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2017年02月12日

祭の影6

 漁港を抜け、古びた灯台を越えると、深夜の真っ暗な波のうねりの向こうに、懐かしい灯りが浮かび上がっていた。
 私はスピードを落として、さくさくと浜辺の砂を踏んだ。
 灯りはともっているけれども、人の気配はあまりなかった。
 少なくとも『月の祭』が今日ではないことは分かった。
 軽い失望。
 海の家のスペースに何人か集まって、映画上映会のようなことをやっていた。
 私は声をかけて、来意を告げた。
 やはり『月の祭』は、やっていなかった。
 今年は少し早目に、一ヶ月前に祭は終えたのだという。
 ああ、そう言えばもう一か月たったか、と一人が笑った。
 祭のスタッフとして参加して、そのまま居着いてごろごろしていたのだそうだ。
 ともかくまあ、あがんなさいよと、私は仲間に加えてもらった。
 あれこれ話すうちに、一同の内の何人かが「ああ、去年のあの絵を描いてた人か」と思い出してくれた。
 よく来たなあと、一杯ごちそうしてくれた。
 ハンモックにくるまれた赤ちゃんをあやしていた若いお母さんが、一冊の本を取り出して、私の生年月日を聞いてきた。
 ネイティブ・アメリカンの生れ月によるトーテム占いだという。
 何のことはない、インディアンの星座占いみたいなものなのだが、「あなたはワタリガラスですね」と言われて、私は何か心の奥深いところでショックを受けた。
 この日、この時でなかったら、こんな衝撃はうけなかったかもしれない。
 ワタリガラス?
 ワタリガラス!
 今まで自分に持ってきた疑問の多くが、この一言でほぼ解き明かされたような気がした。

 ワタリガラスは一所には居られない。
 あちこちを渡り歩いて、その場その集団に助力し、力を与えてまわる役割を果す。
 義理堅く、自分に厳しい。
 自分に厳しいが、そのことが元で周囲の人間を傷付けてしまうことがある。
 ワタリガラスは、ネイティブ・アメリカンの重要なトーテムの一つであると同時に、世界各地にトーテムとして崇拝する部族を持つ。
 日本では熊野にその名残をとどめる……

 私としては珍しく、その占いを信じた。
 普段占いの類にはとくに関心が無いのだが、一期一会のタイミングが偶然合ったということだと思う。
 その瞬間から、私は自分をワタリガラスだと信じ、ワタリガラスとしてものを視、考え、行動するようになった。
 彼女はまるでインディアンの呪術師のようだった。
 いともあっさりと、私はワタリガラスに変身させられてしまった。
 今も、その呪術は私の中に生きている。

 色々話したり、海を眺めたりしながら夜を過ごした。
 夢の中のまた夢のような時間は過ぎ、夜が白み始めた。
 秋の夜明け前、海辺は深々と冷え込んでくる。
 髭のおじさんが、「どこかで見たことのある顔だな」と笑いながら、火鉢でゆっくりと作ったおかゆをごちそうしてくれた。
 夜明け前のおかゆは、素晴らしく旨かった。
 たっぷりの水と一すくいの米で作ったおかゆが、ワタリガラスの夢を心地よく覚まして、朝の世界に着陸させようとしていた。
 私は寝袋に潜り込んで、起きて見る夢の世界から通常の眠りの世界に入った。

 目が覚めたとき、あたりに人影はなかった。
 煙をかき消したように、一人もいなくなっていた。
 昨日の酔いのせいか、くらっと眩暈を感じた。
 しばらくじっと明るいビーチを見ていた。
 それから誰にともなく「帰ります」と一声かけ、寝袋を片付けて、とろとろと砂浜を歩いた。
 古びた灯台を曲がるとき、もう一度振り返った。
 お世話になりました、と言った。
(続く)
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2017年02月13日

祭の影7

 95年10月。
 月の輝く懐かしい海辺から帰ってきて、劇団活動に区切りをつける決心がついた。
 年が明けた2月の大阪公演、そして同じ演目による3月の劇団初の東京公演。
 その二つには全力を尽くそうと決めた。
 あらかじめゴールが決まると、ストレスは劇的に軽減され、あらためて芝居への熱がよみがえってきた。
 なんだかんだ言っても、演劇が好きなことは確かだったのだ。

 蛇足ながら、あの夜私が信じた「占い」について。
 私はこの「神仏与太話」と銘打ったブログで、度々「オカルト趣味」があると書き、同時にスピリチュアル嫌いを公言してきた。
 ずいぶんわけの分からない立場に見えるかもしれないが、私の中では矛盾しない。
 私は普段の生活ではまず「常識の範囲内であること」を強く心がけるが、同時に絵描きでもあるので、創作にまつわる不思議な縁や偶然の符合は日常的に経験している。
 世に不思議が存在することは否定しないが、何でもかんでも不思議で片づけるのは、私の審美に反する。
 宗教や、それに近接する分野の書籍は良く手に取るが、書店で「宗教」の本棚のすぐ隣に並べられがちな「スピリチュアル」の棚にはあまり手を伸ばさない。
 90年代は「スピリチュアル」という言葉はあまり一般的ではなく、「精神世界」というようなカテゴリになっていたはずだが、当時からあまり好きではなかった。
 だから基本的にはこのブログで「スピリチュアル」の本や、書き手を紹介したりすることは無いし、占いやスピリチュアルカウンセリングを勧めることもない。
 私を「ワタリガラスですね」と言った女性とは、ずっと後になってから何度か再会している。
 非常にパワフルな人だが、別に占い師でも呪術師でもない。
例のインディアンの占いも、有態に言えば、その時手元にあった本を読みながらの、世間話のようなものだった。
 ただ、それを聞いた当時の私の精神状態や出会いのタイミングにより、色々思うところがあったということだ。

 ネイティブアメリカンの文化には子供の頃から関心があった。
 90年代、映画など先住民の文化をテーマにしたヒット作がいくつかあり、関連書籍が多く出ていたと記憶している。
 その分野の本は、便宜上「精神世界」の棚に並ぶことも多かった。
 あの海辺の夜に開いた本もそんな中の一冊で、当時わりと読まれていたのではないだろうか。


●「メディスンホイール シャーマンの処方箋」

 ネイティブアメリカンをはじめとする、世界各地の先住民の文化に関する本がよく出る時期というものがあり、70年代と90年代はそのような時期にあたっていたのではないかと思う。
 特に90年代頃からは、書籍だけでなく雑貨や食べ物としても様々なエスニックが日本で紹介され始めていた時期だった。
 そんな機運に乗って、私も多少読みかじっていた。
 中でも、70年代から90年代にわたって書き続けられた、カルロス・カスタネダの「呪術師ドン・ファン」のシリーズは面白かった。
 メキシコ先住民の知られざる文化に対する関心と共に、内容がどこまで「事実」なのかということについても色々議論のあるシリーズだ。
 私が最も関心を持つ「現実とフィクションの狭間」というテーマも絡んでいて、とても興味深く読んだ。
 一冊挙げるとするなら以下の本。


●「未知の次元」カルロス・カスタネダ(講談社学術文庫)

 そして、あの海辺の夜の体験から、ワタリガラスというトーテムに興味を持って、資料を渉猟し始めた。
 一冊挙げるとするなら以下の本。


●「森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて」星野道夫

 94年の『月の祭』で素晴らしいパフォーマンスを見せてもらい、少しだけお話もさせてもらったどんとが、バンドを解散して95年から沖縄に移住し、ソロ活動を始めたらしいということは、雑誌記事などで何となく知っていた。
 ネットが普及する前なので、いくら関心のあるアーティストでもメジャーシーンから一歩降りると、とたんに情報が乏しくなる。
 私が沖縄移住以降のどんとの作品に触れることができたのは、2000年のどんとの訃報後、再評価の機運が盛り上がってからのことになった。
 当時はただ、「あのどんとも一人になったのか」と、勝手に共感していただけだった。
(続く)
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2017年02月17日

祭の影8

 劇団をやめてからどうするか、とくに展望があったわけではない。
 学生とか劇団員とかアルバイトとかいう肩書を外してもなお、私にはただ一つ「絵描きである」ということだけは残る。
 絵描きは絵を描けばよい。
 まとまった作品にならなくとも、スケッチでもメモでも何でも良い。
 他にやれることがあるとすれば「学ぶこと」ぐらいだ。
 描き、本を読む。
 最後と思い定めた次の公演まで、そしてその公演が終った後も、当面はそれだけ続けられれば十分だ。
 心折れずにやっていける。

 94年11月。
 私は何度か衝動的に、カラースプレーによるライブペインティングをやっていた。
 過去にも学祭などで飛び込みで敢行していて、経験はあった。
 カラースプレー各色、パネルとブルーシート、クラフト紙をつないだ大きめの紙を何枚か用意する。
 あまり迷惑にならないようなほど良い場所で、用紙をパネルに貼り付けて立てるか、ブルーシートの上に敷いてセットする。
 あとはCDラジカセ(これも90年代的なアイテムだ)で好きなBGMを流しながら、描く。
 あまり事前にネタは用意しない方が良い。
 その時その時の気分と手の動きと、あとは見物人の反応を見ながら、即興で描くのだ。
 当時ライブペインティングで描いたものの写真が何点か残っている。

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 サイズは大体135cm×180cmくらいだろうか。
 白、黒、赤、シルバーを多用しているのは、単純にその四色がホームセンターで安く手に入りやすいからだ。
 今見るといい年こいてかなりの「中二病」だが(笑)、まあわざとそのように描いている面もあった。
 屋外で人目を引いて立ち止まってもらうためには、あまり細かく繊細なことはやっていられない。
 なるべくインパクトの強い、分かりやすい絵の方がいいし、「ちょっとイカれた絵描き」というイメージがあった方が、好奇心をもってもらいやすい。
 当時の私は実際に少々病んでいたし、震災とカルト事件で騒然とした世紀末の世相もあって、上掲のような怪しい絵柄もけっこうウケた。
 投げ銭でカラースプレー代くらいは出ることが多かったのだ。
 
 こうしたパフォーマンスが、たまたまある大学の学園祭実行委員の目に留まり、声をかけられたこともあった。
 何組かのスプレー絵師が一斉にパネルに描画、見物人の人気投票で優勝を決めるという企画に参加してみないかとのこと。
 面白そうなので「出ます出ます!」と即答。
 カラースプレー代は出るし、パネルも用意してもらえるしで、私は当日、足取りも軽く会場へ向かった。
 現地では水を得た魚だった。
 CDラジカセで「幻惑されて」なんかを流しながら、酒をあおって好き放題に描く。
 見物人が面白がって周りの出店で酒を買ってきてくれるのを、「いえ〜い!」とか言いながら一気飲みしてまた描く。
 フラフラになりながら描き続けると、投票ではぶっちぎりで優勝だった。
 優勝賞品は洋酒各種合計10本。
(なんぼほど飲まされんねん……)
 と苦笑しながらも、当時はけっこう飲む方だったのでありがたく頂いた。
(続く)
posted by 九郎 at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月18日

祭の影9

 95年12月。
 8月公演で客演した役者さんが、年末に一人一座でオールナイトショーを行うと言う。
 ついては芝居に使う「人体模型っぽく見えるもの」を作ってくれないかという電話連絡があった。
 等身大で、できれば操作一つで内臓がドバッと飛び出すようなギミックが必要とのこと。
 加えて、会場のスペースを埋められそうな、何かサイズの大きな絵はないかという注文だった。

 ぜひやらせてください。自分一人で出来ることなら、なんでも。
 穴埋め作品の方は、パフォーマンスで描いていたスプレー画がたくさんあるんですけど、一回見てもらえますか?
 かなりアクが強いですけど……
 人体模型の方はこれからすぐ取り掛かります。時間が少ないのでぎりぎりになるでしょうけど、必ず本番には間に合わせますので……
 それにしても一人一座ですか?
 それは凄く面白そうですねー。本番を楽しみにしてます!

 こんな感じで話が決まって、少し手伝わせてもらうことになった。
 人体模型の方は竹ひご細工でトルソの概形を作り、スポンジ素材、ゴム素材などで臓物が飛び出す仕組みを作った。
 竹の組み合わせで骨格を作る手法は、中高生の頃からよく使っていた工作法だった。
 私が立体物を手がける時、よく使う手法がいくつかある。
 竹細工、ペーパークラフトや折紙の手法、そしてペットボトルやプラ鉢等の既成プラ素材の切り貼り。
 どれも子供の頃から工作で使ってきた手法で、それは今も変わらない。

 当日のショーは座長の役者さんが中心の小人数の芝居や、音楽などの各種パフォーマンスが集められた、盛りだくさんな一夜だった。
 深夜まで演目が続いた後は、客も演者もそれぞれに飲んだり語ったりして、とても楽しかった。
 役割分担の固定した「劇団」という形ではなく、各個人が得意なことをそれぞれ持ち寄って一夜のショーを創り上げるのが新鮮だったのだ。
 こうして激動の95年も暮れていく。

 年明けて96年。
 2月3月と、たて続けに所属劇団の公演がある。
 同一演目なので準備は一回で済むのだが、3月は劇団初の東京公演。
 これが最後だと思い定めた私は、その時点で出来ることは全部やろうと努めた。
 作演出との話し合いで、チェス盤のような舞台の上に、それぞれ色やイメージの違う「六つの扉」を配置するプランを立てる。
 手法はペーパークラフトを中心にする。
 私は元々、舞台美術でペンキを使用するのは好きではなく、素材自体の色を活かすことが多かったのだが、今回は「紙の質感、色」を使う方向で考える。
 チェス盤の色分けは壁紙の貼り合わせにし、六つの扉は角材の骨組みの上に紙を貼って作った。
 2月の大阪公演は勝手知ったるOMSなのでまず問題ないとして、初の東京公演のことも考えなければならない。
 搬入搬出する荷物はなるべく軽量コンパクトに、仕込みバラシはなるべくスピーディーに。
 屏風のように畳める襖サイズ×5の可変枠を二機作り、それを設置・固定して各扉を付ければ、ほぼ舞台の仕込みは完了できるようにする。
 搬入搬出の時は可変枠を畳み、中のスペースに小道具を放り込み、六枚の扉を重ねて蓋をすれば、ほぼハイエース一台分くらいで済むようにした。
 舞台の機能、デザインだけでなく、予算、労力、仕込みとバラシの段取りもスムーズに進むように、知恵を絞ったのだ。
 多少の不具合はあったものの、全般に見れば90点はつけられる出来だったと思う。
 私のペーパークラフト系の造形の、その時点での集大成には出来たと感じた。

 そして3月、東京公演。
 下北沢の劇場、舞台ソデでオペレーションをしながら、ああこの空気もこれで最後になるんだな、と思った。

 俺は舞台作るの大好きだったな。
 でももう、止めるんだよ。
 これからは一人で祭を探すんだよ……

 そんなことを考えながら、最後の舞台を終えた。
(「祭の影」の章、了)
posted by 九郎 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

一人、ふりだしにもどる

 1993年末から96年3月まで、期間にして約2年の私の演劇体験を軸に、90年代関西サブカルチャー界隈の風景を覚書にしてきた。
 祭をさがして-1
 祭をさがして-2
 祭の影-1
 祭の影-2

 完全燃焼できる祭のようなものを求めて始めた演劇を、残念ながら私は途中下車してしまった。
 もちろん内的な理由あってのことだったが、当時はまだうまく言葉にできていなくて、傍から見れば「唐突な退団」という印象があったと思う。
 所属していた劇団の皆さんには申し訳なさとともに、とても楽しい時間を過ごせたことへの感謝でいっぱいである。

 この2年間には、プラスの面では劇団活動や月の祭、マイナス面では震災やカルト事件など、個人的に強い衝撃を受けた出来事が重なっていた。
 私のこれまでの人生の中でも最も濃密な2年間で、なかなか当時の体験や感情を消化しきれずにいたのだけれども、今回覚書にできたことで少し肩の荷がおりた気がする。
 長い年月を経て今回覚書にできたのは、当時のメモやスケッチがあってのこと。
 色々大変だった中、粘り強く描き続けてきた過去の自分を、ひとまずは褒めてやりたい。

 当時、一つ分かったのは、私は本質的にチームには向いていないということだった。
 その場その場のセッションとしてなら協調性をもって合わせられるのだが、固定したチーム、固定した役割で長期間の活動を行うことには、不適応の反応が出易い。
 こうした傾向は、性分なので変えようがない。
 そんな自分の性分を前提に、仕事や表現を組み立てる他ないことが身に染みた二年間で、それが分かっただけでも大きな収穫だったのだ。
 
 祭
 震災
 カルト
 終末論
 サブカルチャー

 当時消化しきれなかった上記のようなテーマは、宿題としてずっと抱えていた。
 そろそろ何か描き出せる時期がきているかもしれない。
posted by 九郎 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする