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2011年02月11日

カテゴリ「岡本太郎」

 今年は岡本太郎生誕百周年ということだ。
 各種イベントや書籍の出版、ドラマ化などの企画がたくさん用意されている模様。

 祝祭を好み、祝祭そのものを体現したような岡本太郎の、生誕百年祭。
 私も太郎を敬愛する一人として、このブログを通してお祭り騒ぎに参加したい。

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 私たちの世代は、子どもの頃から空気のように「岡本太郎」と言う存在を呼吸して育ってきた。
 大阪・千里の万博公園で見上げる「太陽の塔」のことは、みんな好きだった。
 テレビCMではギョロッと目をむきながら「芸術は、爆発だ!」と叫ぶ変わった芸術家のおじさんとしての姿があった。
 専門知識が何ひとつない子ども心に「岡本太郎=芸術」なのだと理解していて、今から考えるとその理解は物凄く的確だったことが分かる。

 私が本格的に岡本太郎に「再会」したのは、瓦礫の中からようやく日常を拾い集めつつある神戸の街中だった。
 何気なく立ち寄った書店で、すっと目にとびこんできた雑誌の表紙があった。
 美術系の雑誌、真っ白な背景の中を、モノクロの太郎が少し振り返って微笑しながら走り去る写真。
 私はその雑誌の追悼特集で、96年1月に太郎が亡くなったことを知った。
 思わず雑誌を手にとって、貪るように読んだ。
 今まで「空気」だった岡本太郎が、血肉と透徹した知性を備えた生身の人間として、改めて私の心をつかんで離さなくなった。
 そして2000年以降、折に触れて岡本太郎の作品や著作を追い続けている。


 当ブログでは、過去に相当数の岡本太郎関連記事をアップしてきた。
 まずは導入部としてそうした過去記事を、加筆修正しながら再掲していきたいと思う。
posted by 九郎 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

岡本太郎との出会い

 はじめて岡本太郎の絵画作品の実物を目にしたのは、中学生の頃だったと思う。もちろん、それまでにも「岡本太郎」という稀有の芸術家が存在することは知っていた。
 数年前のジェットコースター事故が原因で閉鎖されてしまったが、子供の頃にエキスポランドに遊びに行けば、否が応でも「太陽の塔」の威容が目に飛び込んできたし、TVコマーシャルでは岡本太郎本人が「芸術は、爆発だ!」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか!」とか叫んで、鮮烈な印象を放っていた。
 また、岡本太郎デザインの鯉のぼりというのもあって、これまたTVコマーシャルで鮮やかな原色のデザインが強烈だったし、今はなき近鉄バッファローズのマークも岡本太郎デザインでカッコよかった。
 私の世代の多くは、自然に「芸術家=岡本太郎」とイメージするようになり、芸術と言うのは「ちょっと変わった面白いおじさん」が産み出すものなのだと、感覚的に捉えていたのではないだろうか。

 中学生になり、多少の絵画技術をかじるようになると、タレントじみた岡本太郎の活動が軽く見えたり、太陽の塔のようなシンプルなデザインがつまらなく思えたりしてきた。思春期に入ったばかり、技術を学び始めたばかりの初心者が陥りがちな馬鹿さ加減なのだが、当の本人は自信満々だから自分の愚かさには気付けるはずもない(苦笑)
 馬鹿真っ盛りのその頃、近場の美術館で展覧会があった。正確なタイトルは覚えていないが、日本の近現代の絵画を広く集めた展示だったと思う。何点か岡本太郎の絵画作品があり、今でもはっきりと記憶に残っている。

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「森の掟」


 馬鹿全開の中学生の私にすら、その作品の特異性は一瞬で理解できた。作品の持つ空気が、その場の並み居る画家の作品とまったく違っており、とくに「森の掟」にはただただ圧倒された。その展覧会には他にも優れた作品がたくさんあったはずなのだが、現在の記憶の中には岡本太郎の作品しか残っていない。私の中で岡本太郎と言う名前が「TVにでている爆発おじさん」から「凄まじい筆力を持った画家」に変わった瞬間だった。しかし当時の私には、岡本作品の圧倒的な力にまともにぶつかるだけの余力がなく、以後は「敬して遠ざける」という付き合い方になってしまった。

 それから時は流れて1996年。
 阪神大震災やオウム真理教事件の動乱の翌年、岡本太郎の訃報が流れた。訃報とともに岡本太郎の再評価が始まり、作品集が刊行され、多くの著書が復刊された。
 私は2000年前後からそうした書籍を手に取りはじめ、中学生の頃の衝撃が生々しく甦ってきて、一気にハマった。手当たり次第に本をかき集め、貪るように読み続けた。TVの印象とは違った、研ぎ澄まされた知性に驚き、万博公園であらためて見上げた太陽の塔の空間構成の妙に嘆息した。
 作品も著作もまったく古びておらず、むしろますます新しくなっているような気がした。岡本太郎の真骨頂はその視線の「若さ」にあると感じた。醒めた眼差しで宇宙を眺め、淀みを見透かし、決して惰性に流されない明朗さ……

 最近また、岡本太郎の本を読み返している。



●「今日の芸術」岡本太郎(光文社文庫)
 1954年に初版が刊行され、芸術を志す者に広く読み継がれてきた一冊。表題「今日の芸術」は、1950年代における「今日」を意味しておらず、芸術がその時代それぞれの「今日的課題」であるための条件を、きわめて平易な文章で語りつくしている。出版社の意向で「中学生でも理解できるように」徹底的に言葉を噛み砕いているため、読んでいてテンションの高い講演会を聴いている様な、流暢な香具師の口上に聞き惚れているようなライブ感がある。
「今日の芸術は、
 うまくあってはならない、
 きれいであってはならない、
 ここちよくあってはならない」

 こうした刺激的なコピーで読む者は首根っこを捕まえられ、理路整然と説得され、勢いに巻き込まれて一気に通読させられ、いつの間にか意識は転換させられてしまう。
 個人的には「芸術」と「芸事」の相違の解説の部分が、この本の白眉だと感じた。たゆまぬ修練によって身につけた技能が、実は芸術の本質からはずれた価値であるかもしれない。そのことは恐ろしくもあり、勇気づけられもする指摘だ。

●「青春ピカソ」岡本太郎(新潮文庫)
 岡本太郎が「今日心から尊敬する唯一の芸術家」と評し、だからこそ超えるべき対象として想定したピカソについての一冊。ピカソの作品や経歴についての詳細な解説であると同時に、真正面から取り組むことで積極的に創り上げた岡本太郎独自の芸術論の書でもある。
 最後の章でピカソと実際に会うくだりは、湿度が低くさらっと明朗な交流の様子がうかがえる。ピカソのぶっきらぼうな言葉の断片と、太郎の受け答えは、特筆するようなことは何もないのだが、何度も読み返したくなる。

●「岡本太郎に乾杯」岡本敏子(新潮文庫)
 太郎の活動を支え続けた岡本敏子が、太郎の死後、秘書としての視線から遺した記録。昨今の太郎再評価の機運は、敏子の尽力の賜物といって良いが、その敏子も今はもういない。
 表紙に使われている写真が良い。白い背景の中、ふと振り返って、少し微笑んでからどこかへ駆け出していく姿は、戦後の日本を駆け抜けた岡本太郎そのものに見える。
 私が1996年の神戸で、ふと手に取った雑誌の表紙になっていたのも、この写真だったはずだ。

(2009年3月の記事を再掲)
posted by 九郎 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

絵を売らない画家

 岡本太郎は絵を売らない画家だった。

 一般に、芸術家というのは「作品を制作し、それ売って生計を立てている」というイメージがあるかもしれない。しかし実際には、作品を売って喰っているだけが芸術家というわけでもない。生徒を抱えてレッスンすることで生計を立てたり、兼業で制作したり、副業があったり、その在り方は様々だ。それぞれに制約があり、それぞれに自由があるので、どれが正しいというわけでもない。
 
 岡本太郎の場合は、作品を個人的に欲しがる人はいくらでもいたのだが、独自の考え方でほとんど他人に売ることはなかった。個人、法人を問わず、誰かに作品を私有させ、散逸させてしまうと、再び集めることが非常に困難になる。展覧会一つ開くにしても膨大な時間と手間をかけて借りて回らなければならなくなるし、買い手によっては作品をひたすら死蔵して一般の目に触れさせないようにしたりする。
 太郎にとって芸術とは、作品と鑑賞者のギリギリの交流の中で成立するものであって、蔵の中に後生大事に抱え込まれた作品になど、何の価値もなかった。だからごく小数の例外を除いて、ほとんど作品は売らなかった。そのおかげで没後、太郎作品を多数収蔵した美術館が、比較的スムーズに立ち上げられた。

 岡本一平・かの子という著名な芸術家夫婦の間に生まれた太郎には、戦前にパリ遊学を敢行するなど裕福な育ちのイメージがある。しかし戦争によって財産はかなり失われていたし、父母も早世し、年の離れた兄弟を養う必要もあったため、経済的には苦労がたえなかったようだ。
 それではどのようにして生計を立てていたのか?
 絵画作品を個人に売らなかった代わりに、様々な著述活動をし、公的なスペースのモニュメント等は積極的に制作した。「太陽の塔」はその代表だが、他にも旧東京都庁舎やJR岡山駅の壁画、お寺の梵鐘などが有名だ。
 もっと身近な例では、近鉄バファローズのマークや鯉のぼりのデザインがある。

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 ブログ用に本物のマークを見ながらざっとスケッチしてみたが、物凄く洗練されたデザインで、まさに岡本太郎の絵柄だ。他の日本の球団のマークとは次元がまったく違っていると感じる。私は別に近鉄ファンではなかったけれども、球団合併でこのマークが使用されなくなってしまったのは非常に惜しい。
 野球つながりで余談をまじえると、甲子園の「アルプススタンド」は、太郎が名付けたというエピソードもあったりするらしい。

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 こちらは太郎デザインの鯉のぼり。鮮やかな原色のデザインが5月の青空によく映える。写真はお手軽なミニサイズだが、大きなものも結構求めやすい価格で今も販売されているようだ。



 このように、限られた人だけが作品に触れられる美術館展示より、誰にでも親しめる形での作品発表にこだわった岡本太郎なのだが、中でも極めつけは、太郎の最高傑作とも噂される「明日の神話」で、現在は東京渋谷駅で直に見ることができる。


●「明日の神話 岡本太郎の魂」


 日本からはるか地球の裏側・メキシコにおいて、「太陽の塔」とほぼ同時期に制作された全幅30メートルの超大作でありながら、設置予定地のホテル計画の頓挫により、一般の目に触れることなく約40年間行方不明になっていた「明日の神話」。
 太郎没後、岡本敏子の執念により発見され、日本に輸送、敏子の死、修復から公開に至る過程は、一つの感動的なドラマになっている。
 私はまだ実見していないのだが、なんとか機会を作って体感してみたいと思っている。
(2009年3月の記事を再掲)
posted by 九郎 at 03:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする

2011年02月14日

縄文の「発見」

 縄文が再評価されるようになって久しい。
 とくに近年、数々の考古学的発見が積み上げられ、日本の縄文時代は同時代の世界文化の中でも最先端をいく高度なものであったことが明らかになってきた。

 私が小学生の頃は、「縄文再評価」の過渡期にあったと思う。「縄文=原始的、弥生=進歩した文化」という古い図式はまだ残されたままだったが、縄文土器の造形美や竪穴住居の生活は、社会の授業でもかなり詳しく教わった。縄文土器を実際造って焼いてみたこともあったと思うし、当時とっていた「科学と学習」の付録でも縄文土器制作セットが入っており、存分に楽しんだ記憶がある。縄文文化に対し、私を含めた周囲の小学生はみんな親しみを感じていた。
 今現在の学校教育における縄文時代の扱いは、さらに進化していることだろう。しかし、そうした「縄文再評価」のさきがけが誰あろう、岡本太郎であったことは意外に知られていない。

 時は1950年代、まだ戦後間もない時代の中、兵役から帰還した岡本太郎は、作品も全て灰燼に帰した境遇の中、猛然と日本の美術界をかきまわす活動を展開し始めて数年後のことだった。太郎は東京国立博物館の片隅で、ひっそりと展示されている縄文土器を「発見」した。 
 日本の文化史を眺めるとき、縄文文化は特異に見える。
 弥生文化以降は一本の線としてつながりが感じられるが、縄文だけがかなり異質であることは、土器のあの造型を見れば誰もが感じることだろう。弥生土器のすっきり簡素なデザインは現代に続く日本的感性によく合致するが、縄文の装飾過多でどぎついデザインは、侘び寂びの世界とは正反対のように映る。
 岡本太郎が「発見」した当時の縄文土器は、日本文化史からほとんど除外されていた。弥生から連綿と続いて見える、簡素な美を基調とする日本的感性からかけ離れた、土俗的で異様な未開の遺物として扱われており、およそ美術的価値は認められていなかったという。
 瓦礫の中から日本美術界の澱みを破壊するために立ち上がった岡本太郎の眼と、いわゆる日本的感性とは対極にある縄文土器が出合ったのは単なる偶然ではなかっただろう。
 岡本太郎は自分自身の姿を投影するに相応しい対象を捜し求めており、古い地層から掘り起こされてきた太古の土器群に、それを「発見」したのだ。

 後に岡本太郎は知識に乏しいインタビュアーに「先生は縄文土器を発見なさったそうですが、どこで見つけたのですか?」と聞かれて「博物館の中だ!」と煙に巻いたと言う。
 また「最近縄文はどうですか?」と聞かれた折には、「最近ますます俺に似てきた!」と答えたとも伝えられる。

 冗談めかしたやり取りの中に、岡本太郎の冷めた知性と、そして孤独の影がにじんでいるような気がする。
 


●「日本の伝統」岡本太郎(知恵の森文庫)
 独自の視点から日本文化を創造的に評価しなおした一冊。とりわけ第二章の縄文土器についての考察が白眉。岡本太郎の目を通し、岡本太郎の感じ取った縄文が、以後の縄文観の原点になっていることがよくわかる。しかし、太郎が「四次元」「呪術」と表現した、単なる造型上の要素を超えた縄文土器の価値については、いまだ十分に考察がなされていないと感じる。
 まだまだ縄文は新しくあり続けることを予感させる論評だ。

●「神秘日本」岡本太郎(みすず書房)
 縄文土器の価値を独自に「発見」し、創造した岡本太郎が、日本各地に残る太古の呪術の痕跡を求めて旅する一冊。初出は60年代であるが、東北、熊野、曼荼羅、沖縄など、近年関心の高まる地域について鋭い感覚で預言者のように語っており、カテゴリ沖縄で紹介した「沖縄文化論」も収録されている。
 この本では、仏教美術についても言及している。何に対しても明快な岡本太郎だが、仏教美術に対してやや複雑な態度をとる。芸術家として純粋な造型美以外の部分で仏像を評価することには批判的だが、密教美術や曼荼羅の中に「何か」を見出そうとしている。

●「岡本太郎が撮った『日本』」岡本敏子編(毎日新聞社)
 岡本太郎の眼に映った「日本」は、太郎自身の撮った写真に、より端的に顕れている。縄文、東北、沖縄など、数々のコントラストの強烈な白黒写真によって切り取られた「日本」の断片は、太郎の感じる「神秘」であり「呪術」のありようを感覚的に理解させてくれる。
 岡本太郎の、きわめて明快な論理に貫かれた文章による論評を、感性の方面から補完する写真の数々が収録されており、記録写真の範疇を超えて岡本太郎の絵画作品に近い手触りがある。


 私が岡本太郎という存在と本格的に「再会」してからしばらくたった2002年、「岡本太郎と縄文」というタイトルの、物凄く刺激的な展覧会があった。
 太郎の作品と、巨大な縄文土器のレプリカが同じ会場に並べられていて、観賞していると太郎が縄文なのか縄文が太郎なのか、境目が混じり合う特異な空間が現出されていた。
 あの展示を観てから太郎の「縄文は最近ますます俺に似てきた」という言葉を振り返ると、異様なリアリティを感じたものだ。
 その展示会場で、私はたぶん岡本敏子さんとすれ違っている。
 何人かの人を引率しながら楽しげに会場で談笑していた、写真等で見覚えのある女性を見かけたのだ。
 その時は遠慮してしまったのだが、今から思えば、たとえ迷惑がられても一声おかけしておけばよかったと後悔している。

(2009年4月の記事に加筆再掲)
posted by 九郎 at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする

2011年02月16日

岡本太郎の沖縄



●「沖縄文化論―忘れられた日本」
 沖縄論の古典とも言うべき必読書。中公文庫に収録されており、価格も安く入手も容易。初版の刊行は1961年であり、内容の大半は復帰前の沖縄の生々しい現地レポートだ。
 岡本太郎のモノを観る視点は、限りなく知的で醒めており、表現は的確だ。生粋の日本人でありながら、日本を突き放しつつ、誰もが忘れ去ってしまった日本の古層に横たわる美を抉り出す。
 縄文土器の美を世界中で最初に見出したのは岡本太郎であったし、沖縄についても戦後最初の紹介者にあたるのではないだろうか。沖縄に対する視点、分析は、とても60年代初頭に書かれたとは思えぬほどに新しい。 
 試みにいくつか章題を書き出してみよう。

・「何もないこと」の眩暈
・踊る島
・神と木と石
・ちゅらかさの伝統
・神々の島 久高島

 これらのキーワードは、現在でも多くの人々によって研究され論じられているものばかりだ。沖縄にまつわる主要な論点は、60年代の時点で既に、岡本太郎の透徹した感覚によって捉えられていたことになる。
 沖縄に興味を持つ人には、まずこの一冊をお勧めしたい。


●「岡本太郎の沖縄」
 こちらは「沖縄文化論」執筆と同時期に撮影された、岡本太郎自身によるモノクロ写真の数々を、岡本敏子が編集したもの。「沖縄文化論」にもいくつかの写真は紹介されているが、本格的な写真集で見ると圧巻だ。
 岡本太郎特有の、光と闇のコントラストの強烈な写真の数々が「岡本太郎の見た沖縄」を生々しく記録している。
 とくに昔の沖縄のおばあさん達を撮った素晴らしい写真が多い。
 私は大本教に興味があって色々資料を漁っているのだが、大本開祖・出口なおの写真を観た時の衝撃と似た感動を、この写真集の沖縄のおばあさん達の写真に覚えた。長い年月に洗い晒された銀髪と、誇り高い毅然とした表情が、両者に共通している。
 私は以前カテゴリ沖縄で「本土では神木クラスの樹木が、沖縄ではごく普通に生い茂っている」と書いたことがある。人間についても似たことが言えるのかもしれない…
 この写真集は2000年発行。「沖縄文化論」と合わせて是非手にとってもらいたい一冊なのだが、先ほどAmazonで調べてみると、どうやら入手困難になりつつあるようだ。もったいない話である。

 太郎の著作が次々に復刊する気運の盛り上がる2011年現在、ぜひこの一冊にも復活してほしいものだ。


 岡本太郎と沖縄については、私の中でまだ整理のついていない問題もある。
 事実は事実として考えて行きたいと思っている。
 今回、岡本太郎を紹介するにあたって、沖縄関連書籍を再び紹介するかどうか迷いもあった。
 関心のある人は「岡本太郎 風葬」等のキーワードで検索してみてほしい。

(2006年7月の記事を加筆再掲)
posted by 九郎 at 01:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡本太郎 | 更新情報をチェックする