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2017年06月03日

へんろみち11

 そろそろ、90年代にお世話になった「師匠」Nさんのことを書いておきたい。
 師匠と言っても、私が勝手に「弟子」を自認していただけなので、別に形式張った付き合いではなかった。
 世間的には「事務所の社長と古参のバイト」という関係になるが、それだけでくくり切れるものでもなかった。

 Nさんと私の縁は、学生時代のサークル活動からつながった。
 当時、私が主に文芸系サークルに出入りしていたことは既に書いた。
 文芸系サークルなので文学部や教育学部所属はもちろん多かったが、意外と理系学部もいた。
 中でも工学部の建築系のメンバーは切れ目なく入って来ていた。
 元来美術と分かち難い歴史を持つ建築という分野は「理系の中の文系」みたいな所があるのかもしれない。
 建築系の学生が、美術や文芸、演劇のサークルに加入するケースはけっこう多く、あちこちで頻繁に交流はあった。
 入学当初は建築に関してはゼロだった私も、そんな交流の中からじわじわと「空間」と言うものに関心が出てきて、卒論ではついに畑違いの近代建築をテーマにすることになったりした。

 Nさんの事務所は大阪にあり、ごく簡単に書くと、都市計画や景観、造園関連の仕事をしていた。
 そのNさんの事務所には、私が出入りしていた文芸系サークルの建築系を中心とした先輩が、何人か入社したり、バイトで入ったりしていた。
 在学中、そうした伝手で私もバイトに誘われた。
 主な仕事内容は、報告書の版下作業やプレゼン用の図面作成。
 当時はまだデータ入稿が一般化していなかったので、切り貼りやマーカーでの着色、コピーや製本など、実際に手を動かすアナログ作業が大半だった。
 作業内容だけで見ると漫画原稿作成とも共通するデザイン系の仕事だったので、畑違いの私でもなんとか対応できたのだ。

 Nさんは親の世代に近かったが、普段はそこまでの年齢差は感じなかった。
 元々は絵描きで演劇経験があったそうで、私とは経歴に共通点があった。
 山好き等の趣味嗜好、体格も似たところがあって、私の方ではなんとなく「都会でたまたま出会った同じ部族出身者」というような印象を持っていた。
 たぶんNさんも同様に感じていたのではないかと思う。

 卒業前後のタイミングで断続的にバイトに入るようになり、私の場合は絵が描けたので色々教えてもらった。
 技能面では景観イラストの描き方を教わったのが一番大きいけれども、Nさんから学んだものはもっと幅広い。
 地図・地形の読み方、都市計画、風水の考え方などを、私はバイトの仕事内容を通じて「門前の小僧」として聞きかじった。
 元々興味のあった沖縄や熊野に関する仕事も多く、事務所の本棚に並ぶ書名をたよりに読書を進めたりした。
 事務所にはデカい泡盛の甕が鎮座していて、夕方頃からは一杯やりながら仕事をすることもあった。
 氷を浮かべ、好みで水割りにする沖縄式の飲み方を教わったのも、Nさんからだ。
 飲みながら芸能や民俗に関するあれこれを聞かせてもらうのが好きだった。
 事務所の仕事内容と重なりつつも、ちょっとずれたところで教わることが多かった。

 変わり種を面白がって、Nさんには仕事上がりに色々連れ回してもらった。
 私がお供だと気兼ねがないのか、けっこう怪しげな店にも飛び込みで入った。
 今でも覚えているのは、ビルの谷間の駐車場みたいなスペースに、小学校の運動会で使うようなテントを張った仮設店舗のことだ。
 祭の露店の飲食スペースに似た感じなのだが、もう少し耐久性はあった。
 壁は一応ベニヤが張ってあり、少なくとも数ヵ月レベルで経営しているであろう雰囲気はあった。
 店構えを一目見て「怪しいなあ」と笑いながら中に入ると、折り畳み長机の椅子席と、ビールケースを重ねた上に古畳を敷いた座敷(?)席があった。
 使われている材料の一つ一つに、なんとなく「運動会」のイメージがあった。
 座敷(?)席は常連さんらしき客が占められていたので、Nさんと私は椅子席についた。
 壁にたくさん張り付けてあるメニューをたよりにマグロの刺身を頼むと、カレー皿みたいな四角い皿に山盛りで出てきた。
 カレー皿「みたい」というか、多分カレー皿そのものだったのではないかと思うが、文字通りの「山盛り」で、確か500円くらいだったと思う。
 ちょっと気になったのがメニューに混じって何ヵ所かある張り紙で、「刺身はなるべく早めにお召し上がりください」と、念を押してあるところがなんとも不気味だった。
 他のメニューも全部そんな調子で、とにかく安く、カレー皿に山盛りで、鮮度には少々不安を感じさせながらも、まあ普通に食べられた。
 泡盛好きのNさんにとっては、焼酎が不味かったのが難で、再度は行かなかったけれども記憶に残る店だった。
 その後ふと思い出して、仕事帰りに店のあったあたりを一人でぶらついてみたが、どうしても見つけられなかった。
 おそらく「なんらかの事情」で、付近の駐車場のどれかに戻ったのだろう。
 翌日、「あの店もうなかったですよ」とNさんに話すと、「おまえも見に行ったんか」と笑っていた。
 Nさんも何度か様子はうかがいに行っていたらしい。
(続く)
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2017年06月05日

へんろみち12

 酒の席での与太話というのは、一種の「演芸」ではないかと思う。
 お店の雰囲気と飲んでいるメンバーが上手くハマると、なんとも言えない趣向が立ち上がってくる。
 Nさんの好みで大阪近辺の沖縄酒場に行った時には、お店の人とのやり取りが本当に可笑しかった。
 よく、関西人同士の会話を他の地域の人が聴くと「漫才やってるみたい」と表現される。
 関西人のお笑い志向はちょっと極端だが、会話の雰囲気の「地方色」というものは、多分どんな地域にもある。
 沖縄出身で、沖縄から遠く離れたお店の人。
 沖縄出身ではないけれども、沖縄に物凄く詳しいNさん。
 その両者に泡盛という触媒が作用して、亜熱帯の夢と現実が半分溶けたような、何とも言えないオハナシの世界が立ち上がってくる。
 面白がっている私という聴き手がいることも、たぶん少々プラスに作用して、夢と現の沖縄与太話は加速していく。
 私には残念ながら、その独特の世界を再現できるほどの筆力はないが、体感した雰囲気は今でも強く印象に残っている。
 魅力的な民俗の世界に、異国から来た友人としてふわりと入り込んでいくNさんの「芸」のようなものを、私は興味津々で見ていた。

 酒の話が続いているが、別に飲んでばかりいたわけではなく、仕事は仕事でちゃんとやっていた。
 Nさんの事務所は沖縄関連の仕事が多かった。
 今のように沖縄の風物がヤマトでも知られるようになってきたのは、確か2000年代に入ってからのことだ。
 私がバイトを始めた90年代前半は、今ほどには知られていなかった。
 THE BOOMの「島唄」はヒットしていたが、使用されている三線はまだうちなー風に「サンシン」とは呼ばれず、「蛇皮線」と紹介されることが多かった。
 ゴーヤーはまだ全く知られておらず、ましてやチャンプルーという言葉など、一般にはまだ意味不明の文字列に過ぎなかった。
「泡盛は飲みやすさのわりに強いから、すきっ腹で飲まん方がいい。必ず何かつまみながら飲むように」
 沖縄酒場でNさんは、ゴーヤーチャンプルーを注文しながら、そう教えてくれた。
 私は初めて食べてすぐに好きになったが、主な材料のゴーヤーも島豆腐もポークスパムも、ヤマトでは中々手に入らなかった。
 沖縄の味を食いたいと思えばお店に行くしかない時代だった。
 だから時期的にはけっこう早く、私は沖縄のあれこれを知る機会に恵まれたのだ。

 沖縄の景観や街づくり、文化財調査の報告書の版下作業をしていると、自動的に内容を熟読することになる。
 プレゼン用の図面の仕上げ作業をすると、概念だけでなくかなり立体的に頭に入ってくる。
 加えて、Nさんの普段の雑談や、酒席での与太話である。
 私の沖縄基礎知識は、バイトに入るごとに集積されていった。
 素養が出来上がったタイミングで命じられるのが、お待ちかねの「現地調査」である。
 那覇周辺の現地財調査で、私は何度か沖縄に行かせてもらった。
 市内にある拝所や古木、古いお墓、石垣、石畳、シーサー、石敢当などを求めて、連日歩き倒す仕事である。
 リゾートのイメージとは程遠い場所ばかりなのだが、私にとってはむしろ望むところだった。
 文字で読んだり話に聞いていた「沖縄」に触れ、面白くて仕方がなかった。

 昼間は地図とにらめっこしながら写真を撮ったり図面にメモしたりしてまわり、夜は国際通り周辺をぶらついた。
 適当に飲んで領収書もらってこいということだったので、よくわからないまま勘で店に入る。
 ある時、飛び込みで入った一軒では、市内にある神社の娘さんという人がいて、彼女は大阪にも頻繁に行っているそうで、色々面白いお話を聞くことができた。
 土産物屋でココナッツの殻を使ったオモチャウクレレを売っていたので、適当にチューニングして試しに弾いてみると、店のお兄ちゃんが、
「えっ! それほんとに弾けるの!」
 と、逆にびっくりされたことがあった。
 完全に飾りとして売っていたそうだ。
 そこから話がはずんで、ちょっとおまけしてもらったりした。
 現地調査がちょうど県知事選の選挙運動期間と重なっていたこともあった。
 その時は支持が割れてけっこう盛り上がっており、そんな政治的な空気を見聞できたのも良い経験だった。

 Nさんは多忙だったので、私は現地調査では単独行動が多かった。
 今から考えるとNさんは、仕事のついでに私をしばらく放し飼いにしておき、何か感じて与太話をくわえて帰ってくるのを待っていたのかもしれない。
 その期待に沿えたかどうかは分からないが、私なりに沖縄で感得したものはとても多かった。
 その一部は、このブログでもカテゴリ沖縄として記事にしてきた。
(続く)
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2017年06月07日

へんろみち13

 沖縄の伝統的な街づくりや建築には、「風水」の思想が色濃く反映されている。
 沖縄のお土産物の定番になっているシーサーや石敢當も、元来は風水に関連するアイテムだ。
 Nさんの事務所でのバイトを通じて、私は「門前の小僧」として沖縄の風水の考え方の概要を知るようになった。

 風水と言うと、最近は占いやコーディネート術の一流派みたいに紹介されることが多い。
 もちろんそうした要素も含まれるのだが、元々はもっと大きく人が快適に生活するために地形を読み、時には改変するためのノウハウだ。
 まずは広域の地形・地勢であり、その中の立地であり、建造物の配置や構造が重要になる。
 インテリアやアクセサリーの色使い等は、その前提があった上での微調整であろうと、私は理解している。

 風水では大地のエネルギーの流れ、気脈は、龍の姿でイメージされ、地上に展開される様々な地形の中に、姿を千変万化させながら潜んでいると説明される
 風水や、更にその元になった陰陽五行等の道教文化については、「陰陽道」に関する記事で簡単に触れたことがある。

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 カテゴリ:金烏玉兎

 道教文化は東アジアに広範に分布するので、沖縄に限らず、大和本土もその影響下にある。
 そうした中国起源の思想が、仏教説も交えて日本流にアレンジされたものが陰陽道だ。
 現代まで続く陰陽道の考え方には、煩瑣な迷信も多いのだが、自然の地形と人間の暮らしの折り合いをつけるための知恵として、見るべきものは十分残っている。
 よく例に挙げられるのが「四神」だ。
 四つの聖獣を東西南北の方位に配し、人が快適に生活できる地形の理想形を表現するのだ。
 このブログでも、陰陽道風の四神と地形の基本構成は、図にまとめてみたことがある。

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 東、青龍の「川」
 西、白虎の「園」
 南、朱雀の「池」
 北、玄武の「山」

 背後の北に山を背負い、目前の南には水場、東西にはそれぞれ防護となる樹林や川等を備える地形は、日照や日々の暮らしに必要な物資の調達を考えると、確かに「利」があるだろうと思わせる。
 これはあくまで「基本」で、実際は個々のケースに合わせてかなり融通無碍に解釈され、用いられる。
 大和本土の陰陽道と、沖縄の風水は、また少し違っていたりする。
沖縄はより大陸の影響が強いのだが、基本構造では一致するところが多い。
 90年代には、たとえば荒俣宏の小説や解説等によって、陰陽道や風水の考え方は広く一般に紹介され始めていた。
 地形に沿って流れる何らかの「力」という概念は、わりと世界中にある。
 オカルト文脈で言えば、「レイライン」とか「カタカムナ」もそれに含まれるだろう。
 Nさんの場合は沖縄の風水だけでなく、カタカムナも守備範囲に入っていたようだ。

 風水の概要を知ることにより、私の空間認識、風景への眼差しの幅は広がった。
 何でもかんでも風水の類型に落とし込んでしまうと「情緒」というものがなくなるが、一定の「型」を学ぶことは大切なのだ。

 思い返してみると「背後に山、目の前に水場」という地形は、私の原風景とも一致している。
 私はかなり成長してからもどこかでそのような地形を求めているようなところがあり、それは風水という概念を知るよりずっと以前からのことだった。
 私が風水の考え方に馴染みやすく、沖縄文化に関心を持ったのも、そうした幼時からの感性に根差しているのかもしれない。
 もっと言えば、人間が素朴に安心感を得られる原風景から出発し、長い年月をかけて精緻な理論として組み上げたのが「風水」であるのかもしれない。
 ある日思い立ち、祖父母の家の裏山に登った幼い頃と同じ衝動が、私を沖縄まで連れて行ったとも思えるのだ。

 地形に沿って流れ、人に影響を与える何らかの「力」は、確かにある。
 しかしそれは「形」を離れて純粋に「力」だけであるわけではない。
 形によって切り取られ、囲まれた「虚の空間」に対して、人間が何事かを感得し、影響を受けることはある。
 たとえばどこかに心霊スポットがあったとしても、重機で根こそぎ削り取られ、何もない平坦な更地にされてしまえば霊威は失われるだろう。
 作業中に何かが起こる可能性はあるが、空間を包む器が消滅すれば、たぶんそこまでだ。

 実在の物を通した感覚の中に「気」も「霊」も存在するが、何もない空間には何も存在しない。
 絵描きの私は、今の時点ではそのように理解している。
(続く)
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2017年06月09日

へんろみち14

 90年代、断続的にではあるけれども、Nさんのものの考え方や佇まいを、けっこうな期間「面受」できたことは、得難い経験だったと思う。

 ある時、酒の席でNさんとの関係を聞かれた私は、冗談半分本気半分で「弟子です」と答えたことがある。
 Nさんは「なんの弟子なんや?」と笑っていた。
 酔った勢いで口走ってしまっただけなので気の利いた答えが出てこず、「なんの弟子なんでしょうね?」と言葉を濁した。

 バイトを始めた頃、事務所ではちょうど熊野古道関連の仕事が入り始めていた。
 その後、熊野、高野、葛城と、紀伊半島の参詣道の仕事が継続することになり、私はバイトを通じて存分に自分の知的好奇心を満たすことができた。
 聞くところによるとNさんは、当時私が魅了されていた「お山」にもほど近い、熊野の山中にルーツがあるということだった。
 私が「お山」に通い始めたのはバイトを始める一年以上前なので、こうした巡りあわせは全くの偶然と言うことになる。

 何か物事を学ぶとき、まず自分なりにできる修練を積んでいれば、おのずと良師は見つかるものだ――

 そんなエピソードを物語の中でよく目にするが、私はそれに類する縁をもてたのかもしれない。
 相応の修練を積んでいなければ、目の前に師がいても存在に気付けないということはあるだろう。
 相応の素養を見せなければ、師の目にとまらないということもあるだろう。
 私はあくまでNさんの事務所の古参バイトに過ぎなかったけれども、仕事内容と重なりながら、少しずれたところで私に伝えてもらった部分も、たぶんあっただろうと思う。

 こんなこともあった。
 連れ立って飲みに行った帰り、酔いを楽しみながらブラブラ歩いていると、Nさんが言った。
「なあ、事務所が立ちいかんようなったら、画塾でもやるか。今度は儲けるつもりで、金持ってる奥様方とか集めてな」
「いいっすねー。幽霊物件とか安く借りてやりましょう」
 私はのりのりで答えた。
「そこらの地縛霊ぐらいやったら、俺勝てますから!」

 こんなこともあった。
 あれは確か、阪神大震災から一年後くらいのことだったと記憶しているが、Nさんに「一緒にボルネオに行かんか?」と誘ってもらった。
 今から考えると、万難を排して付いていくべきだったと思う。
 しかし当時の私は、震災その他で精神的に最も過敏になっていた時期で、人と海外の冒険旅行に出掛ける余裕がなかった。
 まだ若かったので「また機会はあるやろ」と気楽に考えていたせいもあり、断ってしまった。
 私は人生においてあまり後悔しない性質で、色々あったこともわりと肯定できる方なのだが、このことは今でもたまに「申し訳なかった」と思い返す。
 Nさんにしてみれば、時間的にも体力的にも、残り少ない機会のつもりでお伴に誘ってくれたはずなのだ。
 出会った頃のNさんの年齢に近づいてきた今になってみると、よくわかる気がする。

 2000年代に入り、バイトを「卒業」してからは、Nさんと直接会う機会も少なくなった。
 ご無沙汰なのでそろそろ顔を出しておこうかと思っていた2015年、Nさんの訃報があった。
 もし今もう一度「なんの弟子なんや?」と聞かれたら、「ものの観方です」と答えたい。
 もし今もう一度旅に誘ってもらったら、二つ返事で付いていきたいが、その機会はもうなくなった。

 その数か月後、夢を見た。

 本当のおわかれ

 夢の中のNさんは、私に対して少し厳しい態度をとった。
 それは私の知るNさんとしてかなり「リアル」な姿で、厳しくはあるけれども、その夢を見ることである意味救われた部分があった。


 遍路でよく使われる言葉に「同行二人」というものがある。
 これは「どうぎょうににん」と読み、金剛杖にも書かれている。
「遍路の道行きは、御大師様と二人連れ」
 そんな意味がある。
 弘法大師空海と二人連れということは、実際歩むのは自分ただ一人ということだ。
 歩むも止まるも野垂れ死ぬも、たった一人。
 一人の覚悟が決まってはじめて、「同行二人」は成立する。


 二年経った先月、夢を見た。

 仕事上がりに片づけをしていると、唐突にNさんが現れた。
 これから久しぶりに飲みにいくから付き合えという。
 私は翌日の仕事が早いことをほんの少しだけ気にしながらも、二つ返事で付いて行った。

(師匠Nさんについての記事はひとまず了。「へんろみち」は今しばらく続く)
posted by 九郎 at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

へんろみち15

 90年代初頭以降、つかず離れず、折にふれて再読しているマンガ家がいる。
 つげ義春である。
 学生時代、たまたま手に取った作品集は、まさに衝撃だった。


●「ねじ式・紅い花」つげ義春(小学館叢書)

 80年代後半から90年代前半というのは、おそらく出版が最も盛り上がっていた時期で、マンガでも評価の定まった「名作」は軒並みハードカバー化されていた。
 そんな流れの中でつげ義春の作品も再評価され、書店に並んでいたのだ。

 つげ義春のマンガ家としてのキャリアは、50年代、貸本の世界から出発し、推理モノや時代モノ、ときにはSF等も手掛けていた。
 そこからはみ出し、独自の世界に漂い始めたのが60年代半ばごろ。
 80年代半ばにふっつりと筆をとらなくなるまでに、あの「つげ義春」の作風が断続的に発表されていくことになる。
 私が読み始めたのはその数年後で、まだ筆をおいてからの期間が浅かった頃のことだった。

 同じ90年代、代表作の「無能の人」「ゲンセンカン主人」「ねじ式」が、自身熱心なファンである監督、俳優らによって映画化され、新作が待望される機運があったと思う。
 私も映画館に足を運び、「熱心なファンによる映像化」を楽しみながら、そんな期待を抱いていた時期もあった。



 今はちょっと違う。
 新作は読みたいことは読みたいけれども、ファンが待望したから描けるというタイプの作品ではないことはよく分かっている。
 つげ義春に対して、それは求めてはいけないのだ。
 つげ義春がマンガを描かなく(描けなく)なって既に30年経つ。
 つげ義春が、私たちファンの愛してやまないあの「つげ義春」の作品を描くことで、心身を削ってしまったのであろうこと、または、削ったからこそ描けた作品であっただろうことなんとなく了解できる。

 つげ義春が今でも「寡作のマンガ家」としていてくれて、何年かに一度インタビュー等で消息が知れる。
 もしかしたら新作が読める日が来るかもしれないという、ほのかな期待がある。

 それだけで、今の私はもう十分だ。
 今後の一生を、折にふれ再読し、味わうことができるだけの分量は、もう描かれている。

 私は創作物に微妙な好みがある。
「作者自身が登場するメタフィクション」は好きだが、いわゆる「私小説」はあまり好きではない。
 つげ義春のマンガは「私小説的な作品」と紹介されることが多いが、私の見立てではどちらかというと「作者が登場するメタフィクション」に近いと思っている。
 どうしようもない貧しさと性を描きながらも、漂々とした軽みと透明感がある。
 汚くない。
 優しさがある。
 懐かしさがある。

 私にとってのつげ義春は、「夢と漂泊のマンガ家」だ。
 読むことが、夢そのもの。
 読むことが、漂泊そのもの。
 怪異な夢を描いたマンガ作品だけでなく、何気ない日常の点景を描いた作品であっても、どこか「漂」とした空気が漂う。
 たまにふらりと遍路に出たい衝動に駆られる私は、全く同じ感覚で、たまにつげ義春の作品を読み返したくなるのである。


 今手に取るなら、以下のコレクションが手頃だろう。

【つげ義春コレクション 全9冊(ちくま文庫)】
 90年代に刊行された「つげ義春全集」の文庫化。
 文庫サイズながら印刷状態が良く、初期作やエッセイ等も網羅されたコレクションになっている。


1「ねじ式/夜が摑む」
 今やつげ義春の代名詞にもなっている「ねじ式」が二色刷りで収録されているほか、「ゲンセンカン主人」「必殺するめ固め」など、「夢」をモチーフにした作品を中心に収録。
 異色作目白押しの一冊だが、著者の作品を初めて読もうという人には、ややハードルが高いか。
2「大場電機鍍金工業所/やもり」
 夢と並んで著者が得意とする、私小説「風」の作品を多数収録。
 昭和の風景、昭和の青春。
 最初の一冊としては、こちらがお勧め。
3「李さん一家/海辺の叙景」
 60年代中盤から後半にかけて、じわじわと私が愛してやまないあの「つげ義春」に変貌していく過程が見える作品集。
 とくに「海辺の叙景」の印刷が良く、二十年越しで惚れ直した。

4「近所の景色/無能の人」
 著者ほとんど唯一の、同一設定による連作「無能の人」を中心に収録。
5「紅い花/やなぎ屋主人」
 旅をテーマにした作品集。
 これも「最初の一冊」にはお勧め。
6「苦節十年記/旅籠の思い出」
 マンガ以外の自伝的文章、紀行文、夢日記、イラスト等を収録。

7「四つの犯罪/七つの墓場」
8「腹話術師/ねずみ」
9「鬼面石/一刀両断」
 50年代から60年代中盤までの初期作を中心に集成した三冊。


 90年代の私は、やはり「夢」をテーマにした作品が一番好きだった。
 今でももちろん好きだが、今回読み返してみると「海辺の叙景」「沼」「紅い花」あたりの、ピンと張り詰めた情緒がとても心地良く感じた。

 年を取るごとに、味わい方は変わり、好きな作品は変遷する。
 つげ義春は一生ものなのだ。
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする