一つには、2010年代の世相が、90年代にかなり似ているのではないかという、個人的な感覚がある。
もう一つは、90年代の若者であった私が、かなり背伸びし、つま先立ちで読んでいた本の内容が、ようやく地に足のついた理解レベルに達してきたような気がすることもある。
90年代当時、私が最も傾倒していた書き手の一人が、「突破者」宮崎学である。
宮崎学は敗戦直後の昭和20年、京都伏見の解体屋稼業ヤクザの親分の家に生まれた。
ちょうど私の親の世代に当たる。
長じて早稲田大学に進学してからは学生運動に身を投じ、共産党のゲバルト部隊を率いる。
その後、トップ屋などを遍歴し、京都に帰って解体業を継ぐようになる。
ヤクザでありながら住民運動や組合活動にも手を貸す変わり種であったが、京都はもともと戦前からアウトローと左翼活動家の距離が近い土地柄でもあった。
著者が世間的に最も注目を集めたのは、グリコ森永事件の最重要参考人「キツネ目の男」として容疑をかけられたことだろう。実際、あの有名な似顔絵は、宮崎学本人をモデルに描かれたという説もある。
警察との徹底抗戦の結果、アリバイは崩されず逮捕には至らなかったのだが、稼業は大きなダメージを受け、後に倒産。
バブル当時は地上げなども手掛け、96年、その特異な半生を綴った「突破者」で作家デビューする。
●「突破者〈上下〉―戦後史の陰を駆け抜けた50年」宮崎学(新潮文庫)
作家は処女作に全てがある、とはよく言われる。
どれを読んでも面白い宮崎学の場合も、このデビュー作が飛び抜けている面。
「アウトロー作家」というよりは、本物のアウトローがシノギの一つとして作家活動をしているスタンスがなんとも痛快で、後に多くの著作で展開される問題意識の全てがこの一冊に濃縮されており、宮崎学の著作未読であれば、やはりこの作品からがお勧めだ。
報道などで無批判に流布される「定説」に対し、アウトローの立場から一時停止をかけ、その根本から実例を挙げて反証していく痛快さが、宮崎学の真骨頂である。
私は最初の一冊から熱狂的なファンになり、現在までに著作の9割以上は購読しているはずで、当ブログでも、何度か紹介してきた。
処女作「突破者」は、自伝でありながら血沸き肉躍る活劇だったが、最近作はまた違ったアプローチになってきている。
出自である伏見の最下層社会に対する視線は限りなく優しく、民俗学の領域とも重なる。
かなり落ち着いたトーンで、著者の同世代に対しては「まだやれることがあるだろう」と語り、下の世代に対しては「もっと自由に好き勝手をやれ」と呟くような、なんとなく「死に仕度」を思わせる雰囲気があるが、気のせいであってほしい。
ナニワのマルクス、故・青木雄二との一連の対談本も面白かった。
●「土壇場の経済学」(幻冬舎アウトロー文庫)
●「土壇場の人間学」(幻冬舎アウトロー文庫)
●「カネに勝て! 続・土壇場の経済学」(南風社)
青木雄二「ナニワ金融道」も、90年代当時よく読んでいた。
確かバイト先の近所のカレー屋に全巻揃っていて、昼休みになると通って「二倍カレー」を食いながら、読み耽っていた覚えがある。
●「ナニワ金融道」青木雄二(講談社)
今読むとさすがに描かれる時事風俗には「時代」を感じるが、かえって「90年代のリアルな時代劇」として新しい価値が出てきている感もある。
保証人と連帯保証人の違い、金の貸し借りが「合法的な奴隷」を作り出すディティール、自己破産という正当な権利、「マルチ商法は、どんな貧乏人でも持っている人間関係を、まるごと換金するシステムである」という洞察など、今の世にこそますます必要とされる「ゼニの真実」が、これでもかというほど詰め込まれている。
そしてその乾ききったリアリズムの果てに、なお立ち上ってくる「情」や「人間の尊厳」を、しみじみと味わうことのできる、名作中の名作なのである。
●「さすらい」青木雄二
代表作「ナニ金」完結とともに漫画家を卒業した青木雄二の、数少ない短編作品を集めた一冊。
90年代を「ナニ金」とともに駆け抜けた青木雄二は、2003年癌で早逝した。
「サクセスしたわしは資本主義の方が都合がええんや。そやけど、搾取されとる庶民のおまえらが気の毒やから、唯物論を教えたっとるんや」
マンガの筆を折って以降も、そうした主張の著作を数多く世に出していた。
誇張された「〜でんがな、〜まんがな」という荒っぽい関西弁の中にも優しさが感じられ、目を開かされた人、苦境を救われた人は多くいたのではないだろうか。
もちろん私も、そんな中の一人だ。
90年代は、他にも「個性派左翼」とでも呼ぶべき語り手がいっぱいいた。
仏教者にしてマルクス主義者の「シャカマル主義者」、右手に仏法左手に六法の怪物弁護士、故・遠藤誠の本もよく読んでいた。
冤罪の疑いが極めて濃厚な帝銀事件の弁護活動や、暴対法違憲訴訟で山口組の代理人を無償で務めたことでも知られていた。
90年代当時はカルト教団によるテロ事件の折にも「当事者」として発言が注目された時期があった。
●「新右翼との対話―「レコンキスタ」を斬る」遠藤誠(彩流社)
●「オウム事件と日本の宗教―対談 捜査・報道・宗教を問う」遠藤誠 佐藤友之 (三一新書)
●「真の宗教 ニセの宗教―私がマスコミに言わなかったこと」遠藤誠(たま出版)
今の私は著者の「伝統仏教批判」や「天皇制打倒」などの主張はそのまま首肯することは出来ないけれども、左右を問わず幅広く議論、交流し、あくまで反権力、弱者の側に立って活動する姿勢は、かわらず痛快に感じる。
他にも「はだしのゲン」の中沢啓治や「カムイ伝」の白土三平も、90年代はまだまだ意気軒昂で、それぞれ力作を執筆していた。
●「はだしのゲン自伝」中沢啓治(教育史料出版会)
70年代の名作「はだしのゲン」は、舞台を広島から東京に移した続編が構想されていた。
結局それは執筆されないままに、2013年、著者は亡くなった。
元々「ゲン」は著者の自伝的な要素の強い作品なので、その後の展開をあれこれ想像する材料は、この一冊に込められていると思う。
●「カムイ伝 第二部」白土三平(小学館)
壮絶な一揆の物語と共に終結した「第一部」の後を受け、88年から90年代を通じて断続的に執筆されたのが「第二部」である。
もちろん私も連載当時必ず読んでいたのだが、正直言うと、内容にはあまりピンと来ていなかった。
青年ではなくなった「第一部」の主要登場人物たちの心情が、少しずつ身に染みてきたのは、ようやくここ数年のことである。
今読むと、自信をもってこの「第二部」も傑作であると言えるのだけれども、それはまたいずれ記事をあらためて語りたい。
こうして並べてみると、今の世間的には短絡的な「サヨク」レッテルを貼られ、敬遠されがちな作者たちだが、私にとっては今も感覚的にフィットする大切な語り手であり続けている。
主張は左翼的でありながら、作者自身は左翼組織とはまったく馴染めない一匹狼気質であり、あくまで地べたを這いずる個人として語り、闘い抜いてきたことも共通していて、そんなところがまた良い。
弱肉強食、経済格差の広がる今の日本には、「弱きを助け、強きを挫く」という素朴な浪花節、反骨の志が、パワーバランスとしてもっともっと必要だと思うのだ。
(続く)