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2017年05月10日

へんろみち1

 90年代前半、学生時代のアマチュア演劇活動の延長で、私は芝居を通じて自分なりの「祭」をさがし始めていた。

 祭をさがして―1
 祭をさがして―2

 そんな時期、古い友人からの誘いで不思議な「祭」に参加し、強い衝撃を受けた。

 どんと

 その直後の95年初め、阪神淡路大震災で被災してしまった。

 GUREN-1
 GUREN-2
 GUREN-3

 震災に続くカルト教団のテロ事件等の世相の中、私は身も心も一旦リセットされた。

 祭の影-1
 祭の影-2

 集団で何かをするということが困難になり、昔から関心のあった神仏や宗教について、一人で読書を開始した。

 本をさがして-1
 本をさがして-2
 本をさがして-3
 本をさがして-4

 夢と言うものについて、かなり集中的に探求していたのも、この頃のことだ。

 カテゴリ:夢

 90年代のこうした様々な試行錯誤と同時進行で、私は「遍路」にも出るようになっていた。
 時期的にはむしろ、こちらの方が早かったかもしれない。
 熊野をはじめとする聖地巡礼のことを、当時の私はまだ「遍路」とは認識しておらず、周囲には単に「修行に出てくる」とだけ伝えていた。
 夏季などにまとまった休みが取れると、リュックを担いでふらりと旅に出ていた。

 以下、私の90年代覚書「へんろみち」の章である。
(続く)
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2017年05月11日

へんろみち2

 ある日ふらりと旅に出て、目的もなくただほっつき歩いてみたい。
 できることなら、山の向こうへ消えてしまいたい――

 たまにそんな衝動に駆られることがある。
 もちろん、そんな気ままが許される身分ではない。
 身過ぎ世過ぎの合間をぬって、日帰りで登山やハイキングに出かけたり、夏季になんとかまとまった日数の山歩きを楽しむのがせいぜいだ。
 それでもなんとなく憧れとして「山の向こうへ」というイメージは残っていて、たぶん今後もずっと消えることはない。
 そんな感覚を、自分はいつ頃から抱いていたのか?
 記憶を遡ってみると、幼児の頃の原風景にまで行き着く。

 幼い頃の私は、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
 祖父母宅は、古墳のような小山と、小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
 小山の麓には道が三本、川に平行に通っており、各所で何本か、縦につながっていた。
 一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
 その御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
 小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くとバス道があった。
 そうしたごく狭い範囲が、幼い私の世界の、ほとんど全てだった。
 小さな世界ではあったけれども、周辺は自然豊かな農村で、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。

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 その頃気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
 山の周囲のことはよく知っていた。
 いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
 だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたとも言える。
 しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
 そして噴出口を求め、マグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
 空想が臨界点を超えたある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……

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 祖父母宅のあった地域は、広々とした平野の真っ只中に位置していた。
 あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
 岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
 子供の遊び場ではあったが、幼児が一人で勝手に登るには、時期尚早だ。
 それでも私は登らなければならなかった。
 その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
 今となっては意味不明の、幼児特有の頑固さで、私はそう思い定めていた。
 家の裏に迫った岩と岩の隙間に、子供の目にはたまたま道らしく見える所があった。
「ここが入り口か!」
 勝手に判断して、私は登り始めた。
 潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
 木や草や岩のトンネルを抜ける道行き。
 最初は少しためらったが、すぐに面白さの方が上回った。
 登れば登るほどトンネルは延びていくようだった。
 少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
 怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
 どれぐらい登ったことだろう?
 時間にして見ればほんの数分のことだったかもしれないが、幼児の私にとっては、とてつもない冒険だった。
 茂みのトンネルを抜けると、急に視界が急に開けてきた。

 そこは静かな木立の中だった。
 しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
 一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
 自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
 そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
 そこは墓地だった。
 観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。

 大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
 私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎなかった。
 しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
 空想の中では山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずだった。
 それなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
 まっすぐ上に登ったはずなのに、横に到着してしまった?
 子供なりの理屈では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
 納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
 何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
 そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。

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 このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」「遍路」を経験した。
 今から考えるとあぶない話である。
 山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
 しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
 思い定めて山に入るときの酩酊するような感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は「山の向こう」に関心を持ち続けることになる。

 十年ほど前になるだろうか、私はかつての祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみたことがある。
 あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
 違っている所と言えば、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所くらいだった。
 確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……

 山の向こうには何がある?
 今でも私は、その空想癖から抜け切れずにいる。
(続く)
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2017年05月13日

へんろみち3

 幼児期以降も、ずっと「山登り」は好きだった。
 小学生の頃はよく六甲山に連れて行ってもらったし、自然学校やキャンプは毎回楽しみにしていた。

 中高生の頃は「学校の裏山」が好きで、よく登っていた。
 私の母校は当時創立二十年ぐらいの私立中高一貫校、一応受験校だった。
 創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
 当時はまだ私立受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
 その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
 漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
 教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
 私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
 しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。

 そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
 私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
 死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
 「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。

 私は早々に勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
 受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だったのだ。
 所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
 窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
 勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
 私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
 
 ダン、ダン、ダンダンダン……

 叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
 私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
 創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩がバイオリンの伴奏で作ったものと伝えられていた。
 昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
 風の便りでは、愛憎渦巻く(笑)我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
 時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、まだ歌い継がれているのだろうか?
 今でも私は夕暮れ時になると、なんとなく昔憶えた「寮歌」を口ずさむことがある。

 厳し過ぎる学校生活の中で「自分」を取り戻せるのが、ほぼ私専用アトリエになっていた美術部の小さな部室と、校舎の背後に迫る裏山だった。
 学校は溜池や低山が散在する平野の真っ只中に位置していて、とにかく自然環境には恵まれていた。
 敷地内に池や竹藪があり、いくつか裏山に登れるルートもあった。
 校門から校舎に至るまでの長い長い道のりの途中で、雉や野兎、サンショウウオを見かけたこともあった。
 中高生くらいだと「街」に対する憧れが強くなるので、そうした「田舎」の環境も、生徒にはあまり歓迎されていなかったが、私は好きだった。
 ごくたまに体育や生物の授業で裏山に入ることもあったが、私のように単なる楽しみとして登っている生徒はほとんどいなかったのではないかと思う。
 当時はまだ週休二日制以前で、土曜の午前中は授業があった。
 午後からは五時まで好きにしてよかったので、私は部室か裏山かのどちらかで過ごすことが多かった。
 気候が良い時は体育用のジャージに着替えて裏山に登った。
 低い山だがけっこう起伏に富んでいて、尾根伝いに一山越えると地元の大きな神社に行けた。
 境内で柏餅を売っていて、おやつによく食べた。
 学校から少し登ったところに視界の開けた岩場があり、そこが私のお気に入りだった。
 天気次第では瀬戸内の島の連なりも遠く眺められて、息の詰まりがちな厳しい学校生活をしばし離れることができた。
 そこのことは友人にも教えず、秘密基地っぽく一人で通っていた。
 中高生の頃の私は、他にも自宅近くの遺跡公園など、「一人で物を考えたり、絵を描いたり、本を読んだりできるところ」を何か所か確保していて、今でもそうした行動パターンは続いている。

 振り返ってみると、これは幼児期に祖父母宅でやっていたのを、多少規模を拡大してそのまま繰り返していたようにも思える。
 地理的にもけっこう近い。
 そして90年代に入ってから知ったのだが、私が中高生の頃好きだったあの裏山は、熊野修験者の行場とも山続きになっていたらしい。
 無意識のうちに、私はそうした世界に心惹かれていったようだ。
(続く)
posted by 九郎 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

へんろみち4

 私立の中高一貫、中堅スパルタ受験校という環境に適応できていたとは言いがたい私だったが、裏手に山が控える自然豊かな立地には救われ、多くを学んだ。
 幾人か終生の友人も得たし、勉強以外のところで気にかけてくださる先生もいた。
 毎年のように留年の危機を繰り返していたが、結局はダブらずに「出所」でき、おまけに大学受験も美術系に切り替えて現役合格できたのだから、これであれこれ恨み言を述べては罰が当たるだろう。
 教育学部系の美術科に進学した私は、気が付いてみればまた「山の近く」に通学していた。
 私は幼い頃の原風景の影響からか、「背後に山を控える」というイメージに馴染みやすいようだ。
 志望にあたって、学校の立地条件はとくに考慮していなかったはずだが、もしかしたら無意識のうちにそうした環境を求めていた所はあるかもしれない。
 学部は山の麓から中腹までのエリアに散在していたので、私は毎日のように軽い「山登り」をすることになった。
 基本的には都市部なのだが、斜面地に建てられているので校内には良い感じで樹林や藪が食い込んでいて、「山の中の学校」という要素も両立していた。
 すぐ近くに登山口もあり、気が向けば空き時間に本当に登山してくることもできた。
 私の学生生活はほぼ90年代初頭と重なっている。
 当時は震災もテロ事件も経ておらず、バブルの残り香もあって、世相は今からは考えられないほどユルかった。
 大学構内は治外法権みたいな気風がまだまだ強く、多くの学生サークルが、昼となく夜となくきわめてルーズに「好き放題」をやっていた。
 私はこれまでにも何度か書いてきた演劇サークルとともに、文芸系のサークルに顔を出していた。
 演劇の方は公演ごとの外人傭兵みたいな感じだったので、普段はむしろ文芸系サークルがメインだった。
 そちらの部室がまた怪しかった。
いくつかのサークルが共用していたその建物、元々は食堂と簡易宿泊用の建物だったようなのだが老朽化で部室用に下げ渡されたような経緯があったらしい。
 見た目は完全に「廃屋」だった。
 部外者には妖気が漂って見えたらしく、「お化け屋敷」とも呼ばれていたが、まあ「住めば都」である。
 部室には、建物にふさわしい一風変わった先輩方が何人もいた。
 文芸系とはいいながら、学部も趣味嗜好もバラバラで、同人誌も出せば8o映画も撮り、あちこち引っ張り回してもらった私はたちまち感化された。

 サークルには何人か「散歩好き」の先輩がいた。
 学校周辺は観光都市、工業地帯、下町、歴史民俗、自然環境がごちゃ混ぜになっていて、散歩のし甲斐がある地域だった。
 面白い散歩エリアを、話の分かりそうな後輩に教えていく「伝統」みたいなものがあったのではないかと思う。
 私は先輩や後輩と連れ立ったり、または一人で飽きずにあちこち歩き回った。
 とくに夜の散歩は刺激的だった。
 少し登って見晴らせば、夜景は素晴らしかった。
 沿岸部の工業地帯は夜通しゴンゴンと稼働して、機械の集合体のようなエリアはまるで生き物のようだった。
 細い路地を選んで歩いているといきなり古い神社に出て、黒々と天を突くような楠の大木に出くわした。
 
 散歩を楽しむには、散歩道にある面白い風景を、ちゃんと面白いと感じるセンスと、やっぱりある程度の体力が必要だ。
 散歩に必要な体力は物凄くシンプルで、「一日中ほっつき歩いていられるか?」ということに尽きる。
 それはスポーツ的な体力とはまた違う。
 私は高校時代、サボりながらも剣道部所属で、心肺能力などのスポーツ的な意味での体力は、その頃がピークだっただろう。
 それでも、一日中歩いているのは無理だった。
 朝から夕方まで歩き回ってわりと平気になったのは、大学時代にさんざん散歩をやるようになってからだったと思う。

 散歩ルートに恵まれた学校の立地。
 伝授された散歩センス。
 一日中ほっつき歩いても平気な散歩体力。

 それとは意識しないうちに、私の中に「遍路」に向けた要素が蓄積されていった。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

へんろみち5

 90年代初頭の学生時代、私は文芸系のサークルによく顔を出していた。
 お化け屋敷のような怪しい老朽建築の部室には、その場に相応しい一風変わった先輩方がいて、私はあちこち引っ張り回してもらった。
 先輩方の感化を受け、学校の立地がそぞろ歩きに向いていたこともあり、私は散歩というものの面白さに目覚めていった。

 そのサークルは毎年二回、夏休みと春休みに合宿を行っていた。
 合宿と言っても文芸系なので、体育会のように何かの特訓を積みに行くわけではない。
 直近で発行した同人誌の合評くらいはするけれども、メインは親睦、観光で、私流に言えば「遠出の散歩」というような感覚だった。
 行先は様々だが、けっこう怪しい所を巡った覚えがある。
 その中の一つ、飛騨高山は春合宿の定番で、私は在学中に二度ほど行った。
 かの地はもちろん歴史民俗に恵まれた「小京都」で、全国的にも知られた観光地だ。
 普通に訪れるだけでも十分楽しめるのだが、少々横道にそれても面白い。
 私の趣味で言えば、オカルト界隈でもけっこう話題にのぼる地だったのだ。
 まず目立つところでは、丹波哲郎の霊界映画のロケ地にもなった、とある新宗教の大神殿がある。
 宝珠の乗った大きな屋根が見えるので、近くなのかと思ってそちらへ向かうのだが全然到着せず、接近すれば接近するほど大屋根が巨大になっていって驚いた。
 圧倒的なスケールにちょっとビビりながら訪ねてみると、アホな学生の物見遊山丸出しの参拝でも受け入れてくれ、あれこれ解説などしてもらえたのはありがたかった。
 カルト宗教のテロ事件以前のことなので、まだ時代的に「宗教をネタに楽しむ」というのも「有り」だったのだ。
 超能力の一種、「念写」の研究で有名な福来友吉博士の記念館なんかもあって、ものの本で見たことのあるような「月の裏側の写真」などの現物が展示されていた。
 当時はまだフィルムカメラの時代だったので、宿に帰ってからさっそく念写を試してみたが、もちろんフィルムを無駄にしただけに終わった。
 他にも「位山ピラミッド」とか、「両面宿儺」とか、面白そうなモチーフには事欠かない土地柄だ。
 私は必ずしもオカルトを「信じている」わけではないのだが、時代ごとに様々な伝説が折り重なっていくのは、やはりその土地自体に「何か」があるのだろうとは思っている。
 うちのサークルにはどこへ合宿に行くにしても、ちょっと怪しかったり、散歩が楽しめるところを探すのが上手い先輩が何人かいた。
 今なら検索でいくらでもネタを探すことはできるだろうけれども、念のために書いておくと、当時はまだインターネットは存在せず、ケータイすらろくに普及していない時代である。
 ものを調べるにはセンスと手間が不可欠だった。
 今回は例として飛騨高山のケースを紹介しているが、面白い場所を探すには、まずそこを面白いと感得できるセンスが第一で、加えてその人なりの情報収集のルートやノウハウというものが、ネット以前には重宝されていたと思う。
 そういうものを持っている人は、たいてい散歩の達人でもあったのだ。

 大学の立地などの環境に恵まれ、先輩方に恵まれて、私の「散歩感覚」は徐々に刺激されていった。
 街を、読むように歩く。
 道を、読むように歩く。
 目的地ありきの移動ではなく、移動して読むこと自体を目的とする歩き。
 私の場合は、工業地帯や下街のような「人為の極み」の世界も好きだったが、やはり神社仏閣や樹木、自然の風景が性に合っていた。
 もともと「山の向こう」に対する憧憬が原風景としてあったせいかもしれない。
 そして学年が進んで上級生になると、今度は自分が後輩をどこに引っ張り回すか考える番が巡ってくる。
 確か三回生の頃の夏合宿、私の強い要望で決まった行き先が「熊野」だった。
 私のやや本格的な「へんろみち」は、どうやらこの時期から始まっているようだ。
(続く)
posted by 九郎 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする