blogtitle001.jpg

2017年02月04日

祭の影1

 93年に学生生活を終えた私は、その年末に演劇サークルの後輩たちが中心になって旗揚げした劇団の公演を観に行ったのがきっかけで、94年から舞台美術担当として参加することになった。

祭をさがして-1
祭をさがして-2

 何度か舞台を作ったり、高校時代の友人に誘われて不思議な祭に参加したりするうちに一年が過ぎた。
 90年代関西サブカルチャーの片隅で、その雰囲気を呼吸しながら、自分なりの祭をさがし始めていた。
 当面それは「小劇場」というカテゴリの中で見つけていこうと思っていて、少なくとも95年の年明けまでは、そんな自分になんの迷いも持っていなかった。

 95年1月17日未明、突然「それ」はやってきた。
 阪神淡路大震災である。
 今も生々しく身体によみがえってくる震度7の激震、それから数か月間続いた被災生活の中で、私のものの感じ方は一旦全て解体された。
 瓦礫と化した街で、不思議と広く静かな空を見上げながら、感覚が再構築されていく過程は、このカテゴリ90年代の最初の方で詳述している。
 記事の投稿順は前後するが、時系列では以下の章「GUREN」が、「祭をさがして」の章の後に続くことになる。

GUREN-1
GUREN-2
GUREN-3

 上掲「GUREN」の章では、震災によって「如何に壊れたか」ということを、当時の自分の経験を元に覚書にしてきた。
 断続的に書き綴ってみて、「如何に」の前に「何が壊れたか」を書いておかなければ、震災の本当のところは伝わり難いのではないかと感じていた。
 震災で破壊されるのは、直接的には地盤であり、建造物であるのだが、そうした物理的な破壊によって否応なくそこに住む人の営みも破壊される。
 私の場合で言えば、前章「祭をさがして」で紹介したような、90年代前半に阪神間のサブカルチャーの片隅で活動していた若者の日常が、震災によって一度リセットされたのである。
 震災編にあたる「GUREN」の章は、「祭をさがして」の後に構成し直すことで、より伝わりやすいものになると思う。

 当時私が参加していた劇団のメンバーは、私も含めて大学近辺のアパート等に住み続けている者が多かった。
 劇団などをやっている関係上、とくに男連中は老朽安アパートに居住するケースが多く、程度の差はあれメンバーの大半が被災者になった。
 建物が倒壊して重傷を負うメンバーも出てしまい、劇団の活動は一旦休止となった。
 当面の目標を失った私は、とにかく生活を続けていくことに追われた。
 幸運にも私自身に怪我はなく、住んでいた安アパートも一部損壊程度で済んだ。
 身体と住居に被害はなかったが、中々ライフラインや交通手段は復旧せず、収入を得ていたいくつかのアルバイトに全て復帰できたのは2か月以上後になった。
 震災直後は感覚が非日常に切りかわっていたので、率直に言って「お祭り気分」もあった。
 平時にこういう書き方をすると不謹慎だと思われるかもしれないが、天災などの緊急事態にあって心が湧きたつのは、人間の精神のセーフティーネットのようなものだ。
 誰しもそうした心の仕組みを持っているし、それがあるからこそ非常時を乗り切れる。
 台風が来るとじっとしておれなくなるようなお調子者こそ、緊急時に即座に救援や情報収集に走り始められるタイプなのだ。
 しかし緊急時対応のお祭り気分はそうそう長くは続かない。
 キャンプしているような物珍しさ、楽しさが感じられるのは、比較的被害の少ない者に限られるし、ほんの一時のものだ。
 その後に待っているのは延々と続く過酷な被災生活で、精神的にも肉体的にも、そして経済的にも、本当に窮乏してくるのはそこからなのだ。
 震災のその瞬間、そして直後には「人はあっけなく死ぬ」という事実を突きつけられるのだが、ある程度時間が経過すると「人はなかなか死ねない」という正反対の事実も身に染みてくる。
 あっけなく死んでしまうのは確率としては少数派で、他の圧倒的多数は過酷な現実の中で生き続けなければならないのだ。
 巨大災害では破壊された街の風景や死傷者数などの刺激的な部分に注目が集まりがちで、報道もそこに偏る。
 しかしそれは、言ってみれば「報道のお祭り騒ぎ」に過ぎない。
 絵として地味な「延々と続く被災者の窮乏生活」のキツさには、実際そのような立場になってみて初めて愕然と気づかされるのである。
 さらにやり切れないのは、そうした被災後の生活は、家族や住居や勤めなど、守るべきものの多い堅気の皆さんにほど、重くのしかかるということだ。
 他にも高齢であったり、身体が不自由であったり、小さな子供がいたりということを考えれば、「その後の日常」の比重は限りなく重いものになっていく。
 守るものなど何もない、アマチュア演劇にうつつを抜かす若造であった私の苦境など、被災者の中では例外的に軽いものだったとも言えるのである。
(続く)
posted by 九郎 at 17:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

祭の影2

 そして95年3月。
 ライフラインがひとまず復旧し、交通機関も徐々に原状復帰しつつある中、震災一色だった報道を新たに覆いつくす事件が起こった。
 カルト教団による、毒ガステロ事件である。
 私は件の教団とはなんら関りを持っておらず、個別の人物や教義について、あれこれ直接的に論じるつもりはない。
 正面からのカルト論というよりは、90年代の心象スケッチの一環として個人的な覚書にしておきたいと思うので、検索よけに固有名詞は表記せずに進めたいと思う。

 私は世代としては、事件当時の教団信者の年齢層の、下限あたりに引っかかっていたはずだ。
 TV画面を賑わせた幹部信者連中の大半は、当時の私の年齢+10歳くらいまでの範囲であることが多かった。
 かの教祖のことはテロ事件のかなり前から知っていた。
 これまでにも何度か書いてきたが、私は中高生の頃からオカルト趣味があって、月刊誌「ムー」をよく読んでいたので、かの教祖が教祖になるよりずっと前、一介のヨガ行者・指導者として雑誌に売り込んでいた頃から記事で見知っていた。
 ただ「知っている」というだけなら「古参」と言えるかもしれない。
 後に教祖になる男の修行の成果として、例の「空中浮揚」の写真がムー誌上に掲載されていたことを覚えていたが、その時にはさほど強い印象は受けなかった。
 おそらくその頃には同じ誌上で、成瀬雅春氏あたりの、よりハイレベルなヨガの成果を見ていたはずなので、印象度は低かったのだろう。
 何年か後のムー誌上の広告でかの人を再見した時には、もう完全に教祖になってしまっていた。
 髪と髭はずいぶん伸びており、衣装も宗教色の強いものになっていたが、特徴的な顔立ちから一目で「あの時のヨガ行者だ」とわかった。
 その時私が感じたのは、軽い「興ざめ」だったと記憶している。
「レベルはともかくそれなりに真摯な姿勢で修行を積んでいただろうに、終末論を煽る教祖なんかになってしまっては台無しだ」
 言葉にすると、そんな感想を持ったのだ。
 当時の私は既に自分なりの「絵の修行」を続けていたので、何らかのテーマを孤独に探求する「求道者タイプ」には関心があったけれども、宗教団体や教祖には興味がなかった。
 絵解きのモチーフとして神仏の物語には興味があるけれども、「団体」には関心を持てないという傾向は、今も基本的には変わらず続いている。
 神仏の物語への関心の一環としてオカルト趣味を持っていて、こちらも今でも続いているけれども、それはプロレスと同じく虚実の狭間をあれこれ想像して楽しむためのものだ。
 雑誌記事ではなく、広告ページで終末を煽るかの教団・教祖は、完全に「プロレス」の範囲を越えていると感じた。
 SF作家・平井和正の、カルト集団の中で人の心がどれほど腐れ果てるかを鋭く抉り出した小説もすでに読み込んでいたので、感覚的に「あ、これはアカンやつや!」とすぐにピンと来るところもあった。
 その後も教団挙げて選挙に出て学園祭まがいのパフォーマンスをしたり、度々終末を煽る広告を出したりするのを眺めながら、「まあ、本人たちが楽しいならええんとちゃうの?」というくらいの感想しか持っていなかった。
 ただ、なんとなく不穏なものは感じつつも、本当にテロ事件を起こすほどの外部に対して攻撃的な集団だとは思っていなかった。
 終末論カルトではあるけれども、「サークル活動」の範囲内であろうと思っていた。
 学校を出た後も学園祭ノリのサークル活動を続けたいという気分が生まれるのは、都市化で民俗から切り離され、村祭りを喪失した世代にとっては自然なことだと思うし、それ自体に害はない。
 祭をさがして舞台などを作っている自分も、そこは同じだ。
 しかし、どこか違和感がある。
 感性として共有していると思われる部分と、拒絶反応を感じる部分と両方ある。
 それが何か今は言葉にできないが、とにかく自分が関わるのは「フィクション」であり、「遊び」でいい。
 大層なものではなく、「たかがサブカル」で十分だ。
 そんな感覚で遠巻きに見ていたところに、テロ事件が起こったのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

祭の影3

 震災の被災地では、まだ瓦礫や塵芥の撤去すらままならず、公園や校庭が仮設住宅で埋め尽くされているにも関わらず、全国ネットのTV放送はほとんど全てカルト教団のテロ事件一色に染め上げられた。
 阪神淡路大震災は都市部を襲った巨大地震としては異例の被害を出したが、その被災の範囲はかなり狭い地域に限られた。
 神戸沿岸部を中心とする一地域より、首都圏で起こったテロ事件の報道が優先されるのは仕方のないことかもしれない。
 しかし、気の滅入る日常を送る被災者にとってみれば、おどろおどろしく演出されたカルト教団の情報ばかり見せられる状況は、たまったものではなかった。
 なにしろスマホもネットも存在せず、TVが情報インフラの主役だった時代のことである。
 いやでもニュースで目にせざるを得ない。

 事件後の報道の奔流の中、私と世代的に近い教団幹部や信者達が、連日TV画面に登場していた。
 私自身はかの教団と直接の関係は一切無いけれども、色々情報収集してみると、信者の中には「知り合いの知り合い」くらいの距離感の者が何人かいるらしいことがわかってきた。
 もっとも、これはさほど珍しいことではなく、交友関係の中で「あいつらと意外に近いらしい」という話は身の回りでもよく聞いた。
 同世代である程度の学歴があったり、サブカル界隈で生息していたりすると、同様に感じた人間はたくさんいたのではないかと思う。

 人のつながりで言えば、確かにけっこう近い。
 加えて私には、オカルト趣味とか、神仏や身体的な修行への関心など、興味の対象が重なっている部分もあった。
 さらに間の悪いことに、事件当時の私は髪をかなり短く刈って、坊主頭にしていた。
 別に出家していたわけではなく、被災して中々風呂に入れないという理由で坊主にしていただけなのだが、元々身なりに無頓着なせいもあって、年齢層・ルックスともに極めてかの教団信者に近い状態になってしまった。
 より正確に表現するなら教団信者そのものというよりは、一般にイメージされる信者のステレオタイプに近かったというべきだろうけれども、電車に乗ってバイトに出勤している時、気のせいか周囲の視線が自分の頭に注がれているのを感じることもあった。
 実際、梅田あたりで職務質問を受けたことも何度かあり、その度に「いや〜神戸から来てるんですけど、被災して中々風呂に入れなくて……」などと一々説明しなければならないのが、非常にめんどくさかった。
 今ではこうして完全にネタ扱いで書けるのだが、事件当時は冗談ごとではなかった。
 某プロレスラーが地方のスナックで飲んでいたら、「風貌が教祖に似ている」という理由で通報され、警察に囲まれたという噂もあったりして(後にほぼ事実と判明)、かの教団関連ではシャレでは済まない騒然とした雰囲気があったのだ。
 職務質問というものは、担当する警官のキャラとかその時の気分によって、わりといかようにも転ぶ。
 報道によると、事件後のかの教団信者はカッターナイフ所持程度の微罪でも引っ張られていたようなので、バイトの仕事柄カッターナイフや切り出しナイフを常時携帯していた私は、職質で対応を誤ると更に面倒な事態に陥る可能性もないではなかったのだ。

 自分は単なるビンボーな劇団員に過ぎず、なんらやましいところがなかったにもかかわらず、不愉快を被らなければならないことにムカついていた。
「アホどもがしょーもない事件起こしやがって、迷惑なんじゃ!」
 というような、気分もありながら、
「まあ、他人が俺を見たら怪しいと思うやろな」
 という、ちょっと醒めた自己認識もあった。
 共通している部分があることは認めざるを得ないのだが、はっきり違うという意識もある。
 基本的に徒党を組むのが嫌いであるということ、現実とフィクションの狭間の捉え方に何らかの差があるらしいということはなんとなくわかったけれども、その違いを明確に表現できないことに非常な居心地の悪さを感じていた。
 おりしも演劇活動は休止中、バイトも少ないので、金は無いが時間だけはあった。
 当時はまだ古書店などで普通に入手可能だった教団刊行物を何冊か手に入れ、暇にあかせて読み耽り、彼我の差異を確認しようと試みたこともあった。
「こんなしょーもない本溜め込んで、万一ガサ入れでもされたら一巻の終わりやな……」
 などと自嘲しながらも、被災生活は過ぎていった。
(続く)
posted by 九郎 at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

祭の影4

 95年8月。
 私は所属劇団の久々の公演準備に追われていた。
 震災で重症を負った作演出のリーダーは数ヶ月で現場復帰し、さっそく大きなプランを持ち込んできた。
 ハコは地元神戸の名門劇場。
 当時の私達の劇団にとってはかなり背伸びした会場だったと思うが、演劇祭に参加する形で、一公演のみ打てることになったのだ。
 まだ体調も万全ではないだろうに、早々と手を打ち始めたリーダーの姿には、素直に「凄い奴だ」と感心させられた。
 彼の意気に感じ、また「名門劇場で一回限りの公演のために舞台を作る」という、その行為自体に開き直った面白さを感じて、また私は舞台美術を担当することになった。

 ただ、勢いで引き受けはしたものの、正直かなり無理をしている状態だった。
 震災とカルト教団によるテロ事件の影響で、精神的にかなりまいっていたのだ。
 表面上は強がってどちらも楽しんでいるふりをしていたが(実際、楽しんでいる部分もあったのだが)、心と体が芯の部分で腐食してくるような疲労を感じていた。
 何かものをつくろうとする人間が、あまりにも強烈な現実の出来事に直面してしまった場合、反応は様々だ。
 描き手のタイプ、描こうとしている作品のタイプによっても違う。
 作演出の彼の場合は、被災をむしろエネルギーとして書くことができた。
 しかし私の場合は、震災もカルトも描きたいモチーフにかなり近接する出来事だったこともあり、創作の意識がブレてしまっていた。
 元々抱えていた孤独癖が、かなり強く出ていた時期でもあった。
 絵も文章も、まとまったものは手につかなくなっていたのだが、作演出の要望を具体化する舞台美術ならなんとかなりそうな気がして、自分の膠着状態を脱するためにも頑張ってみようと思ったのだ。

 8月公演の舞台案には、もちろん作演出の意向を汲んだ上でのことだが、当時の私の心象も濃厚に反映された。
 舞台を誰かの机の上に見立て、大きなパソコン画面とキーボードを中心に据える。
 その他、各種文房具をイメージさせるオブジェなどを配置し、素材は全て無地のダンボールで作る。
 ラストの「大爆発」のシーンでは、ダンボール製のオブジェは全て一気に「崩壊」させる。
 当時のラフスケッチを紹介してみよう。
 完成した舞台とはまた少し違っているが、あの頃の心象スケッチの一つになっていると思う。

mk001.jpg


mk002.jpg


mk003.jpg


 劇団員でありながら、かなり人嫌いが進行していた当時の私は、材料集めから制作まで全て一人でやろうと試みた。
 最後は結局助けを借りたのだが、それも劇団員ではなく、個人的な友人にお願いした。
 限られた予算で、仕込みとバラシにほとんど時間のとれないタイトな一回公演のスケジュールの中では、まずまずのものが出来たのではないかと思う。
 しかし私は、どうにかこうにかその公演に漕ぎつけた時には、もう集団で何かをするということに疲れきってしまっていた。
 劇団には何の文句も問題も無かったが、私の内面がもう限界だったのだ。
 これ以上続けると、必ず劇団のみんなに迷惑をかける。
 いや、既にかけている。
 中途半端な心のまま、これ以上チームプレイを続けることは、もうできそうにない……
 舞台を撤収し、苦労して作ったダンボールのオブジェをダストシュートに引き裂いて放り込みながら、私はそっと引き際を探り始めていた。
(続く)
posted by 九郎 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

祭の影5

 95年8月公演が終り、震災とカルトの年の夏は過ぎていった。
 手伝っていた劇団はメンバーの大半が被災者で、心身共に余裕が無いのは私だけではなかったらしく、この年の本公演は8月の一回きりとなった。
 メンバーの皆さんは、ただ日々を過ごすことに追われながらも、それぞれの表現を求め、何も言われなくとも自主練などでしぶとく活動していたはずだ。
 自分がそうだったので、それはよくわかる。
 どちらかというと私は、演劇人というより絵描きの物作りの一つとしての参加だったので、芝居の練習という形ではなかったけれども、「描く」ということは続けていた。
 絵も文章も「作品」と言えるほどにまとまった形にはできなかったけれども、折にふれスケッチやメモは描き続けていた。
 振り返ってみると、我ながらあの状況の中、よく描き続けられたと思う。
 その蓄積は確実に今につながっている。
 何のあてもなくとも、ただ描く。
 絵描きにとって、それ以上に大切なことなどないのだ。

 当時の記録を探ってみると、スケッチやメモがとくに数多く残っているテーマが「夢」だった。
 私は幼少の頃から睡眠時に見る「夢」というものに興味を持っていて、独自に探求していた。
 あまり夢に没入すると「現実」への適応が難しくなるのだが、幸か不幸か震災後は仕事が少なく、時間だけはたっぷりある状態だったので、夢の記録が多く残せたのだろう。
 内容的にも面白いものが多く、このブログのカテゴリ:夢で公開しているものは、当時の記録の蓄積が母体になっている。
 被災生活、そしてカルト教団によるテロ事件の影響で、生来の孤独癖がかなり進行していたのだが、だからこそこうした極めて浮世離れした記録が可能になったとも言えるのだ。

 そして10月のある夜、私は衝動的に旅に出た。
 午後十一時近く、JRにゆられていた。
 まるで現実感はなく、夢の中にでもいるようだった。
 ほんの数時間前まで、こんなことになるとは考えてもみなかった。
 震災でイエローカードを貼られた安アパートで、いつものように寝転がって夜を過ごすはずだった。
 午後九時頃、南向きの、ボロアパートには不釣り合いな広いベランダから空を見上げた。
 わずかに欠けたほとんど満月。
 フルムーンの一晩前。
 南の空高く、輝く月が私の頭を強くはたいた。
 一年間の酷い現実世界から醒まして、一年前の濃い夢の時間を呼び寄せた。
(ああ、十月で満月だ!)
 居ても立ってもいられなくなって、なんのあてもないままに、突発的に部屋を出た。
 その一年前、私は古い友達からの手紙に誘われ、ある小さな海岸へ行った。
 そこでは毎年中秋の名月の頃、『月の祭』と呼ばれる祭があって、縁あって集まった狂い人たちが、三日三晩乱痴気騒ぎを繰り広げるのだ。

 古い友達からの誘い
 月の祭

 後から思い出してみると、あれが現実のことだったのか、よく分からなくなってくる。
 毎日の生活は固くて、確かで、あの『月の祭』の時間とは余りに差がありすぎて、本当にあったこととは思えなくなってくるのだ。
 それは夢の時間と似ているかもしれない。
 夢を見ているときには、完全にそれが本当のことだと思っているのに、目が覚めて時間の質が変化すると、とたんに姿が霞んでしまう……

 ついさっきJRに乗り込んだばかりなのに、もう自室からは遠く離れたあの海岸への最寄駅に着いている気がした。
 私の心ははやっていた。
 一刻も早くあの海岸へ行こうと、駅前市街の夜道を小走りに駆けていた。
 一年前に一度バスで通っただけの道が、これ以上確かなことはないほどはっきり記憶によみがえってきた。
 分かれ道に差し掛かれば足が勝手に正解を選んだ。
 あの月のきれいな海岸へ一刻も早く着かなければならないのだから、それは出来て当り前のことだった。
 夢の中では、強く望んだことは必ずかなえられる。
 空だって自由自在に飛べるのだ。
 ただし、弱気は禁物。
 空飛ぶ自分に少しでも疑問が湧けば、すぐに墜落してしまう……

 ごくたまに、私はとても非常識になる。
 普段は常識的であろうと努めているのだが、その時ばかりはそういう抑制はまるで効かなくなる。
 衝動的な行動がその後の進路を決めてしまったことも何度かあり、その度に正気に返ってから愕然としたりすることになる。
 今度はいったい、どうなってしまうのだろうか?
 月のきれいな海岸に向かっていることに心踊らせながら、その片隅で正気の部分の私が少しだけ心配していた。
(続く)
posted by 九郎 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする