カテゴリ「児童文学」を新設した。
子供の頃から一応「本好き」で通ってきた。
それほど幅広くはないけれども、一つの作品、一人の作家が気に入ると、その周辺を手当たり次第に読み漁った。
この読書法は今も続いている。
ここ数年、年齢のせいもあると思うが、子供の頃読んだ本を再読する機会が増えている。
詳しい内容などは全く記憶になこっていないのだが、昔読んだ絵本や児童書の表紙を見ると、特に好きだった本や作品名、作家の名前には、好きだったという「感情」だけは確実によみがえってくる。
そうした感情のよみがえってくる本を手に取り、ン十年ぶりに読み返してみると、やっぱり当然のように面白い。感動する。
覚書を作っておきたくなったので、一つのカテゴリにまとめておく。
一番手は新美南吉のことだ。
作家の名前は記憶になくとも、代表作「ごん狐」の作者と書けば、十分だと思う。
人が大人になり、生きていくためにどうしても必要になるケガレ。そうした部分を一概には否定せず、当然あるものとして許容しつつも、今一度ケガレのない視点から見つめなおす、そんな構図の作品が多い。
今回、再読していて気付いたのは、人としての日常に遍在するケガレを、今一度見つめなおす視線の持ち主の造形のことだ。
人を違った視線から見つめなおせるのは、人以外のモノ、または人の中でも立場的に周縁部にある者だ。
新美南吉の作品に登場するそうした視線の持ち主は、時には狐であり、時にはお地蔵さまであり、鉄砲撃ちであり、門付芸人であり、学校のクラスの中でもちょっと外れた立場にある児童として登場する。
おそらく浄土真宗寺院であろうお寺が舞台になっていることも多い。
こうして並べてみると、当ブログで扱ってきたモチーフと、重なっているものがけっこうある。
今読むと、作者の関心を持っていた分野、作品の表面上にははっきりと表れていないが、制作する上で資料を漁ったであろう分野が、非常によく理解できるのだ。
まあ、そうした制作過程に関する興味が先に立って再読し始めたのだが、途中からそんな「不純な」興味はどうでもよくなってきてしまったのだが(笑)
ケガレにまみれた俗人としての私は、最初は創作上の秘密を盗んでやろうと分析的に読んでいた。しかし童話集のページを繰る内に、純粋な子供の視線にたじろいでふと堅気に戻ってしまう盗人(「花のき村と盗人たち」より)のごとく、時には不覚にも涙をにじませながら一冊読み切ってしまったのだった。
新美南吉の作品は、青空文庫でも読むことができる。
青空文庫 新美南吉
紙の本が似合う作家ではあるけれども、ともかく一読したい人は、そこから入ってみるのもいいだろう。
紙の本で読みたい場合は、岩波文庫のものがお勧め。
棟方志功の挿絵もある。
●「新美南吉童話集」新美南吉(岩波文庫)
蛇足ながら最後に一つ書き加えておこう。
制作された時代背景もあるだろうが、いくつかの作品の中で、微妙に軍国主義に配慮したかのように見える箇所がある。
しかしそれは本当に、文字通り「とってつけたような」描写であって、作品の全体的な構図とはほとんど関係ない。
こんなとってつけたような描写さえあれば通ってしまったのなら、逆に当時の検閲に関わる人物は表現と言うものが何にも分かっていなかったのだろうなと、ちょっと笑ってしまった。
しょせん「表現規制」等を持ちだす人種には、表現の何たるかなど、少しも理解できないのだろう。
今も昔も。
2010年09月11日
2015年06月13日
少年よ、「負けかた」を学べ
前回記事で紹介した越木岩神社の磐座問題、引き続き関心をもって情報をチェックしている。
八幡書店の武田崇元さんが、この件に関してtwitterで何度か呟いていた。
一部引用すると以下のような呟きである。
「創建の社長はんインタビュー。なかなか面白い。浮沈激しい業界で幾多の苦難のり越えてきたのに、ここで越木岩神社の磐座破壊を強行すれば、ルナ・ブランドにキズつくと思うで。ここで計画を変えれば、家建てる時は創建に頼もかいう人も増えると思うで」
「仮に磐座を破壊したなら、マンションの売買契約時にそれを重要事項として説明する義務が生じると思う。」
長期的には保存した方が利潤に繋がると説得しつつ、このまま破壊を強行した場合の経営リスクも鋭く指摘している。
硬軟あわせた実際的な戦術指南はさすがである。
地元で親しまれた古社の隣接地(元は神域)に大規模なマンションを建設するのであるから、単純に「建てました、売りました」では済まないのである。
過去には近隣の磐座に手をつけようとしてなんらかの不幸があったというような噂にも事欠かない地域だけに、問題になっている磐座を破壊すれば当然ながら地元でもネットでも話題になる。
マンション購入のような「大きな買い物」をする場合、買い手は当然地元の状況や噂話まで含めてリサーチするだろうから、売れ行きにも影響するのである。
そのような立地であることを告知せずに販売した場合、後になって買い手とトラブルにもなりかねない。
計画を変更して磐座と共存する形でマンション建設を行えば、当のマンションにとっても企業にとっても付加価値になり得るのだ。
今回の一連の磐座騒動を見ていて、以前読んだ児童文学作品を思い出した。
●「ぼくの・稲荷山戦記」たつみや章
作者の高校時代の実体験をベースにしたデビュー作。
あとがきによると、地元の弥生遺跡を開発から守る市民運動に参加するも、一年で敗北。
その時の思いが考古学専攻、社会運動参加、児童文学作品の執筆に繋がったということだ。
この作品は一応ファンタジーの体裁はとっているものの、作中の「稲荷山保存運動」に関する具体的な戦術の部分は、きわめて実践的でリアルだ。
時代の流れ、大資本による開発を前にしたとき、自然はそのままの形で残されることはない。
必ず敗北する。
敗北するのであるけれども、保護運動が開発の方向を修正し、スピードをやや落とし、経済の問題とも切り結んでおとしどころを探ることは十分可能なのだ。
描写のリアルさは児童文学作品としては地味さとも繋がりやすいのだが、「苦い敗北の果ての小さな希望」を獲得する物語を、子供時代に読んでおく価値は大きいのである。
八幡書店の武田崇元さんが、この件に関してtwitterで何度か呟いていた。
一部引用すると以下のような呟きである。
「創建の社長はんインタビュー。なかなか面白い。浮沈激しい業界で幾多の苦難のり越えてきたのに、ここで越木岩神社の磐座破壊を強行すれば、ルナ・ブランドにキズつくと思うで。ここで計画を変えれば、家建てる時は創建に頼もかいう人も増えると思うで」
「仮に磐座を破壊したなら、マンションの売買契約時にそれを重要事項として説明する義務が生じると思う。」
長期的には保存した方が利潤に繋がると説得しつつ、このまま破壊を強行した場合の経営リスクも鋭く指摘している。
硬軟あわせた実際的な戦術指南はさすがである。
地元で親しまれた古社の隣接地(元は神域)に大規模なマンションを建設するのであるから、単純に「建てました、売りました」では済まないのである。
過去には近隣の磐座に手をつけようとしてなんらかの不幸があったというような噂にも事欠かない地域だけに、問題になっている磐座を破壊すれば当然ながら地元でもネットでも話題になる。
マンション購入のような「大きな買い物」をする場合、買い手は当然地元の状況や噂話まで含めてリサーチするだろうから、売れ行きにも影響するのである。
そのような立地であることを告知せずに販売した場合、後になって買い手とトラブルにもなりかねない。
計画を変更して磐座と共存する形でマンション建設を行えば、当のマンションにとっても企業にとっても付加価値になり得るのだ。
今回の一連の磐座騒動を見ていて、以前読んだ児童文学作品を思い出した。
●「ぼくの・稲荷山戦記」たつみや章
作者の高校時代の実体験をベースにしたデビュー作。
あとがきによると、地元の弥生遺跡を開発から守る市民運動に参加するも、一年で敗北。
その時の思いが考古学専攻、社会運動参加、児童文学作品の執筆に繋がったということだ。
この作品は一応ファンタジーの体裁はとっているものの、作中の「稲荷山保存運動」に関する具体的な戦術の部分は、きわめて実践的でリアルだ。
時代の流れ、大資本による開発を前にしたとき、自然はそのままの形で残されることはない。
必ず敗北する。
敗北するのであるけれども、保護運動が開発の方向を修正し、スピードをやや落とし、経済の問題とも切り結んでおとしどころを探ることは十分可能なのだ。
描写のリアルさは児童文学作品としては地味さとも繋がりやすいのだが、「苦い敗北の果ての小さな希望」を獲得する物語を、子供時代に読んでおく価値は大きいのである。
2016年01月22日
恐怖の惑星
昔読んだ本の記憶が突然甦ってくることがある。
たいていは少年期から学生時代くらいまでの期間に読んだ本だ。
成人以降に読んだ本が、突然ポッカリと浮かび上がってくることは少ない。
感受性の鋭い時期に読んだ本は脳にがっちり刻み込まれているせいだろうか。
手元に置いて繰り返し読んだ本はそもそも忘れていないので、記憶の底から浮かび上がってくる類いの本は、図書館で借りるなどで一回から数回読んだだけの本が多いようだ。
一旦記憶が甦ってしまうと、なんとなくむずむずと落ち着かない心境になる。
もう一度読みたいと思う。
昔読んで面白かった本は、今読むとどうなのか?
やはり面白い場合もあるだろうし、意外と大したことがない場合もあるだろう。
それを確かめてみたくなる。
しかし、手元に本はない。
もうン十年前の本で、覚えているのは内容の大枠と「すごく面白かった」という感情だけだ。
詳しいストーリー展開などは抜け落ちてしまっている。
ひどい場合はタイトルすら忘れてしまっていて、なんとなく「ものとしての本」のイメージや手触りだけの場合もある。
一冊の本ならまだ探しようがあるが、立ち読みした漫画雑誌掲載の読みきり短編で、有名ではない漫画家さんだったりすると、もうお手上げだ。
それでも昨今はネットの発達のお陰で、思い出した本に辿り着ける可能性がはね上がった。
年明けになんとなく思い出した一冊がある。
正月に里帰りしたことがトリガーになったのかもしれないが、小学生の頃に読んだSFの古典的な作品である。
たぶん課題図書か何かだったのではないかと思う。
幸い、タイトルとストーリーの大枠が記憶にあった。
舞台は少年少女が密航したロケットで辿り着いた火星。
そこには驚異の生命体「美しい人」と「恐ろしい人」がいて、地球とは異なる文化・文明を築いている。
タイトルは確か「恐怖の惑星」だった……
気になって検索してみたが、あまり情報はない。
一応アマゾンで古書の取り扱いはあるようだが、今一つ求める本と同一作品かどうか確信が持てない。
さらに探してみると、地元の図書館の書庫に収蔵されているらしいことがわかり、さっそく貸し出し手続きをとった。
確認してみたところ、どうやら以下の本で正解のようだ。
作品と著者に関する情報をまとめてみる。
●「恐怖の惑星」作;ジョン・K・クロス、訳;中尾明、絵;小坂しげる(文研出版)
・イギリス作家による1945年発表の「少年少女むき空想科学小説」
・原題「The Angry Planet(怒りの惑星)」
・イギリスで出版後すぐに評判になり、アメリカでも出版。
・長く読まれて準古典となり、世界中で読まれているそうだ。
・著者は芸術学校を卒業後、保険の勧誘員、旅まわりの腹話術師、ラジオプロデューサー(そもそもテレビのない時代だ)、放送作家のかたわら、小説も書いていた。
じっくり再読してみると、「大当たり」だった。
ものすごく面白い。
挿画も記憶通り素晴らしい。
体裁は児童文学だが、十分大人の鑑賞にも堪える。
ロケットや月旅行が実現するより昔の作品とは思えないほど、緻密に考証されている。
これを読んで「面白い」と感じ取れた小学生の自分を、誉めてやりたいと思った。
これより以前に、手塚治虫や藤子・F・不二雄先生のSF作品を読みふけった読書体験が、それを可能にさせてくれたのだろうと思う。
こういう作品が今現役で書店の児童文学の棚に並んでいないことを、非常にもったいなく思う。
同時に、こういう本がちゃんと図書館の書庫には保管されていることを、嬉しく思うのだ。
たいていは少年期から学生時代くらいまでの期間に読んだ本だ。
成人以降に読んだ本が、突然ポッカリと浮かび上がってくることは少ない。
感受性の鋭い時期に読んだ本は脳にがっちり刻み込まれているせいだろうか。
手元に置いて繰り返し読んだ本はそもそも忘れていないので、記憶の底から浮かび上がってくる類いの本は、図書館で借りるなどで一回から数回読んだだけの本が多いようだ。
一旦記憶が甦ってしまうと、なんとなくむずむずと落ち着かない心境になる。
もう一度読みたいと思う。
昔読んで面白かった本は、今読むとどうなのか?
やはり面白い場合もあるだろうし、意外と大したことがない場合もあるだろう。
それを確かめてみたくなる。
しかし、手元に本はない。
もうン十年前の本で、覚えているのは内容の大枠と「すごく面白かった」という感情だけだ。
詳しいストーリー展開などは抜け落ちてしまっている。
ひどい場合はタイトルすら忘れてしまっていて、なんとなく「ものとしての本」のイメージや手触りだけの場合もある。
一冊の本ならまだ探しようがあるが、立ち読みした漫画雑誌掲載の読みきり短編で、有名ではない漫画家さんだったりすると、もうお手上げだ。
それでも昨今はネットの発達のお陰で、思い出した本に辿り着ける可能性がはね上がった。
年明けになんとなく思い出した一冊がある。
正月に里帰りしたことがトリガーになったのかもしれないが、小学生の頃に読んだSFの古典的な作品である。
たぶん課題図書か何かだったのではないかと思う。
幸い、タイトルとストーリーの大枠が記憶にあった。
舞台は少年少女が密航したロケットで辿り着いた火星。
そこには驚異の生命体「美しい人」と「恐ろしい人」がいて、地球とは異なる文化・文明を築いている。
タイトルは確か「恐怖の惑星」だった……
気になって検索してみたが、あまり情報はない。
一応アマゾンで古書の取り扱いはあるようだが、今一つ求める本と同一作品かどうか確信が持てない。
さらに探してみると、地元の図書館の書庫に収蔵されているらしいことがわかり、さっそく貸し出し手続きをとった。
確認してみたところ、どうやら以下の本で正解のようだ。
作品と著者に関する情報をまとめてみる。
●「恐怖の惑星」作;ジョン・K・クロス、訳;中尾明、絵;小坂しげる(文研出版)
・イギリス作家による1945年発表の「少年少女むき空想科学小説」
・原題「The Angry Planet(怒りの惑星)」
・イギリスで出版後すぐに評判になり、アメリカでも出版。
・長く読まれて準古典となり、世界中で読まれているそうだ。
・著者は芸術学校を卒業後、保険の勧誘員、旅まわりの腹話術師、ラジオプロデューサー(そもそもテレビのない時代だ)、放送作家のかたわら、小説も書いていた。
じっくり再読してみると、「大当たり」だった。
ものすごく面白い。
挿画も記憶通り素晴らしい。
体裁は児童文学だが、十分大人の鑑賞にも堪える。
ロケットや月旅行が実現するより昔の作品とは思えないほど、緻密に考証されている。
これを読んで「面白い」と感じ取れた小学生の自分を、誉めてやりたいと思った。
これより以前に、手塚治虫や藤子・F・不二雄先生のSF作品を読みふけった読書体験が、それを可能にさせてくれたのだろうと思う。
こういう作品が今現役で書店の児童文学の棚に並んでいないことを、非常にもったいなく思う。
同時に、こういう本がちゃんと図書館の書庫には保管されていることを、嬉しく思うのだ。
2016年10月25日
ちばてつや「おれは鉄兵」
先日コンビニに立ち寄ったとき、マンガ「おれは鉄兵」の総集編第一集が刊行されているのを見かけた。
作者であるマンガ家・ちばてつや先生の画業60年記念ということで、「あしたのジョー」と並ぶ代表作「おれは鉄兵」がピックアップされたようだ。
私も子供の頃から大好きで、今でも何年かに一度は読み返す大切な作品だ。
70年代に生まれた私ぐらいの世代になると、物心ついた頃からすでにマンガは生活の一部だった。
だから「本を読んで楽しむ」ということにおいて、小説とかマンガとかの違いは意識しなくなっていると思う。
もっと言うと、メディアミックスも幼児の頃から始まっていたので、アニメや映画も含め、ことさらに分けて考えることはない。
表現手法に関わりなく、面白いものは面白く、つまらないものはつまらないという見方が徹底しているのだ。
この作品「おれは鉄兵」も、ジャンルを超え世代を超えて、子供も大人も誰が読んでも文句なく面白く、「子供時代に必読の読み物」という意味においては、児童文学の傑作の一つに数えても良いのではないかと思う。
このカテゴリ児童文学で紹介するのはそのような理由からである。
この作品、これまでにもコンビニ版として刊行されたことがあるはずだが、「主人公の剣道部での活躍」の部分のみをピックアップした編集だったと記憶している。
一般に「おれは鉄兵」は「剣道モノ」として分類されることが多いだろうし、人気が高いのもその部分だろう。
総ページ数の大半が割かれているのが「剣道部編」なので、総集編が刊行されるときにそこが中心になるのも、正解の一つではあるだろう。
しかし、本来この作品には序章と終章にあたる「埋蔵金発掘編」がある。
そこの部分は総集編で省かれがちなのだが、私はむしろその部分にこそ作品全体のテーマが色濃くあらわれているのではないかと思っている。
できれば初めて「おれは鉄兵」を読む人、とくに年少の読者には、序章と終章を合わせた本来の形で読んでほしいと思っていた。
今刊行中のコンビニ版は、ちゃんと最初から収録されているようなので、期待大である。
このまま「本当のラスト」までノーカットで収録されることを強く望む。
私の分類では、本作「おれは鉄兵」は「剣道モノ」ではなく「冒険モノ」になる。
試みに、その分類に従って作品紹介をしてみよう。
-----------------
主人公・上杉鉄兵は野生児である。
物心つく前から父親に連れられて、山奥での生活を続けてきた。
父親は広大な家屋敷を構える旧家の跡取り息子だったが、埋蔵金探しの夢に取りつかれ、全てをなげうって、幼い鉄兵だけを連れて出奔したのだ。
中学生の年代になるまでろくに学校にも通わなかった鉄兵だが、そのかわり驚異的な体力と、「学力」ではないタフな「知力」、どんなピンチでもしぶとく切り抜けるサバイバルの力を身につけ、成長している。
自然の中で育ったとはいえ、主人公・鉄兵はピュアなタイプではなく、年経た野生動物の狡知を備えた手ごわい少年なのだ。
埋蔵金発掘現場の落盤事故をきっかけに父子は実家に帰還し、鉄兵も学校に通うことになる。
良家の子女の通うと思しき私立学園に迷い込んだ、まったく場違いな野生児・鉄兵。
抱腹絶倒の学園サバイバル生活が始まる。
------------------
このように、主要なテーマは「剣道」ではなく、「冒険」にあるというのが私の読み方になる。
ページ数としては最もボリュームのある、鉄兵が剣道部に入部して型破りな活躍を見せる部分は、「文明社会に迷い込んだ野生児の冒険物語」の表現手段として描かれているのではないかと思うのだ。
野生児として育った鉄兵にしてみれば、「普通の学校生活」というもの全てが異文化との接触であり、冒険になる。
そこで巻き起こる事件・事故、一つ一つに鉄兵の感じる疑問・違和感は、根本的には全ての子供が社会に対して感じる疑問と一致している。
生まれたとき、子供はみんな野生児なのだ。
だからこそ年若い読者は鉄兵に共感できるし、巻き起こした騒動を驚異的なサバイバル能力で切り抜ける姿は、たとえようもなく痛快に感じるのだ。
もう少し、作品紹介を続けてみよう。
----------------
やがて物語の舞台は鉄兵が最初に通った王臨学園から、東台寺学園に移る。
いくら剣道で活躍しようと、鉄兵は学業においては紛れもない「オチコボレ」であり、「いいとこの子が通う学校」に居場所はなかった。
徹底的に不似合いなおぼっちゃん学園から、より懐の深いバンカラ学園に転校し、剣道部での活躍は続く。
その過程で、王臨学園ではついに得られなかったオチコボレ仲間にも出会う。
しかし、結局そこでも鉄兵は安住できない。
仲間たちとともに学校から脱出し、再び埋蔵金探しの生活に戻った鉄兵は、やがて最も困難なサバイバルに直面することになる。
そして最後には、広い世界をまたにかけた冒険の旅へと出発するのだ。
----------------
このように文章でまとめてみると、あらためてこの作品は「不適応の物語」なのだなと感慨を新たにする。
野生児・鉄兵の抱腹絶倒の活躍は、ごく普通の子供にも楽しく読めるだろうけれども、なんとなく学校に居づらさを感じる子供には、より深く響くことだろう。
うまく適応できるなら、それに越したことはない。
しかし、たとえはみ出してしまっても、恐れることはない。
一歩飛び出してみれば、学校なんてしょせんコップの中だ。
本当の世界はもっと広くて、冒険に満ちているのだ。
そんなしぶとい生命力を、「おれは鉄兵」は与えてくれるのだ。
作者であるマンガ家・ちばてつや先生の画業60年記念ということで、「あしたのジョー」と並ぶ代表作「おれは鉄兵」がピックアップされたようだ。
私も子供の頃から大好きで、今でも何年かに一度は読み返す大切な作品だ。
70年代に生まれた私ぐらいの世代になると、物心ついた頃からすでにマンガは生活の一部だった。
だから「本を読んで楽しむ」ということにおいて、小説とかマンガとかの違いは意識しなくなっていると思う。
もっと言うと、メディアミックスも幼児の頃から始まっていたので、アニメや映画も含め、ことさらに分けて考えることはない。
表現手法に関わりなく、面白いものは面白く、つまらないものはつまらないという見方が徹底しているのだ。
この作品「おれは鉄兵」も、ジャンルを超え世代を超えて、子供も大人も誰が読んでも文句なく面白く、「子供時代に必読の読み物」という意味においては、児童文学の傑作の一つに数えても良いのではないかと思う。
このカテゴリ児童文学で紹介するのはそのような理由からである。
この作品、これまでにもコンビニ版として刊行されたことがあるはずだが、「主人公の剣道部での活躍」の部分のみをピックアップした編集だったと記憶している。
一般に「おれは鉄兵」は「剣道モノ」として分類されることが多いだろうし、人気が高いのもその部分だろう。
総ページ数の大半が割かれているのが「剣道部編」なので、総集編が刊行されるときにそこが中心になるのも、正解の一つではあるだろう。
しかし、本来この作品には序章と終章にあたる「埋蔵金発掘編」がある。
そこの部分は総集編で省かれがちなのだが、私はむしろその部分にこそ作品全体のテーマが色濃くあらわれているのではないかと思っている。
できれば初めて「おれは鉄兵」を読む人、とくに年少の読者には、序章と終章を合わせた本来の形で読んでほしいと思っていた。
今刊行中のコンビニ版は、ちゃんと最初から収録されているようなので、期待大である。
このまま「本当のラスト」までノーカットで収録されることを強く望む。
私の分類では、本作「おれは鉄兵」は「剣道モノ」ではなく「冒険モノ」になる。
試みに、その分類に従って作品紹介をしてみよう。
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主人公・上杉鉄兵は野生児である。
物心つく前から父親に連れられて、山奥での生活を続けてきた。
父親は広大な家屋敷を構える旧家の跡取り息子だったが、埋蔵金探しの夢に取りつかれ、全てをなげうって、幼い鉄兵だけを連れて出奔したのだ。
中学生の年代になるまでろくに学校にも通わなかった鉄兵だが、そのかわり驚異的な体力と、「学力」ではないタフな「知力」、どんなピンチでもしぶとく切り抜けるサバイバルの力を身につけ、成長している。
自然の中で育ったとはいえ、主人公・鉄兵はピュアなタイプではなく、年経た野生動物の狡知を備えた手ごわい少年なのだ。
埋蔵金発掘現場の落盤事故をきっかけに父子は実家に帰還し、鉄兵も学校に通うことになる。
良家の子女の通うと思しき私立学園に迷い込んだ、まったく場違いな野生児・鉄兵。
抱腹絶倒の学園サバイバル生活が始まる。
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このように、主要なテーマは「剣道」ではなく、「冒険」にあるというのが私の読み方になる。
ページ数としては最もボリュームのある、鉄兵が剣道部に入部して型破りな活躍を見せる部分は、「文明社会に迷い込んだ野生児の冒険物語」の表現手段として描かれているのではないかと思うのだ。
野生児として育った鉄兵にしてみれば、「普通の学校生活」というもの全てが異文化との接触であり、冒険になる。
そこで巻き起こる事件・事故、一つ一つに鉄兵の感じる疑問・違和感は、根本的には全ての子供が社会に対して感じる疑問と一致している。
生まれたとき、子供はみんな野生児なのだ。
だからこそ年若い読者は鉄兵に共感できるし、巻き起こした騒動を驚異的なサバイバル能力で切り抜ける姿は、たとえようもなく痛快に感じるのだ。
もう少し、作品紹介を続けてみよう。
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やがて物語の舞台は鉄兵が最初に通った王臨学園から、東台寺学園に移る。
いくら剣道で活躍しようと、鉄兵は学業においては紛れもない「オチコボレ」であり、「いいとこの子が通う学校」に居場所はなかった。
徹底的に不似合いなおぼっちゃん学園から、より懐の深いバンカラ学園に転校し、剣道部での活躍は続く。
その過程で、王臨学園ではついに得られなかったオチコボレ仲間にも出会う。
しかし、結局そこでも鉄兵は安住できない。
仲間たちとともに学校から脱出し、再び埋蔵金探しの生活に戻った鉄兵は、やがて最も困難なサバイバルに直面することになる。
そして最後には、広い世界をまたにかけた冒険の旅へと出発するのだ。
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このように文章でまとめてみると、あらためてこの作品は「不適応の物語」なのだなと感慨を新たにする。
野生児・鉄兵の抱腹絶倒の活躍は、ごく普通の子供にも楽しく読めるだろうけれども、なんとなく学校に居づらさを感じる子供には、より深く響くことだろう。
うまく適応できるなら、それに越したことはない。
しかし、たとえはみ出してしまっても、恐れることはない。
一歩飛び出してみれば、学校なんてしょせんコップの中だ。
本当の世界はもっと広くて、冒険に満ちているのだ。
そんなしぶとい生命力を、「おれは鉄兵」は与えてくれるのだ。
2016年10月28日
「ジョー」と「鉄兵」
マンガ家が絶好調の時期、絵がかなり変化することがある。
連載初期と後期でまるで絵が違ってしまい、単行本でまとめ読みするとちょっと面食らうことがあるが、そのような作品こそ、凄まじく面白い代表作になることが多々あるのだ。
ちばてつやの場合でいうと、やはり「あしたのジョー」(1968-73)と「おれは鉄兵」(1973-80)が挙げられる。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、永井豪「デビルマン」最終巻など、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
ちば作品の中では珍しく、「あしたのジョー」には梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
一世一代の傑作と言うべき「あしたのジョー」完結後、ほとんど間をおかず「おれは鉄兵」の連載が始まる。
連載開始当初の「鉄兵」の、作品全体に漂うどこか寂しげな雰囲気は、ジョーと共に一度燃え尽きた作者の心象が反映されているのではないだろうか。
鉄兵や父親、中城、母親、妹などの主要な登場人物には、前作「ジョー」の登場人物の面影がちらちらと垣間見える気がしてならない。
マンガに限らず、作者が全力投球した作品の次作が、前作の雰囲気を引き継いで始まることはよくある。
直接の続編でなくても物語の基底部分ではつながっていて、前作のキャラクターのまだ鎮まりきらない魂が、こっそり作者に囁きかけるのだ。
登場人物の中でも、中城はなんとも不思議な存在だ。
序章と終章の「埋蔵金発掘」、中間の「剣道部での活躍」をひっくるめ、物語全編を通じて登場しているのは、鉄兵父子を除けば中城のみである。
初登場の中城はおそらく中三くらいの年齢で、鉄兵より一つ二つ年上だろう。
生い立ちなどは詳しく描かれていないが、孤児かそれに近い境遇であるらしく、「樅の木学園」という施設で生活している。
学校ではかなり荒れているようだが、孤独癖があり、不良グループ等には属していない。
一人で山に入って猟をしたり、骨董に興味を持つなど、物静かで大人びた一面も持っている。
施設で習った剣道はかなりの腕前で、名が知られているようだ。
心の飢えを満たすために打ち込める、数少ない表現手段になっていたのかもしれない。
当初は主人公・鉄兵のライバル役に設定されていたようだが、直接対決した回数は意外に少ない。
山小屋でのケンカと樅の木学園での練習試合、あとは東台寺学園剣道部での練習試合くらいではないかと思う。
施設で鉄兵に剣道を手ほどきしたあとは、父子が実家に帰還したこともあって、しばらく登場すらしなかった。
剣道部エピソードに突入してからの鉄兵は、剣道ルールの中では中城以上の強敵とまみえる機会が増え、やや対戦時期を逸してしまった感があった。
作中で最もページが割かれている「剣道」というテーマに鉄兵を誘い入れたのは中城だったが、最後は中城自身も剣道を中断し、鉄兵父子が率いる埋蔵金発掘チームに合流する。
ストーリーの進行とともに、絵柄は変わってくる。
週刊連載マンガの場合、絵柄が変わるのは作者が執筆にノッている証拠で、「ジョー」の時ほどではないが「鉄兵」での変化の度合いもかなりのものだ。
その変化はとくに主人公・鉄兵に強くあらわれていて、中盤の東台寺学園へ転校したあたりには、連載開始当初と別人のような顔立ちになる。
頭身は下がってややギャグマンガ調になり、太くつながった眉毛がトレードマークになっていく。
初期は「ジョー」の切れ味鋭くリアルな絵柄そのままだったのが、だんだん「まろやかな」と言おうか、親しみやすい絵柄になってきたのだ。
連載開始当初の鉄兵と中城は、孤児たちの物語である「ジョー」の構図をそのまま背負って登場したのではないだろうか。
前作「ジョー」では、孤児たちは拳で殴り合うことで対話し、お互いの存在を確かめ合っているようなところがあった。
そうした対話の燃焼温度を高めていくと、最後には「真っ白に燃え尽きる」ほか道はなかったのだろう。
少年から青年にかけては、そうした純度の高い結晶のような世界に心惹かれるものだ。
作者にとっても、このような作品が描けるのはせいぜい三十歳すぎくらいまでの青年期に限られる。
しかし物語から離れた現実世界では、人は年を取り、娑婆で不純物にまみれながらも生きていかなければならない。
もしかしたらちばてつやは「ジョー」執筆後の余韻の中で、孤児たちがぶつかり合いの果てに死に至らず、しぶとく生きていけるような作品世界を求めたのかもしれない。
作家的良心として「純度の高い死の物語」を世に送り出したままで済ませない、バランス感覚が働いたのではないだろうか。
連載開始当初の「鉄兵」で、どこか寂しげな眼差しをしていたキャラクターたちは、物語の進行とともにどんどん快活さを取り戻していった。
なんだかんだ言いながらも鉄兵や中城は、親やそれに代わる保護者、先輩、友人たちに恵まれたのだ。
物語終盤になって、鉄兵の父親と中城が静かに語り合うシーンがある。
さりげないけれども、とても印象深いシーンである。
このあたりで中城が最後まで背負っていた「孤児たちの物語」に、ひとまず決着がついたのではないかと思う。
読み進めながら「ああ、もうすぐこの作品は終わるんだな」という、静かな幕引きを感じたことを覚えている。
変遷の果てに「おれは鉄兵」で確立した柔和な絵柄は、包容力のある作風と共に、その後のちばてつや作品の基調になっていると感じる。
連載初期と後期でまるで絵が違ってしまい、単行本でまとめ読みするとちょっと面食らうことがあるが、そのような作品こそ、凄まじく面白い代表作になることが多々あるのだ。
ちばてつやの場合でいうと、やはり「あしたのジョー」(1968-73)と「おれは鉄兵」(1973-80)が挙げられる。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、永井豪「デビルマン」最終巻など、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
ちば作品の中では珍しく、「あしたのジョー」には梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
一世一代の傑作と言うべき「あしたのジョー」完結後、ほとんど間をおかず「おれは鉄兵」の連載が始まる。
連載開始当初の「鉄兵」の、作品全体に漂うどこか寂しげな雰囲気は、ジョーと共に一度燃え尽きた作者の心象が反映されているのではないだろうか。
鉄兵や父親、中城、母親、妹などの主要な登場人物には、前作「ジョー」の登場人物の面影がちらちらと垣間見える気がしてならない。
マンガに限らず、作者が全力投球した作品の次作が、前作の雰囲気を引き継いで始まることはよくある。
直接の続編でなくても物語の基底部分ではつながっていて、前作のキャラクターのまだ鎮まりきらない魂が、こっそり作者に囁きかけるのだ。
登場人物の中でも、中城はなんとも不思議な存在だ。
序章と終章の「埋蔵金発掘」、中間の「剣道部での活躍」をひっくるめ、物語全編を通じて登場しているのは、鉄兵父子を除けば中城のみである。
初登場の中城はおそらく中三くらいの年齢で、鉄兵より一つ二つ年上だろう。
生い立ちなどは詳しく描かれていないが、孤児かそれに近い境遇であるらしく、「樅の木学園」という施設で生活している。
学校ではかなり荒れているようだが、孤独癖があり、不良グループ等には属していない。
一人で山に入って猟をしたり、骨董に興味を持つなど、物静かで大人びた一面も持っている。
施設で習った剣道はかなりの腕前で、名が知られているようだ。
心の飢えを満たすために打ち込める、数少ない表現手段になっていたのかもしれない。
当初は主人公・鉄兵のライバル役に設定されていたようだが、直接対決した回数は意外に少ない。
山小屋でのケンカと樅の木学園での練習試合、あとは東台寺学園剣道部での練習試合くらいではないかと思う。
施設で鉄兵に剣道を手ほどきしたあとは、父子が実家に帰還したこともあって、しばらく登場すらしなかった。
剣道部エピソードに突入してからの鉄兵は、剣道ルールの中では中城以上の強敵とまみえる機会が増え、やや対戦時期を逸してしまった感があった。
作中で最もページが割かれている「剣道」というテーマに鉄兵を誘い入れたのは中城だったが、最後は中城自身も剣道を中断し、鉄兵父子が率いる埋蔵金発掘チームに合流する。
ストーリーの進行とともに、絵柄は変わってくる。
週刊連載マンガの場合、絵柄が変わるのは作者が執筆にノッている証拠で、「ジョー」の時ほどではないが「鉄兵」での変化の度合いもかなりのものだ。
その変化はとくに主人公・鉄兵に強くあらわれていて、中盤の東台寺学園へ転校したあたりには、連載開始当初と別人のような顔立ちになる。
頭身は下がってややギャグマンガ調になり、太くつながった眉毛がトレードマークになっていく。
初期は「ジョー」の切れ味鋭くリアルな絵柄そのままだったのが、だんだん「まろやかな」と言おうか、親しみやすい絵柄になってきたのだ。
連載開始当初の鉄兵と中城は、孤児たちの物語である「ジョー」の構図をそのまま背負って登場したのではないだろうか。
前作「ジョー」では、孤児たちは拳で殴り合うことで対話し、お互いの存在を確かめ合っているようなところがあった。
そうした対話の燃焼温度を高めていくと、最後には「真っ白に燃え尽きる」ほか道はなかったのだろう。
少年から青年にかけては、そうした純度の高い結晶のような世界に心惹かれるものだ。
作者にとっても、このような作品が描けるのはせいぜい三十歳すぎくらいまでの青年期に限られる。
しかし物語から離れた現実世界では、人は年を取り、娑婆で不純物にまみれながらも生きていかなければならない。
もしかしたらちばてつやは「ジョー」執筆後の余韻の中で、孤児たちがぶつかり合いの果てに死に至らず、しぶとく生きていけるような作品世界を求めたのかもしれない。
作家的良心として「純度の高い死の物語」を世に送り出したままで済ませない、バランス感覚が働いたのではないだろうか。
連載開始当初の「鉄兵」で、どこか寂しげな眼差しをしていたキャラクターたちは、物語の進行とともにどんどん快活さを取り戻していった。
なんだかんだ言いながらも鉄兵や中城は、親やそれに代わる保護者、先輩、友人たちに恵まれたのだ。
物語終盤になって、鉄兵の父親と中城が静かに語り合うシーンがある。
さりげないけれども、とても印象深いシーンである。
このあたりで中城が最後まで背負っていた「孤児たちの物語」に、ひとまず決着がついたのではないかと思う。
読み進めながら「ああ、もうすぐこの作品は終わるんだな」という、静かな幕引きを感じたことを覚えている。
変遷の果てに「おれは鉄兵」で確立した柔和な絵柄は、包容力のある作風と共に、その後のちばてつや作品の基調になっていると感じる。