2013年08月09日

陰陽道と一向衆の交差点

 前回記事で紹介した「播磨灘物語」作中ではさほど比重が置かれていなかったが、戦国末期の播州の動静を考える上で重要地点だったと思われるのが英賀本徳寺を中心とした寺内町だ。
 中国地方の瀬戸内の海民は、多くが本願寺の信仰を持ち、石山合戦においても積極的に大坂本願寺を支援した。
 播州の河口三角州のような地形にあたる英賀の地は、中国地方と大坂本願寺の海の中継地点として機能していたはずだ。
 こうした海上交通の要所に本願寺の寺内町が存在し、それぞれ緊密なネットワークを構築していることが、一向一揆の力の源泉だった。
 信長は結局本願寺を滅ぼしきれなかったが、ともかく大坂の本山を退去させることには成功した。
 これにより、各地の本願寺寺内町ネットワークは中心部分を失った。
 信長の高転びによる死後、秀吉は基本的にはその路線を受け継ぎ、寺内町ネットワークの解体を企図した。
 英賀の地の処分でも秀吉は本徳寺自体は滅ぼさず、近隣の「亀山」を寄進して、信仰の場と海上交通の要所を分断した。

 こうした経緯については、以下の本に一章を割いて紹介されている。

●「百寺巡礼 第六巻 関西」五木寛之(講談社文庫)

 本徳寺はそれ以後、亀山の地で「霊亀山本徳寺」として現在まで存続することになる。
 
 この亀山の地は古来、「三足の亀」を祀ってきたという伝承もあり、元々は陰陽道的な信仰の場だったようだ。
 陰陽道は、中国由来の陰陽五行や風水をベースに、日本で神仏と複雑に習合してきた思想で、宗教者だけでなく、芸能民や各種商工民に対しても影響が強かった。時代が下るほどに煩瑣な迷信の巣窟になり果てて行った面もあるが、元来は実用的な思想だったのだ。

 戦国時代に入り、蓮如の活動を通して、本願寺の布教が爆発的に勢いを増した。
 蓮如はそれまでの仏教教団が主な救済の対象としてこなかった、商工民や芸能民などの「雑民」に対し、積極的に教線をのばしていき、寺内町ネットワークの力の源泉になった。
 それは陰陽道の領域に分け入ることでもあったはずで、このあたりに一向衆と陰陽道の微妙な交錯の理由がありそうだ。

 このテーマは、あまり簡単にまとめてしまわず、今後もじっくり考えていきたい。

 亀山本徳寺については、お寺さん自身のサイトが非常に充実していて参考になる。

 亀山御坊本徳寺

 この御坊、実は私も子供の頃何度も行ったことがあったりする。。。
 サイトを拝見すると、毎月「楽市楽座」というフリーマーケットも開催されている模様。
 わが縁日屋も、可能ならばぜひ一度、お邪魔してみたいものだ(笑)
posted by 九郎 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年08月20日

加筆再掲:本願寺側から見た石山合戦

 織田信長と本願寺の天下分け目の一大決戦である「石山合戦」を、いつの日か絵解きしてみたいという願望をもっている。
 遅々とした歩みながら、関連書籍をあれこれと読み続けている。

 他のカテゴリにアップした記事の中から、石山合戦そのものを取り扱った記事を、加筆の上再掲しておきたい。
--------(以下、再掲記事「本願寺側から見た石山合戦」-----------

 戦国史上で有名な「関ヶ原の戦い」は、「天下分け目」と呼ばれている。後の世から見て、日本の支配が徳川氏にほぼ確定した決戦と位置づけられているからだろう。
 しかし視点を変えてみれば、「武家による中央集権」という方向性は既に織田信長の時点で決定的になっており、織田がそのまま続こうが、豊臣や徳川がその座にとって変わろうが、頭がすげ変わるだけで、基本的な支配構造に違いは無かったとも見ることもできる。
 群雄割拠の戦国時代を収束に向かわせたのは信長の特異な個性だったことは間違いないが、信長の戦いの過程で「ありえたかもしれないもう一つの社会構造」を垣間見させてくれるのは、やはり「石山合戦」だったのではないかと感じる。
 本願寺の寺内町には、戦国大名が支配する縦型の身分社会とは全く違う原則で動く共同体があった。国境を超え、信仰と生活が一体となり、当時としては身分制が非常にゆるかった本願寺のネットワークが、信長に分断されずにそのまま残っていたとしたら、その後の歴史はまた別の流れになっていたのではないか。

 信長物語の1エピソードとしてのみ語られることの多い「石山合戦」だが、視点を変えて本願寺側から見ると、全く違った視界が開けてくる。
 以下に「本願寺側から見た石山合戦」についての、読み易い参考図書を紹介しておこう。



●「織田信長 石山本願寺合戦全史―顕如との十年戦争の真実」武田鏡村(ベスト新書)
 戦国随一の人気を誇る織田信長が、専門書から入門書、特集本、創作物語まで数限りなくそろっているのに比べ、「石山合戦」を宿敵であった本願寺側から研究した本は探してみると少なく、入手と通読が容易な入門書としては、この本が良いだろう。
 本願寺を支えた戦国大名との婚姻関係や、流通の民や雑賀衆についても相当なページが割かれており、「石山合戦」の本質を「専制体制vs中世的自由」と捉えているところは非常に納得できるし、伊勢長島の門徒衆大量虐殺の詳細には血も凍る思いがする。
 とりわけ結びの部分での以下のようなまとめは、「石山合戦」の総括として的を射ていると感じた。

 いずれにせよ、石山本願寺は紆余曲折を経て、信長の前に屈服して、足かけ十一年に及ぶ合戦に終止符を打った。
 それは同時に、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となったのである。
 本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となったのである。
 そして、本願寺に協力して信長と、さらに秀吉の支配に最後まで抵抗した門徒衆の一部は、自由な生活形態を奪われ、身分的差別の対象とされるようになったのである。
 まさに石山本願寺合戦は、日本の中世と近世を画す大きなエポックとなる戦いであったといえよう。


●「大阪城とまち物語―難波宮から砲兵工廠まで」「大阪城とまち物語」刊行委員会
 社会科の資料集のような体裁で大阪城の歴史を古代から解説した一冊。石山合戦についても「第2章 大坂本願寺物語」として、簡潔にして詳細に解説されている。
 石山合戦のあらすじを理解するには最適。

●「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」神田千里(吉川弘文館 歴史文化セレクション)
 信長と一向宗の戦いについては、ある程度「通説」めいたイメージが存在する。「一向宗は顕如を絶対的な教主と仰ぎ、その号令一下死をも恐れず戦う熱狂的な集団であった」「信長は一向宗を徹底的に殲滅し、石山合戦に勝利した」などなど。
 この本はそうした通説の一つ一つについて、丁寧に史料を紹介しつつその実態を解き明かしてくれる。
 中でも「一向宗」と呼ばれる集団が必ずしも本願寺教団とイコールでは無く、一応本願寺の名の下に結集してはいるが、山伏や琵琶法師などかなり雑多な集団を抱えていたことや、顕如が必ずしも「絶対的な君主」ではなく、教団内の力のバランスの上に乗った象徴的なリーダーだったらしいことなど、意外な印象を受けた。


 信長といえば先進的な鉄砲戦術や楽市楽座で知られるが、鉄砲戦術においては紀州の雑賀・根来衆の方が本家であり、信長はついにそのレベルには至らなかった。楽市楽座についても信長のオリジナルではなく、例えば本願寺の寺内町でも既に類似の経済活動が行われていた。
 石山合戦は信長が本願寺へ大坂からの退去を命じたことに端を発するが、その動機は本願寺寺内町の地の利や経済的な優位、雑賀衆の軍事力などを、信仰から切り離した形で我が物にしたかったからではないかと考えられる。
 結局、石山合戦は一応信長の勝利に終るのだが、その後の本願寺教団は東西分裂状態になりながらも、日本最大の宗教勢力として江戸時代から現代まで続くことになる。
 これは本当に信長の勝利だったのだろうか?
 石山合戦から江戸時代に至る過程で本願寺が得たものと失ったものを考えることが、石山合戦とは何だったのかを知ることに繋がる。 

 信長は大坂石山本願寺の寺内町を欲したがなかなか果たせず、理想の都市計画は安土城の方で実現されることになる。
 信長の考案した「天主閣」(天「守」閣ではなく)を持つ城を中心とした城下町構造は、力のある個人をトップにした上下関係で構成される社会を端的に表現している。
 これは高層建築を作らず、次々と同じ構造の町を増やしていくことでネットワークを広げていく本願寺の寺内町の在り方と好対照に見える。
 須弥山上空から欲界を見下ろす第六天魔王を名乗った信長が垂直構造の都市計画や階層を作り、西方極楽浄土の阿弥陀仏を信仰する本願寺教団が水平方向に伸びていくネットワークを作ったのは興味深い対比だ。
posted by 九郎 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年10月02日

石山合戦のキーマン 教如上人

 戦国末期、織田信長と一向一揆勢力の決戦であった石山合戦を考える上で最重要人物の一人、教如上人の手紙が新しく公開されたそうだ。

 信長に徹底抗戦、本心は不安 本願寺・教如の手紙発見

 石山合戦の終結前後、父である顕如上人に逆らって大坂本願寺籠城を続けていた教如上人が、ついに退去する直前、母である如春尼にあてて、不安な内心をうかがわせる内容をしたためていたらしい。
 ニュースソースには小さいながら手紙現物の画像も添付されている。

 頑張ったら読めるかな?
 これでも学生時代は「古文書学」なる科目を履修していた。
 確か単位は取れていたはずなのだ(笑)

 書かれた時点と内容を考えると、無茶苦茶重要な史料である。
 すでに顕如上人からは義絶されていたはずだが、さすがにまったく縁が切れていたというわけでもなく、母親とは連絡があったということなのだろう。
 今回は個人蔵ということだが、東西両本願寺には様々な理由で表に出ていない重要史料がまだまだ眠っているのだろうなあ……
 あの「歎異抄」ですら、日の目を見たのは明治以降だという話だし。

 ニュースに関連して、以前撮った写真を紹介しておこう。
 私は数年前から石山合戦と雑賀衆に興味を持ち、いずれその「絵解き」をやってみたいという野望を抱いている。
 調べもののために雑賀衆の本拠地の和歌山市には、もう数え切れないほど足を運んだ。
 そうした調査旅行の中で、和歌浦の雑賀崎という所に、今回ニュースになった教如上人ゆかりの岩窟が存在することを知った。
 大坂本願寺を退去した教如が、雑賀衆の元に身を寄せた際に隠れたとされる岩窟で、一応現存しているらしい。
 史実であれば、近所の鷺ノ森に移転した本願寺には義絶されていたため入れず、やむなく雑賀衆の庇護を受けながら隠棲していたということなのだろう。
 
 私も何度か行ってみようとトライしたのだが、近年は岩窟へと続く道が台風で崩落してしまった模様。
 以前は雑賀崎にある観光灯台から降れたようなのだが、ここ数年はいつ行っても入口が閉鎖されたままだ。
 それならばということで、海側から登ってみようかと試したこともある。

waka-34.jpg


 おそらく上掲写真の丸印のあたりに「上人窟」はあるはずだ。
 遠目には通路らしきものも見えるので、なんとかよじ登れないか堤防を越えてみると、こんなことが書いてあった。

waka-35.jpg


 ……いろんな意味で怖い。

 当方としては入場料を払って見学したいと思っているのだが、どこに話を持っていけば良いのかわからないのだから仕方がない。
 結局、今に至るまで現地を見届けられずにいる。

 教如上人については、以前にも紹介した以下の資料がよくまとまっていると思う。


●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編

 石山合戦当時の本願寺の系譜、時代背景、寺内町の状況などについて、極めてわかり易くまとめてある。

 石山合戦を構成する要素としては、信長と顕如上人の対比が最も強いのは言うまでもないことだが、顕如と教如の親子関係という要素も、それに劣らず重要になってくる。
posted by 九郎 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年10月14日

石山合戦のキーマン 教如上人 2

 前の記事で紹介した「教如上人と東本願寺創立」掲載の「教如関連略年譜」を下敷きに、石山合戦に関連する部分を抜粋してみる。(年齢は数えで表記してあるようだ)


●「教如上人と東本願寺創立-本願寺の東西分派」東本願寺 教学研究所編

1558(永禄元年)
 教如誕生。父・顕如16歳、母・如春尼15歳。
1560(永禄三年)
 織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1564(永禄七年)教如7歳
 弟・顕尊誕生。
1567(永禄十年)教如10歳
 朝倉義景と和議。義景の娘と教如、婚約。
1568(永禄十一年)
 信長上洛、本願寺・堺に矢銭を課す。
1570(元亀元年)教如13歳
 教如、得度。
 石山合戦、始まる。顕如28歳、信長37歳。
 伊勢長島一向一揆、織田信興を攻め、自害に追い込む。
1572(元亀三年)教如15歳
 武田信玄の斡旋により、本願寺と信長、一旦和睦。
1573(天正元年)教如16歳
 武田信玄、急死。朝倉義景、浅井長政、自害。
1574(天正二年)教如17歳
 長島一向一揆、壊滅。
1575(天正三年)教如18歳
 信長、大阪攻め。越前一向一揆、壊滅。
 本願寺と信長、講和の誓紙を交わす。
1576(天正四年)教如19歳
 信長、安土城に入る。
 本願寺、信長軍に包囲される。毛利水軍、兵糧を搬入。
1577(天正五年)教如20歳
 信長、ほぼ全軍を率いて雑賀攻め。
 弟・准如誕生。
1578(天正六年)教如21歳
 上杉謙信、急死。
 毛利水軍、織田水軍に敗れ、本願寺孤立。
1580(天正八年)教如23歳
 顕如、信長と講和。大坂を退去し、紀州鷺森へ。
 これにより、石山合戦終結。
 教如、講和を不服とし、本願寺に籠城(大坂拘様)。
 顕如、教如を義絶。
 教如、4ヶ月後には退去。
 同日、失火により本願寺焼失。
 教如は当初雑賀に匿われるが、以後消息不明。
1582(天正十年)教如26歳
 本能寺の変により、信長急死。
 秀吉、光秀を破る。
 顕如、教如と和解が成立。
1583(天正十一年)教如27歳
 秀吉、大阪城の建設に着手。

 顕如、教如の親子にとって石山合戦の十一年間は、生涯のうちでもっとも困難な年月だったことだろう。
 年齢でいえば顕如27歳〜38歳、教如12歳〜23歳頃になり、父にとっては実力的にピークの時期、子にとっては思春期から青年期への多感な時期にあたる。
 両者の時期の違いは、そのまま石山合戦終結前後の、対信長の姿勢の違いとして表れているようだ。
 顕如にとって信長との関係は徹頭徹尾政治的な駆け引きであっただろうし、巨大組織と門徒の命運を一手にあずかるリーダーとしては、他の在り方は許されなかっただろう。
 一方、物事を損得ではなく感情的な筋目で捉える年齢の教如にとって、信長は数万に及ぶ一向一揆衆を虐殺した魔王に他ならず、何度も講和を一方的に破棄されてきた経緯も考えれば、政治的取引の対象として見ることは困難だったことだろう。

 顕如・教如父子は、かなり写実的と思われる肖像画が現存している。
 顔立ちや体つきはよく似て見える。
 どちらも面長でいかにも意志の強そうな表情をしており、体格的にも恵まれている印象だが、教如の方がより頑丈で大柄に描かれているようだ。
(思わず「ザクとグフの違い」などと表現したくなるが、おバカなガンダム世代の戯言として聞き流してほしい……)
 顕如は父・証如の急死により12歳で本願寺を継ぎ、その生涯を教学の研鑽と、複雑怪奇な政治力学の世界で過ごし、基本的には座学の人であったことだろう。
 肖像に描かれる姿も、そうしたキャラクターがよく反映されてか、怜悧な知性が伺われる顔立ちになっている。
 端正な父・顕如の肖像と比較すると、よく似てはいるが、教如の肖像はもっと「野太い」印象がある。
 一説には、教如は顔が一尺、身の丈六尺あったとされ、また武門においても大変熱心であったと伝えられているらしい。
 こうした言い回しは話半分に聞くべきなのだろうが、思春期・成長期にまともに石山合戦にぶつかった教如が、肉体的な鍛錬や、あるいは「実戦」に鍛えられ、こうした風貌を持つにいたったのではないかと想像される。
 石山合戦中の教如の具体的な行跡は残っていないようだが、断片的な傍証を拾い集めれば、若き次期リーダーとして戦陣に参加していたとしても、ありえないことではなさそうだ。
 織田軍と実際に対峙し、厳しい戦いを潜ってきたと仮定すれば、父に義絶されてまで徹底抗戦の道を選んだことの理由として、辻褄が合ってくる。
 少々勘ぐれば、石山合戦中の行跡が不明なことも、戦闘行為に関与しすぎたことが宗門の次期リーダーとして問題視され、伏せられたのではないかとも思えてくる。
 仮定に仮定を重ねるようだが、そのような「ともに戦ってくれる若きリーダー」という武勇伝があればこそ、本願寺内の対信長徹底抗戦派の支持は集まりやすかっただろう。
 石山合戦の終結、大坂退去については、本願寺内でもかなりの勢力が教如を支持し、門主・顕如に義絶されたにもかかわらず支え続けた。
 この時点で、本願寺内は二派に分かれていたのだろう。
 信長の死後、顕如と教如の間には和解が成立しているが、そうせざるを得ないほどに、教如派の勢力が強かったという面があるだろう。
 後の東西本願寺分立で、もう一方のリーダーとして立てられることになる弟・順如は、石山合戦の終結期にはまだ幼く、教如に代わる後継者としての器量があるかどうか、まだ見極めきれなかったという要素もあるかもしれない。

(以下、失礼ながら他人様の親子関係をあれこれ妄想してみる)

 顕如と教如の年齢の近さにも、注意を払う必要があるだろう。
 教如は顕如が15歳の頃生まれた長男だ。
 晩婚・少子高齢化が当たり前になった現代と違い、人間五十年も生きれば長命の部類に入り、死がすぐ隣に居座っているような戦国時代のことである。
 十代の結婚、出産は特に珍しいことでもなかったのだろうが、石山合戦から東西本願寺分立の顛末を俯瞰するとき、顕如・教如父子の年齢の近さは、ことの成行きに影響を及ぼしたのではないかと、どうしても想像したくなってくる。
 ちなみに顕如の死後、教如と継承を争った末の弟・順如は、兄より19歳年下であり、顕如と教如の年齢差より離れている。
 教如からして見れば、父・顕如はさほど年齢差が無い上に、極めて優秀で、容易に越え難い壁として映ったのではないだろうか。
 自分はこの父にこれからもずっと、頭を押さえつけられていなければならないのかと、才気に恵まれた少年であれば、それだけに反発は生じることだろう。
 父のやらないこと、できないことで、自分にできることは何か?
 それは戦場に出ることしかないのではないか?
 
(以下、果てしなく妄想は続く……)

 石山合戦における教如上人という存在は、調べるほどに関心が深まってくる。
 教如上人の視点から見た石山合戦というのは、年齢も含めてかなり魅力的だ。
 他の主要人物、例えば信長は石山合戦時37歳〜48歳くらいであり、雑賀孫一(鈴木重秀)は信長と同世代か少し年上あたり、顕如は前述のとおり27歳〜38歳だ。
 いずれも年齢的に脂の乗り切ったピークの時期にあたり、すでに人格は完成されていて、その間の「のびしろ」は少ないだろう。
 比較して教如はまさに成長期にあたり、戦闘的な性格と肉体を持っていたという伝承もあるとなれば、物語の素材としては使いでがある。

 実際、教如上人を主役クラスの「戦士」として描いた小説も存在する。
 次回記事で紹介しよう。


●「信長が宿敵 本願寺顕如」鈴木輝一郎
posted by 九郎 at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2013年10月15日

石山合戦のキーマン 教如上人 3

 石山合戦を信長の視点から描いた作品は数多いが、本願寺側の視点のものはなかなかない。
 物語、フィクションではなく、研究書の類ならば一向一揆や寺内町の評価をしたものが見つかるが、エンターテインメントの分野では数少ない。
 現代の戦国モノ人気は、信長人気に負う所が大きい。
 そうした需要の中では、信長に頑強に抵抗した本願寺・一向一揆側は「狂信的なカルト集団」のように描かれてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。
 
 歴史小説の大家の作品では、津本陽「雑賀六字の城」という、信長が行った紀州雑賀総力攻めを扱った作品がある。
非常に面白い作品だが、石山合戦の1エピソードをクローズアップしたような作品なので、ややローカルな印象がある。


●「雑賀六字の城」津本陽(文春文庫)

 この小説はマンガ化もされていて、雑誌連載では既に完結。こちらも良作だ。


●「雑賀六字の城信長を撃った男 1」原作:津本陽 漫画:おおのじゅんじ(SPコミックス)

 同じ著者で顕如上人を主軸に据えた「火焔浄土」という作品もあるが、石山合戦の事実関係を、小説の体裁をとりながら淡々と並べたような感じで、自分でも調べものをするときの参考にはなるのだが、エンターテインメントとしては正直あまり面白い本ではない。


●「火焔浄土―顕如上人伝」津本陽(角川文庫)

 最近のマンガでは「センゴク」シリーズがかなり良かった。
 シリーズを通じては信長を主軸に据えてあるのだが、敵対する勢力についても、きちんとそれぞれの立場が描かれている。
 とくに「センゴク天正記」で描かれる顕如上人や雑賀衆は、主役クラスの信長とは違う価値観を叩きつける存在として、非常に魅力的に描かれている。
 あえて難を言えばこの作品、作者の興味の持ち方にかなり濃淡があって、凄まじくきめ細かに描かれる人物・事象がある一方で、歴史上かなり重要な人物・事象があっさりパスされてしまうことも多々ある。
 ライブ感覚重視の週刊連載マンガなので、ある程度ムラが生じるのは仕方がないのかもしれないが、期待して連載を追っていたファンとしては、思い入れのある人物やエピソードがあっさり流されると、ちぃっと残念な気がする。
 石山合戦に関して言えば、第一次、第二次の木津川合戦などの水軍の描写が抜け落ちていることや、教如上人が本願寺退去のあたりで少ししか登場しないことなどだ。

 石山合戦を本願寺側からの視点で描き、顕如・教如の親子関係にも触れ、雑賀孫一も登場する作品となると、私の知る限り、ほぼ一作にしぼられる。
 以下の一冊である。
(もし他にお勧め作品があれば、ぜひ情報をお寄せください!)


●「本願寺顕如 信長が宿敵」鈴木輝一郎

 顕如の視点から見た、石山合戦の物語である。
 物語の近景として高密度で描かれる主要な登場人物は、以下の通り主人公・顕如の家族に限られる。

 顕如
 教如
 きた(顕如の妻)

 加えて、以下の人物が中景として脇を固める。

 雑賀孫一
 羽柴秀吉
 足利義昭

 そして遠景として織田信長や明智光秀が、物語の折々に顔を出す。
 物語の中でキャラクターが判別できるくらいに描かれているのはこの程度。描く人物を絞りこみ、一冊の分量に程よくまとめ上げられた秀作だと思う。

 ねらいのよくわかる作品でもある。
 作中の信長は、現代でいうところの「新自由主義」のイメージが重ねられており、対する顕如や足利義昭は「既得権者、守旧派」のイメージを持たされている。
 旧来の慣習を平然と無視し、ただ経済と軍事を強化して天下に覇を唱えようとする、不気味な「改革者」織田信長。
 作中では繰り返し、「改革される側」の痛みを背負う顕如の独白として「新しいものは良いものなのか? 古いものは本当に悪いのか?」と問い直される。
 加えて、顕如の内面は巨大な一向一揆勢を率いるカリスマとしての表の顔と、家族関係に手こずる普通の男としての顔のギャップを通して描かれている。
 巨大組織のリーダーとはいえ、人の親になり切れないうちに若くして生まれた長男は、成長するにつれ何を考えているか分からなくなる。
 妻は夫が仕事で背負った大き過ぎる責任を少しも思いやってくれず、ただ家族関係における不足だけをあげつらってやまない。
 弱肉強食が露わなギスギスした世相の中、懸命に職責を果たそうとしながら、家族関係にも悩む人間・顕如。
 今の50代〜60代男性を主要な読者と設定すれば、主人公・顕如に感情移入できる需要が一定量見込める、上手い切り口であると思う。

 作中で息子・教如は、完全な「戦士」として描かれている。
 兄貴分的存在の孫一に手ほどきを受け、鉄砲は超一流スナイパーの技量を誇り、まだあまり顔を知られていないことを利用して石山合戦中は各地を転戦し、血なまぐさい戦場を駆け巡る。
 やがて顕如の手にも負えない「怪物」に成長し、父を放逐することに成功する……
 作中の教如をこのように紹介すると、一見荒唐無稽な脚色と感じるかもしれないが、石山合戦時の教如の事跡はあまり分かっていないこともあり、意外と史実とは矛盾しない。
 歴史的にあり得た可能性の中から最も戦闘的な教如像を選択すれば、この作品のようになるだろう。

 人物設定に独自の大きな脚色が行われているのは、むしろ顕如の妻・きたの方だろう。
 作中ではほとんど「家庭の主婦」のように描かれているが、史実としての顕如の妻・如春尼は、石山合戦の過程において、政治的にもかなり積極的に動いている。
 そもそも如春尼は三条西公頼の三女で、上の姉二人はそれぞれ細川晴元と武田信玄に嫁いでおり、外交的な役割を当然のように期待される立場にあった。
 作中の家族関係にしか興味のなさそうな妻の姿とは、あまり重ならないが、このあたりは作者が主人公・顕如を現代の読み手にも感情移入できるように描くため、敢えて行った脚色だろう。

 孫一についても、「孤独な教如の兄貴分」という役柄を与えられているせいか、かなり若く設定されている。
 世に「雑賀孫一(孫市)」として知られる人物には諸説あることは確かだが、史実として少なくとも石山合戦で信長を手こずらせたことが明確な鈴木孫一重秀は、信長と同世代か少し年上だ。
 作中の「孫一」は、史実としての鈴木孫一の子供の世代あたりに設定されており、「雑賀衆内に孫一と呼ばれる者が複数いた」という(私が調べた限りではあまり納得していない)説が採用されている。
 作品内では顕如・教如親子両方と会話が成立する相談役として上手く描写されているので、フィクションとしては申し分ない。
 若いながら、感情のバランスのとれた名脇役といった風情を漂わせており、読者に愛されそうなキャラクターに仕上がっている。

 本願寺側視線の作品だが、作中の信長は、極めて「等身大」に、長所も短所も冷静に描かれている。
 苛烈な性格のため、自国内をまとめるまでに長い年月を要した信長。
局地戦の指揮はあまり得意ではなく、代わりに物量で圧倒する戦略を取らざるをえなかったこと、そしてその必要から経済政略を重視し、新しい戦の形を創出した描写など、かなり実像に近いのではないかと思わせる。
 しかしながら、こうした「等身大の信長」像は、一般に人気の高い「戦国の世にに突如として現れた天才」としての信長像と比較すると、かなり批判的に描いているという印象が生まれるだろう。
 そのあたりに、この作品があまり世に知られていないことの原因があるかもしれない。
 信長ファンという、歴史モノの最大顧客層を逃している可能性が高いからだ。

 ともかく、石山合戦関連では一読の価値のある小説だ。
 本願寺の信仰生活が、どのように一向一揆の強さにつながっていたのか、かなり詳しく描かれているだけでも稀有な作品である。
 普通なら「狂信的なカルト」として安易に処理されてしまいがちな要素だが、この作品内ではきちんと日常の折本を使った勤行が門徒の識字率の高さにつながり、そのことが門徒宗の結束や経済活動の強さに直結している描写など、見過ごされがちな面もしっかり描写されている。

 物語は石山合戦の開戦から終結、顕如の大坂退去までが描かれている。
 宿敵に対しては敗北、息子に対しては離反という形を突きつけられた顕如だが、そこには惨めな敗北感はなく、むしろ不思議な清々しさすら漂っている。
 とくに息子・教如との関係では、この結末はある意味「親離れ、子離れ」であったのだろう。
 自分の用意した器に、自分の息子が収まりきらないと分かったとき、追い出してやること、または追い出されてやることも、親の仕事の一つなのだ。

 石山合戦のキーマンである教如上人が、これほどまでに活躍する作品は、私の知る限りこの本以外にはない。
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