9月ももう終わりか。
例年だと9月末ごろまで結構暑くて、夏の名残を感じるものなのだが、今年は駆け足で秋が来てしまった。
そろそろ秋のお彼岸も終わり。
少々早めに咲いていたヒガンバナは、もうすっかり萎れている。
日が落ちると、少し強めの風がよく吹く季節だ。
毎年この時期になると、どんとの歌が聞きたくなる。
どんとのことは、このカテゴリでわりと長く語ってきた。
あの海岸の不思議なお祭から、今年でもう二十年経ってしまった。
ボガンボス時代の曲に、「トンネル抜けて」という作品がある。
風が騒ぐ夜はうちへ帰りたくないよ……
そう歌うどんとの声に誘われて、月を眺めながらふらりと何処かへ出掛けたくなるのが、今の時期なのだ。
●「一頭象 どんとスーパーベスト」
秋のお彼岸、あの海岸の岩場で歌う誰かが、今年もいたのだろうな。
ジーンズの上下に帽子をかぶったどんとも、また小松の下にそっと座っていたのだろうか。
二十年前に始まった月の祭の物語が、まだ続いているのを感じる。

2014年09月26日
2015年04月04日
今年は鎮魂の年か
今年は2015年。
前にも書いた通り阪神淡路大震災から20年だし、他にもいろいろな意味で「あれからもう20年か」という感覚を持つことが多い。
一つには二十年前の90年代の私が、青年の感性で様々な事象にごつごつとぶつかって鮮烈な印象を受けており、時代が一巡して2010年代の現在が90年代と似た様相を呈しつつあると感じられるせいだろう。
今年一月には、かつての師匠やもっとも影響を受けた作家が亡くなったりもした。
そろそろ「落とし前」をつける時期に来ているのかもしれない。
2月に一冊の本が刊行された。
このブログでも語ってきたどんとについての一冊だ。
●「どんとの魂」(MUSIC MAGAZINE増刊)
90年代の雑誌記事の再録を中心に、新たに関係者の証言を集めて構成された、至近距離からのどんと集成だ。
どんとについては、その影響力に比べて文字情報が意外に少なく、入手可能なものはパートナーである小嶋さちほさんの本2冊ぐらいしかなかった。
●「竜宮歳事記 どんとの愛した沖縄」小嶋さちほ(角川文庫)
●「虹を見たかい? 突然、愛する人を亡くしたときに」小嶋さちほ(角川書店)
今回の「どんとの魂」は、貴重な一冊になるだろう。
前にも書いた通り阪神淡路大震災から20年だし、他にもいろいろな意味で「あれからもう20年か」という感覚を持つことが多い。
一つには二十年前の90年代の私が、青年の感性で様々な事象にごつごつとぶつかって鮮烈な印象を受けており、時代が一巡して2010年代の現在が90年代と似た様相を呈しつつあると感じられるせいだろう。
今年一月には、かつての師匠やもっとも影響を受けた作家が亡くなったりもした。
そろそろ「落とし前」をつける時期に来ているのかもしれない。
2月に一冊の本が刊行された。
このブログでも語ってきたどんとについての一冊だ。
●「どんとの魂」(MUSIC MAGAZINE増刊)
90年代の雑誌記事の再録を中心に、新たに関係者の証言を集めて構成された、至近距離からのどんと集成だ。
どんとについては、その影響力に比べて文字情報が意外に少なく、入手可能なものはパートナーである小嶋さちほさんの本2冊ぐらいしかなかった。
●「竜宮歳事記 どんとの愛した沖縄」小嶋さちほ(角川文庫)
●「虹を見たかい? 突然、愛する人を亡くしたときに」小嶋さちほ(角川書店)
今回の「どんとの魂」は、貴重な一冊になるだろう。
2015年10月28日
蓬莱岩
帰り道、輝く満月を眺めてきた。
本当は昨日が満月なのだが、昨夜は雨が降っていた。
今夜は晴れ渡り、ほぼ真ん丸のお月さまなので、これで十分。
十月の満月である。
毎年この時期になると、もう二十年以上前になってしまったあるお祭りのことを思い返す。
カテゴリどんとで紹介してきた「月の祭」だ。
あの祭のことはいまだに消化しきれておらず、ずっと考え続けている。
たぶんまだ書き漏らしていたと思うのだが、このお祭会場になった小さなビーチは、和歌浦にある。
和歌浦は古来知られた景勝地で、狭いエリアの中に数限りなく見所が詰め込まれている。
その中の一つ、私が好きなスポットに「蓬莱岩」という場所がある。


小さなビーチへと続く遊歩道の一画に、奇岩が海へと突き出している。
岩の上には小松が生え、中央部には自然のトンネルが貫通している。
この岩場からは、どんとの遺灰の一部が海へと流されている。
そして2001年に行われたどんとの追悼ライブの翌日、あるフシギがあったとされている。
トンネルからのぞくと、向こう側に「月の祭」の会場になったビーチの傍らに立つ、古い小さな灯台が見える。

ぽっかり予定が空いた日、私は何度か、ウクレレを片手にふらりと蓬莱岩に行った。

どんとの「波」を口ずさみながら、今でも考え続けている。
本当は昨日が満月なのだが、昨夜は雨が降っていた。
今夜は晴れ渡り、ほぼ真ん丸のお月さまなので、これで十分。
十月の満月である。
毎年この時期になると、もう二十年以上前になってしまったあるお祭りのことを思い返す。
カテゴリどんとで紹介してきた「月の祭」だ。
あの祭のことはいまだに消化しきれておらず、ずっと考え続けている。
たぶんまだ書き漏らしていたと思うのだが、このお祭会場になった小さなビーチは、和歌浦にある。
和歌浦は古来知られた景勝地で、狭いエリアの中に数限りなく見所が詰め込まれている。
その中の一つ、私が好きなスポットに「蓬莱岩」という場所がある。


小さなビーチへと続く遊歩道の一画に、奇岩が海へと突き出している。
岩の上には小松が生え、中央部には自然のトンネルが貫通している。
この岩場からは、どんとの遺灰の一部が海へと流されている。
そして2001年に行われたどんとの追悼ライブの翌日、あるフシギがあったとされている。
トンネルからのぞくと、向こう側に「月の祭」の会場になったビーチの傍らに立つ、古い小さな灯台が見える。

ぽっかり予定が空いた日、私は何度か、ウクレレを片手にふらりと蓬莱岩に行った。

どんとの「波」を口ずさみながら、今でも考え続けている。
2021年02月11日
マンガ「カーニバル」1
二十年ぐらい描きたい描きたいと思いながら果たせていなかったマンガがようやく描けたので、ご紹介。
このカテゴリ「どんと」にまつわる作品である。
ことの発端は90年代半ば、久々に連絡を取った友達に誘われ、とある海岸の不思議なお祭りに参加したことだった。
どんと(当時ボガンボス)のライブで受けた衝撃は、現地のスケッチとともに深く記憶に刻まれた。
90年代の手記「月物語」
数年後の00年、たまたま立ち読みした音楽雑誌にどんとの訃報を知り、本屋で立ちつくしながら、祭りの会場でどんとと少し話したことや、隣のハンモックで眠っていた赤ちゃんの手をしげしげと眺めながら、「ちっちゃいなあ、なんで動いてんねやろう」と呟いていた姿が、よみがえってきた。
それから貪るように音源を聴き込み、01年ふと思い立ってお祭りのあったビーチへ。
そこで追悼ライブ「どんと院まつり」が開催されることを知る。
まるでどんとが還ってきたような、歌詞の世界が現実化したような熱狂。
その後の00年代前半、私は毎年のようにビーチのお祭りに参加するようになり、不思議な縁で人とつながり、昔の友人とも再会した。
どんとの世界に少し「巻き込まれた?」と感じた数年間。
その感覚をなんとか自分なりに描きとめられないかと考え始めていた。
自伝的体裁ながら虚実混交、未完の奇書「どんとマンガ」。
当時読み込んだこの不思議なマンガに影響され、00年代初頭のあのビーチの思い出は、「どんとマンガ」の絵柄で思い浮かぶようになった。
描きたいと思ったのが二十年近く前。
何度か試行したが果たせず、それならと元のマンガ全五十数ページ+手元にある限りの作者のイラストを模写しつくしたのが三年前。
作品に着手したのが二年前。
未完の形だった「どんとマンガ」の続きにもあたりそうなその幻想を、なんとか紙に作品として定着できないかともがいてきた二十年だったのだ(苦笑)
(なので、マンガ「カーニバル」は二次創作「的」な作品ともいえるけれども、著作権的には問題無いよう配慮してあります)
全18ページのうち、まずは前半9ページを公開。
(クリックすると画像が拡大します)









このカテゴリ「どんと」にまつわる作品である。
ことの発端は90年代半ば、久々に連絡を取った友達に誘われ、とある海岸の不思議なお祭りに参加したことだった。
どんと(当時ボガンボス)のライブで受けた衝撃は、現地のスケッチとともに深く記憶に刻まれた。
90年代の手記「月物語」
数年後の00年、たまたま立ち読みした音楽雑誌にどんとの訃報を知り、本屋で立ちつくしながら、祭りの会場でどんとと少し話したことや、隣のハンモックで眠っていた赤ちゃんの手をしげしげと眺めながら、「ちっちゃいなあ、なんで動いてんねやろう」と呟いていた姿が、よみがえってきた。
それから貪るように音源を聴き込み、01年ふと思い立ってお祭りのあったビーチへ。
そこで追悼ライブ「どんと院まつり」が開催されることを知る。
まるでどんとが還ってきたような、歌詞の世界が現実化したような熱狂。
その後の00年代前半、私は毎年のようにビーチのお祭りに参加するようになり、不思議な縁で人とつながり、昔の友人とも再会した。
どんとの世界に少し「巻き込まれた?」と感じた数年間。
その感覚をなんとか自分なりに描きとめられないかと考え始めていた。
自伝的体裁ながら虚実混交、未完の奇書「どんとマンガ」。
当時読み込んだこの不思議なマンガに影響され、00年代初頭のあのビーチの思い出は、「どんとマンガ」の絵柄で思い浮かぶようになった。
描きたいと思ったのが二十年近く前。
何度か試行したが果たせず、それならと元のマンガ全五十数ページ+手元にある限りの作者のイラストを模写しつくしたのが三年前。
作品に着手したのが二年前。
未完の形だった「どんとマンガ」の続きにもあたりそうなその幻想を、なんとか紙に作品として定着できないかともがいてきた二十年だったのだ(苦笑)
(なので、マンガ「カーニバル」は二次創作「的」な作品ともいえるけれども、著作権的には問題無いよう配慮してあります)
全18ページのうち、まずは前半9ページを公開。
(クリックすると画像が拡大します)









(続く)
2021年02月12日
マンガ「カーニバル」2
続いて全18ページのうち、後半10〜18ページを公開。
(クリックすると画像が拡大します)









以上。
このマンガ「カーニバル」のイメージソースになったのは、
・「どんとマンガ」
・ボガンボス楽曲「カーニバル」
・どんとソロ楽曲「どんとマンボ」「波」
・その他どんとに関する音源、著作物
それらの断片をサンプリング、2001年「どんと院まつり」での体験を、彼岸からの視点で構成している。
どんと院まつり1
どんと院まつり2
どんと院まつり3
作風としては「スピリチュアル」な印象を与えると思うが、私自身はいわゆる「霊魂」の実在には否定的だ。
基本的には仏教徒なので、「霊魂は無い、それでも輪廻はある」という空想を、以前ブログに書いた。
めぐる輪廻のモノローグ
このマンガも、その延長線上で描いている。
どんとは「死」のことを「情報化」と表現していたという。
その不思議な言葉遣いを長い時間かけて反芻するうち、「輪廻」や「浄土」について、自分なりに理解し、受容できるようになった内容が、マンガ「カーニバル」の中には込められている。
あまり人様に読んでもらうことを前提にせず、ただただ90年代半ばから00年代初頭の自分の鎮魂のために描いたものだが、構想から数えると二十年物。
よろしければ、ご一読を。
(クリックすると画像が拡大します)









以上。
このマンガ「カーニバル」のイメージソースになったのは、
・「どんとマンガ」
・ボガンボス楽曲「カーニバル」
・どんとソロ楽曲「どんとマンボ」「波」
・その他どんとに関する音源、著作物
それらの断片をサンプリング、2001年「どんと院まつり」での体験を、彼岸からの視点で構成している。
どんと院まつり1
どんと院まつり2
どんと院まつり3
作風としては「スピリチュアル」な印象を与えると思うが、私自身はいわゆる「霊魂」の実在には否定的だ。
基本的には仏教徒なので、「霊魂は無い、それでも輪廻はある」という空想を、以前ブログに書いた。
めぐる輪廻のモノローグ
このマンガも、その延長線上で描いている。
どんとは「死」のことを「情報化」と表現していたという。
その不思議な言葉遣いを長い時間かけて反芻するうち、「輪廻」や「浄土」について、自分なりに理解し、受容できるようになった内容が、マンガ「カーニバル」の中には込められている。
あまり人様に読んでもらうことを前提にせず、ただただ90年代半ばから00年代初頭の自分の鎮魂のために描いたものだが、構想から数えると二十年物。
よろしければ、ご一読を。