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2017年05月20日

へんろみち6

 90年代初頭、私が熊野に心惹かれるようになったのは、当時愛読していた作家の著書がきっかけだった。
 その作品にはとある神山をモデルにした描写があり、あとがき等でも熱を込めてそのお山のことが紹介されていた。
 もともと山が好きだったこともあり、どうしてもそこに行きたくなったのだが、詳しい所在地は全くわからなかった。
 どうやら奈良県の吉野のもっとずっと奥にあるらしいということはわかっていたのだが、具体的にどんな交通機関でどんな経路をたどればよいのか、何一つわからなかった。
 当時はまだ、「熊野」という地域がどのあたりなのかすら、よく知らなかったのである。
 まだネットが存在せず、知りたいことは何でも手間をかけて自力で調べなければならない時代だった。
 図書館に行ったり、旅行地図や時刻表をあれこれ開いてみて、ようやくそのお山が奈良県南部、十津川村にある温泉地の近くにあるらしいことが分かってきた。
 ちょうど季節は夏、大学で所属していた文芸系サークルの夏合宿の時期で、私は三回生の発言力を行使して、なかば強引に合宿地をそこに決めてしまった。
 とくに有名な観光地がある訳でもない、地味な山村である。
 他の合宿参加者は「まあ、おまえがそこまで行きたいなら」ということでなんとか同意してくれたが、もしかしたら呆れていただけなのかもしれない(笑)
 お山の名はとくに記さないけれども、奥吉野であり、十津川村の鎮守であり、熊野の奥の院でもあるという情報があれば、今ならけっこう簡単に調べはつくだろう。
 本当に行きたい人、縁のある人だけが行けば良い。
 そういう山なのだ。
 
 90年代当時と違い、2000年代に入ってからは、熊野が世界遺産に指定されたこともあって、かなり情報が得やすくなった。
 それでも「熊野はどこにある?」と聞かれると、今でも少々答えに迷う。
 和歌山県とかなりの部分重なっているが、必ずしも現在の県境でくくられる範囲ではない。
 和歌山県南部、三重県南部、奈良県南部を囲む大きな円を描き、紀伊半島南部をぐるりと囲んだものをイメージするとわかりやすいかもしれない。
 熊野はある意味、地名ではなく文化圏だ。
 それは近代に入ってからの人為的な県境よりもはるかに長い歴史の蓄積を持っている。
 和歌山と聞いてイメージされる和歌山市周辺、奈良と聞いてイメージされる大和、三重と聞いてイメージされる伊勢、そのどれもが「熊野」とは異質だ。
 中世熊野信仰の中心となった熊野三山、本宮・那智・新宮が一応和歌山県に属しているため、観光情報を探すなら和歌山から探すのが話がはやい。
 観光パンフレットで使われる言葉では「南紀」という分類が、地理的には一番熊野に近い。
 しかし、「南紀」という言葉から「太陽のふりそそぐリゾート」をイメージするならば、それは熊野とは全く違う。
 明るい陽光はもちろん熊野の属性の一つではあるけれども、それだけではない。
 強い光には濃い影が差す。
 熊野は暗く恐ろしい所でもある。
 そのコントラストの強さが、熊野なのだ。

 紀伊半島の真ん中あたりには、鉄道が通じていない。
 奈良の五條から和歌山の新宮にかけて、国道168号線が細く通じており、そこを走るバスが唯一の公共交通機関になる。
 関西からは北の五條から、関東からは南の新宮から入るのが、まずは順当なルートになるだろう。
 お山に到達するためには、五條側からも新宮側からも数時間バスに揺られる必要があり、そこからさらに片道三時間の登山をしなければならない。
 近年は一応山頂近くまで車道が通じ、タクシーで乗り付けることも可能になったが、それでも都市部からのアクセスがきわめて困難であることに変わりはない。
 熊野は今でも、辿り着くだけで多大な時間とエネルギーを必要とする、日本有数の「奥地」なのだ。

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(クリックすると画像が拡大します)

 夏合宿1日目、大阪で集合し、奈良県の五條へ。
 山に囲まれた広々とした盆地景観の中、勇躍バスに乗りこむ。
 新宮へと通じるこのバス道は、かつての熊野古道「十津川路」にあたるのだが、現在はほぼ国道168号線に吸収され、車専用道路のようになってしまっている。
 歩けるような古道の雰囲気はほとんど残っていないのだが、途中何箇所かキャンプ場があるので、夏季にはそれなりに便利なルートではある。
 五條から出発してほどなく吉野川周辺の市街地を抜け、山合いへとバスは分け入る。
 すぐに山は深く高くなり、人家も消える。
 尾根近い舗装道路をバスは進み、やがて曲がりくねった川沿いの道に入る。
 ゆっくり徐行で走り続けるバスに、座席にもたれる体もゆっくり左右にシェイクされ続ける。
 車に弱い人はほぼ確実に酔うだろう。
 まるで子供の頃観ていたTVアニメ「まんが日本昔ばなし」の背景のような山々の連なりは素晴らしく、一見の価値があるのだが、体質的に無理な人はさっさと寝てしまった方が無難だろう。
 合宿メンバーの何人かも、早々にダウンしていた。
 走り続けること1時間40分、目指すバス停までの3分の2ほどを過ぎたところで、「谷瀬の吊橋」に到着する。
 休憩地点なのでしばらく停車し、「日本一長い吊橋」を体験することができる。
 すでに十津川沿いの経路になってから長く、河川敷の川原は広大になってきている。
 熊野の自然の雄大さがむっくり起き上がってきた感じがする。
 休憩を終え、さらに1時間ほど走ってようやく合宿地である十津川村に到着する。
 温泉地で川遊びもでき、昔ながらの山村の風景も豊かに残っているので、地味だけれども普通に観光で訪れるだけでも十分楽しめる。
 しかし、私の密かな目的地は、あくまで憧れの「お山」である。
(続く)
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2017年05月21日

へんろみち7

 合宿二日目、いよいよお山を目指す。
「山登りをするけど誰か一緒に行く?」
 そう聞くと、メンバーの一人が手を挙げた。
 早朝宿を起ち、朝一のバスで登山口に最も近い停留所に降り立つ。
 心おどらせながら、ゆるく登り傾斜になった舗装道路を歩きはじめる。
 真夏のことなので、日が昇ると同時にアスファルト道路は猛烈に暑くなってくる。
 早くも汗びっしょりになりながらしばらく歩くと、道路わきの暗がりに、小さな滝と祠が見えた。
 落水の音と共に滝の飛沫が辺りの体感温度を下げ、それまで続いていたアスファルト道路の輻射熱を優しく緩めていた。
 右手に小さな手水場があり、青銅の竜の口から清水が垂れている。
 どうやら滝から引いた水のようだ。
 手で水を受けて口に運ぶと、冷たく清冽な味覚にのどが痺れる。
 これはいいと、手持ちのボトルの中身を飲み干してから、竜神さんの水に入れ替えた。
 ここでの水汲みは、以後何度となく繰り返すことになる私のお山詣での、馴染みの入山儀式になった。
 さらに進むと、道端に「旧参道」というサインが出ている。
 旧の名に相応しく、入り口からもう草が生い茂っていて、とてもまともに通れそうになく見える。
 危険を感じてそのまま舗装道路を登ることにしたのだが、この判断は完全に間違っていた。
 後からわかったのだが、旧道はところどころ消えかかりながらも頂上にある神社まで続いていたし、舗装道路はあくまで車用の道で、傾斜は緩やかだが距離がやたらに長かったのだ。
 結果的には灼熱地獄のような道を、旧道の倍ほどの時間をかけて登るはめになった。
 登りで懲りたため、下りは旧道を通ったのだが、あまりの涼しさに驚いたりした。

 ともかく、登りである。
 どこまで続くのかわからない車道を延々と歩く。
 何度も「もう限界か」という疲労を乗り越えながら、それでも着かない山頂を目指して歩き続ける。
 見晴らしだけは素晴らしいので、自分の体がどんどん高度を上げ、雲の世界に近づいていく様が刻々とわかる。
 たとえば普段都会人が生活している市街では、空の世界は目の前の建物のすぐ上にあるように見える。
 空が限りなく高いことを頭ではわかっていても、実感としてその高さを感じることは少ない。
 ところが山に入ってみると、自分が汗を流して登った分だけの高さを、体感として知ることができる。
 見晴らしの良いところで遠望すると、山や谷や、遠くまでのびる川に囲まれた空間の広さを、目の当たりにすることができる。
 何もない空を見上げるだけでは認識できなかった空間の広さを、自然は包み込むことで表現してくれるのだ。
 そして、そこまで登ってもまだ届かない、雲や太陽や月の高さも、原始的な感覚として思い知ることができる。
 暑さと疲労に苛まれながら、「山って高いなあ」とか「空はもっと高いのか」とか、「意外と自分の足も捨てたもんじゃないとか、様々な思いが頭を巡る。
 映像でも写真でも文字情報でもなく、体で知ることができる。
 体で知ったことは、確実に意識も変容させる。
 山頂に近づくほどに、植生は深くなり、木の樹齢は重なっていく。
 チャンネルの切り替わった意識が、「ここは普通の場所ではない」と考える。
 中世人のような「畏れ」の感覚が目覚めてくる。

 そうこうしているうちに、山頂付近の駐車場に着いた。
 歓喜のままに、ぶっ倒れるように一休み。
 大鳥居をくぐり、いよいよ境内へ。
 とたんに空気がシンと冷え、澄みきる。
 それまでの植林された杉とは一段も二段もスケールの違う原生林が、参道をとりかこんでいる。
 ぞくりと胸から腰にかけて震えが走る。
 徐々に巨大化していく杉の群れに、自分の体の方がどんどん小さく縮んでいくような錯覚を覚える。
 原生林の目に沁みるような濃い緑に、真っ赤な幟の列が強烈な対比を生んでいる。

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「これか……」
 愛読する作家が熱を込めて紹介していたお山の描写が、決して誇張ではなかったことを知る。

 ぞく、
 ぞく、
 ぞく……
 
 私は憑かれたように神域奥深くへと歩を進めていった。
(続く)
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2017年05月22日

へんろみち8

 90年代初頭の学生時代、主に顔を出していた文芸系サークルの夏合宿で、私はそれ以前から一度は行ってみたかった、とあるお山に登った。
 噂に違わぬ凄まじい神域で、合宿から帰った後も、私はしばらくぼんやりと余韻に浸っていた。
 8月上旬、大学の夏休みはまだまだ長い。
 ある朝、唐突に「もう一度あの山に行こう」と思い立った。
 私はごくたまに、物凄く衝動的に行動することがある。
 普段は極めて保守的で、行動パターンを崩すことはないのだが、何年かに一回というほどの頻度で、自分でもわけのわからない動きをする。
 後から考えるとそれなりの理屈付けもできるのだが、行動を起こした時点では、少なくとも表層意識の上ではなんの展望も計算もない。
 朝食後、さっそく荷物をまとめ、一人で出発した。
 つい最近の合宿で交通機関、道順などは一応記憶していたので、とくに調べることもなく奈良の五條まで着いた。
 通常ならそこからバスに数時間揺られるのだが、その時の私はなぜかこう思った。
「よっしゃ、歩いたろ!」
 その時点で既に午後になっていたので、徒歩でその日のうちに目的地まで行けるわけがない。
 少なくともどこかで一泊はしなければならない。
 ただ、山間部とは言え、登山道ではなく国道のバス道を歩くだけのことだ。
 たとえ野宿になっても、遭難するほどのことにはならないだろう。
「なんとかなるやろ!」
 実際、なんとかなった。

 一応なんとかなり、死にはしなかったものの、とんでもない難行苦行にはなった。
 合宿地に着くまでに二日、温泉で疲れを癒して目的地のお山に登れたのは三日目のことだった。
 二回目のお山は、初回以上に神気溢れて感じられた。
 長時間自分の足で歩き尽すというプロセスが、私の感覚に影響を与えていることはすぐに分かった。

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 ああ、こういうことか!
 おれはこの風景が見たかったのか!

 理解が後追いでやってくる。
 夏合宿の時、苦労して参拝した後、宿に帰ってからお山の凄さをサークルメンバーに説いた時のことを思い出す。
 私があまり熱心に語るので、翌日何人かが登ってみたのだが、感想を聞いてみると今一つ反応が鈍かった。
 そう言えば、あの時のメンバーは、徒歩で登らずにタクシーで山頂近くの駐車場まで行ったのだった。
 その時は意識化されていなかったのだが、お山に到着するまでの時間や労力と、お山に対する感受性に、相関するものを嗅ぎ取っていたのかもしれない。
 中世の参拝者みたいに、野宿しながらできるだけ徒歩でお山に到達したら、どんな風景が見えるのか?
 私の中からごくたまに浮上してくる衝動的な私は、たぶんそんな実験がやってみたかったのだ。
 夏合宿からさほど間をおかず敢行したこの徒歩の旅が、その後毎年のように繰り返されるようになる私の熊野遍路の第一歩となった。

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 それから私は90年代の間に、お山に十回くらいは行ったと思う。
 行くたびに感動があり、発見があった。
 ただ、これは個人的な感覚なのだが、かのお山の神気は、年々少しずつ減じていったのではないかと思う。
 それは駐車場から続く参道が、年々整備されていったことと無関係ではないだろう。
 神社の関係者の皆さんが参拝者の便を図るのは当たり前のことなので、これは決して批判ではないのだけれども、参拝しやすさと山の神気は、ある意味では相反する要素なのかもしれない。
 参道のアップダウンや険阻さが解消され、平坦で歩きやすくなるにつれ、荒々しい太古の森の雰囲気は薄れていった。
 さらに言えば、私がお山に登るようになった90年代より以前、車道も駐車場もなく、徒歩で登るほかなかった時代には、おそらくもっととんでもなく神秘的な場所だったに違いない。
 時間は戻せないので仕方のないことなのだが、90年代初頭のお山を体感できたことは、本当にありがたかったと思う。

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 学生時代に何度もお山に登ったことで、私はいくつかのインスピレーションを得た。
 一つは文芸系サークルでその後二年ほどかけて書き続けた物語になり、もう一つは美術科の卒業制作になった。
 その二つの作品を描き切ったことで、私は学生時代の「祭」をいったん閉じることができた。
 そして次の祭をさがすようになった顛末については、以前紹介したことがある。
 
 同じ頃、私は一人の「師匠」に出会うことになる。
(続く)
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2017年05月23日

へんろみち9

 90年代初頭、学生生活を終えるか終えないかくらいのタイミングで、私は一人の「師匠」と出会うことになる。
 その師匠について語る前に、「へんろみち」に関連する私の学生時代の体験について、書き残しをさらっておく。

 演劇と文芸系サークルにうつつを抜かす私だったが、「真面目」とは言わないまでも、大学の正規のカリキュラムもそれなりに楽しんでこなしていた。
 教育系の美術科だったので、絵画もデザインも立体も工芸も、広く浅くではあるが、一通り実習できたのは得難い体験だった。
 何よりも、学校の設備や備品を遠慮なく使用できるのが、貧乏学生にはありがたかった。
 鉄の溶断溶接や金属工芸などは、授業が無ければ体験する機会は無かっただろうし、先生方や先輩方は皆個性的だった。
 デザイン室ではマーカー等のデザイン用具を好きに使わせてくれた。
 当時のデザインマーカーは、まだアルコール系の「スピードライ」が主流で、「コピック」がぼちぼち出始めの頃だったと記憶している。
 スピードライはインクの伸びや発色が素晴らしく、そこだけ見ればコピックより性能は上だったと今でも思っている。
 しかし、コピー機が一般に普及し切った90年代、コピー印刷面に使用できないという欠点はやはり大きく、徐々にコピックに駆逐されていった。
 どちらを使うにしても、マーカーに熟達するにはザクザクと手を動かしてスケッチを繰り返すしかない。
 インク残量と財布の中身を気にしながらケチって使うようでは中々上手くならないので、備品で用意されている環境は本当に貴重だ。
 好きなデザイナーの画集でマーカーによるスケッチを眺めながら、ああでもないこうでもないと再現を試みるのが、上達の一番の近道なのだ。
 
 彫塑の授業も記憶に残っている。
 抽象表現の入門編として、ヘンリー・ムーアのスケッチから見えない面を自分で補完し、石膏直付で立体に立ち上げる課題があった。
 ヘンリー・ムーアというのは抽象彫刻のゴッドファーザーみたいな人物で、母子像や横たわる人物、骨などの代表的なモチーフを、様々な抽象化の度合いで繰り返し作品化している。
 スケッチもたくさん公開されており、「形状の抽象化」ということを学ぶにあたって、これほどぶつかりがいのある立体アーティストは他になかなか見つからないのだ。
 平面ならピカソ、立体ならヘンリー・ムーアというのは抽象表現入門の定番で、私は今でも人に教える機会があればこの二人を紹介することにしている。
 課題をこなしながらヘンリー・ムーアの作品写真を見たり、展示を観に行ったりするうちに気付いたのは「虚」の表現ということだった。
 ムーアの作品には穴が開いてたり、隙間があったり、いくつかの塊の配置されていたりするのだが、そうした作品の「実体」だけでなく、囲まれたり、挟まれたり、切り取られたりした「虚の空間」まで、綿密に表現されているのだ。
 絵を描いたり物を作ったりしていると、いずれは「間」とか「余白」等の、自分が直接手を下していない部分まで含めての「作品」「表現」なのだと気付く段階に至る。
 私の場合は授業をきっかけにヘンリー・ムーアに取り組んでいる時にようやく、そのことをはっきり理解するに至った。

 そのことに気付いてからは、同時進行でやっていたアマチュア演劇の舞台美術に対しても、心構えが変わった。
 舞台美術は「舞台上に置くものを作る」のではなく、そこに芝居が盛られるための「虚の器を整える」ものなのだ。
 そこから色々と頭の中でつながってくる。

 ああ、「建築」もそういうことか。
 もしかしたら、「道」もそうか。
 すると「散歩」は……
 文章にも「書かない部分の表現」はあるな……
 詩は……

 課題をこなしたり、あれこれ考えたりしているうちに、ぼちぼち「卒業」という二文字が迫ってくる。
 我が美術科では卒業制作と、50枚ほどのボリュームの卒業論文を書く必要がある。
 卒制はまあ描けるとして、卒論は?
 ノープランだった私は、担当の先生に相談した。
 日頃考えていた「虚の空間」のことなどを話すうち、先生は突然口をはさんだ。
「よし、わかった。君はライトをやりなさい!」
「は? ライト?」
「どうせ卒論書くなら、ぶつかりがいのあるテーマで少しでも勉強して卒業しなさい!」
 こうして私の卒論のテーマは、半ば強制的に「近代建築の巨匠」フランク・ロイド・ライトに決まったのだった。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

へんろみち10

 学生時代の私は、絵を描いたり物を作ったりと言うことはもちろん好きだったけれども、建築と言うジャンルに関してはとくになんの勉強もしていなかった。
 母方の祖父が大工であったし、神社仏閣には興味を持っていたので、関心がゼロと言うわけではなかったが、興味の範囲はせいぜい和風の木造建築止まりだった。
 現代建築についての知識は、バブルの残り香のある90年代初頭の学生としては、人並み以下だったと言って良い。
 そんな私が、卒論のテーマにフランク・ロイド・ライトを選ぶというのは、担当教官の半強制によることとはいえ、なんとも唐突な話だった。
 19世紀末から20世紀前半に活躍した鉄筋コンクリートによる近代建築の巨匠と言っても、当時の私は名前すら聞いたことがなかった。
 しかし卒業するためには、どのみち卒制と卒論はこなさなければならない。
 私の場合は卒制がメインで、卒論の方はとにかく合格がもらえればそれでよかった。
 とくにこだわりのあるテーマも持っていなかったので、先生に勧められるままに資料を探し始めた。
 当時はライトについて初心者が日本語で読める本はさほど多くなくて、大学の図書館に所蔵されている何冊かしか見つからなかった。
 その中に、ライト本人から直接教えを受けた弟子の一人が書いた本があり、「変わり者の師匠を持った弟子の青春記」みたいに読めて、かなり面白かった。


●「知られざるフランク・ロイド・ライト」

 最初の一冊がとても面白く、ライトのキャラクターに興味が持てたことで、私は一気にハマった。
 当初は先生の言いなりに50枚程度こなせればそれでいいという程度のモチベーションだったのが、積極的に調べてみる気になってきた。
 その気になって資料を漁ってみてとくに面白かったのが、ライトの残した数々のスケッチだった。
 丁寧に作図され、色鉛筆で淡く着色された完成予想図は、まず「絵」としてとても魅力的だった。
 建築図面の持つ精緻さ、硬質な美しさとはまた別の、柔らかさがあり、どこか浮世絵を思わせる雰囲気もあって、絵描きの感性でも受容しやすかった。
 実際の建築物としては完成しなかったスケッチもたくさんあった。
(以下、20年以上前の不確かな記憶で書くので、内容については要確認!)
 大地に巨大な剣を突き刺したような数百階建てのビルの真ん中あたりにはたなびく雲が描かれていたり、未来の交通手段として個人用の小型ヘリが描きいれられている絵もあり、SF的と言うか、マンガっぽいというか、手塚治虫が描くような未来都市の風景にもちょっと似て見えた。
 2010年代の今あらためて思い返してみると、中東あたりの超高層ビルや、小型航空機の発達を予言していたようにも思えたりして(笑)
 そうしたぶっとんだスケッチと共に、個人住宅の設計のような規模の小さい仕事もライトの魅力だった。
 まず立地が面白かった。
 斜面地など、普通は住宅建設には不向きだと思われる地形を逆に利用し、大きくはり出した廂で屋内と屋外の中間領域を多用したデザインは、どこか日本建築とも共通して見えた。
 代表作の「落水莊」に至っては、滝を含む渓流をまたぐように描かれていて、完成写真でも実際そのように建てられていた。
 スケッチを眺めているうちに、ぜひ一度ライト設計の建築の実物を見てみたい、できれば中に入ってみたいと思うようになった。
 するとこれまた都合の良いことに、当時住んでいた所からも近い六甲山麓に、ライト設計の建築物が現存していることがわかった。
 芦屋にある「ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)」である。
 しかも、私が卒論を書いていた時期は、屋内の一般公開が始まって数年後のタイミングだったのだ!
 さっそく行ってみると、芦屋川を西に眺める斜面の立地はまさにライト建築だった。
 木立の間から覗く薄茶色のコンクリートが、国籍不明の「お城」みたいに見えた。
 まず外見が魅力的で、コンクリートブロックの連続する意匠はリズムパターンを刻むようだった。
 斜面地なので最下層にあるエントランスから徐々に階層が重られていて、古い鉄筋コンクリート造りだが、入ってみると中は意外なほど明るく開放的だった。
 建物の内外、部屋と廊下などのそれぞれの区切りに「緩衝地帯」が設けてあり、光や空気が出入りできるようになっているのだ。
 廊下や階段、部屋の配置は元々の地形に沿っており、目の前で次々に展開される空間の連続は、ちょっとした「探検気分」が味わえた。
 南には大阪湾が広がっていて、屋上に上がれば直接、室内からは窓枠に区切られた絵画のように眺めることができた。
 全ての設計が、元々の立地の自然環境を上手く利用し、味わい尽くすように為されていると感じられ、それは私流に言うなら「極上の散歩体験」と同質のものに思えた。
 私は卒論執筆中何度も現地を訪れ、あちこちでのんびり過ごしながら感じたことをメモし続けた。
 担当の先生がどこまで意識していたかは分からないが、当時の私の関心の方向とシンクロしていたのである。
 卒論自体はなんとか枚数はこなせたものの、「論」の体をなしていない「感想文」に過ぎなかっただろうけれども、まあお情けで通してもらえた。
 しかし、この時点で比較的真面目にライトの建築にぶつかってみたことは、本当に貴重な経験になったと思う。
 基本的に絵描きの私は、なんでも感性で処理しがちだったのだが、「勉強って楽しいな」と、卒論の段階になって初めて素直に思えた。
 以後、私の心には、絵描きは絵描きなり、バカはバカなりに、勉強していこうという灯が点った。
 フィクション作品以外の読書、勉強の価値を(ちょっと手遅れ気味ながら)認識できたのだ。
 90年代後半、あらためて本を読んでみる気になったのは、卒論を書いた時のささやかな勉強体験が効いていたのかもしれない。

 卒制・卒論ともになんとかパスし、半期遅れだが無事卒業した頃、それと同時進行で私は「師匠」と出会っていた。
 絵を描く、物を作るということから「虚の空間」へと興味が広がった。
私の「へんろみち」は、そこからさらに一歩進んで「地形を読む」「風景を読む」というものの観方に触れ始めていたのだ。

(小休止の後、続く)

 追記:記事中の「ヨドコウ迎賓館」、現在は修復のため閉鎖中のようだ。いずれ公開される日が来たら、ぜひもう一度あの空間に浸ってみたい。
posted by 九郎 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする