2017年11月04日

最初の修行2

 三歳の頃、弱視の診断を受けた。
 それからは、頻繁に視力検査と矯正訓練が繰り返されるようになった。
 何しろ幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
 左右の区別もあやうい年齢なので、視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
 今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだが、約四十年前にはまだそんな工夫はなかった。
 それでも小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらないだろう。
 大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。

 検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
 視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
 度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていたのだ。
 具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
 言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
 視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
 当時の私にとって、視力検査は完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。

 幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
 数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
 以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。

 受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアーできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
 とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
 私の場合、「お絵かき」が取り入れられた。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2017年11月03日

最初の修行1

 このマイナーな「神仏与太話BLOG」も、開設からぼちぼち十二年が経とうとしている。
 最初期から断続的に書き継いでいるカテゴリ原風景では、浄土真宗の僧侶である父方のことや、大工であった母方の祖父宅で、幼児期の昼間の時間を過ごしていたこと、そして夢想とも現実とつかない奇妙な記憶のことなどを書いてきた。
 久々に自分でも読み返してみて、書こう書こうと思いながら、なんとなく先延ばしにしてきた事柄を一つ、思い出した。
 他の記事中では何度か断片的に触れてきた、幼児期の「弱視」のことだ。
 考えてみればこれは、今の私の原風景の中の原風景、原点の中の原点である。
 そろそろ書き留めておかなければならない。

 私が弱視であることが判明したのは三歳の頃。
 おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
 私の記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
     *     *     *
 自宅の居間である。
 私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
 番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
 家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
 顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
 その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
     *     *     *
幼児の頃の記憶なので、事実関係として正確かどうかはわからない。
 全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
 その後、眼科を受診した結果、遠視の低視力で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
 比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
 さっそく眼鏡を作ることになった。
 眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
 それまでごはんつぶが視えていなかったようだ。

 子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
 生まれつきそれが常態の幼児本人にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
 なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
 時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
 
 私の場合、幸運は二つあった。
 一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
 目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
 この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。

 そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
 三歳で眼鏡をかけることになった私は、視力矯正の訓練のため、頻繁に眼科に通うことになった。
 長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
 私の生涯最初の「修行」は、このように開始されたのだった。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

2017年11月の体調管理

 ハロウィンも終わり、もう11月!?
 
 ニュースによると、神戸の山口組本部で仮装した組員たちが地元の子供たちに駄菓子を配るハロウィンイベントが、今年も行われたとのこと。
 ふと、組員同士の会話シーンの妄想が浮かぶ。

「おい、今年のハロウィンのオバケ、どないしようかいな」
「アニキは普段通りで十分怖いんちゃいますか」
「やかましわ!」

 ……とか。

 まあ、色々批判はあるだろう。
 しかしいくらやくざのやることでも、犯罪行為ではない単なる地域活動。
 一々目くじらを立てず、楽しめばええんとちゃうのというのが、当ブログの立ち位置です。

 山口組関連記事

 急に寒くなってきたので冷えないように注意。
 年のわりに薄着好みなのだが、意識的に少し厚く、布団は一枚多めに。
 体調はずっと悪くない。
 昨年6月のヘルニア騒動から後、大きく崩れることは無く、長い付き合いの胃腸炎や腰痛も出ていない。
 ヘルニアをだましだまし抱えていることの負担は、やはりけっこうあったのだなとあらためて思う。
 体重はやや増加傾向。
 リバウンドで「元の木阿弥」というほどではないが、ずっと続けている緩めの糖質制限の効果が、やや弱くなっている気がする。
 思い返してみるとこれもヘルニア手術後の傾向。
 どうやら日常的な胃腸への負担が減った分、消化吸収が良くなっているようだ(苦笑)
 糖質制限のレベルを一段階進める時期に来ているかもしれない。

 日々腹の立つニュースの多い昨今だが、少し前に非常に不快なものがあった。
 生まれつき茶髪の高校生が、学校に黒く染めることを執拗に強要され、不登校になったとして提訴したという報道だ。
 全く意味が分からない。
 髪染めを禁止したり、髪形を制限するというのなら、「今時髪の毛ぐらいどうでもええがな」とは思うが、まだ理解の範疇にある。
 生まれつきの身体的特徴を強制指導の対象にするというのは、どこをどう考えても「差別」以外の何物でもない。

 こういうニュースを目にすると、幼い頃弱視で眼鏡をかけていた頃の記憶がよみがえってくる。
 世の「普通」の人間どもの、決して悪気はないふるまいを、おれは忘れることはない。
 そしてその記憶は、絵描きである今のおれさまの、かけがえのない「宝」でもあるのだ。
posted by 九郎 at 17:50| Comment(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

ヤンキーサブカルチャー5

 70年代半ばから80年代半ばにかけてのヤンキーファッションに、右翼的・軍国的なデザインが好んで使用されたのはなぜなのか?

 記事を書きながら、なんとなくそんな疑問をつつき回し続けてきた。
 戦艦や戦闘機、戦闘服などに見られる旧日本軍的意匠や、当時の軍国主義を煽る「忠君愛国」「八紘一宇」「七生報国」などのスローガンが、サブカルチャーとしてかなり強い訴求力を持つことは間違いない。
 何しろ戦前戦中には国民全体を熱狂させ、耐乏生活を強い、生命財産を投げ打たせ、国土を灰燼に帰さしめながら、最後まで戦い抜かせてしまった実績があるのだ。
 以前の記事でアニメ「宇宙戦艦ヤマト」が、軍国主義の「毒」を極めて巧妙に切除し、デザイン的な訴求力だけを抽出して、ヒット要素に組み込んだ様(主としてマンガ家・松本零士によると思われる)を紹介したことがある。

 ヤマトと仲なおり

 そのヤマトとほぼ同時期に出現した軍国的ヤンキーファッションには、おそらく特定個人による緻密な「仕掛け」は存在しない。
 当時のヤンキーの面々は、もっと無邪気に軍国スローガンを記した特攻服を身につけ、「思想」とは無縁のレベルで戦前回帰していたはずだ。
 難解な漢字熟語や無茶な宛て漢字をファッションとして楽しむ傾向は、今でも幅広い層にある。
 そしてヤンキーが「地元愛」「身内愛」を通じて「愛国」につながりやすい傾向は今も昔も変わらない。
 しかし、今はさすがに「特攻服」は、無い。
 コスプレでなく本気で着用されていたのは、せいぜい90年代前半くらいまでに限られるのではないだろうか。

 一つ考えられるのは、当時のヤンキーの面々に対し、直接の抑圧者として目前に立ちはだかっていたであろう教師に対する、「逆張り」だったのではないかということだ。
 糞ムカつくセンコー共が眉をひそめ、嫌悪を露にする服装、言葉遣いを嗅ぎ分ける内に、自然に右翼的、軍国的ファッションに収斂したのではないかというのが、現時点での私の仮説(というか与太話)である。
 そのように考えると、学校や世間からサヨク的価値観が力を失っていった90年代以降、その「逆張り」としての右翼ヤンキーも姿を消していったのは辻褄が合っている気がするのである(笑)

 そう言えば「金八」第一シリーズにつっぱり少女役で出演していた元女優は、今は日本会議系のしょーもない戦前回帰議員になってしまっている。
 誰に吹き込まれたのか、以前「八紘一宇」を称揚するアナクロぶりを発揮していたっけ。
 あれなどはさしずめ、「三十年遅れのヤンキーファッション」だったのかもしれない……

 これは左右を問わずなのだが、単なる「逆張り」というのはやはり底が知れているものだ。
 かく言う私自身も、現在の心情左翼の感性は、中高生の頃の時代錯誤な超スパルタ軍国教育に対する反発が源流になっていることは否めない。

 青臭い単なる逆張りの域を超え、筋金入りの「弱きをたすけ、強きをくじく」でありたい。
 絵描きとして元弱視児童として、本当にそう思う。
(「ヤンキーサブカルチャー」の章、了)
posted by 九郎 at 23:35| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年10月30日

ヤンキーサブカルチャー4

 本章「ヤンキーサブカルチャー」最初の記事で、70年代後半から80年前後にかけての不良ファッションに、右翼的、軍国的意匠が使われていることにふと疑問を持った。
 偏差値教育、管理教育に反発し、ドロップアウトした先が、それ以上に抑圧的だったはずの「大日本帝国」的な世界観に帰着するのは、あらためて考えると不思議な傾向だ。
 週刊少年ジャンプで80年代に連載され、ヒットした中では、宮下あきらの作品がわりとそうした「軍国アイテム」を売りにヒットしていた記憶がある。
 少しふり返ってみよう。

 宮下あきらは78年少年マガジン増刊号でデビュー。
 79年週刊少年ジャンプで「私立極道高校」連載開始も、トラブルにより短期で打ち切り。
 翌80年、主要キャラを引き継ぎ、新たな主人公で仕切り直した「激!!極虎一家」がヒットし、全十二巻が描かれた。
 この頃は絵も作風もまだかなり本宮ひろ志っぽく、小学生当時の私は名前の字面が似ていることもあって、ちゃんと区別がついていなかった。
 ただ、なんとなく「まじめな方」、「ふざけてる方」という差は感じていた。
 途中からやっと、自分が好きな「ふざけてる方」のマンガを描いているのは、「男一匹ガキ大将」の人とは別人なのだと気付いた(笑)


●「激!!極虎一家」宮下あきら(80〜82年、週刊少年ジャンプ)
 ケンカ自慢の不良高校生たちが「網走極等少年院」の激しい内部抗争を経て出所。
 独立した一家を起こし、日本の極道の頂点を目指す。
 果ては「アメリカから日本侵略しにきたマフィア」と日米極道大戦に発展するという、まあ、とてつもなくファンタスティックなストーリ―である(笑)
 ギャグを多用した作風なので筋立てが荒唐無稽でも違和感はないのだが、それでも子供心にも「これはあかんやろ」と感じる暴走もあった。
 最終章のマフィアとの対決で、追い詰められた極虎一家の面々に、突如として過去に死亡したはずの仲間三人が現れ、救援するという展開があった。
 後の「男塾」で多用されることになる「実は生きていた」のパターンではなく、「極虎一家」の時点では文字通り「蘇った」とされていて、それは日本に古来より伝わる「七生報国」という奇跡であると説明されていた。
 今でも記憶に残っているセリフによれば、「死して七度生き返り、国に報い、友に報いる」ために蘇った三人は、不死身のパワーで次々にマフィアを撃破し、撤退させることに成功するのである。
 今振り返ると、最後の最後でこうした理不尽な「神風」が吹いたり、ギャグですかしたりするのは宮下あきらの芸風なのだと楽しめる。
 しかし、けっこうハラハラしながらマンガを読んでいた小学生当時は、何かちょっとごまかされたような気がして不満を感じたことを覚えている。
 私のマンガ体験は手塚治虫や藤子F不二雄のSFから始まったので、「理屈付け」の最低限がクリアーされない展開は受け入れがたかったのだ。

 その後の宮下あきらは、いくつかの短期連載をはさんだ後、満を持して85年に連載開始された「魁!!男塾」を連載開始する。


●「魁!!男塾」宮下あきら(85〜91年、週刊少年ジャンプ)
 徹底した軍国教育により、全国の不良少年の「男」を磨き、更生させ、有為な人材として育成することを目指した私塾を舞台とする作品。
 連載開始当初は宮下あきら作品としてオーソドックスな泥臭いギャグマンガだったが、次第にバトル展開に移行していった。
 連載当時、私はちょうど私立の中高一貫校に進学していて、その学校がまさに男塾を思わせる時代錯誤の超スパルタ教育だったので、同級生と共に「これはおれらのマンガや!」と熱狂していた(笑)
 この「男塾」では作中の軍国アイテムはかなりネタ化、相対化されていて、荒唐無稽な軍国スローガンで安易にまとめてしまった「極虎一家」の危うさは、一応消化されている。
 読者としての私も小学生時代より年季を積み、民明書房が架空の出版社であることに、途中から気付けるほどには成熟していたのだ。
 連載六年、全34巻、連載中にTVアニメ化もされ、作者の押しも押されもせぬ代表作となった。
 続編や派生作品は数多く、現在も描き継がれている。

 宮下あきらは現在60歳。
 若い頃はジミ・ヘンドリックスに憧れてバンド活動をやっていたという。
 軍国アイテムを多用する作風とは裏腹に、作品からはほとんど「政治性」は感じられない。
 むしろその年代のかつてのロック少年としてはごくノーマルな、リベラルな「匂い」は、そこはかとなく感じられる。
 作中に登場する軍国アイテムは、「思想」から来たものではなく、「なんとなく自分の感性にあう」「なんとなくウケそうな」要素を、持ちネタとして磨いた結果のヒットではないかと推察される。
 ではなぜ、「軍国アイテムがなんとなくウケる」という空気が、80年代前後に醸成されていたのかという、最初の疑問に戻る。
(続く)
posted by 九郎 at 23:59| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする