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2023年12月31日

下村湖人『次郎物語』

 いつ以来か思い出せないくらい久しぶりに下村湖人『次郎物語』を再読した。
 むかし読みふけった本のことが思い出され、気になりがちな五十代である。
 数年前からなんとなく主人公・次郎を思い返すことが多くなっていた。
 そもそもは母が昔愛読していて、私が中学に入るか入らないかのタイミングで勧められたと記憶している。
 周囲と今一つ距離を感じる思春期の少年少女には、必要な物語がある。
 自分と主人公を重ね合わせてともに成長するタイプの読書は大切で、私にとっては本作がそれだった。
 中高生の頃通っていたのが戦前の旧制高校に倣った私立だったので、作中の学校要素はものすごく身近に感じたものだ。
 今読むと親の立場、教える側の立場としてわかることも多いはずで、迫るファシズムへの戦い方、負け方も含め、後半の軍国主義が迫る青年期の巻をもう一度読みたいと思った。

 再読のため、あらためて本作について調べてみた。

・文庫で何度も刊行されており、最近刊で読みやすいのは岩波文庫版。
・青い鳥文庫上下巻は作者による年少者向けの抄本で、書店で確認してみたところ、個人的にはかえって読みにくいと感じた。
・昔読んだポプラ社文庫版は、実家にももう無いだろう。
・著作権は既にフリーになっているので、読むだけなら青空文庫やkindle無料本もあり。

次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人
次郎物語 一 (岩波文庫) - 下村 湖人

次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人
次郎物語 01 第一部 - 下村 湖人

 結局kindle無料本で第一部から読み始めた。
 なにしろ80年以上前に書きだされた作品なので、「説教臭いかな?」「文章硬いかな?」と身構えていたが、そういうことは全く無かった。
 意外に平易な語り口で、とくに第三部〜第四部の旧制中学編は、今の目で見てもかなりエンタメ要素を感じた。
 多くの個性的な中学生たちの活躍が「ガクエンもの」の雰囲気を作っており、とくに根拠はないが、「平井和正あたりもこの作品を読み込んでいたのではないか?」と直感した。

 作品の大まかな流れをメモしておこう。

【第一部】
 幼年編。母の死まで。
 一般に『次郎物語』と言えばここがイメージされることが多いだろう。

【第二部】
 少年編序章。
 尋常小学校〜旧制中学入学まで。

【第三〜四部】
 旧制中学編。
 朝倉先生と白鳥会。

【第五部】
 青年編序章。
 友愛塾と切迫する時局。
 恭一と道江。

 二カ月ほどかけてじっくり通読し、充実した時間を過ごした。
 内容は大方忘れていたが、少年時代に読んで救われ、強い影響を受けていたことをあらためて確認した。
 幼少時から周りの反応を読みすぎ、身を守るために「小細工」に長けていく次郎の姿が刺さる。
 私もまた、「心の葛藤を持て余しつつ、創作や教養を好む小柄な剣道少年」だった。
 そう言えば一年前に描いたマンガにも、無意識のうちにか『次郎物語』ぽさがあらわれている。

 マンガ『抜け忍サバイバー』
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 中学生当時はわがことのように次郎に感情移入するばかりで、背景の「大人の事情」はよくわかっていなかった。
 今回の再読ではその領域が興味深く、たぶん今までで一番よく味わえている。

 時代背景は、維新後一世代を挟んだ二、三世代目と言ったところだろうか。
 次郎の父俊亮は士族の一人息子で、当初は小吏を勤めていた。
 育ちの良い鷹揚な人柄だが、酒好きで飲むと気が大きくなる所があり、おだてられて地元の顔役気取りで喧嘩の仲裁や人助けをやっているうちに、先祖からの財産を失ったらしい。
 俊亮の善良さは中学生時代からわかっているつもりだったが、お坊っちゃん育ちの甘さ、ダメさについては今回はじめて理解できた。
 妻お民の余裕のなさや早逝も、責任の一端は俊亮にあるのだろう。
 それでもなお愛すべき人物であることは間違いなく、読んでいて友情めいたものを感じた。
 次郎の母お民については、昔は「厳しそうな人」という程度にしか思わず、療養に入ってからの人柄の変化はよくわかっていなかった。
 数十年たって親の立場になってみると、比較的裕福な実家から家運の傾いた士族の家に入り、出来た嫁であろう、恥ずかしくない子を育てる母であろうとするあまり必死だったのだなと、気の毒に思う。
 本田家の苦は、つまるところ士族の虚栄への執着で、そうした面は次郎の祖母おことが代表している。
 俊亮はそれを一旦清算する役割を担ったのだろう。
 どのみち時代の流れの中で多くの士族は没落したのであって、俊亮の家の畳み方は、ある意味「ましな部類」ではないかとも思った。

 中学生の頃は全く読み取れていなかったが、本作には様々な形で「士族の身の振り方」が描かれている。
 維新で武士としての禄を失った士族は、官吏や警察、そして教育者等の公職に転身する例が多かったのだろう。
 俊亮のように向いてもいない商売に手を出して失敗する者も多かっただろうけれども、母の実家の正木家のように農業で安定する例もあれば、新しい母お芳の大巻家のように武道や教養を大切に伝える家もある。
 作中に登場する教育者の多くはおそらく士族出身で、江戸期の身分制による教育格差は、維新後も数世代では縮まらなかったということなのだろう。
 私も今は一応育てる側、教える側の立場であるが、作中の人格的な影響力のある先生や親族のようには到底なれそうもない。
 せめて子供たちの知的好奇心を刺激し、それに応え、教養に向かう指導はしたいと思った。

 第一部の母の死までがよく読まれ、何度も映像化されている本作だが、今回の再読では第二部以降の旧制中学での次郎の活躍を興味深く読んだ。
 母の死後、ますます祖母との折り合いが悪くなる半面、兄恭一との信頼は深まる。
そして新しい母のお芳をきっかけに、その実家の大巻の面々と信頼関係を築く。
 中学入学を一度失敗した次郎だが、恭一や大巻家、権田原先生ら、知的な人々との交流が助けとなって翌年合格。
 入学直後、最上級五年生の素行の悪いグループに目を付けられるも、四年の兄恭一やその親友大沢、朝倉先生らとの交流で成長していく。
 その中で、自分の家に馴染めなかった原因である祖母を、自分との素養の相似に気付いて一応受け入れるまでになったのには感動した。
 次郎は本人もよくわかっている通り、恨みの念が強く、時に苛烈にそれを行動に移してしまうところがある。
 どんなに矯め直そうとしても折々牙をむく悪魔的素養との葛藤が、物語の核なのだ。

 今回の再読では、兄恭一の存在の大きさに改めて気づいた。
 兄弟の関係性は様々だが、この兄の知的で偉ぶらない性格もあり、あくまで対等な、次郎の一番の理解者になっていく。
 しかし次郎にとっての兄は、尊敬し、友情を感じながらも、「自分が心底欲しいものを、結局全部持っていく」存在として、いつも意図せず立ちはだかってくる。
 道江との関係にその全てが流れ込んでくることになる。

 第五部の友愛塾編で絶筆になったため、戦中戦後の次郎の動向が描かれることはなく、恭一、道江との関係もそのまま凍結されることになった。
 むかし読んだ時、この続きがないと知って、何とも言えないもどかしさを感じたが、今ならある程度の想像はできる。
 次郎のコメント付きの道江の私信を送られた恭一は、色々途中経過はあろうけれども、最後は次郎の思いについて道江に告げ、選択を道江自身に投げることになるだろう。
 この兄にはそうした論理性と感情の薄さ、意図せぬ残酷さがある。
 しかし、恭一にとっては弟と道江を思いやってのこの行動を、次郎は決して許しはしないだろう。
 そこから先は、想像の範囲を超える。

 この年になると、多くの愛すべき長期作品が絶筆になるのに立ち会ってきて、作品には必ずしも筋立て上の「完結」を求めなくなった。
 私にとっての次郎は、時代と恋情の前に立ち尽くし、静かに思い悩む青年のままが良い。
 それは懐かしのポプラ社文庫版、四〜五部の表紙絵のイメージとも重なる。

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 世界的にもファシズムの足音がひたひたと迫る気配が感じられる本年、『次郎物語』を再読できたことに物思う年末である。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする

2023年12月30日

再び父方、姫路のこと5 「近代」の終わり

 戦後の高度成長期以降、姫路でも維新後の「近代」の名残は徐々に姿を消していった。
 姫路の戦後復興はアクの強い土建屋市長の個性によるところが大きい。
 私の幼児期の記憶で印象に残っている姫路の風景も、戦後の都市計画のものだ。

●名古山霊園
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手柄山
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モノレール
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 盆暮れに集まった私たち兄弟やいとこがよく遊びに行った近所の公園も、いかにも70年代的な凝ったコンクリート遊具があって、団塊ジュニアの多数の子供たちでいつもにぎわっていた。

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 二十世紀初頭に生まれ、80年代には亡くなっていた父方祖父は、まさに「近代とともに生きた」ということになる。
 前回記事で紹介の説教所も近世〜近代の在り方で、戦後の世の中の変化、宗門内の変化とともに、祖父の代で役割を終えたということだろう。
 そして時代の流れはとどまらず、私たち孫世代の見てきた高度経済成長以降の姫路の風景も徐々に姿を消し、上書きされつつある。



 以上、今年夏ごろから断続的に、現時点で描ける父方姫路を覚書にしてきた。

英賀合戦幻想1〜5
戦後姫路小史1〜5
再び父方、姫路のこと1〜5

 その過程で中世末期の「石山合戦」についても資料を渉猟し、認識を深めることができた。
 また時機を見て、石山合戦以前の播州についてもまとめてみたいと思う。
posted by 九郎 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月29日

再び父方、姫路のこと4 説教所

 父方祖父母が生活していたのは御坊から街道沿いに少し離れた所にある、説教所とか道場、教会と呼ばれる古い家屋だった。
 お寺ではなかったが小さいながら鐘もあり、近隣門徒が法事や集会をするための公民館的な役割で、祖父母はその管理をやっていたということだろう。
 今はもう現存せず、写真もあまり残っていないのだが、記憶を頼りに再現してみよう。

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 街道沿いの門から入って通路を経ると多人数が集まれる「おみど」があり、その正面の「内陣」にはそれなりに立派な祭壇があった。

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 内陣を抜けると庫裏にあたる居住スペースがあった。
 元々の部屋に加え、父兄弟の成長とともに建て増された部分があった。
 逆方向の居住スペース側からも見てみよう。
 間取りなどはけっこう再現できているはずだが、なにせ子供の頃の記憶なので屋根の構造などは不確かだ。

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 今考えると、客席・舞台・楽屋を備えた小劇場のような構造だ。
 私たち兄弟やいとこ達孫世代は、盆暮れなどに祖父母宅に集まった折にはよくおみどで遊んだりした。
 朝夕の勤行も物珍しく、けっこう楽しんでいた。

 このブログ最初期の記事にも、その様子は記述している。

 記憶の底

 上掲記事の日付は2006年1月。
 十八年、一巡り半で、大きく周回しながら最初のテーマに戻ってきた(笑)
 ブログ開設当初よりもかなり技量は上がり、認識も広まったが、手持ちの写真等で描けるのは、とりあえずここまで。

(続く)
posted by 九郎 at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月28日

再び父方、姫路のこと3 旧街道

 維新後の近代姫路の陸上交通は、東西の軸の山陽道と、南北の「銀の馬車道」が中心軸になっていた。
 とくに「銀の馬車道」は、姫路のはるか北の生野銀山からスタートし、市川の流れと並行してついたり離れたりしながら南下して姫路城下へ、そこから飾磨街道と合流して姫路の海の玄関口である飾磨港へと至る長大な近代道路だった。
 前回記事で紹介したように、沿道には亀山御坊もあった。
 すぐに播但線も並行して運行するようになるが、その名の通りの荷馬車や、行商の人々の行きかう道で、私の父世代が幼少期を過ごした戦後しばらくまで、その風景は続いていたという。

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 しかし高度成長期を経てモータリゼーションの波が押し寄せると、飾磨街道/銀の馬車道は完全に歴史的役割を終えた。
 昔日の街道風情を伝える町家風の家屋は、城に近づくほど終戦間際の姫路大空襲で焼けてしまっており、残った家屋も徐々に建て替わっていった。
 父方祖父母が生活していた家屋は飾磨街道沿いにあったが、私が子供の頃の70年代にはもう「交通量の少ない二車線舗装道路」になっており、姫路の物流の南北軸の中心は少し西を通る「産業道路」その他に移っていた。

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(続く)
posted by 九郎 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年12月27日

再び父方、姫路のこと2 亀山御坊

 島根出身で子どもの頃から寺のお坊さんに憧れ、若い頃広島で得度、真宗僧侶となった父方祖父は、その後姫路の亀山御坊で「衆徒」「役僧」の一人になったと言う。
 私も幼時から祖父や父に連れられて何度も参拝した。
 立派な門や本堂の大屋根、除夜の鐘でついた鐘楼などが記憶に残っている。

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 この亀山御坊本徳寺が、戦国時代に栄華を誇った英賀御堂の移転したものだ。
 位置関係でいうと以下の図のようになる。

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 元の英賀から東へ水尾川、船場川を越え、姫路の海路の玄関口である飾磨津から少し内陸に入ったところにあるのが亀山の地で、播磨に本願寺の信仰が広まる前は陰陽道と関係が深かったという。
 現在の亀山御坊は西本願寺所属で、東に流れる船場川をさらに姫路城下まで遡ると、東本願寺所属のもう一つの「本徳寺」、船場御坊がある。
 ともに江戸期から播磨一円の門徒の参拝が盛んであった。

 亀山御坊をさらに拡大して絵図にしてみた。

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 亀山御坊には英賀御堂のものがかなり伝わっており、その面影を伝えている箇所も多いだろう。
 本堂や太鼓楼、周囲の築地等は、おそらくかなり近い姿なのではないだろうか。

 西方を拝む配置になっているので東が正面にあたる。
 門を出て東に往時には説教所や門徒の宿泊所があったというが、今はもう無い。
 そのエリアを挟んで飾磨街道/銀の馬車道が南北に通じている。
 絵図の左が南で飾磨港、右が北で姫路城へ至り、戦前までは人や物の動線の中心軸になっていた。
 近代くらいまではまだ参拝者が多く、御坊の背後を走る山陽電鉄はお彼岸などに増便し、人流を捌いたという。
 門前には露店が立ち並び、娯楽の少ない時代にあっては、まさにテーマパークのような雰囲気だったのだろう。

 戦後は法令や組織の改変もあり、徐々に往時の人出は減じていったようだ。
 私の父方祖父母は「間に合った」世代で、御坊の賑わいを通じて縁が繋がり、所帯を持ったと聞く。

 
(続く)
posted by 九郎 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする