本正行の独自な研究を中心に、豊富な写真や図版で詳細に解説したもので、やや極論に傾いている面はあるが、一読の価値はある。
 見所はなんといっても付属DVDに収録された火縄銃の演武だ。
 紀州の鉄砲術の伝承者が実弾を込めて発砲する様を、各方向からのスーパースロー映像で解説している。
 実弾を撃った場合と空砲の場合の微妙な発砲音の違い。
 引き金を引いてから火皿が小爆発し、筒の中の火薬に引火してから発砲されるまでのタイムラグ。
 筒先から走る火柱だけでなく、火皿から真横に走る熱と衝撃波の考察。
 私も何度か空砲による鉄砲演武は見たことがあったのだが、このDVDで認識を新たにした要素がたくさんあった。
 火縄銃の実弾発射映像は探すとなかなか見つからないのだが、これだけの内容で本体価格880円は絶対に安い!
 戦国ファン必見!
 

●「忍者武芸帳影丸伝」白土三平((レアミクス コミックス)
 いわずと知れた白土三平の「カムイ伝」と並ぶ代表作。忍者活劇としてはこちらの方を推す人も多い。
 復刻版が刊行されたのを機に、久々に読み返してみたら、舞台になっている時代背景はまさに石山合戦そのものだった。
 制作された時代的なもの、あくまで忍者活劇である点などから、史実の参考にはならない。
 顕如が老人になっていたり、火縄銃がライフルにしか見えなかったり、雑賀衆の存在感が薄かったりするが、何しろ無類に面白い。
 石山合戦を背景にした活劇の一つとしてお勧め。


●「近代ヤクザ肯定論 山口組の90年」宮崎学(ちくま文庫)
 直接戦国時代や雑賀衆、石山合戦を扱った本ではないが、戦乱の世の大坂本願寺や紀州・雑賀の地で何が起こっていたのかを考察するための一助となる本。
 戦前、戦中、戦後の神戸で、差別され、困窮する下層労働者の中から、一種の互助組織として立ち上がってきた山口組。
 警察力の崩壊した戦後の混乱の中では、神戸の治安を守ることに一定の役割を果たし、後に三代目・田岡一雄の元で日本最大のヤクザに成長していく過程を、冷静な筆致で詳述している。
 国というものが民衆を統治するための唯一の正当性は「飢えさせず、治安を守る」ことでしか担保されないが、その最低条件が崩れ去った乱世において、平時には「悪」の領域に押し込められていた力が重要な意味を持ち始める。
 おそらく、戦国時代の紀州・雑賀の地でも、近世・神戸とよく似た構図があったのではないかと想像してしまう。
 ヤクザという存在を、短絡的に排撃するのではなく、またロマンティックに美化するのでもなく、それを通して昭和史というものを通観する力作。

 どの本も、強烈にお勧め!
posted by 九郎 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする