2019年06月07日

70年代サブカル前史:敗戦〜50年代

 70年代に地方で幼少期を過ごした私の原風景は、基本的には昔の子供とあまり変わらないものが多かったのではないかと思う。
 車道のアスファルト舗装は一通り終わっていたが、近所に田んぼや草むら、山林や河川、ため池などは残されており、四季の植物や生き物はとても身近な存在だった。
 今で言うところの「昔遊び」(コマ、剣玉、凧、ビー玉、メンコ等)は、まだ「昔」ではなく現役バリバリだった。
 子供の生活、遊びの中で、70年代以前との一番大きな違いは、カラーTVの完全普及ではないだろうか。
 家庭で、基本的に無料で視聴できる映像メディアの浸透は、私を含めた子供の心理に多大なインパクトを与えたはずだ。
 50年代に発祥し、60年代を通じて生み出された子供向けTVコンテンツの数々は、70年代に入ると加速的に進化・爛熟していき、私たち子供はまともにその渦に巻き込まれていった。
 70年代の子供向けTVコンテンツの起源は、ほとんど全て50〜60年代まで遡ることができる。
 私はもちろん当時をリアルタイムでは知らないが、後の作品に影響を与えたヒット作は、再放送やリメイクなどでまだ十分に「現役」だった。
 前史として敗戦の45年以降の流れを抑えておこう。
 
 敗戦直後の46年、「サザエさん」連載開始。
 新聞四コマ発で「ファミリー向け」ジャンルを開拓していく。
 戦前からの幼年向けマンガ家たちも活動を再開し、その中の一人、杉浦茂は50年代半ばには活動の黄金期を迎える。
 53年、TV本放送開始。
 同時に力道山プロレス、街頭テレビ始まる。
 50年代後半からは高度経済成長期に入り、三種の神器「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」への需要が高まる。
 59年、当時の皇太子成婚、64年の東京五輪を経て、TVの普及は加速。
 それと同時に「お子様向け」番組も充実していく。

 50年代の段階で既に、今の子供向けサブカルコンテンツにも濃密な影響を残している三作品があり、いずれも映像(的)メディアの作品であることで共通している。

【月光仮面】変身・アウトロー・強さ
【ゴジラ】冒険・怪奇・異形
【鉄腕アトム」メカ・未来・SF

 結果論ではあるけれども、それぞれがとくに「男の子向け」コンテンツの「受ける」要素を代表していると思われる。
 以下にもう少し詳しく紹介してみよう。

●TVドラマ「月光仮面」(58〜59)
 故・川内康範が中心となって制作された和製TVヒーローの草分けである。
 勧善懲悪の仮面ヒーロー時代劇を、50年代当時の日本を舞台にアップデートした内容で、主人公は大人の探偵、変身した月光仮面はバイクを駆り、銃を操る。
 こうした要素は、後の変身ヒーローの属性として引き継がれていくことになる。
 川内康範は政治的にも右派のご意見番として名高く、薬害肝炎問題で当時の福田首相と直談判におよび、解決を促したエピソードで知られる。
 単なる「右翼」で済ませるには、あまりに懐の深い人物であったことは、数々の作品を見れば一目瞭然だ。
 実家はお寺で、幼少の頃から仏教には親しんできたそうで、月光仮面も薬師三尊の脇仏・月光菩薩に由来するという。
 あまりに有名な主題歌には「正義の味方」という言葉が出てくるが、これも造語。
 この世に完全なる「正義」は神仏以外にあり得ない。
 月光仮面はあくまで人間なのだから、絶対的な正義ではなく「正義の味方」に過ぎない。
 どこまでも「脇役」でしかない。
 これが「月光仮面」に対する位置づけで、番組キャッチコピーは以下のようなあまりに平和的なものだった。
「憎むな! 殺すな! 赦しましょう!」
 むき出しの「正義」に対する懐疑、逡巡は、以後の日本のエンタメ作品にも通奏低音のように受け継がれていく。
 川内康範は70年代以降も様々な形で、子供向けに限定されず、エンタメの世界に重要な関与をしていくことになる。

●映画「ゴジラ」(54)「ゴジラの逆襲」(55)
 ゴジラは初代から「核」であり、「放射能」であり、「人類の生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くし、善人も悪人も等し並みに蹂躙する巨大モンスター、名付けて「怪獣」だった。
 50年代の初期二作は完全にシリアスであり、必ずしも「子供向け」作品ではなかったが、その志の高さ、本気の表現は当然の如く子供にも届き、60年代以降のシリーズ化に向けた出発点となった。

●マンガ「鉄腕アトム」(52〜68)
 手塚治虫は1928年、大阪生まれで宝塚に育った。
 幼少の頃からマンガを描き続け、敗戦直後の46年、18歳でプロデビューし、翌47年には酒井七馬原案の赤本『新寳島』を刊行。
 スピーディーで「映像的」な画面作りとストーリー展開で当時の子供たちに衝撃を与え、累積40万部のヒットとなった。
 その後も医学生と両立しながら「ジャングル大帝」等を執筆し、52年24歳で医師免許取得、同時期「鉄腕アトム」の雑誌連載が開始され、68年の完結まで「日本初のTVアニメ化」をはさみつつ執筆が続けられた。
 手塚治虫が戦後のサブカル作品に及ぼした影響は極めて多岐にわたるが、子供向けエンタメの主要ジャンルとして、文明批評を含んだ近未来SFやメカ・ロボットアクション、そして美少女表現の要素を定着させた点は特筆されるだろう。

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 以上首相三作品以外にも、50年代後半には貸本漫画の世界で水木しげるや白土三平が活動を開始しており、60年代のヒットへとつながっていく。
 そして50年代も終盤に入った59年、「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」創刊。
 それまで月刊誌が中心だったマンガ連載の熱は一気に週刊誌に移行していくことになる。
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2019年05月27日

70年代サブカル「抜け忍モノ」

 私が子供の頃の記憶として明確に覚えているのは、70年代後半からのことになる。
 当時の子供向けサブカルチャーには、まだ「忍者モノ」の影響が強く残っていた。
 白土三平のマンガが主導した忍者ブームは60年代がリアルタイムだったはずだが、「サスケ」「カムイ外伝」等の作品はマンガもアニメも根強い人気で、私たち70年代の子供もまだまだ忍者ごっこに興じていた。
 昔はTVアニメの再放送が今よりずっと頻繁で、ヒット作はほとんど毎年のように放映されていたと記憶している。
 書店のマンガ単行本の点数も今よりずっと少なく、回転が緩やかだったので、60年代作品は70年代に入ってもまだまだ「現役」だったのだ。

 その頃の私の眼に、「大人っぽくてカッコいい」と思える再放送TVアニメがいくつかあった。
 ジャケットが緑の「ルパン三世」第一作や、ここで取り上げる「忍風カムイ外伝」が、その代表だった。

●TVアニメ「忍風カムイ外伝」(69放映)
●マンガ「カムイ外伝」白土三平(65〜67週刊少年サンデー連載)

 抜け忍カムイの背負う孤独の影は、子供心に強く印象に残った。
 BGMや劇中歌も本当に素晴らしくて、カムイの憂いのこもった眼差しは、荒涼とした背景画のイメージと共に、今でも記憶に刻まれている。

 70年代に入って、再放送人気は高かったものの、リアルタイム作品としての「忍者モノ」は下火になった。
 以前紹介した「サルでもかけるまんが教室」(竹熊健太郎/相原コージ)には、「忍者モノ」は「空手モノ(身体能力)」と「エスパーもの(超常能力)」に分岐したという主旨の解説がある。
 確かに70年以降の、とくに子供向けのサブカルチャー作品は、SFものとスポ根ものに数多くのヒット作が生まれている。
 白土三平が切り開いた「抜け忍モノ」のストーリーの構図は、SF作品へとより多く引き継がれていったようだ。

 そうした作品の嚆矢にして代表は、石森章太郎原作のTV特撮「仮面ライダー」シリーズになるだろう。
 主人公の「仮面ライダー」は、元来は悪の秘密結社「ショッカー」に拉致された被害者である。
 改造手術で昆虫の能力を仕込まれた怪人「バッタ男」であり、洗脳される直前に脱走してショッカーの仇敵となる設定は、まさに「抜け忍」である。

●TV特撮「仮面ライダー」シリーズ(71〜75、79〜81放映)

 小さい頃の私は、このTVシリーズを、繰り返される再放送で楽しんでいて、母親が私の弱視に気付いたのも、確かそんな番組視聴風景の最中だった。
 しかし正直、作品の「世界観」までは理解できておらず、TV画面からの刺激に対する反応ではなく、物語としての「仮面ライダー」の面白さを理解したのは、低年齢向けに描かれた「コミカライズ版」を読んでからだったと思う。
 仮面ライダーはTV番組とほぼ同時に「原作者」石森章太郎によるマンガ版(厳密に言うと「原作」ではない)も執筆された。
 話がややこしいのだが、この石森版とは別にTV版の仮面ライダーを下敷きにしたコミカライズ版も、いくつか存在した。
 私が好きだった山田ゴロ版は、71年のライダー第一作から75年のストロンガーで一旦シリーズが終了した後の78年から執筆された作品である。
 そもそもは79年から再開される新しい仮面ライダー(スカイライダー)へとつなげるための「露払い」的な雑誌連載として企画されたようだ。


●TV版コミカライズ「仮面ライダー」山田ゴロ(78〜82テレビランド連載)
 仮面ライダー1号、2号、V3、ライダーマン、X、アマゾン、ストロンガーまでの流れを、独自のエピソードも交えながらダイジェストで要領よく描き、続くスカイライダー、スーパー1の世界観に巧みに接続させている。
 それぞれのライダーに充てられた尺は短いが、TV版の設定を踏襲しながら、石森版に描かれる「改造人間の悲しみ」というテーマもきちんと盛り込み、かつ低年齢層に無理なく読みこなせる描写になっている。
 これはまさに「離れ業」である。
 とくにライダーマンについては、あらゆるバージョンの中で、この山田ゴロ版の内容が最も充実しているのではないだろうか。
 ストロンガー編で7人ライダーが初めて集結し、最後の決戦に臨む際の盛り上がりは、私を含めた当時の子供たちの間で語り草になっている。

 同時期の「抜け忍モノ」の構図を持つサブカル作品で好きだったのが、「デビルマン」だった。

●TVアニメ「デビルマン(72〜73放映)」

 あまりに有名な主題歌の中の「悪魔の力身に付けた、正義のヒーローデビルマン」という一節は、「抜け忍モノ」の本質を端的に表現しているのではないだろうか。
 後に私はこのTVアニメ版に導かれるように、「人生最大の衝撃作」としてのマンガ版「デビルマン」と出会うことになるのだが、それは80年代、中学生になってからのことだった。

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 ごく小さい頃から、孤独の影のある「抜け忍モノ」の主人公が好きだったのは、率直に言って私が弱視児童であったことが影響していると思う。
 小さい頃から眼鏡をかけていた私は、いつもどこか周囲と一定の距離を感じていた。
 そんな気分が「抜け忍」にどこか通底するものを感じていたのだろう。
 そして今にして思うと私は、思春期や成人後も、無意識のうちに同じような構図を持つ作品を求めているようなところがあった。

 少数派が好奇の視線を受け流す術は、様々にあるだろう。
 私の場合、言葉にするなら自分を「通りすがりの絵描き」と想定することで、心の平衡を保っている所があったと思う。
 私は幼い頃、親が共働きだったので、昼間は母方の祖父母の家で過ごし、そこから保育園や幼稚園にも通っていた。
 自宅で過ごすのは平日夕方以降と、休日。
 常に自宅周辺と祖父母宅周辺の二つの世界を行き来する旅人の感覚があり、遊び仲間も二か所に分かれてそれぞれに存在した。
 そうした感覚は他の子たちとは共有されず、普通は「一つの世界」で完結しているらしいことも分かっていた。
 眼鏡をかけていることの他にもう一つ「普通とちがう」ことがあったのだ。
 小学校に上がり、住む世界が自宅周辺に一元化された後も、なんとなく「旅人気分」は残っていた。
 元々孤独癖、夢想癖があり、一人遊びを好む傾向もあったので、旅人気分は苦にならず、そっちの方が楽だった。
 お仕着せの「眼鏡キャラ」とは別の、自ら選んだ通りの良いキャラ設定で、自分を守っていたのだと思う。
 高学年の5〜6年になるころには、ガンプラを作るのが得意だったり、剣道が上達したり、中学受験の勉強で成績が上がったりと、小柄なメガネ君ながら、いくつも自信を持てる分野が広がって来ていた。
 そして、何よりも私は絵描きだった。
「通りすがりの絵描きですが、何かできることはありますか?」
 そんな気分が成育歴の中でずっと続いた。
 今でもそれが、一番しっくり馴染むのである。
posted by 九郎 at 23:52| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする

2019年05月22日

70年代、記憶の底9

 私が弱視であることが判明したのは三歳の頃。
 おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
 記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
     *     *     *
 自宅の居間である。
 私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
 番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
 家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
 顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
 その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
     *     *     *
 事実関係として正確かどうかはわからない。
 全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
 その後、眼科を受診した結果、低視力の遠視で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
 比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
 さっそく眼鏡を作ることになった。
 眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
 それまで視えていなかったのだ。

 子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
 生まれつきそれが常態の幼児にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
 なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
 時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
 
 私の場合、幸運は二つあった。
 一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
 目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
 この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。
 そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
 三歳で眼鏡をかけることになった私は、訓練のため頻繁に眼科に通うことになった。
 長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
 幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
 何しろ左右の区別もあやうい年齢である。
 視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
 今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだ。
 しかし、四十年以上前にはまだそんな工夫はなかった。
 小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらない。
 大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。

 検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
 視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
 度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていた。
 具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
 言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
 視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
 当時の私にとっての視力検査は、完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。

 幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
 数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
 以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。

 受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
 とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
 私の場合、どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、そうした要素が取り入れられた。
 今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもの。
 今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
 がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
 単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
 お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
 幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
 私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
 卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。

 左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることを勧められた。
 しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
 このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
 子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
 そんな風に心の中でエールを送っている。

 視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
 これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
 肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
 数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
 ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。

 当時、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
 通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
 今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気で、さらに学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
 これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
 全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、眼鏡は「数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
 今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
 しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
 もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。

 就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
 保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
 むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
 小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
 眼鏡がなぜ侮蔑の対象になるのか、改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
 さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
 とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
 ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
 ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
 それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。

 結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
 訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
 左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
 高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは持っていないだろう。
 元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
 実際四十を過ぎたあたりから、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
 これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
 別に何かを失うわけではない。
 元いた所へ戻るだけだ。

 色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
 無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
 むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
 やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然としている。
 気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
 そんなことが度々ある。
 なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。

 差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。
 それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
 眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
 今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
 記憶の奥底に今も確かに存在する弱視児童の自分に対し、せめて恥ずかしくないふるまいを。 

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2019年05月21日

70年代、記憶の底8

 幼児の頃、私は昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
 当時気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
 山の周囲のことはよく知っていた。
 いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
 だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたと言える。
 しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
 祖父の作った木彫りの妖怪たちも、その空想の格好の材料となった。
 蓄積された空想は噴出口を求めてマグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
 ある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……

 祖父母宅のあった地域は、広々とした平野に位置していた。
 あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
 岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
 その裏山も、子供が登れないことは無かったが、幼児であれば安全とは言いがたい。
 それでも私は登らなければならなかった。
 その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
 今となっては自分自身にも意味不明の、幼児特有の頑固さでそう思い定めていた。
 家の裏に迫った岩と岩の隙間の、子供の目には道らしく見える所を「ここが入り口か」と勝手に判断して、私は登り始めた。
 潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
 木や草や岩のトンネルを抜ける道行きは、最初は少し怖かったが、すぐに面白さの方が上回った。

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 登れば登るほどトンネルは延びていくようで、また少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
 怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
 それからどれぐらい登ったことだろう、時間にして見れば十数分、あるいはほんの数分のことだったかもしれないが、幼児にとっての主観的な時間経過はとてつもなく長かった。
 茂みのトンネルを抜け、視界が急に開けてきた。

 そこは静かな木立の中だった。
 しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
 一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
 自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
 そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
 そこは墓地だった。
 観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。

 大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
 私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎない。
 しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
 山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
 子供なりの世界観では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
 納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
 何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
 そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。

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 このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」を経験した。
 今から考えるとあぶない話だ。
 山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
 しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
 思い定めて山を登るときの酩酊感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は登山に関心を持ち続けることになる。
 登山部などに所属し、本格的に学ぶことは無かったが、中高生の頃の学校の裏山から始まり、近場の登山コース、果ては熊野の山々まで、時間を作っては歩き回るようになった。

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 大人になるに従って山の標高や日程はハードなものになっていったが、登る途中の興奮は幼い頃の「小さな冒険」とあまり変わっていないような気がする。
 山の向こうには何がある?
 その空想の答えも、まだ出ていない。

 この稿を書くにあたって、私は祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみた。
 あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
 記憶と違っているのは、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所ぐらいか。
 確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
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2019年05月20日

70年代、記憶の底7

 私が子供の頃、公害の問題は既にサブカルチャー作品の中にも取り上げられていて、むしろそれが主流だったと言っても良い。
 社会科の教科書にも掲載されていおり、学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
 その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。

 いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
 もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。
 白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
 白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
 そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。

「怨」

 幼い私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
 もう少し後に、マンガ「はだしのゲン」で被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。

 さらにずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
 1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
 お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
 それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
 経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
 それは物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。
 この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが「苦海浄土」の石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。

 石牟礼道子追悼記事:しゅうりりえんえん
 
 そして長らく子供の頃見た「怨」の写真と見分けがついておらず、混同していた写真がもう一種あることも、後に知った。
 その写真には笠を被った黒装束のお坊さんたちと、お坊さんたちが掲げた黒旗が写っていた。
 その黒旗にも、白い文字が染め抜かれていた。
「呪殺」
 文字は確かにそう読めた。

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「公害企業主呪殺祈祷僧団」
 その異様な名を持つ一団のことを、私が改めて認識したのは90年代半ば頃のこと。
 ぼちぼち神仏関連の書籍などを、やや真面目に読み始めていた頃のことだった。
 何冊かの書籍の中に、その名と、行動の概略が記載されていた。
 高度経済成長の暗黒面である公害が深刻さを増す70年代、ごく短い期間ながら、その一団は確かに実在したという。
 名の通り「公害加害企業主」に対し、呪殺祈祷を執り行うことを目的とする。
 僧侶4人、在家4人。
 宗派としては、真言宗と日蓮宗の混成部隊。
 主要メンバーは、真言宗東寺派の松下隆洪、日蓮宗身延山派の丸山照雄、在家の梅原正紀。
 墨染めの衣に笠という雲水スタイル。
 行脚は日蓮宗方式で題目と太鼓、そして呪殺祈祷は真言宗の儀軌にのっとって行われたという。
 イタイイタイ病、新潟水俣病などの、当時リアルタイムで公害が発生していた各地をめぐり、公害企業を前にして護摩壇を築き、実際に呪殺祈祷を執り行った。

 「呪殺」

 そう大書した黒旗をなびかせる一団は、傍目には不気味で物騒極まりないものだったが、「不能犯」ということで、警察の取り締まり対象にはならなかったという。
 法的には「呪っても人を殺すことはできない」し、呪殺祈祷の対象も「公害企業主」という表現なので個人を特定しておらず、名誉棄損にすらならないのだ。
 その上、行脚や祈祷もデモではなく宗教行為ということで取り締まりの対象にできない。
 
 このように転戦した僧団は、現地の民衆からは共感を持って迎えられ、警察は面くらい、祈祷対象の公害企業からは冷笑と困惑で迎えられた。
 当然ながら、仏教サイドからは「慈悲を根本にする仏教が、呪殺とはなんたることか」という批判が上がり、祈祷僧団に参加した僧が宗派から処分を受けたりもした。
 ただ、真言宗は「教義的に問題無し」と、お咎めは無かったという。

 どうしても気になるのは、呪殺祈祷の「成果」だ。
 色々調べてみたが、今一つはっきりしない。
 はっきりとはしないのだが、どうやら対象になった「公害企業主」関係者の中に、この祈祷との関連を思わせる時期に、何らかの不幸はあったようだ。
 しかし、大企業の「企業主」ともなれば、ある程度年配の人間が多いことだろうから、一定期間中に何事かが生じたとしても、不思議は無いとも言える。

 これは、まさに「表現」の領域の事象だと思う。
 公害企業によって生み出された地獄が現にそこに存在し、多くの罪無き民衆が虐殺されている。
 そこに権威ある修法で呪殺祈祷ができる僧がおり、民衆の「怨」を背負って実際に儀式を執り行った。
 そして、法的な意味での「証拠」は存在しないが、祈祷との関連を思わせるタイミングで、企業側に何らかの不幸が生じた(という伝聞情報がある)。
 表現がなされ、あとは受け手に解釈が委ねられたのだ。

 こうした事象を、一笑にふす人もいるだろうし、一種の「救い」を感じる人もいるだろう。
 私はと言えば、あえて率直に述べるならば、悲惨な公害の現場にあって、このような一団が存在してくれたことに共感せざるを得ない。
 これが武器・凶器や毒ガスなどを使用したテロであれば断固否定するが、大聖不動明王から借り受けた法の力による「慈悲行」であるならば、なんら問題は無いと考える。
 何よりも、密教というものが、理不尽極まりない文明の暗黒面に対抗できる「表現手段」を持っていたことに、豊かな文化的蓄積の凄みを感じる。

 この特異な僧団については、以下の書籍に当事者の梅原正紀の手で、詳細な記録が残されている。
 興味のある人は一読されたし。 

●「終末期の密教―人間の全体的回復と解放の論理」稲垣足穂 梅原正紀(編)


 これらの事実関係は、90年代以降にようやく知った。
 しかしそれは、幼い頃に受けた強烈な印象、記憶の底に刻まれた画像に導かれてのことであったことは、間違いない。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする