私が「世紀末サブカルチャー」について書くなら、最後に行き着くのはやはりSF作家・平井和正のことだ。
終末というテーマをこれほど真正面から、生真面目に、愚直に掘り下げ続けた作家を、私は他に知らない。
そしておそらく私の生涯で、もっとも影響を受けた表現者でもある。
60〜80年代、平井和正が常にエンタメの最前線で新しい表現を開拓した道のりは、過去記事でも紹介してきた。
70年代
「終末サブカルチャー」 80年代
「終末後」のサブカル 80年代の小説版「幻魔大戦」シリーズの執筆過程で、平井和正はカリスマ的なヒーロー像への懐疑、あるいは否定を描くようになっていった。
当初は「真の救世主」を、リアルに、まともに描くことを企図していたようだが、ベストセラー小説の中で「それ」をやってしまうことの危険に、途中で気付いてしまったのかもしれない。
大衆が強いカリスマ、強いヒーロー、救世主を求める心理自体が、独裁者や偽救世主を呼び寄せ、ハルマゲドンを誘発する。
そうした「終末感」は、危機的な世相を根っこに持ちながら、サブカルチャーによって強く増幅される。
平井和正は作家的な潜在意識を「言霊」と表現するが、少なくとも幻魔大戦の言霊は、物語を「救世主ストーリー」として描くことにブレーキをかけた。
――それを求める者は滅ぶ
そんな暗示を残して80年代の幻魔大戦は終結し、まるで作中のカルト教団が現実化したような事件の勃発する90年代へと、日本は突入していったのだった。
80年代小説版「幻魔大戦」シリーズ以降も、平井和正は「終末」と向き合うことを止めなかったが、そのアプローチには変化が表れていた。
●85〜86年「黄金の少女」(全五巻)
70年代に絶大な人気を獲得したウルフガイシリーズの、十年の中断をはさんだ続編であるが、ストレートな物語の「続き」ではない。
本来の主人公の少年犬神明は登場せず、新書版で五巻分のほとんどが、外伝的なエピソードで占められている。
舞台は北米、人種差別が濃厚に残留する旧弊な田舎町で、実質の主人公はその地の治安を守る警察署長・キンケイドだ.
朝鮮戦争の退役軍人であるキンケイド署長は、決して圧倒的な力を持つヒーローではない。
謹厳な人柄は地元住民に信頼されているが、心臓病を患って普段から薬が手放せず、戦争体験から心に闇と傷を抱えている。
壊れかけた心と体に鞭打ちながら、町に襲来する狂信的なテロ集団に立ち向かう。
一応ウルフガイストーリーの中に組み込まれているものの、人種間対立がテーマの独立した作品として読むことも可能だ。
貧困層の白人が、自身の閉塞感や不満のはけ口を差別主義に乗せ、集団リンチや殺戮行為に走る描写は、まるで現代の世界各国で繰り広げられるヘイト行為を予見しているかのようだ。
壮大なハルマゲドンの進行をストーリーの背景としながら、アメリカ南部の田舎町に戦闘範囲を限定し、それに臨む個人の心情の描写に重点が置かれている。
ハルマゲドンは主に青年の心の中と、その周辺の局地戦として起こるという構図は、今読み返すとかなり90年代的に見える。
平井和正は永井豪と同じく、先見性の非常に強い作家なので、80年代後半にはもう「次の段階」に進んでいたのかもしれない。
●88年「女神變生」
平井和正は数十巻を超えるシリーズをいくつも抱えた「大長編作家」である。
初期作として短編集が何冊か出ているが、キャリアのほとんどを長大なシリーズを書き継ぐことに費やしてきた。
シリーズ執筆の入れ替わりの時期に、作者自身が作中に登場するメタフィクション的な作品(分量としては一冊分ほど)がはさまることがあり、自作パロディの色合いの強いギャグ作品の形になることもある。
本作もそんなタイプの作品の一つで、次作に当たる「地球樹の女神」の呼び水になったのではないかと感じられる。
●88〜92年「地球樹の女神」(全14巻)
平井和正は中学二年の頃、「消えたX」というタイトルのSF長編を書き上げたという。
その作品自体は未発表だが、執筆時の充実した感覚が、作家を志す原点になったのだそうだ。
本作はその「処女作」のリメイクにあたり、平井作品の中でも特殊な位置にある。
出版社による改竄事件をはさんで苦闘しながらも執筆が続けられ、ついにラストシーンまで漕ぎつけた。
ながらく「未完の帝王」と呼ばれた平井和正の長編の中では、おそらく初の完結作である。
次元の壁を越えて物語が紡がれるスタイルは、その後の平井作品の基調となり、もう終わることがないと読者が半ば諦めていたシリーズが、これ以降次々に完結していく契機になった作品である。
読み耽った当時の年齢のせいか、個人的に最も思い入れの深い、大切な平井作品である。
何度か紹介した
「お山」に登るようになったのは、この作品の影響であるし、その経験からいくつかの絵と文章のインスピレーションを持ち帰り、当時としては「完全燃焼」の作品に仕上げることができたのだ。
率直に言えば、少年期の私の中にはカルト志向が存在したし、心の片隅ではハルマゲドンを待望する病んだ部分があった。
そうした部分を「作品化」することで一旦焼灼してから、震災とカルトの年である95年を迎えられたことは、非常に幸運だったと思う。
青年の心の中で起こるハルマゲドン局地戦を、「異界」と組み合わせて語るスタイルは、以後の平井作品でも繰り返され、深化していく。
●93〜95年「犬神明」(全十巻)
平井作品の中でも「幻魔大戦」と並んで人気のある、少年犬神明を主人公としたシリーズの完結編である。
実はこの
カテゴリ:90年代の最初の記事に掲げた以下のイラストは、本作冒頭の「呪縛された犬神明」をモチーフに、93年当時描いたものだ。
当初「犬神明」編は雑誌掲載のスタイルがとられており、掲載誌の企画として読者イラストの募集があった。
勢いで描き上げて勢いで投稿したのだが、結局その掲載誌は2号で中断されてしまった。
募集されたイラストは宙に浮いた形になり、しかも返却不可の規定があったので完全に諦めていたところ、ある日出版社から電話があった。
私のイラストのサイズの大きさと塗り重ねを見て、担当の人がそのまま廃棄処分になるのを気の毒に思ったらしく、返送してくださるとのことだった。
その電話で、作品は新書版の書き下ろしで刊行されることになり、先生もお元気で執筆中であることを知った。
別世界にいるように感じていた平井和正と、間接的にではあるけれども接触できたような気がして、ドキドキしたのを覚えている。
今となっては良い思い出である。
このように、80年代半ばから90年代半ば頃までの私は、平井和正の描く巨大な作品世界に全身で耽溺していた。
もちろん他の表現者の作品も鑑賞していたけれども、他の誰よりもぶっちぎりで平井和正だった。
少年期から青年期にかけての多感な時期、それだけのぶつかりがいのある作家、作品であったという思いは、今も全く変わらない。
作品が無類に面白かったことはもちろんだが、「表現」というものに対する考え方や姿勢を大いに学んだし、そもそも絵描きなのに何故か文章にも相当のエネルギーを割くようになったのは、間違いなく平井和正の影響だ。
伝統的な芸事や武術の世界では、技術継承において「守破離」という捉え方をすることがある。
私なりの理解でまとめてみる。
「守」は師匠から教わった型を忠実にコピーすることに専念する段階。
型には先人の叡知が凝縮されているので、素人判断で理解・納得しがたいことがあっても、まずはそのまま学ぶことが大切だ。
型がある程度体に馴染んできてはじめて、「ああ、こういうことだったのか」と、理解は後からやって来る。
ただ、型はあくまで一つのお手本に過ぎない。
人は体格、体質、性格、素養、千差万別だ。
単に表面上の形だけなぞっているだけでは、本当の意味での技術継承は成らない。
型に込められた技術のエッセンスを体現するためには、それぞれの資質に合わせて微調整が必要になってくる。
それが「破」の段階。
微調整が蓄積され、技術が完全に自分のものになると、やがて師匠が必要なくなる時が来て、「離」の段階に至る。
90年代前半までの私は、平井作品の読者として「守」の段階にあったと言えるかもしれない。
95年、震災とカルトの波をまともに受けたが、平井作品の愛読者であったことは、しぶとく生き延びるための原動力になった。
その点については、いくら感謝してもしきれないのである。
90年代後半になり、思うところあって神仏について自分なりの学びを進めはじめたことで、そろそろ「破」の段階は訪れていたのだろう。
それからの十年間、平井和正からはやや距離を置いていた。
平井作品には宗教的なモチーフも大きな構成要素としてあるのだが、色々考え方に違いが出てきていたのだ。
そしていくつかの点で「平井和正は間違っている」と判断し、その上で作品への愛情は変わらず保持するようになったのが2000年代後半から。
今思えば、読者としての「離」の段階に入っていたのだと思う。
90年代後半の以下の作品は、2000年代に入ってからようやく読んだ。
●94〜95年、マンガ「バチガミ」原作(作画:余湖ゆうき)
●95年「ボヘミアンガラス・ストリート」(全九巻)
●96〜02年「月光魔術團」シリーズ(全37巻)
真っ当な師匠は、後生大事に弟子を抱え込んだりはせず、ある段階で突き放すものだ。
いつまでも弟子に依存させ、支配下に置こうとするのはカルト教祖の手口だ。
平井和正は読者をカリスマ的な筆力で強烈に魅了しながらも、最終的には突き放し、自立を促す作家だった。
私の場合、もっとも影響を受けた作家と、もっとも影響を受けた
面受の師の両方が、最後はさらりと突き放してくれるタイプであった。
出会いに恵まれていたのだなと、今あらためて思う。
(「世紀末サブカルチャー」の章、了)