当時はまだケータイはさほど一般化していなかったし、もちろんインターネットも普及前だった。
だから劇団の集客方法も、直接対面で誘うか、電話、郵送によるダイレクトメールの類に限られていた。
今の若い人がメールもSNSも動画配信も無しにチケットを売れと言われたら、途方に暮れるのではないかと思うが、昔はそれが当たり前だったのだ。
演劇関係者の中に少なからぬ割合で存在する、内向的で人付き合いが苦手なタイプにとっては、今はいい時代になってきているのではないかと思う。
それでもTwitterのような常時接続が苦手な私は、もし今演劇を続けていたとしても、相変わらず集客に苦戦していることだろう(笑)
茶封筒にせっせと宛名書きし、チラシや当日清算チケットを同封したDMを作っているうちに、私は古い名簿の中の、ある友人の名に目をとめた。
彼は中学、高校の頃の友人だった。
私たちは柄にもなく中高一貫の私立受験校に通っていて、名簿順が近いせいもあり、よく座席で前後に並んでいた。
彼は同年代の中では少しセンスが先走っている所があった。
たとえば中学に入った頃、他のみんなが小学生時代からの延長で少年漫画誌ばかり読んでいた中、彼は既に大友克洋にハマっていて、第一巻が出たばかりの「AKIRA」を読み耽っていた。
私もかなりの漫画好きを自認していたけれども、大友克洋に手が延びたのは高校生になってからで、それも彼の部屋に遊びに行くようになってからのことだった。
実家が遠隔地の彼は、中学の頃は寮に入っていたけれども、高校に上がってからは港町のアパートで独り暮しをしていた。
今でもその部屋のことをよく覚えている。
レコード(当時はちょうどCDへの移行期だった)を聴いたり、漫画や小説を読んだり、ギターを弾いたり、近くの海岸まで散歩に行ったりしてダラダラと過ごしていた。
彼が冗談めかして「家出するんやったらうちに来いよ」と笑っていたのを、昨日のことのように思い出す。
当時、私は彼の影響を強く受けていた。
先に書いた大友克洋もそうだし、平井和正も、アコースティックギターを弾く様々なアーティストを知ったのも、彼の部屋でのことだった。
文化祭で「オズの魔法使い」の放送劇を作り、声優の真似事をやったり、映写するためのイラストを描いたのも、彼に誘われてのことだった。
そういえばあの放送劇が、私の最初の演劇体験だったかもしれない。
彼や私の高一のときのクラスは、成績別編成の最下位クラスだった。
そのクラスには、学業が振るわなかったり、素行にも少々問題のある生徒が集まりがちで、ある意味では「隔離場所」みたいな扱いだったらしい。
教室も同学年の他のクラスとは違う階になっており、先生方からは「他の組に行くな」と度々注意されていた。
ぶっちゃけ「アホが伝染ったら困る」くらいには思われていたのだろう(笑)
確かに先生にそう思われても仕方がないくらいのアホばっかり集まっていたのだが、良い方に解釈すれば、画一的な私立受験校の中では珍しい、個性派ばかり揃ったクラスでもあった。
当時ですら時代錯誤だった体罰上等の厳しい生徒指導にしごかれながら、それでも私たちのクラスの生徒はみんな、そんな苦境を楽しんでいた。
抑圧の強い分、休み時間や放課後の狂騒は凄まじく、日々繰り広げられるお祭り騒ぎに乗り遅れまいと、欠席する者は少なかった。
アホな男子を一か所に閉じ込めると、鬱勃たるパトスによってどのような狂態が演じられるか?
時代は全く違うけれども、以下の本に描かれるような旧制高校のバンカラ気質と、ちょっと似た感じがしていたのを覚えている。
そもそもわが母校は、在りし日の学園長先生が、自身のルーツである旧制高校の校風を再現しようとして創設されたものだったのだ。
●「どくとるマンボウ青春記」北杜夫 (新潮文庫)
ちなみにこの成績別クラス編成は、私たちの学年で最後になった。
単に私たちより下の学年がみんな優秀だったせいかもしれないが、もしかしたら学校側が「アホを一か所に集めると、切磋琢磨してより強力なアホ集団になる」ということの弊害に気づいたのかもしれない。
成績が振るわない分、私たちのクラスには、文化祭や体育祭では力を発揮するメンバーが揃っていた。
私はこの高一の時から「一人美術部」として、生徒会などのイラスト関連の仕事を一手に引き受けていたし、放送部や新聞部、文芸部にも同じクラスのメンバーがいた。
件の彼は放送部所属で、先に述べた「オズの魔法使い」の放送劇は、ほぼ私たちのクラスのメンバーのみで作り上げられたのだ。
私の古い友人は諸事情から高一で学校を離れ、親元の高校へ転校していった。
他にも私たちの「アホのクラス」からは、様々な事情で学校を去るメンバーがいて、一年間続いたお祭り騒ぎは終息した。
狂騒の去った後も私の高校生活は続き、やがて思い切って美術系志望に転向した顛末は、以前記事にしたことがある。
彼とは高一の最後、夜の公園で別れを告げて以来、何年も会っていなかった。
なんとなく、いまどうしてるのか消息が知りたくなって、あまり返事を当てにしないで9月公演のDMを送った。
気分としては、瓶に手紙を詰めて海に流すような感じだった。
その後は舞台本番に向けて忙しくなり、封書を投函したことも半ば忘れていた。
(続く)