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2012年03月24日

GUREN9

 一時的に避難していた親元から被災地に戻り、二ヶ月ほどはサバイバルに近い生活が続いた。
 一応、自室は無事だったが、電気、水道、ガス等のライフラインは、なかなか復旧しなかった。
 それでもプライバシーの一切無い避難所にいる皆さんより精神的には楽だったが、その分、情報については自力で収集するほかなく、それなりの不便はあった。

 朝起きるとまず、水の確保だ。
 毎朝淡い期待を込めて部屋の水道を確認するが、なかなか復活してくれない。
 仕方なく、登山リュックにありったけのペットボトルをつめて、近所の風呂屋へむかう。
 風呂屋自体は休業中だったのだが、井戸水を使っているので、近隣住民のために無料の水場として解放してくれていたのだ。
 私の住むアパートは自衛隊などの給水車が停まる場所から少し離れていたので、非常にありがたかった。
 無人の風呂屋に一応「水いただきます!」と声をかけながら入り、2リットルのペットボトル十本に順番に水を満たす。
 私の経験で言うと、バケツやポリタンクなどの容量が大きい容器で一気に汲むより、小分けにしておいた方が何かと使い勝手がよかった。
 リュックに収納して背負うと、20キロの重みがずっしりと肩に食い込む。
 台車などを使うことも考えたが、部屋から風呂屋に行くまでに、階段や坂道、線路などを通過しなければならないので、多少重くても背負ってしまった方が、かかる手間が少なかったのだ。
 ただ、これは私がまだ若かったからできたこと。
 腰痛を抱えた今現在なら、台車やキャリーの類は絶対に欠かせない。防災グッズの中に、小さくまとまるキャリーは加えておいた方がよいと思う。

 水は飲料水だけなら、一日にペットボトル2本もあれば十分だっただろう。
 しかし、水道が止まって初めてわかるのが水のありがたさである。普通に生活するには、水はいくらあっても足りない。
 まず、洗濯。
 被災地内だけで過ごすなら、多少薄汚れていても大丈夫だ。自分だけでなく、周囲も全て入浴と洗濯には不自由しているので、身なりにさほど気を遣わなくて済む。
 ただ、私の場合は大阪方面にバイトに出ることがけっこうあった。
 元来身なりにはきわめて無頓着な私でも、被災地とそれ以外の空気の差は歴然と感じるので、そういう時には最低限の身づくろいはしなければならない。
 寒空の下、ベランダでバケツと洗面器を使い、水の残量を気にしながら衣類を手洗いしたり、洗髪や体拭きなども試みたが、かなりキツかった。
 バイト先との往復のペースがつかめてからは、入浴や洗濯は、なるべく仕事帰りに大阪方面の風呂屋やコインランドリーで済ませるようになった。

 もっとも大変だったのが、トイレ。
 私が住んでいたのは風呂無しトイレ共同の安アパートで、和式の大便器が各階にいくつかあった。
 当然ながら、水道が止まっているので、手持ちの水を洗面器に汲んで持参し、用を足した後はその洗面器で手を洗い、ざっと便器内を流さなければならない。
 小用ならそれで終わりなのだが、一回の用足しで貴重な水が2リットルほど失われることになる。
 大の場合はもっと大変だ。
 勢いよく噴出する流水ではなく、洗面器の水を斜め上からかけるだけなので、固形物はなかなか流れてくれない。
 下手すると、一回に10リットルくらい水を使わなければならなくなり、もう一度近所の風呂屋へ水汲みに出かける羽目になったりする。
 トイレ問題は被災地で最も深刻だったことの一つで、みんな悪戦苦闘していたようだ。
 公園等の公衆トイレは、震災後一週間もすると、全て大便とトイレットペーパーのうず高い山(比喩表現にあらず!)となり果てた。
 私はと言えば、小用はともかく大の方は、バイトで大阪方面に行った時にタイミングが合うように、なるべく習慣づけることに成功した。
 出勤日はそれでよかったのだが、休みの日は仕方がないので、水汲みを複数回行うことで対処しなければならなかった。

 意外と負担が少なかったのが、食器などの洗いもの。
 そもそもガスも水道も電気も通じていない状態では大した炊事が出来ないので、洗いものもほとんど生じないのだ。

 このように、被災地ではまず何をおいても水の確保が重要になる。そしてそのためには、きっちりフタガ閉まって持ち運べる容器(私の場合は2リットルペットボトル×最低五本がお勧め)や、それを運搬するためのリュック、キャリー等を、防災グッズの中に含めておくことが大切になってくる。

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 震災当日からかなり経って、自室の水道の蛇口から「ゴゴゴゴ……」という音とともに、水が迸り出た時の感動を、今でも私は生々しく記憶している。
(続く)
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2012年05月10日

GUREN10

 ライフラインの内、電気は比較的早く復旧した。
 震災当時私が住んでいた阪急沿線は、それより南部にあるJR沿線や阪神沿線に比べると、被害が少ない傾向にあり、その分、電気が通じるのも早かった。
 倒壊・半壊家屋が多く、住人が別の場所に避難してしまったエリアでは、下手に通電すると火災の恐れがあるらしく、なかなか電気は復旧しなかったようだ。
 毎朝汲みに行かなければならないとは言え、水は確保してあったので、電気が通じてからは、よく親元から持ち帰った米を炊いて食べていた。
 被災地では、おにぎりや缶詰、カップ麺、袋入りのパン、紙パックのジュースの類を飲食する機会が多くなりがちだ。
 一日二日ならそういう食事が続いてもどうということはないのだが、三日四日と続いてくると、塩分や砂糖の濃い味付けがどうにも耐えがたくなってくる。
 このあたりは各自の嗜好にもよると思うが、私の場合はそうだった。
 喉が乾いたら何の味も付いていない水が飲みたくなるし、白米や食パン等のプレーンな食べ物がどうしても食べたくなってくる。
 魚の缶詰ならタレのついた蒲焼きなどではなく、サバの水煮なんかの方がありがたく感じるようになってくる。
 欲を出せば、何も味付けをしていない新鮮な野菜サラダが欲しくなってくる。
 2011年の東日本大震災以降、防災グッズへの関心が高まり、非常食の類を備蓄する家庭も多くなってきていると思う。スーパーやホームセンター等でも、手を変え品を変えて様々なものが売られている。
 私の個人的なお勧めで言えば、非常食を準備するならごく普通の生米をメインに考えるのが良いと思う。
 ご飯のパックでも良いが、けっこうかさばって重いし、火や水、電気がなければ温められないので、どうせそんなに美味くは食べられない。
 生米なら保存が効き、比較的軽いので持ち運びやすいし、最悪、生でかじっても良い。
 とくに「非常用」と限定しなくても、日常生活で米を購入するときに一袋余分に買うように気をつけるだけで、まさかのときの非常食になる。
 これは飲料水にも言えることで、ミネラルウオーターなどを買う時に、少し余分に買っておいて日々更新していけば、それだけで十分、非常時対応になるのだ。
 自然災害が起こった場合、最初の三日間ぐらいをとにかく生き抜く備えが重要で、その次の段階のことをあまり綿密に考えても無意味だ。「想定外」が常態化する場面では、その場その場で起こってしまった事態を元にやりくりするしかないのだ。
 自然災害は「快適なアウトドア・レジャー」ではないのだから、欲張ってあれこれグッズを取りそろえても、やたらに使いきれない荷物が増えるだけだ。
 飢えと渇きに対する最低限の備えを、無理なくコンパクトにまとめ、日々更新し続けるのが良いのではないだろうか。
 
 水道、ガスはなかなか復旧せず、被災地では弁当以上の食事を望むのが難しい状態が続いた。
 私の場合は、週に何度か大阪方面にバイトに出ていたので、出勤日の昼食と夕食は、まともなものありつくことができた。
 バイト先の皆さんにも本当にお世話になった。
元々貧乏な劇団員で、その上被災者になってしまった事情から、よく飯を食わせてもらったりした。
 私は神戸の被災地にあってはサバイバルに近い生活を送りながら、週の半分くらいは大阪に出て食事や入浴、排泄に関する「日常」を取り戻し、適度に息抜きをすることができた。
 震度7を経験しながらも、身体や住居の直接的な被害は免れた幸運。
 周囲の理解と助力。
 この二つの要素のおかげで、私はなんとか大震災後を無事に乗り切ることができたのだ。
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2012年05月16日

GUREN11

 親元には何度か帰った。
 荷物を整理したり、米などの食料を補給するためだ。
 帰省したついでに、頭を丸めた。丸めたと言っても剃髪ではなく、中高校生の頃以来の坊主頭だ。
 バイト先の皆さんは、「変わり果てた」私の姿を見てびっくりしていた。もしかしたら被災したこと自体より、驚かれてしまったかもしれない。中には笑いながら「出家でもしたか?」と声をかけてくれた人もいた。
 なにかもう、手近なところから何でもかんでもリセットしたい気分だったということもあるが、直接的には風呂にあまり入れなかったことが理由だった。

 震災前から私が住んでいた安アパートは風呂無しだったので、入浴にはもっぱら銭湯を使っていた。
 当時住んでいた地域は「学生街」「下町」という色合いが強かった。金のない学生向けの老朽化した安アパートが無数に存在し、その大半は風呂無しだったので、あちこちに大小無数の銭湯が経営されていたのだ。
 私の部屋から通える範囲だけでも、軽く4〜5軒はあったと思う。
 ところが、そうした街の銭湯事情は、震災で一変した。
 まず、震災後二カ月ほどの間は、各銭湯がまともに開店されなくなった。これは銭湯を経営する皆さん自体が被災者だったので、無理もないことだ。
 ごくたまに風呂屋が開いた時などは、近所の人が殺到して行列になり、十五分ぐらいずつの交代制になったりしていた。
 そんなときは湯船がたちまち汚れ、うすい泥水が浴槽を満たした状態になった。とても浸かる気にはならなかったので、頭と体だけ手早く洗った。
 風呂好きの私にはなんとも辛い状態だったが、大阪のバイト先の近所で入浴できないオフの日には、洗髪できるだけでもありがたかった。

 95年の震災から2000年にかけて、徐々に倒壊家屋が撤去され、新しい建築物に置き換わって行くその過程で、震災前には無数に存在した老朽安アパートのうちのかなりの数が、新築のワンルームマンション等に置き換わった。
 新築マンションには当然ながら風呂が付いているので、銭湯の主要な顧客が一気に減少し、近所の銭湯はバタバタと閉店していった。その跡地には、また新しい風呂付マンションが建ったりして、銭湯経営を取り巻く環境は悪循環に陥って行った。
 こうした変化は銭湯だけでなく、震災をきっかけとして他の様々な面でも、地域の在り方の変化は加速していったと思う。
 風呂屋や地元のアーケード商店街、木造安アパートといった、どこか「昭和」の名残を感じさせる風景の多くは、「震災復興」「街づくり」という名の再開発で、あわただしく消え去って行った。
 もし震災がなかったとしても、こうした変化は時の流れとともにやがては訪れたに違いない。日本中の小都市部で、過去や現在、進行中の変化であるだろう。
 たまたま神戸の場合は、震災によって時計の針が一気に進められたということだ。私の体感としては、十年分くらい一息に進んだ気がする。
 そのような急激な変化のしわ寄せがどこに一番行ったかと言えば、長年住み慣れた地域の中で、ゆっくりと余生を送っていたお年寄りの皆さんだっただろう。

 震災前の神戸の銭湯の風景は、まことに牧歌的なものだった。
 金のない若者、年配の皆さん、近所の子供たちが集っており、お互い名前も知らないけれども、よく顔を合わせて世間話などに興じる「風呂屋だけの知り合い」が、私にも何人かいた。
 そんな顔見知りの中には、刺青の入った若い衆もいた。
 今でこそ公衆浴場などでは「刺青・タトゥーお断り」が普通になっているが、当時はとくに違和感なく、周囲にとけ込んでいた。
 サウナ室でナイター中継を見ながら、若い衆と他愛もない会話をしたことなどを、今でも懐かしく思い出すことがある。
 92年の暴対法導入を契機として、警察が主導するヤクザ排除は急速に進行し、2012年現在はその総仕上げに入ろうとしているように見える。
 しかし神戸では震災前後あたりまで、ヤクザは庶民に恐れられながらも、良くも悪くもそこそこ共存していたと思う。
 それは「あの組」の膝元であるという特殊事情もあるだろう。
 国家権力や警察力の崩壊した戦後の混乱期、神戸の治安を実質的に維持していたのが「あの組」であったという「史実」を記憶する人は多かっただろう。
 そして何よりも、震災直後から「あの組」が精力的に展開した救援活動に、素直な称賛をおくる人は多かったのだ。
 震災後、少なくとも私の周囲では、「ヤクザと自衛隊はようがんばってくれてる」という評判だった。
 ヤクザに対する素朴な幻想が、最後の一花を咲かせた瞬間が阪神淡路大震災だったのかもしれない。
 私自身は現在ヤクザと何のかかわりも持っていない。
 ことさらにヤクザを擁護する気はないが、こうした事柄はなかなか文字にならないので、事実は事実として極私的に書き留めておきたいと思う。
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2012年06月28日

GUREN12

(当ブログではカテゴリ90年代で、私自身の阪神淡路大震災の被災経験を、断続的に書きとめています。)
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 被災生活は、精神的・物質的には耐乏の日々が続いた。
 確かに不便なことは間違いなかったが、私自身は実を言うとそれほど困っているわけでもなかった。
 元々ビンボーな劇団員だったので、何も失うものがなかったことが逆に幸いした。
 震災の前後で劇的に生活が急変したわけではなく、せいぜいが「ビンボー一割増し」ぐらいなものだったのだ。
 仕事が減り、金もなかったのだが、所属していた劇団が休止していたので、時間だけはたっぷりあった。
 バイトのない日、私はあてもなく破壊された神戸の街を、ただウロウロと歩きまわった。
 この際、未曾有の大震災というものを、自分の目で見尽くしてやろうと思っていたのだ。
 今振り返ってみても、その経験は得難いものだったと思うのだが、一点だけ書いておかなければならないのは、古いビルが倒壊した時に撒き散らされるアスベストのことだ。
 阪神淡路大震災当時、アスベストに対する注意喚起はまったくと言っていいほどなかった。少なくとも私は、そのように認識している。
 私も含めて街ゆく人々はみな、マスクもなしにもうもうと埃の舞う廃墟を歩き回っていた。
 おそらく、あの当時神戸の被災地にいた人間は、一様に発癌性物質を吸い込みまくってしまったはずだ。震災から十七年、影響があるとすればそろそろデータとして出てくる頃かもしれない。
 昨年の東日本大震災では、アスベストについての警告もそれなりに出ていたと思う。福島第一原発から放出された放射性物質とともに対策が徹底されるべきで、とくに年少者には外出時の専用マスク着用を習慣づけた方が良いだろう。
 私のように後から知識だけ得たとしても、手遅れである。

 ともかく、私は破壊された街を憑かれたように歩き回った。
 ときには被災地外から神戸を訪れた知人を、案内して回ったりもした。
 当時私はバイトの関係で、建築・造園畑の皆さんと付き合いがあり、現地調査の手伝いみたいな話がちょくちょくあったのだ。
 震災後の神戸には、様々な形で現地調査に入ったり、もっと露骨に言えば、物見遊山に来ている人々がたくさんいた。
 被災者の皆さんの中には、そうした「見物人」に対して不快な思いを抱いている人も多かったと思うが、私自身は「見物でもなんでもいいから、機会があれば大震災の現場は一回見ておいた方がいい」と思っていた。
 百聞は一見にしかず。
 巨大地震がいかに都市を破壊するかということは、連日の報道を読み漁り、TV画面を何十時間と見続けても、本当の所は到底わかるものではないのだ。
 映像や写真として広く報道するには適さない悲惨な光景が、震災の現場には多数あるということもある。
 実際に被災地に身を置き、360度壊滅した街を、空撮ではなく地べたから見上げてみる。
 ほんのわずかな時間でも、現地を歩き回ってみる。
 その体験は、必ず心の中に化学変化を起こす。
 堅牢そのものに見える鉄筋コンクリートの近代的建造物が、信じがたいほど脆く崩れやすい「こわれもの」にすぎないという事実が、理屈抜きで頭に叩き込まれるのだ。
 私は今でも道を歩いていて、日常風景の中にある建造物と、震災当時の倒壊の情景が重なって見える瞬間がある。
 とくに一階部分が駐車スペースになっていて柱だけで支える構造になっているビルや、老朽化してコンクリートのあちこちが剥離している高架等を通りかかったとき、その「幻視」は起こる。そんな風景は日本中どこにでもありふれているので、つまりはけっこう日常的に「見ている」ことになる。
 もちろんそんな「幻想」が見えたからと言って、普段から一々他人にしゃべったりはしない。
 たまたま自分の被災体験について綴っているところなのでこうして文章にしているが、そうした私的な空想が、なんらかの予知能力だと主張したいわけではないのだ。
 おそらく、こういうことではないかと思う。
 住み慣れた街の、よく知った建造物が破壊されたケースを、私は震災後に敢えて見すぎてしまったのだ。
 無数のケースを驚きをもって頭にインプットし続けた結果、似たような建物や高架を通りかかったときに、震災後の風景が連想として蘇ってくるような回路が、知らぬ間に脳内に作られてしまったのではないだろうか。

 私の空想癖はともかくとして、建造物の耐震偽装が蔓延したこの地震国では、どこで何が起こるかわかったものではないことだけは確かだろう。
 街を歩く折に、少し注意深く鉄筋コンクリートの建造物を観察してみると良い。
 ひび割れ、剥離し、赤錆びた鉄筋をのぞかせた箇所が無数に目につき、背筋の凍る瞬間がいくらでもあるはずだ。
(つづく)
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2012年08月20日

GUREN13

(当ブログではカテゴリ90年代で、私自身の阪神淡路大震災の被災経験を、断続的に書きとめています。)
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 出勤のために自室から一時間以上かけて被災地を抜け、鉄道の通じている地点まで行き帰りする毎日を過ごすうちに、色々なものを見た。
 バイト帰りの夜道、高速道路や鉄道の高架橋を通りかかると、昼間の復旧工事の進捗状況が日々観察できた。
 地震の揺れで橋脚のコンクリートが部分的に爆発したようになり、ねじ曲がった鉄筋部分がひしゃげた提灯のように露出する現象はあちこちで見られた。
 私の通勤経路でも何箇所かあったのだが、そのうちのいくつかは、「無事」な部分はそのままに、ジャッキアップして継ぎ足すように再建していた。
 当然、しかるべき強度計算がなされた上での復旧工事だったのだろうとは思う。
理性としてはそのように考えるべきだとわかってはいたのだが、あの激震を体験した素人目には、なんとも危うい印象を受けてしまったものだ。
(そんななおし方でほんまに大丈夫なんかいや……)
 地震で倒壊した鉄筋コンクリート建造物のうち、多数に強度偽装らしき痕跡が認められたというニュースを聴きながら、どうしてもそんな疑問が頭をよぎって行った。
 
 他にも、眺めているだけで滅入る風景は多々あった。
 広い範囲で家屋が倒壊し、火災で焼き尽くされたエリアが何箇所かあった。
めぼしい公園には仮設住宅が立ち並び、ゴミ集積所には回収されないままの粗大ゴミや廃材が「山脈」を形成していた。
 そうした荒廃の風景は震災後数年のうちに徐々に解消されて行ったのだが、その後「復旧」された街は、震災前のものとはまったく違った性格を持つようになっていた。
 先にも書いたことだが、時代の流れとともに徐々に進んでいくべき街の変化が、震災を契機に十年分ほど強制的に進められてしまった感があった。
 街を構成する建造物の建て直しは、ものの数年もあれば完了する。
 神戸の例で言えば、ライフラインは数カ月、主な交通機関も半年すれば復旧したし、2000年に入る頃には「破壊された街」の痕跡はほとんど目に見えなくなった。
 しかし、モノが復旧されたからと言って、震災のすべてが終わるわけではない。
 そこに住む人間それぞれにとっての震災は、心の中で残り続けるし、それは被災地の地べたで暮らす者にしかわからない。

 同じくバイト帰り、長い帰りの夜道を歩いていて、見知らぬ犬がついてきたことがあった。
 小型の柴犬で、野良犬には見えなかった。
 歩く私から微妙に距離を置いてついてくる。
 はじめはたまたま進む方向が同じなのかと思ったが、いつまでも同じ距離感でついてくるので、ちょっと困った。
 ためしに歩道を蛇行してみると、私の足取りそのまま辿ってくる。
 仕方がないので、話しかけた。
「ごめんな。連れて行ったられへんねん」
 飼い犬なら、人間のしゃべっている言葉の「意味」は通じなくても「意図」はけっこう通じるものだ。
「家どこや? あんまり遠くまでついてきたら、帰られへんようになるで」
 しゃべりながら、何か似たようなことがあったなと気づいた。
 そう言えば震災二日目、親元に避難するときに、どこかの犬がついてきたことがあった……
 あの犬、飯は食えただろうか?
 私は特筆するほどの犬好きでもないのだが、震災当時の心境として、行くあてのない迷い犬とどこか通じるものがあったのかもしれない。
 私の言葉が通じたのかどうか、今度の迷い犬も、どこかへ歩き去って行った。
 もちろん、その後の消息はわからない。

 阪神淡路大震災では、一般市民によるボランティアの活動が注目され、「ボランティア元年」という言葉もできたほどだった。
 私はと言えば、そうしたボランティア活動とは直接関わらないままに、どうにかこうにか日々をしのいでいた。
 私自身が(直接的な被害は少なかったとはいえ)被災者であったし、被災地で寝起きし、余所で稼いできた金を被災地で使うことこそが、自分のできる最善の「復興活動」だと思っていたのだ。
 ところがある時、知人を介して、風変わりなお話をもらった。
 震災で広範囲が焼失した地域で、地元の人が飲み食いしながら懇談できる、集会所が建てられたという。
 建てたはいいが、工事現場のような愛想のないプレハブなので、その壁面に何か絵でも描いてくれる人はいないか、探しているそうなのだ。
「あ、俺でよかったらやるやる!」
 即答した。
 たぶん、自分以上の「適任」は、なかなか見つからないだろうと思った。
 良い絵描きさんは巷にもたくさんいるが、プレハブの壁面のようなイレギュラーなキャンバスに、画材にこだわりなく、安上がりで見栄えのするサイズの絵が描ける人間は、そんなにたくさんいないだろう。
 私は大きなサイズのペンキ絵を描くことに関しては中高生の頃から経験を積んできていたし、震災当時は映画館の看板描きのバイトや、所属していた小劇団の舞台美術で、その手の作品制作には熟達しまくっていた時期だったのだ。
 さて、何を描こうか?
 依頼主さんからは、具体的な希望は特になく「とにかく明るく景気のいい感じで」と言うことだった。
「じゃあ、七福神を描かせていただきます!」
 とくに迷うこともなく、絵のテーマについても即決した。
 実はその頃、私は徐々に神仏に関する読書を始めていたところだった。
 父方の祖父が浄土真宗の僧侶、母方の祖父が仏像彫刻を趣味にしている大工だった私は、それまでも神仏に関心を持たなかったわけではないのだが、まともに資料にあたって調べたりということはなかった。
 思うところあってそうした読書を始めた、ちょうどそのタイミングに、もらったオファーだったのだ。
 焼け野原に立つプレハブ小屋に浮かび上がった、ペンキ絵の七福神。
 今の自分が描く絵としては、素晴らしくお似合いな気がした。
 
 ああ、この辺だ。
 自分はこの辺りから始めるのが良い。
 そう思い立つと、久々に心が上向きになってくるのを感じたのだった。
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(私的震災記「GUREN」ひとまず完)
posted by 九郎 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする