2013年12月28日

battleとwar

 「織田信長はbattleに弱い」

 ↑こう書くと、戦国ファンの多数派を占める信長ファンに怒られそうだ。
 このブログの管理人は石山合戦で本願寺方にハマっているせいで、信長の悪口を言ってばかりいる、、、
 そんな風に顔をしかめられそうだ。

 では、こう書くとどうだろう?

 「信長はbattleには弱いけれどもwarには強い」

 これで少しは記事を読む意欲を持ってもらえるかもしれない。
 ここでいうbattleは「局地戦」、warは「戦争」というニュアンスになる。
 通常、戦国時代の合戦譚と言えば、イメージされるのは弓鉄砲や槍刀を持って行われる個々の戦闘、局地戦のことだろう。
 battleの部分はやっぱり絵になるし、戦国合戦の華であるから、小説やマンガ、映画でも描写の中心になりやすい。
 しかし、本当の意味で複数の国の間の趨勢が決まるのは、そうした個々の「戦闘、局地戦」ではなく、より規模の大きな「戦争」においてであるし、もっと本質的には統治のあり方や外交の次元においてである。
 
 話を戻すと、史実を見てみれば、織田信長はbattleの次元ではあまり強くない。
 信玄の率いる武田軍や謙信率いる上杉軍、それに雑賀衆などの、戦国最強クラスのbattle熟練集団には、局地戦でほとんど勝てていない。
 個々の戦闘でなかなか勝てなかったからこそ、経済力にものを言わせ、圧倒的な物量と政治・外交の力で相手を封じ込める戦略を取らざるを得なかったのだが、結果的にはそのことが天下一統の要因とすることができた。
 
battleとwar、織田信長と鉄砲については、以下の本に詳細に述べられている。
 

●「鉄砲と日本人―『鉄砲神話』が隠してきたこと」鈴木真哉(ちくま学芸文庫)
戦国時代の真相についての考察を、多く送り出している著者である。
 読みやすい新書版が多数あるが、内容に重複が多いので、一番まとまっている主著の一つを紹介しておきたい。
 鉄砲戦術に強い著者であるが、独特の「言い切り」の多い語り口には毀誉褒貶が激しい。
 しかしながら、「戦国合戦は弓鉄砲などの遠戦兵器が主体であった」とか「織田軍の鉄砲隊は過大評価されている」とか「いわゆる武田の騎馬軍団は存在しなかった」と言った論旨自体には、大筋で合意が形成されつつあるのではないだろうか。
 戦国ファンなら一冊は目を通しておいて損のない著者だと思う。

 上掲の本ではごく簡単にbattleとwarの違いについて触れてあるだけだが、もう少し考えを進めてみると、両者は歴然と分かれるものではなく、間にグラデーションがあると思う。
 個々の合戦であっても、戦場に存在する人数が数百から数千であればbattleの範疇に入るだろうが、数万を超える規模になると、経済力が絡んでくるのでwarの要素が強くなってくるだろう。
 多数の鉄砲が持ち込まれる合戦は、双方にそれなりの経済力が必要になってくるのでwarに近づく。
 大規模な攻城戦ともなれば、双方の政治・外交戦略の要素が強く出てくるので、battleというよりはwarそのものになってくる。
 織田信長の戦歴でいえば、尾張国内をまとめるまでの小規模な戦がbattleにあたるだろう。
 信長は国内を制圧するのにかなり手間取っている。
 国外にまで信長の名をとどろかせた「桶狭間の合戦」はbattleの範囲内であっただろうけれども、信長が少数の手勢で多数の敵方を打ち破った例は、この合戦以外にはほとんどない。
 国内の制圧に手間取り、桶狭間で危ない橋を渡った経験が、信長をbattle的な発想から、経済力を基盤としたwar的な手法へ傾斜させていったのではないだろうか。
 信長と言えば戦の名手、織田軍と言えば戦国最強というイメージが強いと思うが、実際の強みは、経済力にものを言わせ、戦上手な相手を物量で圧倒し、手こずれば何年でも粘って勝つまでやめないという身も蓋もない手法だ。
 だから武田、上杉に対しては信玄、謙信が死ぬまで積極的には戦おうとしなかったし、信長と同等以上に経済力があり、政治・外交にも強い本願寺に対しては、十年以上かけてじわじわ孤立させていった。

 このように考えると、信長の独創性が等身大で理解できてくるのではないだろうか。
posted by 九郎 at 10:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

上人窟 その後

 和歌浦の蓬莱岩のことを書いて、近場の「上人窟」のその後の情報を思い出した。
 忘れないうちにメモしておこう。

 この岩窟のことは、以前一度記事にしている。
 当ブログの主要な探求テーマの一つに、織田信長と本願寺の戦国頂上決戦「石山合戦」がある。
 その石山合戦終結時、大坂本願寺を退去した教如が、雑賀衆の元に身を寄せた際に隠れたとされるのがこの岩窟で、一応現存しているらしい。
 史実であれば、近所の鷺ノ森に移転した本願寺には義絶されていたため入れず、やむなく雑賀衆の庇護を受けながら隠棲していたということなのだろう。
 何度か行ってみようとトライしたのだが、近年は岩窟へと続く道が台風で崩落してしまった模様。
 以前は雑賀崎にある観光灯台から降れたようなのだが、ここ数年はいつ行っても入口が閉鎖されたままだ。
 それならばということで、海側から登ってみようかと試したこともある。

waka-34.jpg


 おそらく上掲写真の丸印のあたりに「上人窟」はあるはずだ。
 遠目には通路らしきものも見えるので、なんとかよじ登れないか堤防を越えてみると、こんなことが書いてあった。

waka-35.jpg


 ……いろんな意味で怖い。

 当方としては入場料を払って見学したいと思っているのだが、どこに話を持っていけば良いのかわからなかった。
 そしてその後、写真の赤丸印の上にチラッと見えている雑賀崎灯台を再訪した折りに、ようやく管理人さんに直接会うことができた。
 確認してみたところ、依然として岩窟への通路は崩落したままで、今は近づくこともできないそうだ。
 場所は丸印で大体あっている模様。

 岩窟には行けないけれども、それがどんな場所であるかは、灯台下の漁港側から眺めれば想像できる。
 およそ人間が快適に暮らせるような場所ではない。
 教如上人はこの岩窟を含め、かなりの期間、流浪の生活を続け、辛酸をなめ続けている。
 
 このような経験を重ね、教如上人は父・顕如上人とはまた違った形で鍛え上げられ、強力なリーダーへと変貌していったのだろう。
 両者の性格の違いは、はるかに時を経た東西両本願寺の在り方の違いにまで影響を及ぼしているのではないかと感じることもある。

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posted by 九郎 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 石山合戦 | 更新情報をチェックする