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2017年07月26日

へんろみち16

 子供の頃から「歩く」ことが好きだった。
 特に山登りが楽しかった。
 山に登って景色を見たり、お弁当を食べたりするのはもちろんのこと、息を切らせながら自然の中を歩いている感覚そのものが好きだった。
 それからずっと、歩いてきた。

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 へんろみち-2
 へんろみち-3

 登山や歩行について、とくに誰かの指導を受けたことはなかったが、自分なりに「歩く」経験だけは積んできた。
 車にもバイクにもあまり興味はなかった。
 自転車にはやや関心があり、高校生の頃にはまだ流行る前のマウンテンバイクを乗り回していたが、結局「歩き」に戻った。
 長い間、自分が好きな「歩き」が、果たして他と共有されうる志向なのかどうか、分からなかった。
 本格的な登山とも違うし、いわゆるアウトドアとも少し違う。
 ただ、歩く。
 できれば自然の中がいい。
 自然の中を歩く過程で、必要があればアウトドアもやるが、それも必要最小限の装備がいい。野宿が可能ならそれでいい。
 歩きたい自然豊かな道を探しているうちに、熊野を歩くようになり、自分のやりたいことは「遊行」「遍路」だったのだなと、ようやく気がついた。
 そんな風に自分の志向に名がついたのは、阪神淡路大震災に被災した後のことだった。
 ものの考え方もやりたいことも全て一旦リセットされ、再構築のためにひたすら本を読み漁った。

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 本をさがして-2
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 その頃、五木寛之の風の王国」を読んだ。
 この作品については、以前にも何度か紹介したことがある。
 ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語である。
 貪るように読み耽り、また歩いた。
 歩いた後、また何度も再読した。


●「風の王国」五木寛之(新潮文庫)

 私自身の身体にたっぷり「歩き」が蓄積された後読むと、それだけ物語を楽しむことが出来るようになった。
 作中の登場人物のように翔ぶように山野を「ノル」ことはまだ出来ないが、多少は歩けるようになった。
 体力になるべく頼らない「歩き」の技術を少しは身につけてきたのだ。

 今の私は、自分が「歩き」を好む理由をいくらか言葉にすることができる。
 歩きによる「遊行」や「遍路」は「離れる」ことだ。
 車や電車などの乗り物に乗ると、「繋がり」ができやすい。
 端的に言えばナンバープレートや運行ダイヤ、監視カメラ等によって、自分の行動が常に他者に捕捉されやすい状態になる。
 別にことさら隠密行動をとりたい理由がある訳ではないのだが、そうした「行動の捕捉」に端的に表れるような、様々な「繋がり」からふっつり離れて、足の向くままに流れてみたいという衝動があるのだ。
 誰にも連絡を取らない、取れない状況に自分を置き、ただひたすら一人で歩きたい。
 その結果が野垂れ死になら、それはそれで良い……
 この小説は、心にふと兆す瞬間があるそうした衝動に、魅惑的な筋立てを与えてくれる、一幕の甘美な夢だ。
 ネットやスマホで他者との常時接続が当り前になった今の世に、このような小説がいまだ版を重ねているのは、考えてみれば不思議なことだ。
(続く)
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2017年07月27日

へんろみち17

 90年代初頭からぼちぼち熊野遍路を始めていた私だが、さすがに被災した95年は出かけなかった。
 遍路の魅力は「日常からの遊離」にある。
 被災生活はそれ自体が強烈な「非日常」だったので、わざわざ遍路に出かけようという衝動が湧かなかったという表現もできるだろう。
 被災体験と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受け、私の中に元々あった孤独癖は限りなく昂進した。
 それは当時、舞台美術スタッフとして参加していた演劇活動を続けるのが困難になるほどだった。

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 祭の影-2

 なんとか被災生活を潜り抜け、演劇活動に一区切りをつけた96年夏、久々に熊野へ出かけたい気分になった。
 当時お世話になっていた師匠の事務所では、偶然熊野古道関連の仕事をやっていた。
 それまでにも断片的に熊野は体験していたが、バイトを通じて知識や認識が広がり、またうずうずと旅の虫が蠢き始めた。
 その頃の私は、他の何よりも孤独に浸ることを求めていたのだ。

 熊野古道にはいくつかのルートがある。

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【中辺路】
 紀伊田辺から熊野本宮大社に至る山越えの道。ハイキングコースとして整備されており、車道が並行していてアクセスし易いので人気が高い。
 その他のルートは以下の通り。

【紀伊路】
 大阪天満あたりからはじまり、和歌山市を経て紀伊田辺に至る、平坦な区間の多い道。
【大辺路】
 紀伊田辺から那智の浜、新宮速玉大社へと至る海辺の道。

 奈良県五條から十津川、十津川温泉を経て熊野本宮大社に至「十津川路」や、伊勢方面から新宮速玉大社に至る「伊勢路」もあるが、ここまで紹介した五本の道は現在大半が国道に重なっているので、「古道」の風情は部分的に味わえるにとどまる。

 現在でも車道とほとんど重なっておらず、地道がよく残っているルートもある。

【雲取越】
 那智大社と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。

 そして、当時の私の目にとまったのが、以下のルートだった。

【小辺路】
 高野山と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。

 地図上では直進であっても、場所は紀伊半島の真ん中の山岳地帯である。
 実際はかなり険しい登山道を二泊三日で歩き切らなければならず、山中泊も含まれる。
 完全な修験者むけである大峰奥駆けルートはのぞくとして、いわゆる「熊野古道」の中で最もキツいのが、この小辺路ルートなのだ。

 それ以前、90年代前半の私の遍路は、好きだった「お山」や熊野本宮周辺を、寝泊まりしながら歩きまわる程度だった。
 ほんの真似事のようなものだったと言ってよい。
 これだけの難路に挑戦するのは初めてである。
 不安はあったが、被災体験後のヤケクソな心情もあり、思い切り自分をいじめてみたい衝動に駆られ、出発することにした。
 決定を下してしまうと心はむしろ軽くなった。
 私はお盆前後の休暇の日程に向けて、一週間前くらいからあれこれ装備を整え、「精進潔斎」で粗食に努めた。
 ふと思い立って、オリジナルTシャツも作ってみた。
 密教系の梵字をあしらったデザインで、3種類ほど作ったはずだ。
 プリントにはステンシルの手法を使い、無地のTシャツさえあれば手作業で作れるようにした。
 着替えを用意するついでに、ほんの思い付きでやったことだったが、オリジナルTシャツ作りはその後もずっと続けて今に至っている。
 当時描いたデザインの中の一つが胎蔵種字マンダラで、このブログでもアップしたデザインの第一稿になった。
 近年、フリーマーケットで「縁日屋」を出店した際の、一番人気になっている。

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 私が小辺路を目指したのは、ぶっちゃけ「現実逃避」もあったと思う。
 しかし、逃げて何が悪い。
 色々抱え、頭がパンパンに煮詰まった時は、身体を使って全力で逃げるのが一番で、元々遍路とはそうしたものなのだ。
(続く)
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2017年07月28日

へんろみち18

 96年夏、熊野古道小辺路ルートへ向けて、朝一で出発した。
 電車内で夜明けを迎えながら、朝のうちに高野山には到着した。
 高野山は初めてではなかったが、人影もまばらな朝の風景は、それまでとは全く違った雰囲気を感じた。
 真夏の下界よりかなり涼しい、ピンと張り詰めた清澄な空気の中、高野七口のうちの一つ、大滝口から熊野本宮を目指す。

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 遍路の第一歩を踏み出す瞬間は、いつも心踊る。
 これからとんでもなくキツい目に合うことは分かっているのだが、なぜか楽しくて仕方がない。
 出発時の舞い上がった気分と、目的地に着いた時の達成感が、まずは遍路の魅力の双璧だ。
 もちろん途中経過の苦労も良い。
 熊野でする苦労は、全部雄大で美しい自然の中を歩くことでの苦労で、それは楽しみと引き換えなのだ。

 この年の小辺路遍路で、私は素人がやりがちな失敗は全部やった。
 地形を読み間違えて時間と体力を何度も空費した。
 水が足りなくなって渇きに苦しんだ。
 足ごしらえが不十分でマメを潰した。
 山小屋到着が日没に間に合わず、途方に暮れた。
 進行方向のずっと先にクマがいて、緊張感が走った。
 当てにしていたバスに乗り遅れ、結局車道をトボトボ歩き通した。
 それでも、楽しくて仕方がなかった。
 乾き切った喉を水場で存分にうるおしたり、山小屋の朝を野鳥のさえずりで迎えたりしたこと瞬間の映像は、今でも脳裏に鮮明に浮かぶ。
 盛夏の熊野の山々の濃い緑、木立の涼風、苔むした石畳の様も忘れがたい。
 そして何より、二泊三日で歩き通した果てに、熊野本宮で感じたなんともいえぬ情動。

 この年の遍路の印象は強烈だった。
 たぶんそれは、前年95年に体験した「影」の深さと対になっていて、その落差が感動を生んだのだと思う。
 以後十年間ほど、私は毎年のように熊野遍路に出かけるようになる。
 
 熊野と言えばイメージとしてすぐに浮かぶのは「深い森」であり、山岳修験だ。
 実際、私の遍路のメインも山道をただひたすら歩くことだった。
 しかし、繰り返し歩き回って分かってきたことは、熊野には意外に「水」にまつわるイメージが重要であるということだった。
 現地に行かなければ決してわからないということは、世にいくらでもあるのだ。
 たとえば、日本一の大滝として有名な那智の滝は、その姿から「水」の龍神そのものだ。
 新宮速玉大社は現在の所在地からはやや分かりにくくなっているが、そもそもは熊野川の注ぐ熊野灘と関連の深い社だ。
 そして熊野本宮は、旧社地「大斎原(おおゆのはら)」を見れば明らかなように、熊野川の中州のような位置に祀られた社だ。
 熊野信仰の中核をなす三社ともに、水にまつわる信仰の場ということになる。
 水、川、海という要素が熊野には不可欠で、古道の中でも「山を通して海に至る」ルートが、私の中では最もしっくり感じられた。

 熊野遍路を繰り返すうち、とくに好きな場所、好きなルートができた。
 何度か紹介してきた「お山」と大斎原は、私の中で熊野の「二大聖地」になった。
 ルートとしては、高野山と本宮をつなぐ小辺路、本宮と那智をつなぐ雲取越えが気に入った。
 そしてもう一つ、大峰奥駆けの最終区間である、「お山」から本宮までをつなぐルートが素晴らしかった。

 深い森である「山の熊野」を存分に歩き通した後は、ゆっくり温泉に入ってから、「海の熊野」に出る。
 補陀落の海・熊野灘に面する、那智勝浦や新宮、三重県熊野市だ。
 
 那智の浜。
 高野坂。
 王子ヶ浜。
 蓬莱山。
 七里御浜。
 花の窟。

 海辺の古道を歩き、水の信仰の場を巡る。
 たまに海岸に寝転がり、波音に包まれて過ごす時間が、また格別だった。
 当時、遍路の途中で描いたスケッチが、いくつか残っている。

【大斎原】
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【那智の浜】
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【王子ヶ浜】
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【蓬莱山】
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 そんな風に、一週間近く熊野の山や海をぶらついて、名残りを惜しみながら紀勢線で帰路につく。
 その頃には、なんとかこれからも娑婆でやっていけそうな気分になってくるのだった。
(続く)
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

へんろみち19

 震災とカルト教団のテロ事件が起きた95年以降、私は神仏や宗教関連の読書を開始していた。
 熊野遍路をやや本格的にスタートさせたのも同じ頃だった。
 私にとっての遍路は、本で得た知識を実地で確かめる体験でもあった。
 遍路では、いくつかの祝詞や真言、般若心経や和讃をよく唱えた。
 そうした唱えことばは、遍路の現場ではかなり「実用的」な機能を持っていた。
 山中で精根尽き果てた時にはお不動さまの真言に助けられた。
 清々しい社に至った時に祝詞を奏上すると、自分の中の感動を乗せることができた。
 海辺の古道を歩く時、念仏和讃のゆったりとしたリズムは、波音にシンクロして心地良かった。
 後にDTMで試みた「音遊び」には、遍路の途上で唱えたイメージが反映されている。





 知識と実体験という意味では、熊野遍路に限らず、色々な場所を「巡礼」した。
 仕事で行く機会のあった沖縄以外は、近畿地方が中心だった。
 住んでいる場所から近いということももちろんあったが、当時の主な興味の対象が近畿地方にあったということがまず大きい。
 天理教の泥海神話に関心を持てば天理市に行き、大本に興味が湧けば丹後・丹波の各地を経巡った。
 特定の宗教、宗派ではないが、六甲山系に点在する「磐座」に興味を持ち、有名無名を問わず、巨石を求めて山中をさまよったこともあった。
 お地蔵さまのことが気になり始めたのも、その頃のことだった。
 普段の散歩でお地蔵さまを見つけると、写真を撮ったりスケッチするようになった。
 関西では地蔵盆が盛んなので、毎年夏休みの終り頃には良い風景、良いスケッチが体験できた。
 そうした体験の蓄積は、カテゴリ地蔵で一部紹介してきた。

 私は根っこの部分ではやはり絵描きなので、本を読んだり遍路をしたりする中でも、スケッチだけは続けていた。
 たまにアクリル絵の具でサイズの大きな作品を描こうと試みるのだが、なかなか形を成さなかった。
 当時はとにかくスケッチ、素描ばかりしていた。
 仏画や仏像の資料を見ながら描き写した。
 山水図の類を見ながら描き写した。
 たびたび動物園に行っては、飼育舎の端っこから順番にクロッキーして回った。
 植物を観察しては、スケッチした。
 バイトで必要に迫られれば、建築物の資料等も丸写しで練習した。
 少しでも関心のある図版はとにかく筆写した。
 誰に見せるわけでもなく、発表のあてもないスケッチを黙々と続けていた。
 劇団から離れ、他にやることもないので、ただただ描いた。

 今ならそうした日々のスケッチをアップするためのSNSの類に事欠かないけれども、当時はまだネットの普及前の90年代である。
 私のような絵描きに限らず、あの頃表現を志す者は、とにかく人に見せることを前提としない「自主練」を、よくやっていた。
 役者をやっていた友人は、好きな脚本を片手に、毎日のように公演のあてのない一人練習をやっていた。
 今考えてみると、そうした自主練は「同行二人」の遍路とどこか通じる、得難い経験だったと思うのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

へんろみち20

 遍路を続けて感得したのは、目的地である神社仏閣は「容れもの」に過ぎないということだった。
 参拝だけが目的なら、交通機関を使用した方が効率が手っ取り早い。
 しかし、そうした効率の良さからは生まれない感受性の世界がある。
 古道の自然に包まれ、大量の汗をかき、湧水を飲み、何日もかけて歩き通す過程を経ないと見えない風景というものがあるのだ。
 それを見たら、再び日常生活にかえる。
 それだけのことだった。

 宗教書を読んで、本当に何かが分かるわけではない。
 ただ知識が増えるだけだ。
 知識が増えれば増えただけ、何も知らない自分に気付き、疑問や迷いはかえって増えていく。
 遍路に行って、何かが変わるわけではない。
 どれだけ遠くまで歩いても、自分自身からは一歩も離れられない。
 ただどうしようもない自分を再確認するだけだ。
 読書も遍路も、いつまでたっても届かない蜃気楼を追っているのと似ている。
 しかし、全くの無意味ということでもない。
 知識の範囲を認識できれば、自分がどれだけものを知らないかということは分かる。
 遍路でぶっ倒れるまで歩いてみれば、世界の広さと、自分の足で歩める範囲は体感できる。
 己の身の丈だけは、なんとなく分かるようになるのだ。
 本を読んで何かが分かったと感じたり、遍路を通じて自分が変われたと感じるのは、錯覚に過ぎない。
 さんざん読んで歩いても、そんな勘違いをしなかったのは、我ながら上出来だったと思う。
 同時に、安易に「あるがまま」で充足せず、自主練を積み続けたことも、上出来だったと思う。
 私には絵を描くという「重石」があった。
 賢くなりたいとか癒されたいとかいう欲は、ゼロではないけれども、比重としては軽かった。
 どこまで行っても絵描きなので、絵さえ描ければそれで良かった。

 さんざん本を読んで、さんざん遍路で歩き回った末にむかえた2000年代、私はこじらせた孤独癖が少しだけ減じているのに気が付いた。
 描きたい絵の世界がおぼろげながら見え始めていた。
 そして、まだ娑婆でやれることがありそうだと思えるようになっていた。
(「へんろみち」の章、了)
posted by 九郎 at 18:08| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする