うちは浄土真宗の「西」で、日常のお勤めでは『正信偈』とそれに続く念仏和讃、領解文、お経では『阿弥陀経』を唱えることが多かった。
一番よく読む『正信偈』は、仏説のお経ではなく、歴史の授業でも習う親鸞の主著『教行信証』中の漢詩で、信心のエッセンスがまとめられている。
読み方としては「草譜」「行譜」の二種があり、日常的にはシンプルな「草譜」、法事などでやや丁寧に唱える場合は後半がメロディアスな「行譜」を唱える。
続く念仏和讃は念仏の繰り返しと親鸞作の和讃の組み合わせで、こちらも独特のメロディがある。
唱え方には微妙な地域差や個人差があり、うちの唱え方もCD音源等とは少し違う。
録音再生技術の発達した今ですらけっこう「地域差、個人差」があるのだから、昔はもっとバラエティが豊かだった可能性はある。
うちの読み方は私限りになるかもしれないが、唱えられるうちは唱える。
もう一つよく唱えているのが、蓮如の作と伝えられる『領解文(りょうげもん)』だ。
以下に引用してみる。
「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらえとたのみまうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、ご恩報謝とぞんじ、よろこびもうしそうろう。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、ご開山聖人ご出世のご恩、次第相承の善知識のあさからざるご勧化のご恩と、ありがたくぞんじそうろう。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎり、まもりもうすべくそうろう。」
今回調べてみると、領解文の読み方にもかなり幅があるようだ。
シンプルなお経のように一本調子で読んでいる音源もあるし、朗読や独白のように読んでいるケースもある。
うちでは文体が共通している御文章に近い感じで読まれていた。
2023年には西本願寺から『新しい領解文』というものが発表され、議論になった。
残念ながら父の意見を聞ける状態ではないまま亡くなり、また僧侶でない私がどうこう言える性質のものでも無いので、うちでは従来のまま唱えている。
仏説のお経の中では、日常勤行でよく読むのが『阿弥陀経』だ。
短めなので、熱心な門徒の皆さんには『正信偈』とともに暗唱している人も多い。
私は導師に唱和してとりあえず読める程度だ。
せっかちな性格だった父は読むのがかなり速く、ついていくのが精一杯だったことなど、今は懐かしい。
「こんな速く読むのは父ぐらいだろう」と思っていたら、大阪の北御堂に参拝した時、若いお坊さんがもっと速く読んでいて驚愕したことがある。
お経と言えば「聞いてもわけのわからないもの」の代名詞みたいになっているが、『阿弥陀経』に関して言えば、唱えていると少々内容がわかった気になれる。
漢字の字面のイメージを追っていると、釈尊が祇園精舎で舎利弗を代表とする綺羅星の如き弟子たちに、阿弥陀の浄土の絢爛たる様を詳細に語って聞かせているのが、おおよそは伝わってくるのだ。
僧侶が読むとリズム感があり、その感覚は補強される。
釈尊が語りかける舎利弗は「智慧第一」のシャーリプトラで、十大弟子の中でも天才肌の一番弟子と目され、他のお経でも聞き手としてよく登場する。
ただ、このお経は釈尊が舎利弗に一方的に語って聞かせる形で、問答形式ではない。
内容的にもただただ阿弥陀浄土のイメージの洪水を浴びせる感じで、せっかくの天才肌が聞き手でも、口をはさむ余地はない。
わざわざ「自力」に極めて優れた弟子に、それが全く通用しない説法をぶつけていることには、釈尊の何らかの意図があるのかもしれない。
お経の終盤で釈尊は「シャーリプトラよ、どう思うか?」と問いかけているが、弟子の返答はない。
2024年03月30日
2024年03月29日
出立の春1
先月、父が亡くなった。
うちは父方が祖父の代から真宗僧侶で、寺ではなかったが地域の門徒の公民館的な「教会」とか「道場」と呼ばれる寺院風の家屋の管理をする「衆徒」だった。
祖父の死後は父が得度し、法務を継いだ。
父の代にはその教会もなくなり、同じ地域の寺院の衆徒として、公務員と兼業で法務をやっていた。
このあたりの事情については、何度か記事にしてきた。
私の得度についてはさほど強くは勧められず、結局継がなかったのだが、仏教に対する興味はそれなりに持っていて、たとえばこのようなブログを続けている。
父はまた、若い頃から反権力で、社会的弱者側に立つ人でもあった。
そうした反骨精神とともに、継げるものは継いでいきたい。
家の宗派のことは、慌てることはなく、なんなら一生かけてゆっくり考えればいい。
別に考えなくてもいいが、家の宗派について考えることは、自分について考えることにつながると思っている。
せっかちで合理を好む父の遺志により、葬儀には旧知の所属寺院住職を呼び、参列は近親中心の簡素なものになった。
父方祖父母の時のように多人数を集めて三部経その他を全部やる葬儀も、私は実は嫌いではない。
普段会わない縁者と会い、普段読まないお経の節回しを体験できる良い機会だったと思う。
ただ、少子高齢化のこの御時世、もうそれをやるには人手と負担が過大に成りすぎた面は否めない。
うちは父方母方一同、形式ばらない庶民的な雰囲気で、内心の哀しみはともかく、葬儀や法事でもことさら湿っぽくせず、たまの親族の集まりとして「歓談」するのが常だった。
陽性で社交的だった父もずっとそのようにふるまっており、今回もみんな変わらずそうした。
生前の父の意向で、葬儀以降の法事のお勤めは、基本私がやることになった。
法事を家族でやるのは、昨今とくに珍しくはないらしい。
僧侶ではないので本格的なことはできないが、「こいつにやらせておけば、興味を持って調べ、できることはやるだろう。この際勉強せよ」という意図のはずで、実際そうしている。
父は当ブログの読者でもあった。
あらためて調べたことなど、ぼちぼち覚書にしていきたいと思う。
その後も身内の訃報が続き、日々『白骨の御文章』を口ずさむ春である。
【白骨章】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、 まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず一生過すぎやすし。 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。 われや先、人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
うちは父方が祖父の代から真宗僧侶で、寺ではなかったが地域の門徒の公民館的な「教会」とか「道場」と呼ばれる寺院風の家屋の管理をする「衆徒」だった。
祖父の死後は父が得度し、法務を継いだ。
父の代にはその教会もなくなり、同じ地域の寺院の衆徒として、公務員と兼業で法務をやっていた。
このあたりの事情については、何度か記事にしてきた。
私の得度についてはさほど強くは勧められず、結局継がなかったのだが、仏教に対する興味はそれなりに持っていて、たとえばこのようなブログを続けている。
父はまた、若い頃から反権力で、社会的弱者側に立つ人でもあった。
そうした反骨精神とともに、継げるものは継いでいきたい。
家の宗派のことは、慌てることはなく、なんなら一生かけてゆっくり考えればいい。
別に考えなくてもいいが、家の宗派について考えることは、自分について考えることにつながると思っている。
せっかちで合理を好む父の遺志により、葬儀には旧知の所属寺院住職を呼び、参列は近親中心の簡素なものになった。
父方祖父母の時のように多人数を集めて三部経その他を全部やる葬儀も、私は実は嫌いではない。
普段会わない縁者と会い、普段読まないお経の節回しを体験できる良い機会だったと思う。
ただ、少子高齢化のこの御時世、もうそれをやるには人手と負担が過大に成りすぎた面は否めない。
うちは父方母方一同、形式ばらない庶民的な雰囲気で、内心の哀しみはともかく、葬儀や法事でもことさら湿っぽくせず、たまの親族の集まりとして「歓談」するのが常だった。
陽性で社交的だった父もずっとそのようにふるまっており、今回もみんな変わらずそうした。
生前の父の意向で、葬儀以降の法事のお勤めは、基本私がやることになった。
法事を家族でやるのは、昨今とくに珍しくはないらしい。
僧侶ではないので本格的なことはできないが、「こいつにやらせておけば、興味を持って調べ、できることはやるだろう。この際勉強せよ」という意図のはずで、実際そうしている。
父は当ブログの読者でもあった。
あらためて調べたことなど、ぼちぼち覚書にしていきたいと思う。
その後も身内の訃報が続き、日々『白骨の御文章』を口ずさむ春である。
【白骨章】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、 まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず一生過すぎやすし。 いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。 われや先、人や先、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
2024年02月12日
五木寛之 北陸関連作品
五木寛之は好きな作家の一人で、折に触れ読んできた。
今回の能登半島の震災報道で挙がってくる地名を見るうちに、いくつか思い出した五木作品があった。
未読のものもあったので、この機会に開いてみた。
●五木寛之『内灘夫人』
内灘夫人 (新潮文庫 い 15-1) - 五木 寛之
1969年作。
50年代後半からテレビやラジオの仕事等を経験し、60年代半ばから金沢での小説執筆、作家デビューなので、初期作の一つということになるだろう。
私は主に90年代以降の五木作品読者なので、初期作はまだ読んでいないものがけっこうあり、この作品もその一つ。
読もうと思い立って探してみたが、現在新本では入手困難のようだ。
五木寛之クラスの作家でも、よく知られた作品が新本で手に入らない出版不況を感じつつ、図書館で探して借りた。
60年代後半に盛り上がりを見せていた学生運動が時代背景なっており、世代であれば感情移入のポイントであろうけれども、私も含めたそれ以外の世代でも作品に入り込める要素はある。
主人公霧子は三十過ぎ。
戦後50年代の学生時代に、石川県の米軍試射場反対運動「内灘闘争」を経験している。
全身全霊で運動に打ち込み、感情のピークを経験した結果、心身に大きな傷を負っている。
ともに戦った伴侶とともに、現在は経済的には恵まれた生活をおくれているが、心の空洞を抱えながら都会の夜で衝動のままに放蕩し、何かを探すように彷徨っている。
たまたま出会った現役で戦う全共闘世代とのかかわりの中で、霧子は運動にかける若者の夢や残酷さを追体験しつつ、過去の記憶に刻まれた金沢、内灘を巡る。
そして傍観者であることを踏み越えていく……
政治運動と限定しなくとも、二十歳前後で何かに打ち込み、挫折した経験のある者であれば、誰もが引き込まれるだろう。
そこまででなくとも、三十代、四十代などの節目に、ふと「このままでいいのか?」という自問が生じる時期にある者には響く作品であるはずだ。
三十歳を超えたあたりというのは、本人の心の中では「若い自分」というものが喪失したように感じられ、何もかも手遅れになってしまったように沈みがちなものだ。
しかし五十歳を超えて振り返ってみれば、三十歳など大した節目でも何でもなく、そこからのスタートで全く問題ないとわかる。
四十歳でも同じようなものだ。
論語でよく知られる「三十にして立つ、四十にして惑わず」という表現は、自分が五十になってみるとよくわかる。
ここから先も、「振り返ってみればそこからスタートで全然かまわない」ということが繰り返されるのではないかとも思う。
内灘に還り、その土地でともかく体を動かして働くことで再起をはかる、今の私から見れば眩しいほどに若い三十過ぎの霧子を、心の底から祝福したい読後感が残った。
そして作中の時代設定から半世紀以上。
霧子はもちろんフィクションであるが、もし実在して存命であれば、現在九十歳前後だろうか。
内灘の避難所の一画で、その場でできることを、しぶとく差配している女性の幻想が浮かんできたりもする。
著者はデビュー前後の時期に金沢で生活していたことに加え、戦後すぐの「内灘闘争」についても実際に足を運んでその盛り上がりを体験したという。
その運動の最中、「真宗王国」と呼ばれる北陸の庶民の連帯の力についても感じるところがあったのだろう。
後年の著作では、現在の真宗の礎を築いた本願寺八世・蓮如をテーマにしたものが多くある。
北陸に限定すれば、『日本人のこころ』シリーズのうちの『一向一揆共和国』、また『百寺巡礼』のうちの第二巻がそれにあたるだろう。
隠された日本 加賀・大和 一向一揆共和国 まほろばの闇 (ちくま文庫 い 79-7) - 五木 寛之
百寺巡礼 第二巻 北陸 (講談社文庫) - 五木 寛之
日々のニュースで流れる地名の多くが、上掲二冊の中で、歴史とともに紹介されている。
戦国時代前期の蓮如の活躍により、日本各地で一向一揆は燎原の火のごとく燃え盛り、中でも加賀は「百姓の持ちたる国」として百年近く自治が行われた。
戦国末期の最終決戦である石山合戦でも、加賀を中心とする北陸門徒の力は、大坂の本山を強力にバックアップした。
加えて北陸は日本海交易の玄関口であり、豊かな文化の花開く先進地域でもあったのだ。
この度の能登半島の震災に際し、現地の一日も早い救済を祈念するとともに、かの地の歴史についてももっと学びたいと思った。
手始めに三冊読んでみてスタートを切った2024年である。
今回の能登半島の震災報道で挙がってくる地名を見るうちに、いくつか思い出した五木作品があった。
未読のものもあったので、この機会に開いてみた。
●五木寛之『内灘夫人』
内灘夫人 (新潮文庫 い 15-1) - 五木 寛之
1969年作。
50年代後半からテレビやラジオの仕事等を経験し、60年代半ばから金沢での小説執筆、作家デビューなので、初期作の一つということになるだろう。
私は主に90年代以降の五木作品読者なので、初期作はまだ読んでいないものがけっこうあり、この作品もその一つ。
読もうと思い立って探してみたが、現在新本では入手困難のようだ。
五木寛之クラスの作家でも、よく知られた作品が新本で手に入らない出版不況を感じつつ、図書館で探して借りた。
60年代後半に盛り上がりを見せていた学生運動が時代背景なっており、世代であれば感情移入のポイントであろうけれども、私も含めたそれ以外の世代でも作品に入り込める要素はある。
主人公霧子は三十過ぎ。
戦後50年代の学生時代に、石川県の米軍試射場反対運動「内灘闘争」を経験している。
全身全霊で運動に打ち込み、感情のピークを経験した結果、心身に大きな傷を負っている。
ともに戦った伴侶とともに、現在は経済的には恵まれた生活をおくれているが、心の空洞を抱えながら都会の夜で衝動のままに放蕩し、何かを探すように彷徨っている。
たまたま出会った現役で戦う全共闘世代とのかかわりの中で、霧子は運動にかける若者の夢や残酷さを追体験しつつ、過去の記憶に刻まれた金沢、内灘を巡る。
そして傍観者であることを踏み越えていく……
政治運動と限定しなくとも、二十歳前後で何かに打ち込み、挫折した経験のある者であれば、誰もが引き込まれるだろう。
そこまででなくとも、三十代、四十代などの節目に、ふと「このままでいいのか?」という自問が生じる時期にある者には響く作品であるはずだ。
三十歳を超えたあたりというのは、本人の心の中では「若い自分」というものが喪失したように感じられ、何もかも手遅れになってしまったように沈みがちなものだ。
しかし五十歳を超えて振り返ってみれば、三十歳など大した節目でも何でもなく、そこからのスタートで全く問題ないとわかる。
四十歳でも同じようなものだ。
論語でよく知られる「三十にして立つ、四十にして惑わず」という表現は、自分が五十になってみるとよくわかる。
ここから先も、「振り返ってみればそこからスタートで全然かまわない」ということが繰り返されるのではないかとも思う。
内灘に還り、その土地でともかく体を動かして働くことで再起をはかる、今の私から見れば眩しいほどに若い三十過ぎの霧子を、心の底から祝福したい読後感が残った。
そして作中の時代設定から半世紀以上。
霧子はもちろんフィクションであるが、もし実在して存命であれば、現在九十歳前後だろうか。
内灘の避難所の一画で、その場でできることを、しぶとく差配している女性の幻想が浮かんできたりもする。
著者はデビュー前後の時期に金沢で生活していたことに加え、戦後すぐの「内灘闘争」についても実際に足を運んでその盛り上がりを体験したという。
その運動の最中、「真宗王国」と呼ばれる北陸の庶民の連帯の力についても感じるところがあったのだろう。
後年の著作では、現在の真宗の礎を築いた本願寺八世・蓮如をテーマにしたものが多くある。
北陸に限定すれば、『日本人のこころ』シリーズのうちの『一向一揆共和国』、また『百寺巡礼』のうちの第二巻がそれにあたるだろう。
隠された日本 加賀・大和 一向一揆共和国 まほろばの闇 (ちくま文庫 い 79-7) - 五木 寛之
百寺巡礼 第二巻 北陸 (講談社文庫) - 五木 寛之
日々のニュースで流れる地名の多くが、上掲二冊の中で、歴史とともに紹介されている。
戦国時代前期の蓮如の活躍により、日本各地で一向一揆は燎原の火のごとく燃え盛り、中でも加賀は「百姓の持ちたる国」として百年近く自治が行われた。
戦国末期の最終決戦である石山合戦でも、加賀を中心とする北陸門徒の力は、大坂の本山を強力にバックアップした。
加えて北陸は日本海交易の玄関口であり、豊かな文化の花開く先進地域でもあったのだ。
この度の能登半島の震災に際し、現地の一日も早い救済を祈念するとともに、かの地の歴史についてももっと学びたいと思った。
手始めに三冊読んでみてスタートを切った2024年である。
2024年01月10日
能登半島は明日の日本
2024年は元日から能登半島の大震災で幕を開けた。
29年前に阪神淡路で被災した者として他人事とは思えない。
幾多の自然災害を経てもなお、いまだに被災者を体育館で雑魚寝させ、一向に省みるところのない国や自治体の体たらくに憤る日々である。
今週あたりから避難所生活の不便に感染症の危険が重なってしまうだろう。
これも自然災害で毎度繰り返される行政の不作為である。
国民負担率が五割を超え、六割に迫ろうとするのに、文化教育、医療福祉は削られるばかりで、災害被災者すらまともに救わない。
そのくせ国や自治体与党と癒着した業界には湯水のごとく税金を注ぎ込み、一般庶民は困窮する。
腐れ切った斜陽国家である。
今回の震災の報道を追いながら、北陸の地理についてあまりに知らないことを痛感し、理解のための絵図を描いていた。
ざっくりした覚書程度のものなので、絵図上のそれぞれの地域の皆さんにとっては変に感じるところも多いと思うが、ひとまずの模式図としてアップしておきたい。
(クリックで画像拡大)
構図としては能登半島を中心に、日本海側から関東、中部、関西までを視界に入れてある。
突貫で作成したので自動車道は入っていないが、JR各線と新幹線は表記してある。
こうしてみると北陸は、関東、中部、関西の三エリアから、いずれも「近くは無いがほぼ等しくアクセスできる」位置にある。
本来であれば、公的な支援やボランティアが、広く見込める地域であることは確認しておく。
石川県は歴史的には加賀と能登が統合されたもので、今回の主な被災は能登の範囲。
能登半島と接する石川県の加賀や富山県までは交通の寸断は起きておらず、今のところ観光も通常通り行える状態だ。
震災後の一月二日に報じられた渋滞は、主に例年通りのUターンラッシュと、地震の報を聞きつけた親族が急遽駆け付けたためであった。
その後目立った渋滞は起きておらず、「迷惑なボランティアの殺到による混乱」なども一切起こっていない。
むしろ被災地は切実に人手を欲している。
阪神淡路大震災の被災者で、3.11の原発震災の顛末を追ってきた身としては、国や自治体のアナウンスをそのまま無邪気に鵜呑みにはできないのである。
北陸は戦国時代から念仏信仰の篤いい地域だ。
とくに加賀は「百姓の持ちたる国」として、一向一揆勢が百年近く自治したお国柄で、今回の震災でも「お東さん」は、いち早く動いていると聞く。
能登半島を含む北陸は、原発地域だ。
福井県若狭湾は国内最大の密集地であるし、石川県の志賀、新潟の柏崎刈羽も抱えている。
巨大地震でかなり損傷を受けたと思しき志賀原発に関する報道は、かなり制限されていると感じる。
深刻な臨界事故を二十年以上隠ぺいしてきた「前科持ち」の原発である。
五月雨式で訂正され、刻々と深刻さを増す情報が、不気味極まりない。
能登半島の首元で敷地内に断層が走っており、もともと「何か事故があったら半島の住民はその原発に向かって逃げなければならない」という、きわめて悪質な立地であった。
長期停止中であったことは不幸中の幸いという他なく、稼働中であれば3.11以上のカタストロフになりえただろう。
まして、珠洲原発計画が反対運動で葬られていなかったら、いったいどうなってしまっていたことか。
被災者の皆さんの困窮は災害列島に住む私たち自身の明日の姿、原発という時限爆弾を抱えて逃げ場のない能登半島は日本の縮図である。
注意深く情報を追いたいと思う。
29年前に阪神淡路で被災した者として他人事とは思えない。
幾多の自然災害を経てもなお、いまだに被災者を体育館で雑魚寝させ、一向に省みるところのない国や自治体の体たらくに憤る日々である。
今週あたりから避難所生活の不便に感染症の危険が重なってしまうだろう。
これも自然災害で毎度繰り返される行政の不作為である。
国民負担率が五割を超え、六割に迫ろうとするのに、文化教育、医療福祉は削られるばかりで、災害被災者すらまともに救わない。
そのくせ国や自治体与党と癒着した業界には湯水のごとく税金を注ぎ込み、一般庶民は困窮する。
腐れ切った斜陽国家である。
今回の震災の報道を追いながら、北陸の地理についてあまりに知らないことを痛感し、理解のための絵図を描いていた。
ざっくりした覚書程度のものなので、絵図上のそれぞれの地域の皆さんにとっては変に感じるところも多いと思うが、ひとまずの模式図としてアップしておきたい。
(クリックで画像拡大)
構図としては能登半島を中心に、日本海側から関東、中部、関西までを視界に入れてある。
突貫で作成したので自動車道は入っていないが、JR各線と新幹線は表記してある。
こうしてみると北陸は、関東、中部、関西の三エリアから、いずれも「近くは無いがほぼ等しくアクセスできる」位置にある。
本来であれば、公的な支援やボランティアが、広く見込める地域であることは確認しておく。
石川県は歴史的には加賀と能登が統合されたもので、今回の主な被災は能登の範囲。
能登半島と接する石川県の加賀や富山県までは交通の寸断は起きておらず、今のところ観光も通常通り行える状態だ。
震災後の一月二日に報じられた渋滞は、主に例年通りのUターンラッシュと、地震の報を聞きつけた親族が急遽駆け付けたためであった。
その後目立った渋滞は起きておらず、「迷惑なボランティアの殺到による混乱」なども一切起こっていない。
むしろ被災地は切実に人手を欲している。
阪神淡路大震災の被災者で、3.11の原発震災の顛末を追ってきた身としては、国や自治体のアナウンスをそのまま無邪気に鵜呑みにはできないのである。
北陸は戦国時代から念仏信仰の篤いい地域だ。
とくに加賀は「百姓の持ちたる国」として、一向一揆勢が百年近く自治したお国柄で、今回の震災でも「お東さん」は、いち早く動いていると聞く。
能登半島を含む北陸は、原発地域だ。
福井県若狭湾は国内最大の密集地であるし、石川県の志賀、新潟の柏崎刈羽も抱えている。
巨大地震でかなり損傷を受けたと思しき志賀原発に関する報道は、かなり制限されていると感じる。
深刻な臨界事故を二十年以上隠ぺいしてきた「前科持ち」の原発である。
五月雨式で訂正され、刻々と深刻さを増す情報が、不気味極まりない。
能登半島の首元で敷地内に断層が走っており、もともと「何か事故があったら半島の住民はその原発に向かって逃げなければならない」という、きわめて悪質な立地であった。
長期停止中であったことは不幸中の幸いという他なく、稼働中であれば3.11以上のカタストロフになりえただろう。
まして、珠洲原発計画が反対運動で葬られていなかったら、いったいどうなってしまっていたことか。
被災者の皆さんの困窮は災害列島に住む私たち自身の明日の姿、原発という時限爆弾を抱えて逃げ場のない能登半島は日本の縮図である。
注意深く情報を追いたいと思う。