カテゴリ「児童文学」、今回の記事は作品ではなく「街の本屋さん」の話題。
たまにのぞきに行っていた児童書専門店が、閉店してしまったことを知った。
高齢の「おばあちゃん」が経営しておられたので、いつかこの日が来ることは覚悟していたのだけれども。
(一応書いておくと、お亡くなりになったわけではなく「健康上の理由」とのこと)
地元では有名、たぶん全国的にもファンが多いはずの、老舗中の老舗だった。
報道もされているようなので名前を出すと、神戸・岡本の「ひつじ書房」である。
こじんまりした古風な店舗に、こだわりの児童書や関連書がぎっしり詰め込まれた、静かな雰囲気の本屋さんだった。
定番の絵本が欲しくなった時、「とりあえずあそこに行ってみよう」と思えるお店だった。
並べてある本の選択には、私の好みや考え方とはちょっと違う面も感じられたのだが、だからこそ逆に「あそこに置いてある本なら大丈夫!」という信頼感が持てた。
また一つ、お気に入りの店が消えた。
長い間、ありがとうございました。
2017年12月06日
2018年05月07日
絵本の哲人 加古里子
本日、絵本作家・加古里子さんの訃報があった。
子供のころから大好きで、大人になってからも「再会」し、感動を新たにした人の死は、やはり悲しい。
加古里子さんについては、今年1月に記事を書いた。
加筆の上、再掲しておきたい。
(以下、2018年1月8日投稿記事に加筆し、再投稿)
先日、TVのニュースで絵本作家・加古里子(かこさとし)先生の新刊紹介があった。
あの「だるまちゃんシリーズ」の最新作が、なんと三冊同時刊行されるという!
●「だるまちゃんとかまどんちゃん」
●「だるまちゃんとはやたちゃん」
●「だるまちゃんとキジムナちゃん」
(いずれも福音館書店)
私は70年代生まれ。
かのシリーズについては、当時刊行されていた初期数冊分は大好きで、小さい頃繰り返し読んでいた。
一般的にはやはり「だるまちゃんとてんぐちゃん」が一番人気だと思う。
●「だるまちゃんとてんぐちゃん」
もちろん私も大好きだったのだが、個人的には「だるまちゃんとかみなりちゃん」がフェイバリットだ。
●「だるまちゃんとかみなりちゃん」
だるまちゃんが連れていかれたかみなりの国の描写が素晴らしい。
パノラマ図で次々と紹介される、「かみなり文明」ともいうべき異世界に圧倒される。
まずテンポの良い詞書にのせられて次々とページを繰っていく楽しみがあり、一通り読み終わると見開きの細部を隅々まで楽しむことで二度美味しいのだ。
大人になって読み返すと、「演出」の妙に唸りつつまた楽しめる、一生ものの一冊である。
幼少の頃、絵本は母親が存分に買い与えてくれて、なかでも加古里子の本は母子ともにお気に入りだった。
母も父も、寝る前にけっこう読み聞かせをしてくれたので、私と二歳下の弟は共に本好きになった。
加古里子の絵本から入って読書の楽しみに目覚めた子供は、たぶん膨大な数になるはずだ。
科学絵本も数多く制作されていたので、小学生になってからも加古里子作品はずっと追っていた。
さすがに中高生以上になると読まなくなっていたが、十年ほど前にまた絵本に興味が出た。
ちょうどその頃、拙いながら絵本の文章パートを書く機会があり、その勉強もかねて書店や図書館を渡り歩くようになった。
絵本コーナーに行ってみると、懐かしい「だるまちゃんシリーズ」や「からすのパンやさん」「どろぼうがっこう」等の作品に、三十年の時を経て、いっぱい続編が制作されていることを知り、驚愕した。
「え! かこ先生って今おいくつ?」
調べてみると、その頃すでに八十歳を超えておられたのだった。
子供の頃はただただ絵本に入り込むばかりだったが、大人になって読み返す加古里子作品には、「繰り出される妙技に酔う」という新たな楽しみがあった。
声に出して読み、ページをめくる。
見開きの絵と詞書の配列が最適かつ簡潔で、次の見開きが目に飛び込んでくる「間」に唸る。
絵本としては文字数多めの作品が多いのだが、構成の上手さで無理なく読めてしまう。
そうした創作技術は、以下の本でかなり詳しく紹介されている。
●「絵本への道」加古里子(福音館書店)
前半は自伝的な構成になっている。
それによると先生は若い頃演劇や紙芝居を経験し、働きながら徐々に絵本の世界に入っていったとのこと。
不特定多数の読者に対する作品を手がける以前に、観客(とくに子供)直接対面する形の表現をやっておられたことが、あの構成の妙を生んだのだなと、あらためて納得できる。
人形劇、紙芝居、絵本、マンガ、それぞれの表現形式違いが事細かに解説してあり、かなり理詰めで制作しておられるのがよく分かる。
絵本に限らずビジュアル表現、とくに紙媒体で作品内に「時間の流れ」がある表現形式を志す人にとっては、必携の一冊ではないだろうか。
* * *
そして今年、九十歳を超えた絵本の哲人・加古里子、新作三冊同時刊行である。
筆致を拝見する限り、ちょっと視力が落ち、視野が狭くなっておられるのかなという気はした。
しかしそれは必ずしもマイナスには働いておらず、ふわりと柔らかな絵の雰囲気に、新たな魅力を感じた。
それぞれの年齢で描ける絵がある、視えない中でも描ける絵があるということは、本当に素晴らしいことだ。
こと「表現」という分野において、「欠損」は必ずしもマイナスではない。
足らざることが個性になり、制約は広がりとなりえる。
死の直前まで現役であり続けた絵本作家に、背筋を正される思いがする。
子供のころから大好きで、大人になってからも「再会」し、感動を新たにした人の死は、やはり悲しい。
加古里子さんについては、今年1月に記事を書いた。
加筆の上、再掲しておきたい。
(以下、2018年1月8日投稿記事に加筆し、再投稿)
先日、TVのニュースで絵本作家・加古里子(かこさとし)先生の新刊紹介があった。
あの「だるまちゃんシリーズ」の最新作が、なんと三冊同時刊行されるという!
●「だるまちゃんとかまどんちゃん」
●「だるまちゃんとはやたちゃん」
●「だるまちゃんとキジムナちゃん」
(いずれも福音館書店)
私は70年代生まれ。
かのシリーズについては、当時刊行されていた初期数冊分は大好きで、小さい頃繰り返し読んでいた。
一般的にはやはり「だるまちゃんとてんぐちゃん」が一番人気だと思う。
●「だるまちゃんとてんぐちゃん」
もちろん私も大好きだったのだが、個人的には「だるまちゃんとかみなりちゃん」がフェイバリットだ。
●「だるまちゃんとかみなりちゃん」
だるまちゃんが連れていかれたかみなりの国の描写が素晴らしい。
パノラマ図で次々と紹介される、「かみなり文明」ともいうべき異世界に圧倒される。
まずテンポの良い詞書にのせられて次々とページを繰っていく楽しみがあり、一通り読み終わると見開きの細部を隅々まで楽しむことで二度美味しいのだ。
大人になって読み返すと、「演出」の妙に唸りつつまた楽しめる、一生ものの一冊である。
幼少の頃、絵本は母親が存分に買い与えてくれて、なかでも加古里子の本は母子ともにお気に入りだった。
母も父も、寝る前にけっこう読み聞かせをしてくれたので、私と二歳下の弟は共に本好きになった。
加古里子の絵本から入って読書の楽しみに目覚めた子供は、たぶん膨大な数になるはずだ。
科学絵本も数多く制作されていたので、小学生になってからも加古里子作品はずっと追っていた。
さすがに中高生以上になると読まなくなっていたが、十年ほど前にまた絵本に興味が出た。
ちょうどその頃、拙いながら絵本の文章パートを書く機会があり、その勉強もかねて書店や図書館を渡り歩くようになった。
絵本コーナーに行ってみると、懐かしい「だるまちゃんシリーズ」や「からすのパンやさん」「どろぼうがっこう」等の作品に、三十年の時を経て、いっぱい続編が制作されていることを知り、驚愕した。
「え! かこ先生って今おいくつ?」
調べてみると、その頃すでに八十歳を超えておられたのだった。
子供の頃はただただ絵本に入り込むばかりだったが、大人になって読み返す加古里子作品には、「繰り出される妙技に酔う」という新たな楽しみがあった。
声に出して読み、ページをめくる。
見開きの絵と詞書の配列が最適かつ簡潔で、次の見開きが目に飛び込んでくる「間」に唸る。
絵本としては文字数多めの作品が多いのだが、構成の上手さで無理なく読めてしまう。
そうした創作技術は、以下の本でかなり詳しく紹介されている。
●「絵本への道」加古里子(福音館書店)
前半は自伝的な構成になっている。
それによると先生は若い頃演劇や紙芝居を経験し、働きながら徐々に絵本の世界に入っていったとのこと。
不特定多数の読者に対する作品を手がける以前に、観客(とくに子供)直接対面する形の表現をやっておられたことが、あの構成の妙を生んだのだなと、あらためて納得できる。
人形劇、紙芝居、絵本、マンガ、それぞれの表現形式違いが事細かに解説してあり、かなり理詰めで制作しておられるのがよく分かる。
絵本に限らずビジュアル表現、とくに紙媒体で作品内に「時間の流れ」がある表現形式を志す人にとっては、必携の一冊ではないだろうか。
* * *
そして今年、九十歳を超えた絵本の哲人・加古里子、新作三冊同時刊行である。
筆致を拝見する限り、ちょっと視力が落ち、視野が狭くなっておられるのかなという気はした。
しかしそれは必ずしもマイナスには働いておらず、ふわりと柔らかな絵の雰囲気に、新たな魅力を感じた。
それぞれの年齢で描ける絵がある、視えない中でも描ける絵があるということは、本当に素晴らしいことだ。
こと「表現」という分野において、「欠損」は必ずしもマイナスではない。
足らざることが個性になり、制約は広がりとなりえる。
死の直前まで現役であり続けた絵本作家に、背筋を正される思いがする。
2018年08月19日
星の王子さま
子供の頃から「本好き」を自認してきて、実際分量としてはかなり読んでいる方だと思う。
しかし「一人の作者や一つのテーマにハマる」傾向はずっとあって、読書は「狭く、深く」偏りがちだ。
分量・冊数読んでいる割には、意外に有名どころがぽっかり抜け落ちていたりもする。
恥ずかしながら、今回取り上げる「星の王子さま」も、そんな中の一冊だ。
ずっと興味はあり、何度か手に取って最初の数ページ(あのウワバミのくだり)だけは面白く読んでいたのだが、なぜかその後が続かなかった。
心のタイミングがうまく合わず、「縁」がなかったということだろう。
それでもいつか読もうと思いながら、未読のままに、すっかりおっさんになってしまっていた。
この度、改めて読む気になったのは、しばらく前の、某プラントハンター氏の「暴挙」がきっかけだった。
あまり愉快でない話題について詳述する意欲は湧かないので、心覚えにキーワードのみ記しておく。
「プラントハンター 西畠清順 星の王子さま 改変 バオバブ」
改変騒動に関する記事を眺めながら、何となく「今なら読めそうだ」と感じて図書館に直行。
最もオーソドックスな岩波ハードカバー版を借りてきて、一気読みした。
結論から言うと、生きてる間に読めて本当に良かった!
そういう意味では某氏に反面の感謝である。
様々なバージョンが出版されているが、原著者の挿絵はやはり必要不可欠だと感じる。
今、岩波の内藤濯(ないとう あろう)訳を求めるなら、以下の中から選ぶことになりそうだ。
●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)
カテゴリとしてはもちろん「児童文学」になるけれども、全てのすぐれた作品がそうであるように、「大人にこそ読まれるべき」「今、この私のために書かれた」と感じられる作品だった。
私なりの分類で言えば、これは「心の中の友だち」の物語だった。
心の中の友だち、心の中の恋人
そして、基本的には「友だち」の構図を持ちながら、大人が読む場合はさらに重層的な受け止め方になってくるはずだ。
少年時代の自分
少年時代の友だち
今交流のある少年たち、あるいは自分の子どもたち
様々な位相の「子ども」との対話が、読み進めながら、心の中で繰り広げられるはずだ。
人生の中で、繰り返し、何度も、味わうための一冊。
私の「縁」は遅くなってしまったけれども、別に早い遅いは関係ない。
今借りている本は図書館に返却するとして、やはり手元に一冊、作者挿絵の入った本が欲しいのである。
しかし「一人の作者や一つのテーマにハマる」傾向はずっとあって、読書は「狭く、深く」偏りがちだ。
分量・冊数読んでいる割には、意外に有名どころがぽっかり抜け落ちていたりもする。
恥ずかしながら、今回取り上げる「星の王子さま」も、そんな中の一冊だ。
ずっと興味はあり、何度か手に取って最初の数ページ(あのウワバミのくだり)だけは面白く読んでいたのだが、なぜかその後が続かなかった。
心のタイミングがうまく合わず、「縁」がなかったということだろう。
それでもいつか読もうと思いながら、未読のままに、すっかりおっさんになってしまっていた。
この度、改めて読む気になったのは、しばらく前の、某プラントハンター氏の「暴挙」がきっかけだった。
あまり愉快でない話題について詳述する意欲は湧かないので、心覚えにキーワードのみ記しておく。
「プラントハンター 西畠清順 星の王子さま 改変 バオバブ」
改変騒動に関する記事を眺めながら、何となく「今なら読めそうだ」と感じて図書館に直行。
最もオーソドックスな岩波ハードカバー版を借りてきて、一気読みした。
結論から言うと、生きてる間に読めて本当に良かった!
そういう意味では某氏に反面の感謝である。
様々なバージョンが出版されているが、原著者の挿絵はやはり必要不可欠だと感じる。
今、岩波の内藤濯(ないとう あろう)訳を求めるなら、以下の中から選ぶことになりそうだ。
●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)
カテゴリとしてはもちろん「児童文学」になるけれども、全てのすぐれた作品がそうであるように、「大人にこそ読まれるべき」「今、この私のために書かれた」と感じられる作品だった。
私なりの分類で言えば、これは「心の中の友だち」の物語だった。
心の中の友だち、心の中の恋人
そして、基本的には「友だち」の構図を持ちながら、大人が読む場合はさらに重層的な受け止め方になってくるはずだ。
少年時代の自分
少年時代の友だち
今交流のある少年たち、あるいは自分の子どもたち
様々な位相の「子ども」との対話が、読み進めながら、心の中で繰り広げられるはずだ。
人生の中で、繰り返し、何度も、味わうための一冊。
私の「縁」は遅くなってしまったけれども、別に早い遅いは関係ない。
今借りている本は図書館に返却するとして、やはり手元に一冊、作者挿絵の入った本が欲しいのである。
2018年08月23日
新旧「星の王子さま」
しばらく前、本当に遅ればせながら、サン・テグジュペリ「星の王子さま」を、人生初めて通読した。
最初は一番スタンダードなものをと、図書館で岩波書店の従来のハードカバー版を借りて読んだ。
星の王子さま
やっぱりというか、本当に良い本だったので、手元に一冊置きたいと思い、同じ岩波書店から2000年に発行された「オリジナル版」を入手し、読み比べてみた。
色々感じる所があったので、まとめてみたいと思う。
以下、それぞれ「旧版」「オリジナル版」と表記する。
訳:内藤濯(ないとう あろう)であることは共通。
●旧版
・1962年発行 1972年改版発行
・22cm×15cm
・縦書き右開き
・「訳者あとがき」有り
●オリジナル版
・2000年発行
・18cm×11cm
・横書き左開き
・フレデリック・ダゲーの「まえがき」有り
・挿絵が作者による「原画」により近い
旧版と比較して、挿絵に限って言えば、原画の色の濃淡や、描線の細かなニュアンスは、確かにオリジナル版の方が再現されているようだ。
しかし、単純にオリジナル版が旧版の上位互換かというと、そこは好みが分かれる所だと思う。
まず、版型が旧版の方が2倍近く大きいので、絵も文もはるかに見やすい。
そして印刷設定の違いからか、オリジナル版の挿絵は全体にやや黄色味が強く、私の好みでは旧版の色合いの方が落ち着いていて良いと思う。
何点か、旧版でカラーだった挿絵がオリジナル版でモノクロになっているケースもある。
何よりも、旧版は日本における不動のスタンダードとして、既に多くの愛読者を獲得しているという現状がある。
新旧の最大の違いは、挿絵の異同というより、縦書き右開きから横書き左開きへ変わっていることではないかと感じる。
日本語版の元になった仏語版や英語版はもちろん横書き左開きなので、オリジナル版はそれに即した本作りと言うことになる。
同じ挿絵でも、右開きと左開きでは「読者の感じ方」に違いが生じる。
縦書き右開きの本の中では、読者の視線が順に左側に移動していくことになるので、挿絵の中の時間経過も左側に進行する。
横書き左開きでは本の中の時間経過が逆方向になる。
挿絵の中の「星の王子さま」は左向きで描かれていることが多い。
この絵を旧版の中で眺めると、読者の視線は絵の中の王子さまの顔の向きとシンクロするので、感情移入の対象は王子さまになりやすい。
同じ絵をオリジナル版(仏語版、英語版と同じ向き)で眺めると、挿絵の中の王子さまの視線は、読者の視線と相対することになる。
すると読者は、「向こうの世界からやってきた王子さま」と、向かいあって対話しながら読み進める感覚になり易い。
この縦横右左の違いの方が、挿絵の精度より、よほど読者の印象に影響するのではないかと思う。
作者の意図に、より忠実なのはオリジナル版。
旧版の方も、年少者も含めた日本人が読み易い一冊の本として、大変よくできている。
これから「星の王子さま」を読もうとするなら、以上のようなことを考慮して選ぶのが良いと思う。
●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)
最初は一番スタンダードなものをと、図書館で岩波書店の従来のハードカバー版を借りて読んだ。
星の王子さま
やっぱりというか、本当に良い本だったので、手元に一冊置きたいと思い、同じ岩波書店から2000年に発行された「オリジナル版」を入手し、読み比べてみた。
色々感じる所があったので、まとめてみたいと思う。
以下、それぞれ「旧版」「オリジナル版」と表記する。
訳:内藤濯(ないとう あろう)であることは共通。
●旧版
・1962年発行 1972年改版発行
・22cm×15cm
・縦書き右開き
・「訳者あとがき」有り
●オリジナル版
・2000年発行
・18cm×11cm
・横書き左開き
・フレデリック・ダゲーの「まえがき」有り
・挿絵が作者による「原画」により近い
旧版と比較して、挿絵に限って言えば、原画の色の濃淡や、描線の細かなニュアンスは、確かにオリジナル版の方が再現されているようだ。
しかし、単純にオリジナル版が旧版の上位互換かというと、そこは好みが分かれる所だと思う。
まず、版型が旧版の方が2倍近く大きいので、絵も文もはるかに見やすい。
そして印刷設定の違いからか、オリジナル版の挿絵は全体にやや黄色味が強く、私の好みでは旧版の色合いの方が落ち着いていて良いと思う。
何点か、旧版でカラーだった挿絵がオリジナル版でモノクロになっているケースもある。
何よりも、旧版は日本における不動のスタンダードとして、既に多くの愛読者を獲得しているという現状がある。
新旧の最大の違いは、挿絵の異同というより、縦書き右開きから横書き左開きへ変わっていることではないかと感じる。
日本語版の元になった仏語版や英語版はもちろん横書き左開きなので、オリジナル版はそれに即した本作りと言うことになる。
同じ挿絵でも、右開きと左開きでは「読者の感じ方」に違いが生じる。
縦書き右開きの本の中では、読者の視線が順に左側に移動していくことになるので、挿絵の中の時間経過も左側に進行する。
横書き左開きでは本の中の時間経過が逆方向になる。
挿絵の中の「星の王子さま」は左向きで描かれていることが多い。
この絵を旧版の中で眺めると、読者の視線は絵の中の王子さまの顔の向きとシンクロするので、感情移入の対象は王子さまになりやすい。
同じ絵をオリジナル版(仏語版、英語版と同じ向き)で眺めると、挿絵の中の王子さまの視線は、読者の視線と相対することになる。
すると読者は、「向こうの世界からやってきた王子さま」と、向かいあって対話しながら読み進める感覚になり易い。
この縦横右左の違いの方が、挿絵の精度より、よほど読者の印象に影響するのではないかと思う。
作者の意図に、より忠実なのはオリジナル版。
旧版の方も、年少者も含めた日本人が読み易い一冊の本として、大変よくできている。
これから「星の王子さま」を読もうとするなら、以上のようなことを考慮して選ぶのが良いと思う。
●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)
2019年03月03日
「じゃりン子チエ」の孤高
マンガ「じゃりン子チエ」のコンビニ版を見かけた。
懐かしくなり、読み返してみる。
やっぱりすごくいい。
すぐにはフォロワーが思い付かない孤高の名作である。
連載当時小学生だった私は、アニメ化されてからファンだった。
掲載誌は大人カテゴリで、元来は子供向けの作品ではなかったはず。
だからこそというべきか、登場する大人キャラの感情表現が細やかで、読みごたえがある。
灰谷健次郎の児童文学作品にも、少し通じる雰囲気がある。
登場人物の作中に描かれている以外の時間の過ごし方、生活感まで、みっしり感じられる。
マンガにおける人物描写の厚みでは、ちばてつや作品と双璧かもしれない。
おっさんになってからあらためて読んでみると、一話ずつしみじみ味わえる。
博徒、テキ屋、稼業人、愚連隊など、アウトローがけっこう細かく描き分けられてるのに気付いたりもする(笑)
テツやカルメラ兄弟が「ヤクザではない」という設定は、子供の頃はもう一つピンと来ていなかった。
今読むと「じゃりン子チエ」作中の「ヤクザ」は、割りと厳密に「博徒」として描かれている感じがする。
カルメラ兄弟はテキ屋で、テツは強いて言うなら愚連隊だろうか。
アウトローと堅気の間にはさほど明確な線引きはなく、グラデーションの中、日々の肉体労働に疲れた男たちが束の間休息するホルモン焼き屋の風景。
テツのかつての恩師、花井拳骨先生は、古き善き地域の文化人の趣き。
一昔前までの学校の先生は、歴史、文学、芸術、スポーツ等の地域文化の担い手だったのだ。
作中に「失われた昭和」がいっぱい詰まってる。
東の「サザエさん」、西の「じゃりン子チエ」と並び称しても良いのではないか。
人間たちのリアルな生活風景と並行して、ファンタジックな猫たちの世界が広がっているのも非常に面白い。
そう言えば昔、関西圏ではアニメのエンドレス再放送をやっていたっけ(笑)
特に土日の昼間とか、復活してくれないものか。
しょうもないネトウヨレベルの政治ワイド放送するくらいなら、「じゃりン子チエ」流してる方が遥かに関西のためになると思うのだ。
近年再放送されないのは、まさかとは思うが、コンプライアンス的な何かなのだろうか?
今刊行されているコンビニ版は旧単行本の二巻分ほど、第一話〜ヨシ江が家に帰って来るまで収録。
ヒラメちゃんやアントニオジュニア、コケザル、地獄組のボス等は未登場。
レギュラー陣が出揃うくらいまでは再読したいので、続刊に期待!
ついでにスピンオフ「どらン猫小鉄」も、もう一度!
懐かしくなり、読み返してみる。
やっぱりすごくいい。
すぐにはフォロワーが思い付かない孤高の名作である。
連載当時小学生だった私は、アニメ化されてからファンだった。
掲載誌は大人カテゴリで、元来は子供向けの作品ではなかったはず。
だからこそというべきか、登場する大人キャラの感情表現が細やかで、読みごたえがある。
灰谷健次郎の児童文学作品にも、少し通じる雰囲気がある。
登場人物の作中に描かれている以外の時間の過ごし方、生活感まで、みっしり感じられる。
マンガにおける人物描写の厚みでは、ちばてつや作品と双璧かもしれない。
おっさんになってからあらためて読んでみると、一話ずつしみじみ味わえる。
博徒、テキ屋、稼業人、愚連隊など、アウトローがけっこう細かく描き分けられてるのに気付いたりもする(笑)
テツやカルメラ兄弟が「ヤクザではない」という設定は、子供の頃はもう一つピンと来ていなかった。
今読むと「じゃりン子チエ」作中の「ヤクザ」は、割りと厳密に「博徒」として描かれている感じがする。
カルメラ兄弟はテキ屋で、テツは強いて言うなら愚連隊だろうか。
アウトローと堅気の間にはさほど明確な線引きはなく、グラデーションの中、日々の肉体労働に疲れた男たちが束の間休息するホルモン焼き屋の風景。
テツのかつての恩師、花井拳骨先生は、古き善き地域の文化人の趣き。
一昔前までの学校の先生は、歴史、文学、芸術、スポーツ等の地域文化の担い手だったのだ。
作中に「失われた昭和」がいっぱい詰まってる。
東の「サザエさん」、西の「じゃりン子チエ」と並び称しても良いのではないか。
人間たちのリアルな生活風景と並行して、ファンタジックな猫たちの世界が広がっているのも非常に面白い。
そう言えば昔、関西圏ではアニメのエンドレス再放送をやっていたっけ(笑)
特に土日の昼間とか、復活してくれないものか。
しょうもないネトウヨレベルの政治ワイド放送するくらいなら、「じゃりン子チエ」流してる方が遥かに関西のためになると思うのだ。
近年再放送されないのは、まさかとは思うが、コンプライアンス的な何かなのだろうか?
今刊行されているコンビニ版は旧単行本の二巻分ほど、第一話〜ヨシ江が家に帰って来るまで収録。
ヒラメちゃんやアントニオジュニア、コケザル、地獄組のボス等は未登場。
レギュラー陣が出揃うくらいまでは再読したいので、続刊に期待!
ついでにスピンオフ「どらン猫小鉄」も、もう一度!