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2017年01月20日

祭をさがして5

 94年9月に迫った劇団の公演に向けて、私は抱えたチケットノルマを少しでも解消すべく、あれこれ名簿を開いていた。
 当時はまだケータイはさほど一般化していなかったし、もちろんインターネットも普及前だった。
 だから劇団の集客方法も、直接対面で誘うか、電話、郵送によるダイレクトメールの類に限られていた。
 今の若い人がメールもSNSも動画配信も無しにチケットを売れと言われたら、途方に暮れるのではないかと思うが、昔はそれが当たり前だったのだ。
 演劇関係者の中に少なからぬ割合で存在する、内向的で人付き合いが苦手なタイプにとっては、今はいい時代になってきているのではないかと思う。
 それでもTwitterのような常時接続が苦手な私は、もし今演劇を続けていたとしても、相変わらず集客に苦戦していることだろう(笑)

 茶封筒にせっせと宛名書きし、チラシや当日清算チケットを同封したDMを作っているうちに、私は古い名簿の中の、ある友人の名に目をとめた。
 彼は中学、高校の頃の友人だった。
 私たちは柄にもなく中高一貫の私立受験校に通っていて、名簿順が近いせいもあり、よく座席で前後に並んでいた。
 彼は同年代の中では少しセンスが先走っている所があった。
 たとえば中学に入った頃、他のみんなが小学生時代からの延長で少年漫画誌ばかり読んでいた中、彼は既に大友克洋にハマっていて、第一巻が出たばかりの「AKIRA」を読み耽っていた。
 私もかなりの漫画好きを自認していたけれども、大友克洋に手が延びたのは高校生になってからで、それも彼の部屋に遊びに行くようになってからのことだった。
 実家が遠隔地の彼は、中学の頃は寮に入っていたけれども、高校に上がってからは港町のアパートで独り暮しをしていた。
 今でもその部屋のことをよく覚えている。
 レコード(当時はちょうどCDへの移行期だった)を聴いたり、漫画や小説を読んだり、ギターを弾いたり、近くの海岸まで散歩に行ったりしてダラダラと過ごしていた。
 彼が冗談めかして「家出するんやったらうちに来いよ」と笑っていたのを、昨日のことのように思い出す。
 当時、私は彼の影響を強く受けていた。
 先に書いた大友克洋もそうだし、平井和正も、アコースティックギターを弾く様々なアーティストを知ったのも、彼の部屋でのことだった。
 文化祭で「オズの魔法使い」の放送劇を作り、声優の真似事をやったり、映写するためのイラストを描いたのも、彼に誘われてのことだった。
 そういえばあの放送劇が、私の最初の演劇体験だったかもしれない。

 彼や私の高一のときのクラスは、成績別編成の最下位クラスだった。
 そのクラスには、学業が振るわなかったり、素行にも少々問題のある生徒が集まりがちで、ある意味では「隔離場所」みたいな扱いだったらしい。
 教室も同学年の他のクラスとは違う階になっており、先生方からは「他の組に行くな」と度々注意されていた。
 ぶっちゃけ「アホが伝染ったら困る」くらいには思われていたのだろう(笑)
 確かに先生にそう思われても仕方がないくらいのアホばっかり集まっていたのだが、良い方に解釈すれば、画一的な私立受験校の中では珍しい、個性派ばかり揃ったクラスでもあった。
 当時ですら時代錯誤だった体罰上等の厳しい生徒指導にしごかれながら、それでも私たちのクラスの生徒はみんな、そんな苦境を楽しんでいた。
 抑圧の強い分、休み時間や放課後の狂騒は凄まじく、日々繰り広げられるお祭り騒ぎに乗り遅れまいと、欠席する者は少なかった。

 アホな男子を一か所に閉じ込めると、鬱勃たるパトスによってどのような狂態が演じられるか?
 時代は全く違うけれども、以下の本に描かれるような旧制高校のバンカラ気質と、ちょっと似た感じがしていたのを覚えている。
 そもそもわが母校は、在りし日の学園長先生が、自身のルーツである旧制高校の校風を再現しようとして創設されたものだったのだ。


●「どくとるマンボウ青春記」北杜夫 (新潮文庫)

 ちなみにこの成績別クラス編成は、私たちの学年で最後になった。
 単に私たちより下の学年がみんな優秀だったせいかもしれないが、もしかしたら学校側が「アホを一か所に集めると、切磋琢磨してより強力なアホ集団になる」ということの弊害に気づいたのかもしれない。
 成績が振るわない分、私たちのクラスには、文化祭や体育祭では力を発揮するメンバーが揃っていた。
 私はこの高一の時から「一人美術部」として、生徒会などのイラスト関連の仕事を一手に引き受けていたし、放送部や新聞部、文芸部にも同じクラスのメンバーがいた。
 件の彼は放送部所属で、先に述べた「オズの魔法使い」の放送劇は、ほぼ私たちのクラスのメンバーのみで作り上げられたのだ。

 私の古い友人は諸事情から高一で学校を離れ、親元の高校へ転校していった。
 他にも私たちの「アホのクラス」からは、様々な事情で学校を去るメンバーがいて、一年間続いたお祭り騒ぎは終息した。
 狂騒の去った後も私の高校生活は続き、やがて思い切って美術系志望に転向した顛末は、以前記事にしたことがある。

 彼とは高一の最後、夜の公園で別れを告げて以来、何年も会っていなかった。
 なんとなく、いまどうしてるのか消息が知りたくなって、あまり返事を当てにしないで9月公演のDMを送った。
 気分としては、瓶に手紙を詰めて海に流すような感じだった。
 その後は舞台本番に向けて忙しくなり、封書を投函したことも半ば忘れていた。
(続く)
posted by 九郎 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年01月21日

祭をさがして6

 そして9月公演が終わって一息ついた十月の初め、バイトから帰って何気なく郵便受けを開けると、珍しく封書が届いていた。
 誰からだと思いながら茶封筒を裏返すと、見覚えのある汚い字。
 名前を見てドキッとした。
 あの友人の名だった。
 私はその封書を片手に、例のやたらに急な階段を一気に駆け上った。
 急いで自室に入り、封を切ると、中には一枚のチラシが入っていた。
 茶封筒と同じクラフト紙、手書き原稿黒一色刷りの、なんとも「変」なチラシだった。

――「月の祭」

 それがチラシの告知するイベントの名だった。
 場所はとある小さなビーチ、時は十月十九日から二十二日まで、四日間オールナイト。
 参加協力金二千円。
 他にも「フリーマーケット」とか、「出張ドロマッサージ」とか、「寝袋持参なら宿泊無料」とか、「徹夜のライブ」とか、「気功シンポジューム」とか、頭がくらくらするようなキーワードが並んでいた。
 さらに、それぞれの日の夕方から夜にかけてはライブステージが予定されていて、最終夜の二十一日にはボ・ガンボスのボーカル、どんとがソロで出演するとある。
 一瞬「ホンマかいな?」と思った。
 94年当時のボ・ガンボスと言えば、押しも押されもせぬ人気バンドだった。
 私も学生時代の先輩にファンの人がいて、CDをカセットテープに落としてもらったものをもらい、自分でも気に入ってよく聴いていたのだ。
 そんなバンドのフロントマンが、こう言ってはなんだけど地方のちっちゃなビーチで歌ったりするものなのだろうかと、わが目を疑ったのだった。
 そして、チラシの余白部分には、何年も前にはよく見慣れていたミミズの這ったような汚い字が書き込まれていた。

「H、芝居のチラシありがとう。受け取った時にはもう終わっていた。スマン。今度こっちでおもろいイベントがある。よかったら来いよ」

 実になんとも、想像力を刺激される便りだった。
 どうしたものかと二日間ほど考えたあと、メモしてあった電話番号を試してみることにした。
 当時はまだ個人的な連絡先も固定電話だけだったので、私は例によって自室のダイヤル電話の口に指を突っ込んでかき回す。
 ちょっと緊張していた。
 もともと電話が苦手だし、彼とは八年前の夜の公園以来だった。
 呼び出し音が二回ぐらい鳴ったあと、遠い回線の向こうで受話器がとられた。
 最初、お互いの声が分からなかったのは仕方がない。
 ぽつりぽつりと、話した。
 彼は地元の高校を出たあと、ずっと旅を続けていたのだそうだ。
 スタッフとして参加している「月の祭」が終わったら、また長い旅に出るという。
 高校時代に私が強く感化された彼は、相変わらずの彼だった。
 私はすっかり嬉しくなって、「月の祭」にはぜひ参加したいと伝えた。
「そやけど、俺ら何年ぶりやろ。顔わかるかな?」
 私はふと疑問を口にした。
 高一と二十代ではかなり見た目が変わっていて不思議はない。
 私たちの高校は校則が厳しくて、高校生でも全員丸刈りだったのでなおさらだ。
 彼は受話器の向こうで笑いながら答えた。
「大丈夫や。俺今モヒカンやから!」
 それで、久々の電話を終えた。

 受話器を置いた後、私はふと我に返って、モヒカンの話が本当なのかどうか考えた。
 昔、彼や私の仲間内では、そういうくだらない冗談交じりの騙し合いのようなやりとりが、日常的に行われていたことを思い出した。
(先手を打たれたか?)
 などと勘繰りながらも、私は半月後の「月の祭」が身悶えするほど楽しみになった。

 この不思議なお祭りについては、以前カテゴリ:どんとで記事にしたことがある。
 
 私が参加したのはたった一夜のことだったけれども、その印象は強烈だった。
 実を言えば、今でも後をひいている。
(続く)
posted by 九郎 at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年01月24日

祭をさがして7

 94年10月下旬、中秋の名月輝く中行われた「月の祭」に参加して以来、夢見心地のまましばらく過ごした。
 海辺のステージでどんとの歌を聴いたことがきっかけで、むかし人に貰ったボ・ガンボスのカセットテープに再びハマり、浸りきっていた。
 中でも「夢の中」という曲は、当時の私の心境にぴったりだった。
 歌いだしの「流されて流されて、どこへ行くやら」という詞からもう歌に引っ張り込まれ、間奏あたりの「明日もどこか祭をさがして、この世の向こうへ連れて行っておくれ」という箇所を聴きたいために、擦り切れかけたカセットテープを何度も何度も再生した。
 当時はまだネット配信は存在せず、様々な音源を聴くならCDかカセットテープだった。
 無料で比較的音質の高い試聴ができるのはFM放送くらいで、後はCDを買うかレンタルするしかなかった。
 レンタルしたCD音源を個人的に保存する場合はカセットテープになり、アナログ録音なのではっきり音質は落ちた。
 80年代半ばにレコードがCDに置き換わって以来、音楽鑑賞はかなり手軽にはなっていたけれども、高音質なデジタル音源、機器が当り前になった現在とは全く比較にならない。
 CD選びは今よりずっと真剣勝負で、ハズレを掴まないために一枚買うにもかなり気合が必要だったし、CDであれテープであれ、せっかく手に入れた音源は繰り返し繰り返し聴きこむのが普通だったのだ。

 2010年代の今になってみれば、「月の祭」タイプの野外イベントは珍しくない。
 アコースティック楽器や民俗音楽を取り上げたライブや、フリーマーケット、エスニックな服飾や食べ物、環境、健康などのテーマを盛り込んだフェスは、各地で頻繁に開催されるようになっている。
 しかし当時、とくに地方ではそうした催しはまだまだ目新しかったし、「月の祭」の場合は「かつて栄え、今は打ち捨てられた観光地」という、廃墟の魅力を持つロケーションも良かかった。
 90年代的な世紀末感覚もあって、「この世が終わった後の祝祭」みたいなイメージが連想された。
 正直「思い出補正」もあると思うが、今考えても本当に内容が濃いイベントで、雰囲気としては70年代サブカルチャーに通ずるものがあったのではないかと思う。

 よく言われることだが、90年代のサブカルチャーは、70年代リバイバルという一面を持っていた。
 90年代の若者が70年代の文化に傾倒した理由は、なんとなく理解できる。
 子供の頃に原風景として体験したカルチャーを、成人してから「あれはなんだったのだろう?」と追体験してみて、あらためてハマるというパターンが一つ。
 もう一つは、思春期にあたる80年代に好きだったアーティスト達が、直接影響を受けた70年代の文化を紹介するのを目にして、ルーツをさかのぼるというパターンだ。
 自分のこととしてふり返ってみると、音楽で言えば90年代前半の私が一番聴き込んでいたのはLed Zeppelinだった。
 子供の頃に、周囲に流れる音の風景の一つとして、「胸いっぱいの愛を」「移民の歌」などの面白邦題のついた曲で、印象的なリフパターンとサビが記憶に刻み込まれた。
 そして中高生の頃に聴いていた複数のアーティストが「Led Zeppelinを聴け!」と発言しているのを見て手を伸ばし、実際に聴いてみて「ああ、あれがそうだったのか」と子供の頃受けた強い印象がよみがえってきた。
 Led Zeppelinは1968年から1980年まで活動したバンドで、90年代初頭にはアルバムCD化が一巡し、未発表音源を含んだBOXセット等が発売され、他にも輸入盤のブート音源なんかも豊富に出回っていた頃だった。
 それに加えて93年にはギターのJimmy Pageが「Coverdale Page」で解散後初めてLed Zeppelin的な音を全面復活させ、それに対抗するようにボーカルのRobert Plantがソロで一部復活させた。
 ギターとボーカルの二人がお互い対抗意識丸出しで競っているように見えたかと思えば、94年には突然合流し、Led Zeppelinの楽曲をアコースティックアレンジでリメイクしたりした。
 95年にプロモーションで来日した二人は在りし日の「ニュースステーション」にも登場していて、大御所二人がちょっと照れながら「天国への階段」を演奏するシーンにひっくり返ったファンも多かったのではないかと思う。
 こうした一連の流れをロッキング・オン誌の渋谷陽一が独自の妄想交じりにあちこちで煽ってまわるのがまた面白くて、解散はしていたけれども90年代前半はLed Zeppelinの話題に事欠かず、リアルタイムの盛り上がりがあったのだ。
 往年の曲に民族楽器を大幅に取り入れた90年代版のアレンジは、昔からのガチガチのファンには不評だったかもしれない。
 しかしLed Zeppelinは元々アコースティックや民族音楽を取り入れていて、私はそこが好きで聴いていた。
 だからその傾向を一段と推し進めた90年代のスタイルは、当時の私の好みにぴったりだった。
 
 そのあたりから私の民族音楽、民俗楽器趣味も始まっていて、今に続いている。
 同時に「自分にとっての民族音楽は何なのか?」という問いも、ずっと心に残ったまま今に続いているのである。
(続く)
posted by 九郎 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年01月25日

祭をさがして8

 そうこうしているうちに94年も11月に入り、劇団の次回公演が近づいてきた。
 年明け初っ端の1月公演は女子ボクシングがテーマで、作演出からは「ぜひリングが欲しい。ただし予算は10万で」という要望が出ていた。
「その予算ではロープワークができるような強度にはならへんよ」
 と、私は答えた。
 その代わり、公演に使う会場の中心に、ちゃんとリングに見えるものはでっち上げよう。
 客席と舞台を、ボクシング会場そのものに仕立ててみよう。
 強度が足りない分は演出次第だ――
 などなど、雑談の中からアイデアを出していく。
 作演出の彼と私は、実際のリングの構造や演出上の使い方を調べるためと称して、ドサまわりのプロレスを観に行ったりもした。
 郊外のショッピングセンターの駐車場特設会場で、場外乱闘に逃げまどいながら、リングのある空間というものを体で覚えた。
 とくに印象的だったのは、ミイラ男に扮したレスラーが客に向けてパイプ椅子を投げる間合いの絶妙さだった。
 椅子が本当に客に当たってしまうと問題になるので、投げる前に一瞬、ミイラ男のぐるぐる巻きの包帯の奥の眼と、客の間にアイコンタクトがある。
 今から投げるという暗黙の合意のもと、よけやすいように山なりでパイプ椅子が飛んでくるのだ。
 よけきれなくともおそらく当たらないだろうという微妙なコントロールなのだが、客はその間合いだと悲鳴を上げながら逃げ出さざるを得ない。
 いったん何人かの客が走り出してしまえば場外乱闘の渦が生まれて、いやでも盛り上げられ、「ああ、プロレスを観に来たんだな」という満足感ができてしまうのである。
 椅子の投げ方一つとっても、プロレスラーの磨き抜かれた「芸」を感じさせられた体験だった。

 90年代半ばはプロレスや格闘技の人気が一つのピークを迎えていた。
 プロレスではメジャー団体はいうに及ばず、中小の団体が乱立し、漫画の世界がそのまま飛び出してきたようなデスマッチ路線からリアルな格闘技路線まで、ありとあらゆるスタイルが日々実験を繰り返していた。
 女子格闘技もキックボクシング等を中心に人気が高まりつつあった。
 女子プロレスはそれより以前から「観る方」の人気はあったが、「観るだけでなく実際やる方」の女子格闘技人口が増え始めたのはこの頃だったと記憶している。
 そんな機運も反映しての、われらが劇団の女子ボクシング芝居だったのだ。
 雑誌では「週プロ(週刊プロレス)」や「格通(格闘技通信)」に最も勢いがあった頃で、他社の「週刊ゴング」「ゴング格闘技」「フルコンタクトKARATE」等も並び立ち、しのぎを削っていた。
 他にも同人誌のような判型の「紙のプロレス」が独自路線で遊び狂っていて、いつ潰れるかとハラハラしながらも、私は毎号心待ちにしていた。
 完全な競技としての総合格闘技もついに実現し始めており、ターザン山本、谷川貞治、堀辺正史、夢枕獏、鈴木邦男をはじめとするパワフルな語り手がムーブメントを盛り上げていた。
 レスラーや格闘家たちもリングで闘うだけでなく、雑誌のインタビューに答える形で多くの「言葉」を発信していた。
 私は直接会場まで観戦に行くことは少なかったが、そうした活字メディアを通してプロレス・格闘技を楽しみ、考えることにはハマり切っていた。
 そのような楽しみ方は一部で「活字プロレス、活字格闘技」と呼ばれ、一番人気の「週プロ」は、たしか最盛期には公称40万部くらいまで行っていて、ファン層の広大な裾野を形成していた。
 当時はTVと言えばまだまだ地上波が主流で、ケータイもさほど一般化しておらず、ネットもSNSも存在しなかったので、プロレスや格闘技の情報は雑誌媒体に最も速報性があり、何か知りたいと思えば雑誌のフィルターを通すしかなかった。
 生の情報が乏しい分、読者は各誌のフィルターの色合いを考慮しながら、真相を各自あれこれ想像する訓練を積んでいた。
 元々プロレスというジャンルは、やる方も観る方も虚実の狭間で表面上の勝敗を超えた「深読み」をするジャンルだった。
 演劇的な要素も持ちながら、同時に、何が起こるかわからない「闘い」でもあったのだ。
 当時のプロレス・格闘技ファンは、今風に言うと「情報リテラシー」がかなり高かったのではないかと思う。

 私は「週プロ」や「格通」の発売が毎号待ちきれず、深夜から明け方近くのコンビニに駆け込んで、開封されたばかりの雑誌をガッシと握り、沈痛な面持ちでレジに直行していた。
 その様がよほど異様に見えたのだろう、たまたまその様子を見かけた演劇の後輩から、「Hさん、あれは怖いですよ」と注意されたこともあった(笑)
 少し言い訳しておくと、そんな思い込みの強い私のファンぶりも、必ずしも悪評ばかりではなかった。
 よく行くコンビニの店長さんが実はプロレスファンだったらしく、私にも好意的に接してくれ、何かと気を使ってくれたりしたこともあった。
 当時はこの店長さんの他にも、同じアパートに一時住んでいたアラスカからの留学生とか、平井和正ファンの風呂屋の兄ちゃんとか、風呂屋のサウナのTVで野球観戦するのが好きな入れ墨背負った若い衆とか、風呂屋帰りによく立ち寄っていたワゴンのタコ焼き屋さんとか、馴染みの古本屋のご主人とか、カレー屋のちょっと変わり者のマスターとか、人付き合いのあまり得意でない私にも、ほど良く世間話ができるくらいのご近所さんがけっこういた。
 今思うともう全部が懐かしく、90年代のサブカル風景と共に、様々な記憶がよみがえってくるのである。
(続く)
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2017年01月27日

祭をさがして9

 95年1月年明けの公演では、舞台美術だけでなくチラシの絵を描いたりパンフレットのデザインをしたり、チケットのイラストを描いたりもした。
 当時の舞台の写真など貼ろうかとも思うのだが、先に述べた通り私は劇団の初期脱退メンバーに過ぎないのでちょっと遠慮があるし、そもそも手元に残っている写真が非常に少ない。
 90年代半ばはまだフィルム写真の時代で、今のデジカメの感覚で「とりあえずシャッターを切っておけばいい」というものではなかった。
 フィルム写真はデータの書き換えが利かず、一回シャッターを切れば確実に一枚分のフィルムが消費され、仕上がり具合も基本的には現像してみなければわからなかったので、撮影は今よりずっと慎重で、写真枚数自体が少なかったのだ。

 会場になったOMS(扇町ミュージアムスクエア)は、大阪梅田からさほど遠くなく、キャパも手頃だったので、学生劇団や、そこから旗揚げした小劇場が芝居を打つのによく利用されていた演劇スペースだった。
 当時の私の演劇活動期間は、学生時代も含めると五年ほどだったと思うが、その間に舞台美術を担当しただけでも四回、手伝いで仕込みやバラしに参加したのも含めると、十回以上はOMSを経験していたはずだ。
 会場フォーラムの真ん中あたりに極太の柱が二本立っているのが特徴で、その柱をどう使うかが制約でもあり、各劇団のセンスの出るところでもあった。
 参考までに、92年頃の学生時代に、私が別の劇団で担当したOMSでの舞台美術のスケッチを紹介してみよう。
 かなり後になってから描いた再現イラストだが、当時の雰囲気は出ていると思う。

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 客席を含めた会場全体を酒場に見立て、酒場のステージと公演の舞台をシンクロさせる構成になっていて、OMS独特の柱も利用されているのがわかる。
 こちらの舞台美術は、芝居全体がうまく回ったこともあって、私の中では「完全燃焼」と言えるほどに充実感があった。
 私が楽日にちょっと舞い上がっていたら、観に来てくださっていた若い頃の西田シャトナーさんに「調子に乗んな!」と注意されてしまったのもいい思い出だ。
 ご本人は全く覚えていないだろうけれど……

 今はもう閉鎖されてしまったOMSだけれども、「昔のホームグラウンド」として懐かしく思い出す芝居関係者は今も多いのではないだろうか。
 アマチュアだけではなく、名のある関西小劇場もよく公演に使っていて、出入りしているとけっこう有名人を見かけた。
 ある時、休憩で裏の駐車場に出ていたら、中島らもさんが一人でブラブラ歩いてきたことがあった。
 とっさに気の利いた言葉が出てこなくて、「いつも『明るい悩み相談室』読んでます!」などと口走ってしまい、「あれはまあ、別に」と苦笑されてしまった。
 その時らもさんが担いでいたエレキ三味線をチラッと見せてもらい、ふと「弦楽器作るのも面白そうやな」と思ったことが記憶に残っている。

 95年1月公演で私が担当したパートについては、うまく行かなかった点も多々あり、振り返ってみると劇団メンバー、とくに作演出の彼には色々謝りたい気持ちでいっぱいになるのだけれども、ともかく私なりに当時の「全力」は出した結果だった。
 完全燃焼とまでは行かなかったが、自分の舞台美術としての能力の範囲が把握できた気がして、その能力の範囲内でもっと上手くやれるはずだという感触はつかんでいた。
 舞台監督担当の外部スタッフさんとの相性も良かった。
 その舞台監督さんはTVの仕事もやっているプロだったのだが、金も人もないなりに色々工夫するスタイルを面白がってくれて、良いチームの雰囲気が出来つつあったと思う。

 公演の終わった95年の年始、私はそれからもしばらくは舞台作りをやっていくはずの自分に、何の疑問も持っていなかった。
 自分の求める「祭」を、なんとか舞台を通して探すつもりでいた。
 その時点からいくらもたたないうちに、思わぬ「刻限」が迫っていることなど、ひとかけらも想像していなかったのだ。


 ここまでで、「祭をさがして」の章、ひとまず了としたい。
 小休止の後、次章「祭の影」開始予定。
posted by 九郎 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする