一年前、カテゴリ90年代をスタートさせ、95年の阪神淡路大震災の被災体験について、語り始めていた。
その時は特別な理由もなく、なんとなく「そろそろ書かなければ」「今書いとかないと」と感じてスタートさせたのだが、しばらく続けてみると当時の記憶が「体感」として蘇ってきて、書くごとにしんどくなってきた。
小休止してからまた再開しようと思っていたら、3.11が起こってしまい、それどころではなくなってしまった。
2011年を過ごしながら、「なんとなく1995年に似た雰囲気のある年だな」と思っていた。
1995年は私にとって、日本にとって、転換期になった年だったと思うのだが、2011年はそれを更に拡大した節目になると感じている。
1995年と2011年の類似については、鈴木邦男さんのブログにも詳細に述べられている。
当時の、まさに当事者だった人の感じ方には、やはり重みがある。
今日は1月17日。
また阪神淡路大震災の日が巡ってきた。
どこまで書けるかわからないが、もう一度、自分の震災体験について語り始めてみようと思う。
【過去記事】
GUREN1
GUREN2
GUREN3
GUREN4
2012年01月17日
2012年01月18日
GUREN5
一夜明けた。
夏の「熊野修行」などでそれなりに野宿経験はあったのだが、真冬の寝袋はさすがに堪えた。
屋外ではなく、一応屋根の下だったことは不幸中の幸いだった。
未曾有の巨大災害の真っ只中ではあったが、最初の激震以降、何か劇的な展開が待ってわけではない。
ただただ、何をどうしたら良いのか分からない時間だけが過ぎていく。
とりあえず、水と食料は確保しなければならない。
私が駆け込んだ学校施設は公的な避難所というわけではなかったので、食料等の配給は望めないようだった。
手持ちの現金が限られており、銀行も期待できない。
当時はまだコンビニATMも普及しておらず、もし普及していたとしてもコンビニ自体が開いていないのでどうしようもなかっただろう。
そして、当然ながらなるべく出費は抑え、現金は温存たい。
自室にはまだ米の残りがあったはずなので、一度様子を見に帰ることにした。
帰ってみると意外なことに電気が通じるようになっていた。(震災二日目ぐらいに一瞬電気が通じた時間帯があり、そのことが火災の再発の原因にもなったことを後で知る)
水道は止まっているはずなのだが、試しに蛇口をひねってみると普通に水が出てきた。
屋上にタンクがあるタイプのアパートだったので、その分だけしばらくは水が出るようだった。
震災時、水道が止まった時でもタンクに溜まっている分の水は出る。
これはけっこう重要なポイントなので覚えておいてほしい。
私は手早く米を三合研いで、炊飯器をしかけた。ご飯が炊きあがった頃、ちょうど二人の知人が部屋に様子を伺いにやってきた。
「飯あるけど食ってく?」
そう聞くと、二人とも飛び上がるように喜んでくれた。
震災一日後、みんな腹を空かせていたのだ。
なんにもないので白飯に醤油をかけ、三人でものも言わずにかき込んだ。
ものすごく美味かった。
飯を食べ終わって知人が解散すると、私はそろそろ状況判断に迫られてきた。
米はあと二合ほどしか残っておらず、現金もはなはだ心許ない。
昨夜からAMラジオで情報収集した感触では、どうやら激甚な被害は神戸市近辺だけに限られている様子だ。
(一度親元に帰って体勢を立て直しておこうか?)
そんな風に考え始めていた。
なんとか公衆電話で親元には連絡が取れ、無事は報告できた。
95年当時、まだ携帯電話は現在のように「一人一端末」と言えるほど普及しておらず、もちろんインターネットも存在しなかった。
震災で自宅の電話が不通になった地区でも、まだ街の至る所にあった公衆電話の中には通じるものがあったのだ。
ただ、停電でテレフォンカードが使用不能になっている所が多く、しばらく経つとどの電話機も硬貨でパンパンになって使えなくなってしまった。
私は手持ちの硬貨の残量を気にしながら、親元や親しい知人、バイト先などになんとか連絡を取った。
神戸以外の場所でも情報は不足していたらしく、震災後数日間は「何か大変なことが起こったらしい」という以上には、現地の状況が伝わっていなかった。
長話も出来ないのでとにかく「これから親元にむかってしばらく避難するつもりだ」と伝える他なかった。
手持ちの地図を広げながらルートを考える。
あちこち足止めを食らったとしても、鉄道が通じている所まで半日も歩けば到達できるはずだし、そこまで行けばあとは何とでもなる。
不安要素としては大規模な火災が起こっているらしいエリアを横切らなくてはならないことだ。
他にも想定外の事態がいくらでも待ちかまえているのだろうけれども、このまま先の見えない状態でうろうろしているよりはマシな気がした。
そうと決まれば出発は早い方がいい。
残りの米をもう一度炊飯器にぶち込み、部屋をかきまわしながら必要なものをリュックに詰め込む。
あまり重くしたくはなかったが、いつまた激しい余震に襲われて状況が変わるかもしれなかったので、登山に準じるような装備で行くことにする。
今から振り返ると荷物はもっと少なくてよく、ほとんど身一つでも問題なかったのだが、震度7を体験し、破壊され尽くした街の真っ只中では、どうしても深刻にならざるを得なかった。
準備している間にふと気がつくと、また停電になったらしく、炊飯器のご飯はシンのある状態になってしまっていた。
仕方がないので生煮えの二合飯をそのままタッパーにギュウギュウ押し込み、ざっと醤油をかけて当座の食料にした。
最悪、野宿も覚悟していたので、動ける範囲で服を重ね着した。
部屋はでんぐり返ったままだったが、火元とコンセントだけは確認し、施錠した。
今度この部屋に帰ってくるのはいつになるだろうか?
その時までこのボロアパートは残っているのだろうか?
考えても仕方がないので、とにかく部屋を後にした。
夏の「熊野修行」などでそれなりに野宿経験はあったのだが、真冬の寝袋はさすがに堪えた。
屋外ではなく、一応屋根の下だったことは不幸中の幸いだった。
未曾有の巨大災害の真っ只中ではあったが、最初の激震以降、何か劇的な展開が待ってわけではない。
ただただ、何をどうしたら良いのか分からない時間だけが過ぎていく。
とりあえず、水と食料は確保しなければならない。
私が駆け込んだ学校施設は公的な避難所というわけではなかったので、食料等の配給は望めないようだった。
手持ちの現金が限られており、銀行も期待できない。
当時はまだコンビニATMも普及しておらず、もし普及していたとしてもコンビニ自体が開いていないのでどうしようもなかっただろう。
そして、当然ながらなるべく出費は抑え、現金は温存たい。
自室にはまだ米の残りがあったはずなので、一度様子を見に帰ることにした。
帰ってみると意外なことに電気が通じるようになっていた。(震災二日目ぐらいに一瞬電気が通じた時間帯があり、そのことが火災の再発の原因にもなったことを後で知る)
水道は止まっているはずなのだが、試しに蛇口をひねってみると普通に水が出てきた。
屋上にタンクがあるタイプのアパートだったので、その分だけしばらくは水が出るようだった。
震災時、水道が止まった時でもタンクに溜まっている分の水は出る。
これはけっこう重要なポイントなので覚えておいてほしい。
私は手早く米を三合研いで、炊飯器をしかけた。ご飯が炊きあがった頃、ちょうど二人の知人が部屋に様子を伺いにやってきた。
「飯あるけど食ってく?」
そう聞くと、二人とも飛び上がるように喜んでくれた。
震災一日後、みんな腹を空かせていたのだ。
なんにもないので白飯に醤油をかけ、三人でものも言わずにかき込んだ。
ものすごく美味かった。
飯を食べ終わって知人が解散すると、私はそろそろ状況判断に迫られてきた。
米はあと二合ほどしか残っておらず、現金もはなはだ心許ない。
昨夜からAMラジオで情報収集した感触では、どうやら激甚な被害は神戸市近辺だけに限られている様子だ。
(一度親元に帰って体勢を立て直しておこうか?)
そんな風に考え始めていた。
なんとか公衆電話で親元には連絡が取れ、無事は報告できた。
95年当時、まだ携帯電話は現在のように「一人一端末」と言えるほど普及しておらず、もちろんインターネットも存在しなかった。
震災で自宅の電話が不通になった地区でも、まだ街の至る所にあった公衆電話の中には通じるものがあったのだ。
ただ、停電でテレフォンカードが使用不能になっている所が多く、しばらく経つとどの電話機も硬貨でパンパンになって使えなくなってしまった。
私は手持ちの硬貨の残量を気にしながら、親元や親しい知人、バイト先などになんとか連絡を取った。
神戸以外の場所でも情報は不足していたらしく、震災後数日間は「何か大変なことが起こったらしい」という以上には、現地の状況が伝わっていなかった。
長話も出来ないのでとにかく「これから親元にむかってしばらく避難するつもりだ」と伝える他なかった。
手持ちの地図を広げながらルートを考える。
あちこち足止めを食らったとしても、鉄道が通じている所まで半日も歩けば到達できるはずだし、そこまで行けばあとは何とでもなる。
不安要素としては大規模な火災が起こっているらしいエリアを横切らなくてはならないことだ。
他にも想定外の事態がいくらでも待ちかまえているのだろうけれども、このまま先の見えない状態でうろうろしているよりはマシな気がした。
そうと決まれば出発は早い方がいい。
残りの米をもう一度炊飯器にぶち込み、部屋をかきまわしながら必要なものをリュックに詰め込む。
あまり重くしたくはなかったが、いつまた激しい余震に襲われて状況が変わるかもしれなかったので、登山に準じるような装備で行くことにする。
今から振り返ると荷物はもっと少なくてよく、ほとんど身一つでも問題なかったのだが、震度7を体験し、破壊され尽くした街の真っ只中では、どうしても深刻にならざるを得なかった。
準備している間にふと気がつくと、また停電になったらしく、炊飯器のご飯はシンのある状態になってしまっていた。
仕方がないので生煮えの二合飯をそのままタッパーにギュウギュウ押し込み、ざっと醤油をかけて当座の食料にした。
最悪、野宿も覚悟していたので、動ける範囲で服を重ね着した。
部屋はでんぐり返ったままだったが、火元とコンセントだけは確認し、施錠した。
今度この部屋に帰ってくるのはいつになるだろうか?
その時までこのボロアパートは残っているのだろうか?
考えても仕方がないので、とにかく部屋を後にした。
(続く)
2012年01月25日
GUREN6
部屋のドアには例によって知っている範囲の安否情報と、これから親元に避難するつもりであることを紙に書いて貼っておいた。
阪急線の駅すぐ近くに住んでいたので、一応立ち寄ってみる。
前日にJRや阪神線の惨状を目にしていたので、列車の運行は全く期待していなかったが、何らかの情報は得られるかもしれない。
駅は案の定、全くの無人状態だった。
券売機のあたりに観光ポスターを裏返してマジックで書きこんだ掲示があった。
電車は動いていません
復旧の見込みはありません
駅長
半ばヤケクソのような文面で、所々無意味に赤ペンが使ってあり、漢字の誤りもあって、駅長さんの追い詰められた感じがよく伝わってきた。
気を取り直して、まずは病院に向かった。
前日運び込んだ劇団リーダーKの様子を、一目確認しておきたかったのだ。
到着してみたが、あいかわらずの野戦病院状態だった。
怪我を負った人や、お亡くなりになってしまった人が地下駐車場スペースにまで多数とり残されており、十分な物資や人員の補給、重篤患者の搬送などが行われているようにはとても見えなかった。
Kを運び込んだあたりを探してみたが、姿はなかった。
もしかしたら、と不安が湧いてきたが、どこか別の場所に移動したのだろうと考えるほかなかった。
後に、Kは重傷ながら命に別条なかったことを知るのだが、当時それを確認する術はなかった。
2リットルのペットボトルに水道水を詰めたものを余分に持ってきていたので、付近にいた人に声をかけて受け取ってもらった。
普段なら見知らぬ人には未開封のボトルの方が安心だったのだろうが、震災二日目はどこでも水は不足していた。
飲料に使わないとしても水は必要だったし、容量の大きいペットボトルは、それ自体が使いでのあるアイテムだったのだ。
震災以来、今に至るまで、私は自室に空のペットボトルを切らしたことはない。中身を飲み終わった後も、次のものを買うまでは、空き容器を捨てずにおいておく習慣がついている。
私は病院を後にして、山手の道を歩き始めた。
神戸は海と山に挟まれた南北に狭い街で、東西をつなぐ鉄道や幹線道路が何本も並行して走っている。
海手は被害が酷く、山手はほとんど無傷だという前日の視察結果から、なるべく海側を避けるコースを選んだのだ。
途中、広い運動公園のあるエリアを横切ろうとしたとき、自衛隊の大型ヘリが着陸しようとしているのを見かけた。
報道のヘリが飛んでいるのは震災当日からよく見かけていたが、そう言うヘリは「ただ飛んでいるだけ」で、被災者にとってはうるさく、不安を煽るだけの意味しかなかった。
自衛隊機が着陸しようとしているということは、救助活動が本格的に開始されようとしているのだろうと、少しほっとした気分になった。
そのとき、少し「不審」な人物に出会った。
運動公園から少し遠ざかった所で、迷彩服にヘルメットをかぶり、レシーバーを装着した若者が立っていた。
私は何の疑いも無く自衛隊の人だろうと思い、声をかけた。
「すみません、今、避難している所なんですけど、この先の火災が起こっているあたりはどんな様子なんでしょう?」
若者はしばらく答えずにじっとわたしを眺めた後、目をそらしてたった一言答えた。
「さあ……わかりません」
それ以上話も続かなかったので、「あ、そうですか」とその場を後にしたのだが、歩きながらなんとなく疑問が湧いてきた。
(今のヤツ、本当に自衛隊だったのか?)
よくよく考えてみると、私が勝手に服装からそう判断しただけで、確認したわけではない。
そう言えば体格もけっこう細くて、厳しい訓練を積んでいるにしてはひょろひょろだったような……
後になって噂話としてではあるが、震災後数日間、警官や自衛隊、各国の軍装などを身に付けたコスプレマニア達が、「今しかない」とばかりに街をうろついていたらしいというお話を知った。
その噂の真偽は確かめようがないし、私が見た「自衛隊」がその中の一人だったかどうかも定かではないが、今でもたまに思い出す情景である。
阪急線の駅すぐ近くに住んでいたので、一応立ち寄ってみる。
前日にJRや阪神線の惨状を目にしていたので、列車の運行は全く期待していなかったが、何らかの情報は得られるかもしれない。
駅は案の定、全くの無人状態だった。
券売機のあたりに観光ポスターを裏返してマジックで書きこんだ掲示があった。
電車は動いていません
復旧の見込みはありません
駅長
半ばヤケクソのような文面で、所々無意味に赤ペンが使ってあり、漢字の誤りもあって、駅長さんの追い詰められた感じがよく伝わってきた。
気を取り直して、まずは病院に向かった。
前日運び込んだ劇団リーダーKの様子を、一目確認しておきたかったのだ。
到着してみたが、あいかわらずの野戦病院状態だった。
怪我を負った人や、お亡くなりになってしまった人が地下駐車場スペースにまで多数とり残されており、十分な物資や人員の補給、重篤患者の搬送などが行われているようにはとても見えなかった。
Kを運び込んだあたりを探してみたが、姿はなかった。
もしかしたら、と不安が湧いてきたが、どこか別の場所に移動したのだろうと考えるほかなかった。
後に、Kは重傷ながら命に別条なかったことを知るのだが、当時それを確認する術はなかった。
2リットルのペットボトルに水道水を詰めたものを余分に持ってきていたので、付近にいた人に声をかけて受け取ってもらった。
普段なら見知らぬ人には未開封のボトルの方が安心だったのだろうが、震災二日目はどこでも水は不足していた。
飲料に使わないとしても水は必要だったし、容量の大きいペットボトルは、それ自体が使いでのあるアイテムだったのだ。
震災以来、今に至るまで、私は自室に空のペットボトルを切らしたことはない。中身を飲み終わった後も、次のものを買うまでは、空き容器を捨てずにおいておく習慣がついている。
私は病院を後にして、山手の道を歩き始めた。
神戸は海と山に挟まれた南北に狭い街で、東西をつなぐ鉄道や幹線道路が何本も並行して走っている。
海手は被害が酷く、山手はほとんど無傷だという前日の視察結果から、なるべく海側を避けるコースを選んだのだ。
途中、広い運動公園のあるエリアを横切ろうとしたとき、自衛隊の大型ヘリが着陸しようとしているのを見かけた。
報道のヘリが飛んでいるのは震災当日からよく見かけていたが、そう言うヘリは「ただ飛んでいるだけ」で、被災者にとってはうるさく、不安を煽るだけの意味しかなかった。
自衛隊機が着陸しようとしているということは、救助活動が本格的に開始されようとしているのだろうと、少しほっとした気分になった。
そのとき、少し「不審」な人物に出会った。
運動公園から少し遠ざかった所で、迷彩服にヘルメットをかぶり、レシーバーを装着した若者が立っていた。
私は何の疑いも無く自衛隊の人だろうと思い、声をかけた。
「すみません、今、避難している所なんですけど、この先の火災が起こっているあたりはどんな様子なんでしょう?」
若者はしばらく答えずにじっとわたしを眺めた後、目をそらしてたった一言答えた。
「さあ……わかりません」
それ以上話も続かなかったので、「あ、そうですか」とその場を後にしたのだが、歩きながらなんとなく疑問が湧いてきた。
(今のヤツ、本当に自衛隊だったのか?)
よくよく考えてみると、私が勝手に服装からそう判断しただけで、確認したわけではない。
そう言えば体格もけっこう細くて、厳しい訓練を積んでいるにしてはひょろひょろだったような……
後になって噂話としてではあるが、震災後数日間、警官や自衛隊、各国の軍装などを身に付けたコスプレマニア達が、「今しかない」とばかりに街をうろついていたらしいというお話を知った。
その噂の真偽は確かめようがないし、私が見た「自衛隊」がその中の一人だったかどうかも定かではないが、今でもたまに思い出す情景である。
2012年01月26日
GUREN7
歩きつづけると、やがて三宮に出た。
ここでもあちこちでビルが倒壊し、高架橋が破壊されており、都市機能は完全に麻痺していた。
さまよう人々を多く見かけた。
避難するため、食料や水を調達するため、あるいは周囲の現状を確かめるためなのだろう。
あてもなく、とにかく歩きまわるほかないという気分もあったことだろう。
自分がそうだったので、私にもそれはよく分かった。
個人の考え方、置かれた状況によって、災害時には様々な選択があり得ると思う。
私の場合、震災時には「二十代半ばの劇団員」というかなり気楽な身分で、負傷もせず、住んでいたボロアパートに大した被害も無かった。
なんとか自力で被災地外の親元に避難できそうな見通しがあった。
そうした条件から、「水や食料は被災地にいるしかない事情の人にまわす。自分は当面親元に避難し、現地の食い扶持を減らす」という選択をした。
もちろんほかの選択肢もあったが、とにかくそう決めた。
震度4〜5くらいの揺れはまだ度々続いており、いつまた大きな余震があるか分からない。
危険の予見されるエリアは迂回しながら、なるべく土地勘のあるルートを辿りたい。
ラジオの情報では、西明石以西はJRが運行しているらしい。
垂水までなんとかたどり着ければ、在住の親戚に連絡を取って西明石まで送ってもらえるかもしれない。
そこまで歩く過程で、もし救助の必要な場面に出くわせば、全力で協力する……
歩きながら、頭の中で現状と自分なりの行動規範を考えていた。
大規模な火災の起こっていた長田区を無事通過し、須磨区に差し掛かった頃、一匹の犬が遠巻きにしながらついてきていることに気がついた。
首輪をしていたので飼い犬だろう。
震災のどさくさで、迷ってしまったのだろうか?
ある一定の距離以上には近づいてこなかったが、何故かついてくる。
腹が減っているのかもしれないと気付き、ふりかえって「飯食うか?」と声をかけた。
ピタッと立ち止まってとくに反応は無い。
どうしようか迷ったが、ご飯を詰めたタッパーから少し取り出して足もとに置いた。
「ドッグフードじゃなくてすまんけど」
近づいてくる様子が無いので、ご飯はそのままに、歩き始めた。
しばらく歩いて振り返ってみたが、犬はまだ警戒している。
結局、ご飯を食べたかどうかは確認できないまま、私はその場を立ち去ることになった。
後になって、ニュースで被災地に取り残されたペット達に関する報道を見た。
震災時の細かなあれこれは、今でもたまに記憶によみがえってくるのだが、この犬のこともよく思い出す。
あの後、飯食ってくれたのかな?
家族とは合流できたのかな?
須磨区から垂水区まで、海沿いをずっと歩いた。
私が避難計画作成の手伝いなどで、津波について少々勉強したのは2000年代以降のこと。
95年当時はまだ、地震と津波の関係については全く認識していなかった。
もし知っていたら、震災直後に海岸線に近づくことはしなかったと思うが、何事もなかったので結果オーライではあった。
あたりがすっかり暗くなってから、ようやく垂水の駅前にたどり着いた。
ここまでくると被災地とは全く雰囲気が違っており、鉄道が運行していないこと以外はほとんど平常そのものだった。
一安心すると猛烈に腹が減ってきたので、道端に座り込んでタッパーに残っていた醤油飯をかき込んだ。
炊飯中の停電で芯があった飯だが、時間経過とともに多少食えるようにはなっていた。
それから親戚に連絡を取り、夜には親元に避難することに成功した。
これで私は一応、非常事態を脱したことになったのだが、もちろんこれで終わりではなかった。
破壊された街の中で日常生活を送るという、震災の次の段階に入ったに過ぎなかった。
むしろそこからの段階の方が、震災というものの本番であったかもしれない。
ここでもあちこちでビルが倒壊し、高架橋が破壊されており、都市機能は完全に麻痺していた。
さまよう人々を多く見かけた。
避難するため、食料や水を調達するため、あるいは周囲の現状を確かめるためなのだろう。
あてもなく、とにかく歩きまわるほかないという気分もあったことだろう。
自分がそうだったので、私にもそれはよく分かった。
個人の考え方、置かれた状況によって、災害時には様々な選択があり得ると思う。
私の場合、震災時には「二十代半ばの劇団員」というかなり気楽な身分で、負傷もせず、住んでいたボロアパートに大した被害も無かった。
なんとか自力で被災地外の親元に避難できそうな見通しがあった。
そうした条件から、「水や食料は被災地にいるしかない事情の人にまわす。自分は当面親元に避難し、現地の食い扶持を減らす」という選択をした。
もちろんほかの選択肢もあったが、とにかくそう決めた。
震度4〜5くらいの揺れはまだ度々続いており、いつまた大きな余震があるか分からない。
危険の予見されるエリアは迂回しながら、なるべく土地勘のあるルートを辿りたい。
ラジオの情報では、西明石以西はJRが運行しているらしい。
垂水までなんとかたどり着ければ、在住の親戚に連絡を取って西明石まで送ってもらえるかもしれない。
そこまで歩く過程で、もし救助の必要な場面に出くわせば、全力で協力する……
歩きながら、頭の中で現状と自分なりの行動規範を考えていた。
大規模な火災の起こっていた長田区を無事通過し、須磨区に差し掛かった頃、一匹の犬が遠巻きにしながらついてきていることに気がついた。
首輪をしていたので飼い犬だろう。
震災のどさくさで、迷ってしまったのだろうか?
ある一定の距離以上には近づいてこなかったが、何故かついてくる。
腹が減っているのかもしれないと気付き、ふりかえって「飯食うか?」と声をかけた。
ピタッと立ち止まってとくに反応は無い。
どうしようか迷ったが、ご飯を詰めたタッパーから少し取り出して足もとに置いた。
「ドッグフードじゃなくてすまんけど」
近づいてくる様子が無いので、ご飯はそのままに、歩き始めた。
しばらく歩いて振り返ってみたが、犬はまだ警戒している。
結局、ご飯を食べたかどうかは確認できないまま、私はその場を立ち去ることになった。
後になって、ニュースで被災地に取り残されたペット達に関する報道を見た。
震災時の細かなあれこれは、今でもたまに記憶によみがえってくるのだが、この犬のこともよく思い出す。
あの後、飯食ってくれたのかな?
家族とは合流できたのかな?
須磨区から垂水区まで、海沿いをずっと歩いた。
私が避難計画作成の手伝いなどで、津波について少々勉強したのは2000年代以降のこと。
95年当時はまだ、地震と津波の関係については全く認識していなかった。
もし知っていたら、震災直後に海岸線に近づくことはしなかったと思うが、何事もなかったので結果オーライではあった。
あたりがすっかり暗くなってから、ようやく垂水の駅前にたどり着いた。
ここまでくると被災地とは全く雰囲気が違っており、鉄道が運行していないこと以外はほとんど平常そのものだった。
一安心すると猛烈に腹が減ってきたので、道端に座り込んでタッパーに残っていた醤油飯をかき込んだ。
炊飯中の停電で芯があった飯だが、時間経過とともに多少食えるようにはなっていた。
それから親戚に連絡を取り、夜には親元に避難することに成功した。
これで私は一応、非常事態を脱したことになったのだが、もちろんこれで終わりではなかった。
破壊された街の中で日常生活を送るという、震災の次の段階に入ったに過ぎなかった。
むしろそこからの段階の方が、震災というものの本番であったかもしれない。
(続く)
2012年03月22日
GUREN8
カテゴリ90年代、阪神淡路大震災の被災体験の続き。
-------------------------
阪神淡路大震災二日目、私は徒歩で被災地を通り抜け、なんとか親元に避難することができた。
それから一週間ほど、一応身体の安全は保障されているものの、先の見えない生活が続いた。
被災地から親元までは、普段なら鉄道で通うことも可能な距離にあったのだが、地震による被害はまったくなかった。
昨年の東日本大震災では被災地が広範囲に広がったが、阪神淡路大震災の場合、壊滅状態になったのは非常に局所的だったのだ。
破壊された街中の不自由な避難所に入った皆さんのことを考えると、まるで異世界のように平穏な避難生活ができた私は、本当に幸運だったと言わなければならない。
他にできることもないので、情報収集に努めながら、私は今後の身の振り方について、まとまらない頭を巡らせ続けるしかなかった。
当時はまだケータイやインターネットの世界は今ほど一般化していなかったので、被災地の情報はテレビや新聞からに限られた。
ただ同じような写真や映像が延々と続くばかりで、自分で直に見てきた以上の大した情報は見つからず、時間だけが漫然と過ぎて行った。
親元に帰ってみて痛切に感じたのは、被災者とそれ以外の皆さんの意識の違いだった。
震度7の激震と、壊滅した街をさまようという極限体験は、それを体感した者にしか本当の所はわからない。
震度7という物理的な力。
何事もなく楽しく暮らしていた生活そのものが、ある日突然街ごと破壊されるという不条理。
人はいずれ死ぬとか、天災はいずれ来るとか、家はいずれ壊れるとか、街は変化するとか、時は流れるとか、言葉で書くとごく当たり前のことがらを、たった一昼夜で濃縮して見てしまったことは、決定的な意識の変化をもたらす。
十数年前の震災以降、今に至るまで、私の感覚は「非常時用」に切り替わったままだ。
平穏な日常生活というものが、何事もなくずっと続いていくことを、震災前のように無邪気に信じることはできなくなった。
いつの日にかまた、必ず「それ」は、やってくる。
明日かもしれないし、数週間後、数ヵ月後かもしれない。
数年後かもしれないし、十数年後かもしれない。
数十年というスパンなら高確率でやってくるし、百年以内なら「それ」は確実にやってくる。
私の今後の人生で「それ」に出合わない方がラッキーなのであって、この一見平穏そのものに見える日常生活というものは、ほんの猶予期間にすぎない……
言葉にするとそのような感覚が染みついてしまって、今後も元に戻ることは決してないだろう。
それでも当時の私はまだ若く、身体的な被害も住居の被害もほとんどなく、生活の中で守るべきものがそれほど多くはなかったので、価値観の崩壊も少なくて済んだと思う。
親しい身内をうしなったり、負傷したり、住み慣れた家を失い、ローンだけが残ったりした場合、その喪失感はいかほどのものだっただろう。
街が一瞬にして崩れ去るということは、日常感覚の崩壊をともなう。
大震災に被災した者なら多かれ少なかれ、こうした感覚は共有しているはずだ。何も言わなくても、実感として通じるものがある。
しかし、一歩被災地外に出てみれば、どんなに近親の者であっても、その感覚が深いところで理解されることはない。
親元で不自由のない避難生活をおくれる幸運に感謝しながらも、私はぼちぼち被災地に帰ることを考えはじめていた。
日々のやりとりの中で、被災地にあっては当たり前のように共有される感覚が通じないことに、ある種の「しんどさ」を感じはじめていたのだ。
当時のバイト先のいくつかは被災地外にあり、連絡をつけてみると、いつでも都合の良い時期に復帰すればよいと言ってもらっていた。
交通機関が分断されていたので親元から通勤することは不可能だったが、被災地にある自室に戻れば、徒歩などを含めてなんとか通勤可能であることはわかっていた。
余震は続いており、まだまだ予断を許せる状況ではなかったが、再び激震に襲われるほどではないと、感じられるようにはなっていた。
苦労するのは目に見えていたが、先が見えないまま親元で過ごすよりも、被災地に戻ることの方が前向きになれる気がした。
避難三日目ぐらいから、私は近所の釣具店などで、コンパクトにまとまる寝袋やポケットラジオ、ペンライトを購入し、最低限のサバイバル道具をそろえて、自室への帰還に備えはじめていた。
そして震災一週間後、リュックに目いっぱいの米とツールを詰め込んで、被災地付近へ通じる迂回ルートの鉄道に乗りこんだのだった。
-------------------------
阪神淡路大震災二日目、私は徒歩で被災地を通り抜け、なんとか親元に避難することができた。
それから一週間ほど、一応身体の安全は保障されているものの、先の見えない生活が続いた。
被災地から親元までは、普段なら鉄道で通うことも可能な距離にあったのだが、地震による被害はまったくなかった。
昨年の東日本大震災では被災地が広範囲に広がったが、阪神淡路大震災の場合、壊滅状態になったのは非常に局所的だったのだ。
破壊された街中の不自由な避難所に入った皆さんのことを考えると、まるで異世界のように平穏な避難生活ができた私は、本当に幸運だったと言わなければならない。
他にできることもないので、情報収集に努めながら、私は今後の身の振り方について、まとまらない頭を巡らせ続けるしかなかった。
当時はまだケータイやインターネットの世界は今ほど一般化していなかったので、被災地の情報はテレビや新聞からに限られた。
ただ同じような写真や映像が延々と続くばかりで、自分で直に見てきた以上の大した情報は見つからず、時間だけが漫然と過ぎて行った。
親元に帰ってみて痛切に感じたのは、被災者とそれ以外の皆さんの意識の違いだった。
震度7の激震と、壊滅した街をさまようという極限体験は、それを体感した者にしか本当の所はわからない。
震度7という物理的な力。
何事もなく楽しく暮らしていた生活そのものが、ある日突然街ごと破壊されるという不条理。
人はいずれ死ぬとか、天災はいずれ来るとか、家はいずれ壊れるとか、街は変化するとか、時は流れるとか、言葉で書くとごく当たり前のことがらを、たった一昼夜で濃縮して見てしまったことは、決定的な意識の変化をもたらす。
十数年前の震災以降、今に至るまで、私の感覚は「非常時用」に切り替わったままだ。
平穏な日常生活というものが、何事もなくずっと続いていくことを、震災前のように無邪気に信じることはできなくなった。
いつの日にかまた、必ず「それ」は、やってくる。
明日かもしれないし、数週間後、数ヵ月後かもしれない。
数年後かもしれないし、十数年後かもしれない。
数十年というスパンなら高確率でやってくるし、百年以内なら「それ」は確実にやってくる。
私の今後の人生で「それ」に出合わない方がラッキーなのであって、この一見平穏そのものに見える日常生活というものは、ほんの猶予期間にすぎない……
言葉にするとそのような感覚が染みついてしまって、今後も元に戻ることは決してないだろう。
それでも当時の私はまだ若く、身体的な被害も住居の被害もほとんどなく、生活の中で守るべきものがそれほど多くはなかったので、価値観の崩壊も少なくて済んだと思う。
親しい身内をうしなったり、負傷したり、住み慣れた家を失い、ローンだけが残ったりした場合、その喪失感はいかほどのものだっただろう。
街が一瞬にして崩れ去るということは、日常感覚の崩壊をともなう。
大震災に被災した者なら多かれ少なかれ、こうした感覚は共有しているはずだ。何も言わなくても、実感として通じるものがある。
しかし、一歩被災地外に出てみれば、どんなに近親の者であっても、その感覚が深いところで理解されることはない。
親元で不自由のない避難生活をおくれる幸運に感謝しながらも、私はぼちぼち被災地に帰ることを考えはじめていた。
日々のやりとりの中で、被災地にあっては当たり前のように共有される感覚が通じないことに、ある種の「しんどさ」を感じはじめていたのだ。
当時のバイト先のいくつかは被災地外にあり、連絡をつけてみると、いつでも都合の良い時期に復帰すればよいと言ってもらっていた。
交通機関が分断されていたので親元から通勤することは不可能だったが、被災地にある自室に戻れば、徒歩などを含めてなんとか通勤可能であることはわかっていた。
余震は続いており、まだまだ予断を許せる状況ではなかったが、再び激震に襲われるほどではないと、感じられるようにはなっていた。
苦労するのは目に見えていたが、先が見えないまま親元で過ごすよりも、被災地に戻ることの方が前向きになれる気がした。
避難三日目ぐらいから、私は近所の釣具店などで、コンパクトにまとまる寝袋やポケットラジオ、ペンライトを購入し、最低限のサバイバル道具をそろえて、自室への帰還に備えはじめていた。
そして震災一週間後、リュックに目いっぱいの米とツールを詰め込んで、被災地付近へ通じる迂回ルートの鉄道に乗りこんだのだった。
(続く)