2017年04月04日

本をさがして11

 3.11以降、90年代によく読んでいた著者、著作を再び手にとる機会が増えている。
 一つには、2010年代の世相が、90年代にかなり似ているのではないかという、個人的な感覚がある。
 もう一つは、90年代の若者であった私が、かなり背伸びし、つま先立ちで読んでいた本の内容が、ようやく地に足のついた理解レベルに達してきたような気がすることもある。

 90年代当時、私が最も傾倒していた書き手の一人が、「突破者」宮崎学である。
 宮崎学は敗戦直後の昭和20年、京都伏見の解体屋稼業ヤクザの親分の家に生まれた。
 ちょうど私の親の世代に当たる。
 長じて早稲田大学に進学してからは学生運動に身を投じ、共産党のゲバルト部隊を率いる。
 その後、トップ屋などを遍歴し、京都に帰って解体業を継ぐようになる。
 ヤクザでありながら住民運動や組合活動にも手を貸す変わり種であったが、京都はもともと戦前からアウトローと左翼活動家の距離が近い土地柄でもあった。
 著者が世間的に最も注目を集めたのは、グリコ森永事件の最重要参考人「キツネ目の男」として容疑をかけられたことだろう。実際、あの有名な似顔絵は、宮崎学本人をモデルに描かれたという説もある。
  警察との徹底抗戦の結果、アリバイは崩されず逮捕には至らなかったのだが、稼業は大きなダメージを受け、後に倒産。
 バブル当時は地上げなども手掛け、96年、その特異な半生を綴った「突破者」で作家デビューする。


●「突破者〈上下〉―戦後史の陰を駆け抜けた50年」宮崎学(新潮文庫)
 作家は処女作に全てがある、とはよく言われる。
 どれを読んでも面白い宮崎学の場合も、このデビュー作が飛び抜けている面。
 「アウトロー作家」というよりは、本物のアウトローがシノギの一つとして作家活動をしているスタンスがなんとも痛快で、後に多くの著作で展開される問題意識の全てがこの一冊に濃縮されており、宮崎学の著作未読であれば、やはりこの作品からがお勧めだ。

 報道などで無批判に流布される「定説」に対し、アウトローの立場から一時停止をかけ、その根本から実例を挙げて反証していく痛快さが、宮崎学の真骨頂である。
 私は最初の一冊から熱狂的なファンになり、現在までに著作の9割以上は購読しているはずで、当ブログでも、何度か紹介してきた。

 処女作「突破者」は、自伝でありながら血沸き肉躍る活劇だったが、最近作はまた違ったアプローチになってきている。
 出自である伏見の最下層社会に対する視線は限りなく優しく、民俗学の領域とも重なる。
 かなり落ち着いたトーンで、著者の同世代に対しては「まだやれることがあるだろう」と語り、下の世代に対しては「もっと自由に好き勝手をやれ」と呟くような、なんとなく「死に仕度」を思わせる雰囲気があるが、気のせいであってほしい。

 ナニワのマルクス、故・青木雄二との一連の対談本も面白かった。


●「土壇場の経済学」(幻冬舎アウトロー文庫)
●「土壇場の人間学」(幻冬舎アウトロー文庫)
●「カネに勝て! 続・土壇場の経済学」(南風社)

 青木雄二「ナニワ金融道」も、90年代当時よく読んでいた。
 確かバイト先の近所のカレー屋に全巻揃っていて、昼休みになると通って「二倍カレー」を食いながら、読み耽っていた覚えがある。


●「ナニワ金融道」青木雄二(講談社)
 今読むとさすがに描かれる時事風俗には「時代」を感じるが、かえって「90年代のリアルな時代劇」として新しい価値が出てきている感もある。
 保証人と連帯保証人の違い、金の貸し借りが「合法的な奴隷」を作り出すディティール、自己破産という正当な権利、「マルチ商法は、どんな貧乏人でも持っている人間関係を、まるごと換金するシステムである」という洞察など、今の世にこそますます必要とされる「ゼニの真実」が、これでもかというほど詰め込まれている。
 そしてその乾ききったリアリズムの果てに、なお立ち上ってくる「情」や「人間の尊厳」を、しみじみと味わうことのできる、名作中の名作なのである。

●「さすらい」青木雄二
 代表作「ナニ金」完結とともに漫画家を卒業した青木雄二の、数少ない短編作品を集めた一冊。

 90年代を「ナニ金」とともに駆け抜けた青木雄二は、2003年癌で早逝した。
「サクセスしたわしは資本主義の方が都合がええんや。そやけど、搾取されとる庶民のおまえらが気の毒やから、唯物論を教えたっとるんや」
 マンガの筆を折って以降も、そうした主張の著作を数多く世に出していた。
 誇張された「〜でんがな、〜まんがな」という荒っぽい関西弁の中にも優しさが感じられ、目を開かされた人、苦境を救われた人は多くいたのではないだろうか。
 もちろん私も、そんな中の一人だ。

 90年代は、他にも「個性派左翼」とでも呼ぶべき語り手がいっぱいいた。
 仏教者にしてマルクス主義者の「シャカマル主義者」、右手に仏法左手に六法の怪物弁護士、故・遠藤誠の本もよく読んでいた。
 冤罪の疑いが極めて濃厚な帝銀事件の弁護活動や、暴対法違憲訴訟で山口組の代理人を無償で務めたことでも知られていた。
 90年代当時はカルト教団によるテロ事件の折にも「当事者」として発言が注目された時期があった。


●「新右翼との対話―「レコンキスタ」を斬る」遠藤誠(彩流社)
●「オウム事件と日本の宗教―対談 捜査・報道・宗教を問う」遠藤誠 佐藤友之 (三一新書)
●「真の宗教 ニセの宗教―私がマスコミに言わなかったこと」遠藤誠(たま出版)
 今の私は著者の「伝統仏教批判」や「天皇制打倒」などの主張はそのまま首肯することは出来ないけれども、左右を問わず幅広く議論、交流し、あくまで反権力、弱者の側に立って活動する姿勢は、かわらず痛快に感じる。
 
 他にも「はだしのゲン」の中沢啓治や「カムイ伝」の白土三平も、90年代はまだまだ意気軒昂で、それぞれ力作を執筆していた。


●「はだしのゲン自伝」中沢啓治(教育史料出版会)
 70年代の名作「はだしのゲン」は、舞台を広島から東京に移した続編が構想されていた。
 結局それは執筆されないままに、2013年、著者は亡くなった。
 元々「ゲン」は著者の自伝的な要素の強い作品なので、その後の展開をあれこれ想像する材料は、この一冊に込められていると思う。

 
●「カムイ伝 第二部」白土三平(小学館)
 壮絶な一揆の物語と共に終結した「第一部」の後を受け、88年から90年代を通じて断続的に執筆されたのが「第二部」である。
 もちろん私も連載当時必ず読んでいたのだが、正直言うと、内容にはあまりピンと来ていなかった。
 青年ではなくなった「第一部」の主要登場人物たちの心情が、少しずつ身に染みてきたのは、ようやくここ数年のことである。
 今読むと、自信をもってこの「第二部」も傑作であると言えるのだけれども、それはまたいずれ記事をあらためて語りたい。
 
 こうして並べてみると、今の世間的には短絡的な「サヨク」レッテルを貼られ、敬遠されがちな作者たちだが、私にとっては今も感覚的にフィットする大切な語り手であり続けている。
 主張は左翼的でありながら、作者自身は左翼組織とはまったく馴染めない一匹狼気質であり、あくまで地べたを這いずる個人として語り、闘い抜いてきたことも共通していて、そんなところがまた良い。
 弱肉強食、経済格差の広がる今の日本には、「弱きを助け、強きを挫く」という素朴な浪花節、反骨の志が、パワーバランスとしてもっともっと必要だと思うのだ。
(続く)
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2017年04月03日

おりがみ origami 兜まとめ(2017最新版)

 当ブログでは毎年、年始あたりからおりがみ雛人形、三月頃から「おりがみ 兜」の検索結果から訪問される皆さんが増えてきます。
 ブログ本来のテーマ「神仏与太話」より、おりがみ等の工作作品の記事の方が人気があるのは少々フクザツな気分ですが、アクセスがあることを素直に喜んでおきましょう(笑)

 そろそろ五月人形の時期が近づいてきましたので、おりがみ兜のまとめ記事を再掲しておきます。

おりがみ兜
おりがみ兜の色々

おりがみ兜の色々2
 ↑この記事には、ネットで公開されているリアルな兜の折り方を紹介しています。
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おりがみ兜の色々3
 ↑この記事にも、ネットで公開されている兜の折り方を紹介しています。
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おりがみ兜の色々4
おりがみ兜の色々5
おりがみ兜の色々6
八咫烏の兜

 現時点でのお勧めは、2010年に紹介した前川淳さんの「飾り兜」になるでしょうか。

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●「本格折り紙―入門から上級まで」前川淳(日貿出版社)

 織田信長を苦しめた鉄砲集団雑賀衆が着用した雑賀鉢をテーマにした作品もあります。
おりがみ雑賀鉢(完結編)

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 上杉謙信が使用したと伝えられる異形の兜はこちら。
 おりがみ「三宝荒神形張懸兜」

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 森蘭丸所用(?)の六字名号兜はこちら

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 謙信と蘭丸のネタ元になった鎧兜は、様々なムック本でも紹介されていますが、来歴にはかなり疑問があるようですね。
 一応そのあたりも留意しつつ、お楽しみください。

 去年の大河ネタ、真田幸村の兜はこちら

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 おりがみだけでなく、プラスチックの植木鉢を使った鎧兜の工作記事もあります。

 雛形工作:プラ鉢鎧兜
 プラ鉢鎧兜 制作覚書

 参考図書もご紹介。


●「戦国武将の時代折り紙」浜田勇(日貿出版社)
 有名どころの戦国武将の兜が、わりとリアルな最限度で網羅されています。難易度はやや高めか。
 兜だけでなく、「家紋と付き物」「雅な器」などの周辺の装飾品も充実しているので、紙を選んで揃えると、かなり豪華なセットにできそうです。

 ぜひ参照してみてくださいね!
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2017年04月02日

反骨のカーリー 川口真由美さんのこと

 このところ、川口真由美さんのCDをヘビーローテーションで聴き込んでいる。
 彼女のことを知ったのは、去年の関西反原発デモでのことだった。
 会場に着いた私は、特設ステージを観たり、手持ちの手作りギターで発声練習などをしながら、デモまでの時間をつぶしていた。

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 のどが乾いてドリンクを物色しに周辺のテントをまわっていたら、私のもっていた100均ボックスギターに目を止めた女性が声をかけてくださった。
 さっきまでステージで歌っていた川口真由美さんだった。
 生で歌を聴いたのははじめてだったのだが、私好みの放浪芸的な曲もあって、生き方として歌う必然性のある人は、やっぱりパワーが違うなと思っていた。
 しばらくお話しさせてもらったり歌ったりして、とても楽しかった。
 最近はデモのコールがラップのスタイルになることが多くなってきているのだけれど、川口さんのプロテストソングスタイルもやっぱり良いのである。

 川口真由美さんは、ステージやCDももちろん素晴らしいけれども、辻説法のような「現場」が最も相応しい、凄みのある歌い手である。
 Youtube等でその活躍の多くを見ることができるが、デモや座り込みの現場で聴くのが、たぶん一番心に沁みるのである。



 暴虐の「現場」での川口さんは、ときに荒ぶるカーリーのごとく怒り、歯噛みしながら絶唱する。
 今私が聴いているCDは静かな曲調が多いけれども、そこには不屈の反骨が秘められている。
 わがニッポンには、このような「反骨の絶対量」が、まだまだ足りないのだ。

 CDの中で、個人的には「コンドルは飛んでいく」の替え歌、「声は海を渡る」が好きになった。
 100均ボックスギターで自分でもちょっと歌ってみたりしながら、またデモ等で声が聴ける日が来ることを、楽しみにしているのである。

 川口真由美さんのCDは、以下のサイトで通販されている。
●「想い 続ける 沖縄・平和を歌う」
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2017年04月01日

2017年、年度初めの体調管理

 毎月書いてる気がするが、もう四月?!

 まあ、今年に入ってから記事投稿だけはいい感じで続けられている。
 実はここ二十年の「総括」が出来つつあったりして。。。
 気候の変化やストレスなど、身体を壊しやすい時期に差し掛かるので、ほど良く手を抜き、睡眠時間はちゃんと取りながら、今月も行ってみよう。

 3月中は少々花粉の症状が出た。
 さほど酷くはなかったが、気にしだすとストレスになるので、ビタミンC摂取で乗り切った。
 花粉の飛散量の減少と共に、そろそろ症状も出なくなってきた。
 これからは徐々にVCの摂取量を減らし、通常仕様に戻していこう。

 例年で言うと、この時期に注意すべきは「腰」だ。
 とくに朝起きぬけに厳重注意。

 胃腸炎の方は、10か月前の手術以来、発症せずに済んでいる。
 下手に胃腸炎を起こすと、また変な腹圧がかかってヘルニアが再発しかねないので、こちらも養生、養生。

 そろそろヤマザクラでも眺めに行くか。。。
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2017年03月31日

本をさがして10

 1995年、カルト教団によるテロ事件が起こった後、その「解釈」を巡っては、いくつかの方向性があったのではないかと思う。
 一つには、まず何よりも「宗教」の起こした事件として論じる方向があり、「いやあれは宗教ではない」という反論も含め、「宗教とテロ」や「宗教と国家」というテーマが、あらためて持ち上がっていた。
 もう一つは、「国家転覆を企図する閉鎖的な集団が起こした事件」という点から、連合赤軍事件等の「政治案件」と比較しての論点があり、確かに教団信者の年齢層の上限あたりは、そうした事件の世代とも重なっていた。
 おそらく治安当局や報道の主力世代は、そうしたケースを念頭に置きながら、ことにあたっていたのではないかと思う。
 そしてもう一つ忘れてはならないのが、「サブカルチャー」という文脈からの言説だった。
 かの教団の、とくに三十代あたりの幹部信者の多くは、マンガやアニメで育った世代で、教団刊行物や宣伝手法、使用されている用語等に、明らかにその影響が見て取れた。
 当時のサブカルチャー界隈で活躍していた作家やライターの多くが教団幹部と同世代であり、直接の知り合いであったケースも多数あったようで、一時騒然とした雰囲気だったと記憶している。
 同世代的な視点から事件を論じたものには、たとえば以下のような本があった。


●「ジ・オウム―サブカルチャーとオウム真理教」(太田出版)
●「オウムという悪夢―同世代が語るオウム真理教論」(別冊宝島)

 事件当時私は二十代で、かの教団信者の年齢層の下限あたりに引っかかっていた。
 周囲で色々取り沙汰される噂話も含めると、どうやら「知り合いの知り合い」くらいの距離感で何人か信者がいるらしいことがわかった。
 人脈的に意外に近い。
 興味の分野もかなり近い。
 しかし、強い違和感はある。
 当時は「何がどう同じで、何がどう違うのか」を中々言葉にできず、もどかしさを感じていたので、こうした自分より一世代上のサブカルチャーの担い手たちの言葉を、貪るように読んでいた。
 
 教団幹部と同世代が事件を論ずると、どうしても話者の「自分語り」の部分が出てくる。
 教団に身を投じた者たちと、生まれ育ってきた時代背景の共通する、身を投じなかった自分自身の生い立ちからふり返る。
 自分の心の奥底にもある「ハルマゲドン」と切り結ぶ。
 そんな試みの中で、私が繰り返し読んだのは、上掲の二冊や以下の本だった。


●「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)
●「篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」竹熊健太郎(河出文庫)
 事件直後に書かれた自伝的作品と、それ以降のインタビュー集である。
 事件そのものを扱った一冊目に対し、二冊目は一部触れるにとどまっているけれども、どこかでつながった仕事であると感じるのである。

 サブカルチャーの中から、教団を論ずるだけでなく、直接対決にまで至ったケースもあった。
 90年代当時、週刊SPA!誌上で最も勢いのあった連載作品「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりである。
 連載開始当初は「ギャグマンガ家が独自の視点から世間に物申す」というスタイルだったのが、次第にエンジンがかかって部落差別や菊タブー、薬害事件等のシリアスなテーマを扱い、時には最前線に立つ「社会派マンガ」として成長していく。
 そんな流れの中でかのカルト教団の話題も出るようになり、ついには教団から刺客を送られ、VXガスで暗殺されかける事態に至るのである。
 事件当時の掲載誌はこの作品と共に、鈴木邦男や宅八郎の記事も同時に連載されていて、「事件を報じる」というよりは「誌上でも局地戦が起こっている」というような雰囲気になっていたと記憶している。
 マンガと現実が交錯し、サブカルチャーが現実の「リアクション」であることを逸脱する、非常に刺激的な作品で、現在でも掲載誌をかえながら語り続けられている。
 現在の私は「ゴーマニズム宣言」の全ての主張には必ずしも同意出来なくなっているけれども、小林よしのりという語り手の「作家的良心」には、変わらず信頼を置いている。
 何かあった時、「小林よしのりはどう考えているのだろう?」と気になる存在であり続けているのだ。
 90年代の作品で好きなのは、薬害事件を扱った以下の本。


●「新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論」小林よしのり(幻冬舎)
 この作品以降、「ゴー宣」と小林よしのりは別次元に突入したと感じられる一冊である。
 その変化には賛否が分かれると思うが、少なくともこの作品は、今も一読の価値があると信ずる。
 カルト教団を直接扱ってはいないが、内容的には通底していると感じる。
 
 テロ事件当時、週刊SPA!とともに切り込んだ記事を掲載していたのが「週刊プレイボーイ」だった。
 中でも藤原新也の「世紀末航海録」が凄かった。
 連載の中で、かの教祖の生い立ちに関わる、ある「想念」が語られたことがあった。
 この「想念」が今後どのように展開していくのかと息を潜めて読んでいたのだが、ついに連載内では続きが語られることはなかった。
 やや唐突な話題の切り上げ、転換が行われ、何らかの圧力が働いたのかとも思わせるものがあった。
 そうした経緯も含め、全てが語られる「完結編」ともいえるのが、2000年代に入ってから刊行された以下の本である。


●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)
 私が知る限り、「教祖の闇」に最も切り込んだのはこの一冊ではないかと感じているのである。

 90年代の私は、事件はやはり「宗教」にカテゴライズされるべきだろうと考えていた。
 サブカルチャーの文脈ももちろん含まれるだろうけれども、サブカルではハルマゲドンは起こせまいと思っていた。
 今は少し違っていて、「宗教のサブカル化」こそが事件の引き金になったのではないかと考え始めている。
 このことはまた、記事を改めて。
(続く)
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする