身辺一段落、ようやく確保していた本を読了できた。
●川奈まり子『僧の怪談』(竹書房怪談文庫)
https://amzn.to/4aTyRGr
ここ数年、カテゴリ:怪異でずっと著書を追っている実話怪談の書き手で、本書は僧侶、僧侶の近親、日常的に僧侶と交流のある人々から聞き取った怪異譚集。
私事になるが、春先に真宗僧侶だった父が旅立ち、その前後に「怪異」というほどではないものの、「少し不思議」なことがいくつかあったタイミングである。
タイムリーという言い方は適切ではないかもしれないが、今後亡父のことを考えていくヒントがもらえそうだと感じ、じっくり読んだ。
それぞれの僧侶やその近親者が、自分の人生経験と宗派の教義を時間をかけてすり合わせ、消化していく過程が見えて興味深い。
家の宗派というのはそういうものなのだなと、わが身も重ねながら読んだ。
僧侶の皆さんが得度した経緯がいくつも紹介されており、巡り合わせの妙というか「仏縁」というものの存在が感じられる。
うちの場合は祖父の代から真宗僧侶で、私の父は祖父の急死と様々な巡り合わせの中、得度することになった。
私自身は結局「得度しない仏縁」だったのだろうけれども、今後二十〜三十年ぐらいの間に、また色々明らかになってくることもあるのだろう。
様々な宗派、様々な時代の怪異譚が紹介されており、地域や宗派の横断に加え、歴史の時間軸の縦断で、怪異に奥行きとリアリティが出ている。
わが宗祖親鸞についてのエピソードも少し採録されている。
明治以降、浄土真宗、親鸞の言説は、知識人好みの合理性や哲学的側面が強調されてきた。
私の父も「迷信を嫌い、合理を好む真宗僧侶公務員」というキャラクターだったので、いかにも中世的な霊験譚がうちで話題に上ることはなく、非常に興味深く読んだ。
そもそも親鸞は若い頃、強い性欲に悩んだ末に観音菩薩の夢告を得るなど、宗教的な体験も豊富に持っている僧なのだ。
大聖歓喜天
先にも「出立の春」の章で書いたが、本書に関連して私の父の死後に起こった「少し不思議」について、こちらでもメモしておこう。
父の死後、私は父の意向で任された法事のお勤めとともに、父の遺した手記の整理をしていた。
自分の経歴や仏教についての考えを書いたもので、いずれ冊子にまとめたいと希望していたという。
晩年は持病もあってPC操作が困難になり、結局完成はしていなかったのだが、それなりの分量のデータがすでにあった。
未完の執筆分に、別に公開していたweb日記から抄出分を加えて補完すれば、一応完結した形になりそうに思えた。
不肖の長男であるが、手製本の同人誌なら作り慣れている。
せめてもの供養にと、四十九日を目途として、身内で読める冊子にしようと思い立った。
父の手記は私が普段使っていないファイル形式だったので、開いて編集可能にするまでに多少手間取った。
その間に他の原稿をまとめていく途中、この十年ほどやったことが無いような初歩的なミスで、データを消してしまったことがあった。
「やれやれ、最初からやり直しか……」
少々うんざりしながら、同時進行でようやく開けた執筆分のデータを読んでみると、消してしまったあたりはもう父がまとめ済みの内容だった。
なんとなく、父に「そこはもうええから」と言われたような気がした。
父は元々文章を書くのは好きだったのだが、徐々にPC操作が困難になる中での執筆のため、校正すべきと思える所は多々あった。
もう本人の意向は確かめられないものの、書いたからにはできるだけ読んでほしいと思っていたはずなので、編集を通したら当然求められる程度の修正は入れることにした。
未完の章をどこまで収録すべきかという点も、かなり迷った。
力を入れて書いているが、内容的に途中までで出すべきではないと判断した章もあった。
その章の削除はプリントアウトする寸前まで迷っていたのだが、念のため父のPCを最後に確認してみると、たまたま開いたファイルに「〇章は削除」という指示が明記してあるものが見つかった。
ここでも「編集方針はそれで合っている」と、父に背中を押されたような気がした。
晩年の父は「法事は長男にまかせるように。見えないだろうけれども自分はその場にいるから」と言い残したという。
父はまた若い頃から組合の闘士で、せっかちで迷信嫌いの合理主義者で、霊現象やオカルトは完全否定していた。
そんな父の中で、僧侶としての阿弥陀の浄土や親鸞の言説への信心がどのように同居していたのか、あらためて聞いたことはなかった。
最後の半年ほどの間に言い遺されたこと、春先の葬儀以後あったことは、今後も色々考えて行きたい。
この度読んだ『僧の怪談』に、そうした思いをあらためて強く持った。
2024年06月10日
2024年05月24日
川口真由美『Espina』
先日近場でフェスがあり、久々に川口真由美さんのライブを観た。
相変わらずのパワーで、ネジを限界まで巻いてもらった気がした。
この歌い手についてはこれまでにも何度か記事にしてきた。
反骨のカーリー 川口真由美さんのこと
反骨のカーリー、再び(川口真由美 2ndアルバムのこと)
川口真由美「〜沖縄・平和を歌うV このクニに生きて」
そう言えば2022年末に発売された四枚目のアルバムについてまだ書いていなかったのを思い出した。
ライブの興奮の冷めないうちに書き留めておきたい。
●川口真由美4th『Espina』
https://amzn.to/3yGj5RK
第一印象は「分厚い」。
音も声も歌詞も分厚く、ブルース好きに刺さる。
自戒しなければならないのだが、日常目にするSNSには薄っぺらな言葉や中身のない形だけのバトルが蔓延していて、日々そうした空疎な言葉を浴びる内に、自分の言葉や思考までなまくらになってしまう。
意識的に聴くべきなのは、暴虐の現場を踏み、歌い続けて来た歌い手の本物の声である。
本物の声を浴び、「言葉」というもの本来の力と重さを取り戻さなければならないのだ。
酷い現実に対する歌に込められた思いは深いまま、今回のアルバムでは「音を楽しむ」要素はむしろ強まっていると感じる。
歌が良いのはもちろんのこと、演奏陣も素晴らしく良い。
第一印象で「分厚い」と感じたのは、演奏陣と噛み合ったグルーヴのせいだろうか?
ふと「地獄は一定すみかぞかし」という親鸞の言葉も浮かんでくる。
ソロのギターや鍵盤ハーモニカも、歌い手とともに地獄で遊び、泣いている。
川口真由美のアルバムと言えば、歌い継がれてきたプロテストソングのカバーも聴きどころの一つ。
今回の四枚目にも収録されていて、「死んだ男の残したものは」は、限りなく暗く優しく響いてきた。
2016年頃に反原発デモでご本人の歌を聴き、たまたま少しお話しできる機会があって以来、勝手ながら路上から世を憂う仲間意識みたいなものを感じ、アルバムを追ってきた。
そして世界は、日本は、コロナ禍が重なり、状況は悪化し続け、戦争の荒れ果てた空気に支配されるようになってしまった。
その反作用のように、川口真由美の歌は力を増しているのである。
相変わらずのパワーで、ネジを限界まで巻いてもらった気がした。
この歌い手についてはこれまでにも何度か記事にしてきた。
反骨のカーリー 川口真由美さんのこと
反骨のカーリー、再び(川口真由美 2ndアルバムのこと)
川口真由美「〜沖縄・平和を歌うV このクニに生きて」
そう言えば2022年末に発売された四枚目のアルバムについてまだ書いていなかったのを思い出した。
ライブの興奮の冷めないうちに書き留めておきたい。
●川口真由美4th『Espina』
https://amzn.to/3yGj5RK
第一印象は「分厚い」。
音も声も歌詞も分厚く、ブルース好きに刺さる。
自戒しなければならないのだが、日常目にするSNSには薄っぺらな言葉や中身のない形だけのバトルが蔓延していて、日々そうした空疎な言葉を浴びる内に、自分の言葉や思考までなまくらになってしまう。
意識的に聴くべきなのは、暴虐の現場を踏み、歌い続けて来た歌い手の本物の声である。
本物の声を浴び、「言葉」というもの本来の力と重さを取り戻さなければならないのだ。
酷い現実に対する歌に込められた思いは深いまま、今回のアルバムでは「音を楽しむ」要素はむしろ強まっていると感じる。
歌が良いのはもちろんのこと、演奏陣も素晴らしく良い。
第一印象で「分厚い」と感じたのは、演奏陣と噛み合ったグルーヴのせいだろうか?
ふと「地獄は一定すみかぞかし」という親鸞の言葉も浮かんでくる。
ソロのギターや鍵盤ハーモニカも、歌い手とともに地獄で遊び、泣いている。
川口真由美のアルバムと言えば、歌い継がれてきたプロテストソングのカバーも聴きどころの一つ。
今回の四枚目にも収録されていて、「死んだ男の残したものは」は、限りなく暗く優しく響いてきた。
2016年頃に反原発デモでご本人の歌を聴き、たまたま少しお話しできる機会があって以来、勝手ながら路上から世を憂う仲間意識みたいなものを感じ、アルバムを追ってきた。
そして世界は、日本は、コロナ禍が重なり、状況は悪化し続け、戦争の荒れ果てた空気に支配されるようになってしまった。
その反作用のように、川口真由美の歌は力を増しているのである。
2024年04月20日
出立の春5
父の死後、法事のお勤めとともに、父の遺した手記の整理をしていた。
自分の経歴や仏教についての考えを書いたもので、いずれ冊子にまとめたいと希望していたという。
晩年は持病もあってPC操作が困難になり、結局完成はしていなかったのだが、それなりの分量のデータがあった。
未完の執筆分に、別に公開していたweb日記から抄出分を加えて補完すれば、一応完結した形になりそうに思えた。
不肖の長男であるが、手製本の同人誌なら作り慣れている。
せめてもの供養に、四十九日を目途として、身内で読める仮冊子にしようと思い立った。
その編集過程で「少し不思議」と思えることがあったので、覚書にしておく。
父の手記は、ある程度まではまとまったデータがあったが、私の使っていない編集ソフトのファイル形式だったので、開いて編集可能にするまでに多少手間取った。
その間に父が書いた他の原稿のデータをコピペしていて、この十年ほどやったことが無いような初歩的なミスで消してしまった。
「やれやれ、最初からやり直しか……」
少々うんざりしながら、同時進行でようやく開けた執筆分のデータを読んでみると、消してしまったあたりはもう父がまとめ済みの内容だった。
なんとなく、父に「そこはもうええから」と言われたような気がした。
父は元々執筆活動は好きで、文章力もあったのだが、徐々にPC操作が困難になる晩年の作なので、校正すべきと思える所は多々あった。
もう本人の意向は確かめられないものの、書いたからにはできるだけ読んでほしいと思っているはずなので、編集を通したら当然求められるであろう程度の修正は入れることにした。
未完の章のどこまでを収録すべきかということも迷った。
かなり力を入れて書いているが、途中までで出すべきではないと判断した章もあった。
その章の削除はプリントアウトする寸前まで迷っていたのだが、念のため父のPCを最後に確認してみると、たまたま開いたファイルに「〇章は削除」という指示が明記してあるものが見つかった。
ここでも「編集方針はそれで合っている」と、父に言われたような気がした。
晩年の父は「法事等は長男にまかせるように。見えないだろうけれども自分はその場にいるから」と言い残したという。
父は若い頃から組合の闘士で、せっかちで迷信嫌いの合理主義者で、霊現象やオカルトは完全否定していた。
そんな父の中で、僧侶としての阿弥陀の浄土や親鸞の言説への信心がどのように同居していたのか、あらためて聞いたことはなかった。
この半年ほどの間に言い遺されたこと、あったことは、今後も色々考えて行きたい。
真宗僧侶子弟の私は仏教その他に関心があり、経典の類を読み、資料を漁り、時にはこのブログで紹介している。
同時に絵描きなので、そのままの受け売りを「表現」として採用することはない。
自分の頭と手を通して身についたものだけ採用する。
現時点での私は、近代美術の徒として基本的に唯物論である。
ただ、絵描きであるので、感覚や認識の領域で様々な「不思議」が起こることは知っている。
その延長線上に自分なりの「浄土」や「還相回向」は見えてくるのかもしれない。
そんなことを考える春だった。
自分の経歴や仏教についての考えを書いたもので、いずれ冊子にまとめたいと希望していたという。
晩年は持病もあってPC操作が困難になり、結局完成はしていなかったのだが、それなりの分量のデータがあった。
未完の執筆分に、別に公開していたweb日記から抄出分を加えて補完すれば、一応完結した形になりそうに思えた。
不肖の長男であるが、手製本の同人誌なら作り慣れている。
せめてもの供養に、四十九日を目途として、身内で読める仮冊子にしようと思い立った。
その編集過程で「少し不思議」と思えることがあったので、覚書にしておく。
父の手記は、ある程度まではまとまったデータがあったが、私の使っていない編集ソフトのファイル形式だったので、開いて編集可能にするまでに多少手間取った。
その間に父が書いた他の原稿のデータをコピペしていて、この十年ほどやったことが無いような初歩的なミスで消してしまった。
「やれやれ、最初からやり直しか……」
少々うんざりしながら、同時進行でようやく開けた執筆分のデータを読んでみると、消してしまったあたりはもう父がまとめ済みの内容だった。
なんとなく、父に「そこはもうええから」と言われたような気がした。
父は元々執筆活動は好きで、文章力もあったのだが、徐々にPC操作が困難になる晩年の作なので、校正すべきと思える所は多々あった。
もう本人の意向は確かめられないものの、書いたからにはできるだけ読んでほしいと思っているはずなので、編集を通したら当然求められるであろう程度の修正は入れることにした。
未完の章のどこまでを収録すべきかということも迷った。
かなり力を入れて書いているが、途中までで出すべきではないと判断した章もあった。
その章の削除はプリントアウトする寸前まで迷っていたのだが、念のため父のPCを最後に確認してみると、たまたま開いたファイルに「〇章は削除」という指示が明記してあるものが見つかった。
ここでも「編集方針はそれで合っている」と、父に言われたような気がした。
晩年の父は「法事等は長男にまかせるように。見えないだろうけれども自分はその場にいるから」と言い残したという。
父は若い頃から組合の闘士で、せっかちで迷信嫌いの合理主義者で、霊現象やオカルトは完全否定していた。
そんな父の中で、僧侶としての阿弥陀の浄土や親鸞の言説への信心がどのように同居していたのか、あらためて聞いたことはなかった。
この半年ほどの間に言い遺されたこと、あったことは、今後も色々考えて行きたい。
真宗僧侶子弟の私は仏教その他に関心があり、経典の類を読み、資料を漁り、時にはこのブログで紹介している。
同時に絵描きなので、そのままの受け売りを「表現」として採用することはない。
自分の頭と手を通して身についたものだけ採用する。
現時点での私は、近代美術の徒として基本的に唯物論である。
ただ、絵描きであるので、感覚や認識の領域で様々な「不思議」が起こることは知っている。
その延長線上に自分なりの「浄土」や「還相回向」は見えてくるのかもしれない。
そんなことを考える春だった。
(「出立の春」了)
2024年04月14日
出立の春4
浄土真宗では『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の『浄土三部経』が重視されている。
仏説のお経で読むのはほぼこの三部に限られ、一般には宗派を問われない『般若心経』も、真宗では読まれない。
中でも日常的に読むのは比較的短い『阿弥陀経』だけで、『無量寿経』『観無量寿経』は、葬儀や法事の際に抜粋して読まれる。
熱心な門徒というわけではない私は、『無量寿経』『観無量寿経』は、勤行ではたぶん数回くらいしか読んだことがない。
三部経は文庫で読み易い現代語訳が各種出ており、「内容をちゃんと読みたい、知りたい」という場合はそれにあたるのが良い。
私が経典の類を文庫で探して読み漁っていた90年代当時は、岩波文庫ぐらいしか出ていなかったと記憶している。
日本の仏典は史上長らく漢訳本から読み下すことを基本にしてきたが、サンスクリット原典まで遡って完全に現代語訳にする流れは、この岩波文庫版から始まったものだろう。
私も若い頃、非常に興味深く読んだ。
浄土三部経 上: 無量寿経 (岩波文庫 青 306-1) - 中村 元, 紀野 一義, 早島 鏡正
浄土三部経 下: 観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫 青 306-2) - 中村 元, 紀野 一義, 早島 鏡正
あれから三十年経って探してみると、文庫で読めるものも充実してきたようだ。三部経は角川ソフィア文庫で、無量寿経の詳しい解説はちくま学芸文庫で出ている。
全文現代語訳 浄土三部経 (角川ソフィア文庫) - 大角 修
無量寿経 (ちくま学芸文庫 ア 9-8) - 阿満 利麿
西本願寺からも文庫版が出ていて、字が大きくて助かる(笑)
浄土三部経 (文庫版) ―原文・現代語訳・佐々木惠精解説 - 浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室<聖典編纂担当>
お経も手にとってみると意外と面白く読めるのだが、なにぶん古代インドの世界観なので、とっつきがたいと感じることもあるかもしれない。
もう少し手に取りやすく、現代日本の感覚のフィルターを通したものとしては、西村公朝師の文庫本がある。
主に浄土三部経の内容を平易に絵解きした『極楽の観光案内』(新潮文庫)、仏教全般の宇宙観やビジュアルを絵解きした『ほとけの姿』(ちくま学芸文庫)などなど。
極楽の観光案内 (新潮文庫 に 14-2) - 西村 公朝
ほとけの姿 (ちくま学芸文庫) - 西村 公朝
ただ、この年になってみると、「内容を知る」のはもちろん大切だけれども、一周まわって従来の読経形式には「知る」以外の豊かな情報量があることもわかる。
読経はライブなのだ。
仏説のお経で読むのはほぼこの三部に限られ、一般には宗派を問われない『般若心経』も、真宗では読まれない。
中でも日常的に読むのは比較的短い『阿弥陀経』だけで、『無量寿経』『観無量寿経』は、葬儀や法事の際に抜粋して読まれる。
熱心な門徒というわけではない私は、『無量寿経』『観無量寿経』は、勤行ではたぶん数回くらいしか読んだことがない。
三部経は文庫で読み易い現代語訳が各種出ており、「内容をちゃんと読みたい、知りたい」という場合はそれにあたるのが良い。
私が経典の類を文庫で探して読み漁っていた90年代当時は、岩波文庫ぐらいしか出ていなかったと記憶している。
日本の仏典は史上長らく漢訳本から読み下すことを基本にしてきたが、サンスクリット原典まで遡って完全に現代語訳にする流れは、この岩波文庫版から始まったものだろう。
私も若い頃、非常に興味深く読んだ。
浄土三部経 上: 無量寿経 (岩波文庫 青 306-1) - 中村 元, 紀野 一義, 早島 鏡正
浄土三部経 下: 観無量寿経・阿弥陀経 (岩波文庫 青 306-2) - 中村 元, 紀野 一義, 早島 鏡正
あれから三十年経って探してみると、文庫で読めるものも充実してきたようだ。三部経は角川ソフィア文庫で、無量寿経の詳しい解説はちくま学芸文庫で出ている。
全文現代語訳 浄土三部経 (角川ソフィア文庫) - 大角 修
無量寿経 (ちくま学芸文庫 ア 9-8) - 阿満 利麿
西本願寺からも文庫版が出ていて、字が大きくて助かる(笑)
浄土三部経 (文庫版) ―原文・現代語訳・佐々木惠精解説 - 浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室<聖典編纂担当>
お経も手にとってみると意外と面白く読めるのだが、なにぶん古代インドの世界観なので、とっつきがたいと感じることもあるかもしれない。
もう少し手に取りやすく、現代日本の感覚のフィルターを通したものとしては、西村公朝師の文庫本がある。
主に浄土三部経の内容を平易に絵解きした『極楽の観光案内』(新潮文庫)、仏教全般の宇宙観やビジュアルを絵解きした『ほとけの姿』(ちくま学芸文庫)などなど。
極楽の観光案内 (新潮文庫 に 14-2) - 西村 公朝
ほとけの姿 (ちくま学芸文庫) - 西村 公朝
ただ、この年になってみると、「内容を知る」のはもちろん大切だけれども、一周まわって従来の読経形式には「知る」以外の豊かな情報量があることもわかる。
読経はライブなのだ。
2024年03月31日
出立の春3
亡くなるまでの半年、振り返ってみると父自身は「準備」を進めているような気配もあった。
見舞いに行くと、私がなんとか読める『正信偈』『領解文』『阿弥陀経』以外にも、「日常勤行聖典」(下掲画像右)の中からいくつか読んでおくよう指示があり、『白骨章』を指示された時は、さすがに私でもその意図に気づいた。
その他に指示された『讃仏偈』『重誓偈』は、その時は気づかなかったが、浄土三部経のうちの『無量寿経』からの引用だった。
どちらの偈文も、阿弥陀如来に成仏するはるか以前の法蔵菩薩が、師である世自在王仏に対して詠んだものだ。
法事を私に任せるにあたり、「無量寿経そのものを読むのは荷が重かろう」と、配慮してくれたのかもしれない。
そう言えば父は、一人の勤行ではよく『重誓偈』を唱えていた。
法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠ったものだ。
私は父が唱えるのを隣室などで聞いているだけだったが、なんとなく耳に残っているので、比較的読めそうだ。
あらためて法事について調べる必要から、実家で「仏事勤行聖典」(画像左)を回収した。
普段使いの「日常勤行聖典」だと知りたい内容が足りず、「確かお葬式や法事の時に使う冊子が別にあったな」と、仏間を物色して見つけた。
参考に開いてみると、まず冊子冒頭、法事の始まりに唱えられる『三奉請』が目についた。
『三奉請(さんぶじょう)』
奉請弥陀如来入道場(ぶじょう みだにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請釈迦如来入道場(ぶじょう しゃかにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請十方如来入道場(ぶじょう じっぽうにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
字面を目で追いながら、法事で聞いたことがあるメロディの雰囲気が頭の中で蘇ってきた。
普段はあまり聞けない独特な(ちょっと雅楽ぽい)節で、子供の頃から気になっていたやつだ。
あらためて調べてみると、阿弥陀如来、釈迦如来、その他多くの仏をお迎えする法事のOPらしい。
そういうことだったのか。
今はCDでも動画サイトでも音源は数多く、あらためて調べたり練習するのに助かる。
このように、ぼちぼち内容と意義の理解を進めていきたいと思う。
見舞いに行くと、私がなんとか読める『正信偈』『領解文』『阿弥陀経』以外にも、「日常勤行聖典」(下掲画像右)の中からいくつか読んでおくよう指示があり、『白骨章』を指示された時は、さすがに私でもその意図に気づいた。
その他に指示された『讃仏偈』『重誓偈』は、その時は気づかなかったが、浄土三部経のうちの『無量寿経』からの引用だった。
どちらの偈文も、阿弥陀如来に成仏するはるか以前の法蔵菩薩が、師である世自在王仏に対して詠んだものだ。
法事を私に任せるにあたり、「無量寿経そのものを読むのは荷が重かろう」と、配慮してくれたのかもしれない。
そう言えば父は、一人の勤行ではよく『重誓偈』を唱えていた。
法蔵菩薩が世自在王仏に「四十八誓願」を立てた後、重ねて誓いの心を詠ったものだ。
私は父が唱えるのを隣室などで聞いているだけだったが、なんとなく耳に残っているので、比較的読めそうだ。
あらためて法事について調べる必要から、実家で「仏事勤行聖典」(画像左)を回収した。
普段使いの「日常勤行聖典」だと知りたい内容が足りず、「確かお葬式や法事の時に使う冊子が別にあったな」と、仏間を物色して見つけた。
参考に開いてみると、まず冊子冒頭、法事の始まりに唱えられる『三奉請』が目についた。
『三奉請(さんぶじょう)』
奉請弥陀如来入道場(ぶじょう みだにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請釈迦如来入道場(ぶじょう しゃかにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
奉請十方如来入道場(ぶじょう じっぽうにょらい にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)
字面を目で追いながら、法事で聞いたことがあるメロディの雰囲気が頭の中で蘇ってきた。
普段はあまり聞けない独特な(ちょっと雅楽ぽい)節で、子供の頃から気になっていたやつだ。
あらためて調べてみると、阿弥陀如来、釈迦如来、その他多くの仏をお迎えする法事のOPらしい。
そういうことだったのか。
今はCDでも動画サイトでも音源は数多く、あらためて調べたり練習するのに助かる。
このように、ぼちぼち内容と意義の理解を進めていきたいと思う。