2017年12月26日

青春ハルマゲドン8

 率直に言って、少年時代の私にはカルト、とくに終末カルトにハマる素養はあったと思う。
 今までハマらずに済んできた理由としては、「そのような縁が無かった」という偶然の要素が、たぶん一番大きい。
 90年代にテロ事件を起こしたかの教団の信者と私の間には、さほど大きな距離は無い。
 若者がカルト的な集団に最もハマりやすいタイミングとしては、親元から半ば自立しながら、いまだ社会的な経験に乏しい学生時代、それも新たな交友関係がまだ出来ていない入学直後あたりが、一つのピークではないだろうか。
 学生サークルの新歓時期には、宗教や自己啓発の団体が当り障りのないよう偽装したサークルの勧誘も、非常に活発になる。
 私が恵まれていたとすれば、大学入学以前にそうしたカルト的なモノに対する「嗅覚」、「免疫」が出来ていたということだと思う。

 小学生の頃、駄菓子屋や縁日の店先、学校の前に物を売りに来るおっさんを相手に、ちょっとインチキの入った商売で騙されたり見破ったりの、「小遣い争奪バトル」を繰り広げた日々。

「当てもん」の達人

 TVのオカルト番組をドキドキして視ながらも、あちこちおかしなところを「あら探し」していた日々。

 黒い本棚

 本章でも紹介してきた通り、カルト教団めいた超スパルタ受験校で、中高六年間を劣等生としてサバイバルし、批判精神が養われたこと。
 そして何より、70〜80年代サブカルチャーを存分に享受し、オカルトやフィクションに対する目利きがかなり鍛えられていたことが挙げられる。

 こうして書き出してみると、どれも褒められた要素ではない。
 つまるところ子供の頃の私は遊び呆けたクソガキで、中高生の頃もその延長で遊び続けていただけだったのだ。
 一般的な若者のレジャーはすっぽり抜け落ちていたが、その分、絵や文章、造形などの「創作」に充てる時間が大きかった。
 積極的に「勉強」はしなかったが、この「創作」が間接的に受験にも役立って、なんとか進路をでっち上げることができたのだろう。
 虚構と現実、オリジナルと引用、パクリ、フェイクの関係についても、自分なりにかなり認識を深めていたはずだ。
 かの教祖名義の本に目を通してみて、直観的に「フェイクだ」と判別できたのは幸運だった。
 教祖本人についても、80年代の「ムー」時代からメディア越しに眺めた限りでは、子供の頃バトルを繰り広げた「子供だまし」のおっさん達と、等質のものを嗅ぎ取っていた。
 直接対面してみればそれなりに「迫力」があり、ある種の「霊力」も持つ宗教者としての一面はあったのだろう。
 同時に、自分を何層倍にも見せるペテン師の能力も高かったのだろう。
 純粋に宗教者だけ、純粋にペテン師だけなら、自らも破滅させる無差別テロまでは突き進まなかったはずで、そこに教祖の謎と闇がある。

 教祖の「闇」については、以下の書籍をお勧めしたい。


●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)
●「A3 (上)(下)」森達也(集英社文庫)

 90年代初頭には、新興宗教の教祖の内面を真正面から描いた、空前絶後の週刊連載マンガもあった。



●「祝福王」全四巻 たかもちげん(講談社文庫)
 そんじょそこらの「現実」には到達できない、「虚構の中の真実」がここにはある。
 教祖というものに興味を持つなら、せめてこの水準の物語に触れておくべきだ。
 優れた虚構で鍛えられた審美眼は、紛い物の現実を駆逐する。

 終末カルトに対する批評眼という意味では、当時の私が最も影響を受けていたのが、SF作家平井和正だった。
 この稀有な作家については、これまでにも繰り返し記事にしてきた。

 80年代「終末後」のサブカル

 数ある平井作品の中でも毀誉褒貶が激しいのが「幻魔大戦シリーズ」、とくに角川小説版だ。
 (現在この文庫本で全に十巻の「禁断の書」は、kindle合本で刊行されている)



 派手な超能力アクション小説が突然、カルト教団の動向を描く展開にシフトしたのだから、これは仕方がない。
 著者が一時期、あるカリスマに傾倒していたことは知られていたので、「宗教にかぶれた変節作家」というレッテルも貼られがちだった。
 しかし事実関係を確認すると、平井和正は「教団」に入信したことは一度もなく、九か月間ほど「あるカリスマ」と対話を続け、著書のゴーストライターをつとめた後、「決別」したということだ。
 80年代にハイペースで幻魔大戦シリーズを執筆していた時期は「決別後」にあたり、むしろカリスマ的指導者やカルト教団の危険性を、強く警告する内容になっている。
 当初は「現代に現れる真の救世主」を、まともに描くことを企図していたようだが、ベストセラー小説の中で「それ」をやってしまうことの危険に、途中で気付いてしまったのかもしれない。
 危機的な世相を背景に、大衆が強いカリスマ、強いヒーロー、救世主を求める心理自体が、独裁者や偽救世主を呼び寄せる。
 そうした「終末感」は、サブカルチャーによって強く増幅され、実際にハルマゲドンを誘発しかねない。
 平井和正は作家的な潜在意識を「言霊」と表現するが、少なくとも幻魔大戦の言霊は、物語を「救世主ストーリー」として描くことにブレーキをかけた。
 主要なシリーズ2本とも、物語の半ばで「救世主」と目された主人公が失踪し、そのまま戻ってこなかったのだ(!)

――救世主を求める者は滅ぶ

 そんな暗示を残して80年代の幻魔大戦は終結し、まるで作中のカルト教団が現実化したような事件の勃発する90年代へと、日本は突入していったのだった。

 90年代の平井和正

 80年代半ば以降、私は平井作品をほぼリアルタイムで追うようになったのだが、その頃はちょうど、平井和正の作風の移行期にあったと思う。


●85〜86年「黄金の少女」(全五巻)
●88〜92年「地球樹の女神」(全14巻)
●93〜95年「犬神明」(全十巻)

 これらの作品に共通しているのが、以下の暗示だった。
――ハルマゲドンはまず青年の内面に起こる
 青年の心の中で起こる「ハルマゲドン局地戦」を、「異界」と組み合わせて語るスタイルは、以後の平井作品でも繰り返され、深化していった。

 90年代初頭の私の学生時代は、ちょうど「地球樹の女神」が完結に向かう時期と重なった。
 何度か紹介した「お山」に登るようになったのは、この作品の影響だ。
 その経験からいくつかの絵と文章のインスピレーションを持ち帰り、卒業と前後するタイミングで、当時としては「完全燃焼」の作品に仕上げることができた。
 少年期の私の中にはカルト志向が存在したし、心の片隅ではハルマゲドンを待望する病んだ部分があった。

 幼い頃の傷や、カルト教団じみた環境にあった中高生の頃の感情を、一旦吐き出す。
 それも「破滅」や「死」で終わらない形できれいに完成させる。

 未熟な若書きがら、自ら課したそれだけのミッションを完遂することで、私は自分の「青春ハルマゲドン」を一旦終結させることができた。
 そのプロセスを終えた後に、震災とカルトの年である95年を迎えられたことは、非常に幸運だったと思う。
(次回、最終回)
posted by 九郎 at 01:00| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年12月21日

青春ハルマゲドン7

 私の大学生時代は、90年代初頭とほぼ重なる。
 その頃まだインターネットは存在せず、ケータイも一般化していなかった。
 固定電話、フィルムカメラ、ビデオテープ、紙媒体中心のアナログ時代最終盤にあたり、ようやくレコードがCDに切り替わったくらいのタイミングだったので、学生の生活風景は80年代とさほど変わりなかっただろう。
 既にバブルは崩壊していたが、まだまだ日本経済には余裕があり、合コンやダンスパーティー、レジャーを謳歌する学生も多かった。
 私はと言えば、そうした種類の「遊び」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。
 遊ぶにしてもそれなりの素養は必要で、中高生の頃からレジャーに親しんでいないと、スムーズに大学デビューとはいかないものだ。
 私のようにカルト受験校出身で、勉強以外ではサブカルや造形くらいしか知らない田舎モンは、合コンの何が楽しいのか全然わからなかったりして完全に出遅れる。
 受験校出身とは言え、あくまで私は「斜めにかわした」フェイクだったが、このあたりの感覚はあまり遊ばず真面目に勉強してきた地方出身学生とも共通していたと思う。
 勉強漬けからいきなり解放された学生は、「遊び」に馴染めず一人ぼそぼそ昼飯を食うとか、免疫が無くて逆に「遊び」に溺れ、勉強が手につかなくなるとか、そんなケースも多かったことだろう。
 一時的にそうなっても、最終的に娑婆に着地できるなら、特に問題はない。

 いわゆる「遊び」には馴染めなかった私だが、しっかり勉強していたのかと言えば、もちろんそうではなかった。
 別種の「遊び」、中高生の頃から引き続き、サブカル漬けであった。
 一回生の頃から文芸系サークルや演劇サークルに出入りし、同人誌を作ったり、8mm映像で遊んだり、舞台美術や宣伝美術にいそしんでいた。
 専門に上がってからは美術の実習が増え、そちらは大いに意欲を持てたので、授業はけっこう真面目に出ていた。
 単位数こそ必要最低限だったが、評価自体はけっこう良かったはずだ。
 当時私が出入りしていた学科、サークルともに、先輩や同級生が多士済々で、拙いながら「創作」の楽しみを存分に味わっていた。
 合コンは苦手だったが、創作系サークルの飲み会で「語る」のは大好きだった。
 周囲に恵まれ過ぎたといっても良いかもしれない。
 大いに刺激を受け、いっぱいモノを創り、貪るように本を読んだ。
 折しも、日本の出版文化がピークに向かう時期だった。
 毎日のように通う書店のお目当ての本棚には、宗教のコーナーも含まれていた。

 80年代後半から90年代初頭にかけては、いわゆる「新新宗教」に勢いがあった頃で、著名人の「霊言」で有名になった教団や、数年後にテロ事件を起こすことになる教団が、活発に本を出していた時期にあたる。
 両教団の出版物は、ともに一般書店の一画を占めるようになっていたが、学生当時の私はパラパラめくってみてすぐに「これはフェイクだ」と判別した。
 どちらも内容や世界観にオリジナリティが乏しく、80年代オカルトサブカルチャーを下敷きにしているのが明らかだった。

 80年代オカルトサブカルのネタ元

 とくに「霊言教団」の方は、私の目には「丸パクリ」のレベルに見え、論外だった。
 後のテロ教団の方も、教祖名義の本にいくつか「元ネタ」があるのは分かったし、そもそも私はかの教祖がまだ教祖になる前、80年代に雑誌「ムー」の読者投稿欄に登場した頃から誌上で見知っていた。
 宗教というより、オカルトサブカルチャー畑の人間だと認識していたのだが、いつの間にか教祖になり、記事ではなく教団の広告ページに登場するようになってしまい、その時点で興ざめしていた。
 何らかの修行体験はあったのだろうけれども、それをまとめた教義、書籍が「サブカルとして楽しめる」レベルに達していなかった。
 オカルト界隈では、よく「水準に達していないフィクションを実録と称して売る」ケースが見られるが、そんな中の一つに見えたのだ。
 そうしたケースは、書籍販売やタレント活動など「薄く広く」利益を集める範囲においてはさほど罪はなく、許容範囲かもしれない。
 しかし、かの教祖・教団の場合は、90年代には既に高額なセミナーを開催したり、財産をお布施した上での出家制度を作ったりという危険領域まで足を踏み入れていた。
 実はこの頃から殺人等の十代犯罪に手を染めていたことも後に明らかになるのだが、そうした実情に触れるまでもなく、私にとってはチラ見した本の内容だけで十分「アウト!」だった。

 今の時点で振り返ってみるなら、かの教祖・教団について「おそらくこうだったのではないか」と想像をめぐらすことも、いくらかはできる。
 とくに信者側については、同じ時代風景を見てきた「同世代」であったし、感性においてもかなり共通するものはあったと、あらためて認めざるを得ない。

 それは、幼少の頃から「人為的な終末」が現実的な可能性として存在した世代である。
 それは、サブカルチャーとしての「終末ブーム」を、存分に浴びて育った世代である。
 それは、訓練を積んでステージをクリアーすると、経験値が数値化される世界観に馴染んだ、コンピューターゲーム第一世代である。
 それは、厳しい受験競争を強いられながら、同時に消費行動を煽られ続けた世代である。

 幼少の頃から数年刻みで設定された「修行」のステージを、与えられるままに次々にクリアーしていけば、いつか「夢の未来」に辿り着けるはずだった。
 だからこそ、世に溢れる物質的な快楽に背を向けて、懸命に修行に励むことができた。
 破滅に瀕したこの世界に対して、ステージを上げた未来の自分には活躍の場が与えられ、何かが出来るはずだった。
 ところが、そうした修行のプロセスの完成間近になって、自分の進んできた道にふと疑問が兆したとしたら、どうか。
 現実世界はそんなにシンプルには出来ていないと気付いてしまったとしたら……

 ここで、直接面識は無いけれども私の高校の先輩にあたり、事件に関与してしまった人の軌跡に、簡単ではあるけれども触れておきたい。

 86年、受験エリートとして大学入学、同時期に後の教祖の著作を手に取り、感銘を受ける。
 同年、教団の前身であるヨガサークルに入会。
 サークルが教団化した後も在家のまま大学で学び、博士課程まで進んだ92年、教祖に促されて突然出家。
 以後、教団の犯罪行為に関与することになる。

 私の想像が、先輩のケースとどの程度適合しているかはわからないけれども、やはり「痛ましい」と感じてしまうのである。

【参考文献】

●「さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生」伊東乾(集英社文庫)


 教祖側については、想像できることはずっと少ない。
 世代が違うし、生い立ちの過酷さは想像を絶する。
 ただ、私は元弱視児童として、そして、しょせん「本物」には成れぬフェイクの自覚を持つものとして、かの教祖に幾ばくかの感情移入はある。

 青年期までの来歴だけを見るならば、生家の経済的困窮や身体的なハンデにも関わらず、懸命に生き抜いてきた人だとは思う。
 講道館の二段を取り、鍼灸の技量を身に付けていたことから、身体的な修行に関する素養を持っていたのは明らかだ。
 苦労の中で練り上げられた洞察力や対人スキルは、かなり高かったのだろう。
 年少者に対し「指導」できる人間的な厚みが、全く無かったとは言わない。
 地道に鍼灸院を続けていたなら、あるいはヨガサークルの指導者で満足していたなら、自分も家族も周囲も、全部幸せに出来ていたのではないかと思う、

 教祖名Aと、等身大である本名Mの間の乖離に、かの教団の「闇」が垣間見える。
 なぜ、そこまでして演じなければならなかったのか?
 破滅に瀕した物質文明の迷える若者たちに対し、「魂の進化」というステージアップゲーム、巧妙な疑似餌を投げ与えたのは、果たして偶然か、必然か。
 信者の数が増えるほどに、教祖側の演技過剰と、信者側の期待の圧力、そして忖度による教団組織の自走は加速していっただろう。
 そして教祖名Aを、どうにかこうにか演じていた本名Mの、精神的・肉体的負担が限界に達し、背負いきれなくなったとき……

 いま想像できるのは、ここまでだ。
(続く)
posted by 九郎 at 17:56| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年12月18日

青春ハルマゲドン6

 学校や塾や参考書出版なども含め、広く「受験界」には、今でも結構カルト的、またオカルト的要素が見られる。
 私が中高生の時期を過ごした80年代は、学歴信仰がかなり強く残っており、受験生の数自体も多い「受験戦争」の時代だった。
 受験というものは、決まった年限がくれば必ず訪れ、その勝敗が必ず判明する。
 これは、受験生本人にとっては一種の「ハルマゲドン」で、受験勉強が過酷であればあるほど、その価値を過大に評価すればするほど、カルト、オカルトの蔓延る土壌はあったのだ。

 振り返ってみれば、当時の我が母校はまさにそうした「終末カルト」的な条件を備えていたと感じる。
 時代背景から来る学歴信仰、受験競争の激化に対応し、現生利益として「進学実績」を歌っていた。
 入学した生徒に対しては、その生活全てを「受験勉強」に傾注することを要求し、暴力によって強制した。
 難関大学入学というバラ色の未来に向かうため、あらゆる無理難題は正当化され、異論反論は一切許されなかった。
 全校集会の類では、常に「おまえたちは真のエリート校には入れなかった生徒である」「寸暇を惜しんで勉強する以外、難関大学入学の道はない」「いくら時代が変わろうと、本校の教育方針は未来永劫一切変わらない」等という訓戒が繰り返し刷り込まれた。
 生徒は真夏の炎天下であろうと、寒風吹きすさぶ真冬であろうと、直立不動でそれを拝聴しなければならなかった。
 私立だったので「嫌ならやめろ」「ついて来れないならやめろ」という理屈の下、入学時の人数の一割以上がまともに卒業できなかった。

 私たちが在学時や卒業後に「よく似ている」と感じた集団は、たとえばマンガ「魁!!男塾」であり、北朝鮮の軍隊であり、カルト教団の信者の生活であった。
 そしてマンガ「はだしのゲン」に描かれる戦時体制にもよく似ており、これは今となっては私の持ちネタでもあるのだが、わざわざ戦前の教科書を復刻して使っている教科すらあった。
 似ているものは全て、絵に描いたような「カルト集団」である。
 2010年代の今現在の価値観で見れば、「そんな酷い学校はさっさとやめるべきだ」とか「傷害で訴えるべきだ」と思う人は多いだろう。
 しかし、そうした集団の「内部」にあっては、常識的な判断が下せない心理状態に囲い込まれてしまうのだ。
 ごく普通の中高生にとって、学校生活というものは、自分の「全て」に等しい。
 ましてや我が母校のような極端なスパルタ受験校では、「学校をやめる」とか「留年する」という事態は、ほとんど「この世の終り」と等価に感じられるものだ。
 実際はそんなことはなく、思い切って学校を移ってうまく行った生徒は多かったし、長期的に見れば一年や二年の留年、浪人など、人生において何のマイナスにもならず、貴重な経験になることすらある。
 そうした多様な価値観をシャットアウトし、内部の価値基準を暴力的に強制するところがカルトのカルトたる所以だ。
 生徒は体罰の肉体的な恐怖と、ドロップアウトの心理的恐怖に、完全なコントロール下にあった。
 何かあっても「全部自分が悪い」と思わされていたのだ。

 もちろんそんな厳しい学校にも、普通に楽しい授業や行事、友人たちとの日常は、たくさんあった。
 私は学校内では劣等生の部類だったので「苦しさ」の面を強く感じたが、大量の宿題を疑問なくこなせるタイプの優等生諸君は、理不尽を感じることは少なかっただろう。
 むしろ、勉強に集中できる良好な環境だと思っていたかもしれない。

 私は違った。
 とくに高等部に入ってからは校風にあえて逆らうように「一人美術部」として活動し、勉強の方は留年しないぎりぎりのラインを攻めるようになった。
 私が在学していた頃はまだ「成績別クラス編成」が残っていて、もちろん私はずっと下位クラスで過ごした。
 下位クラスには学業こそ不振であるけれども、それぞれに個性的なメンバーが揃っていて、その様はマンガ「おれは鉄兵」の「東大寺学園戊組」を思わせた。
 中でも卓越したセンスを感じさせた友人たちは、その個性に促されるように、次々と学校を去っていった。
 私はと言えば、そうした「学校を横にはみ出した」友人たちほどのセンスも思い切りもなく、かと言って「学校の方針に真っ直ぐ従う」適性もなかった。
 直進できず、別の道を選ぶ器量もない私にできるのは、「斜めにかわす」ことだけだった。
 高二の冬ごろから教育学部系の美術志望に切り替えた顛末は、以前記事にしたことがある。

 デッサンと見取り稽古

 自分の数少ない手札から逆算し、針の穴を通すように「そこしかない」という進路を選んだことは、我ながら上出来だったと思う。
 子供時代から存分にサブカルを享受し、「はだしのゲン」や「おれは鉄兵」を愛読するしぶといクソガキであったことが、最後の最後で私を「受験ハルマゲドン」からサバイバルさせた。
 そしてそのまま持てる武器は全部抱えて、90年代の学生生活に突入していったのだ。

 一方で、私のような半端なフェイクではなく、我が母校で課される苛烈な「修行」を、真正面から突破した秀才も多数いた。
 80年代の大人は、濃淡の差はあれ、総じて以下のような要求をその子弟に強いていた。

「将来のため、中高生のうちは余計なことは考えず必死で勉強しろ! 無事大学に入ってから存分に遊べ!」

 考えてみれば我が母校は、非常に極端な形ではあるけれども、そうした80年代的な大人の要求を体現していたのかもしれない。
 そして後に報道で名の挙がることになった先輩は、そんな中でも修行を完璧にこなした、最高傑作の一人だったのではないだろうか。

 90年代半ばの事件報道に接し、私が感じた「痛ましさ」の一端は、理解してもらえるのではないかと思う。
(続く)
posted by 九郎 at 18:56| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

青春ハルマゲドン5

 90年代半ばの、カルト教団による無差別テロ。
 事件後しばらく経ってから、私の高校の先輩にあたる人の名が、報道で流れるようになった。
 学年が離れているので直接の面識は無かったが、確かに見覚えのある名だった。
 中堅とは言え受験校、むしろ中堅であるからこそ進学実績にはこだわりが強かった我が母校では、毎年の大学進学結果は校内にデカデカと貼り出されており、上位者ともなると、その名を学校内で知らない者はなかった。
 件の先輩は、その中でもトップ中のトップだったのだ。
 もっと後になると、卒業生でかの教団に入信した人が他にもいることが分かってくるのだが、当時は「事件に関与した高学歴の若者」の中の一人として、その先輩の名がよく報道されていた。
 そのニュースに接し、私が反射的に感じたのは、何とも言えぬ「痛ましさ」だった。
 ああ、この人は、与えられた修行をひたすらに「やり抜いてしまった」のではないか?
 無理に言葉にするなら、そんな思いだった。
 しかし、これだけでは言葉が全く足りない。
 より適切に当時の私が感じた「痛ましさ」を伝えるためには、今しばらく中高生の頃のことを振り返る必要がある。

 そもそも私が私立の中高一貫校を受験したことには、さしたる理由はなかった。
 中学受験をパスすれば高校受験がなくなるそうだと聞き、小学生の判断として「そっちの方が楽そう!」と安易に考えた覚えがある。
 それまでの私は、日々遊び暮らしていたプラモ少年で、勉強は決して苦手ではなかったが、飛び抜けて優秀というほどでもなかった。
 小五の最後あたりから約一年間の受験勉強だったので、期間としては短く済ませた方だったと思う。

 中学受験対策にもっと長く何年もかける家庭は多いが、個人的には小学生時代からあまり長く詰め込むと、その後の伸びしろが無くなりやすいと思う。
 小学生だと発達段階にかなりバラつきがあるので、受験勉強の学習効果は、本人のタイプによるところが大きい。
 中学受験に向かなくても、その後大きく伸びる子供はいっぱいいる。
 一応合格したものの、その後伸び悩んで脱落という子もまた多いので、「中学受験合格=優秀」というわけでは全くない。
 それぞれのタイプや発達段階により、大雑把に「私立向き」「公立向き」という傾向があるに過ぎず、両者の間に優劣はない。
 これは、自分が中高生の頃や、その後、塾講師や家庭教師の経験をかなり積んできた上での実感である。

 のんびりした動機で、たまたま中学受験の適性があり、一年間集中して勉強したら合格してしまった――
 私のケースはそんな感じで、案の定、入学後に苦労することになった(苦笑)
 私が迷い込んでしまった学校は、自然環境が非常に豊かで、古式ゆかしきバンカラ気風が残っており、中学入学組は浮世離れした環境で思春期の六年間を過ごせる良さがあった。
 その反面、前回記事でも紹介し通り、80年代当時ですら時代錯誤の、体罰上等の超スパルタ指導という「暗黒面」もあった。
 私はその美点と欠点のどちらも、存分に浴びながら中高生時代を過ごした。

 厳しい受験校に入って以降も、私には一向に「がんばって勉強していい大学に入ろう」などという意欲は持てなかった。
 空前のガンプラブームを小学生時代に経験し、筋金入りのプラモ少年だった私は、中学生になっても相変わらずマンガや小説やリアルロボットアニメやプラモやオカルト等のサブカルチャーにうつつを抜かしていた。
 その合間合間に片手間で勉強するような体たらくでは、成績が低迷するのは当たり前だった。
 熱心に読書したり絵を描いたりものを作ったりするばかりでは、毎日大量に出される宿題をする時間などとれるはずもなかった。
 宿題が出来ていない状態で学校に行けば、そこには厳しい体罰が待っている。
 それを回避するためにできることはただ一つしかない。
 友人に宿題を書き写させてもらうのだ。
(良い子は決してマネしないように!)
 さすがに受験校なので、クラスに何人かはびっくりするほど優秀で、しかも慈悲深い生徒がいた。
 毎日大量に出される宿題をきちんとこなし、友人に見せてやることまで想定して早めに登校したりする、まさに「菩薩」のような生徒である。
 そういう生徒のノートがまた素晴らしい。
 整った字で読み易く、内容も完璧だったりするのだ。
 当時はコンビニの10円コピーが出始めの頃で、定期試験前にはそうした生徒の名を冠した「○○ノート」の類が飛び交っていたものだ。
(人伝ての情報では、後にテロ事件で名前の挙がることになる先輩も、そうした優秀で慈悲深い「菩薩タイプ」の人であったらしい)

 私はと言えば、恥を忍んで有態に書くと、そんな素晴らしい友人のノートを、毎日同じように早めに登校して、必死こいて写しまくっているアホ丸出しの生徒であった。
 写すと言っても半端な量ではないので、一行残らず筆写していたのでは間に合わない。
 とくに数学の宿題などは、計算の途中経過をほど良く抜粋する必要があった。
 ただ、授業中に当てられた時にちゃんと答えられず、不正が発覚すると、文字通り「地獄」を見ることになる。
 抜粋しながらも要点は外さないようにしなければならないし、授業中は当てられそうな問題を必死で理解しなければならなかった。
(今から考えると、それはそれで集中して頭を高速回転させる、中身の濃い勉強になっていたのかもしれない……)

 そしてこれは中学生になってから自覚したのだが、私には受験勉強するうえで重大な欠点があった。
 いわゆる「丸暗記」ということが全くできなかったのだ。
 中学高校の受験勉強というものは、大きくは「論理」と「記憶」に分けられる。
 各教科によってその割合は様々だが、短期間の丸暗記ができない私は、とくに出題範囲の決まった定期テストで苦戦した。
 受験勉強は「論理」で骨格をつくり、「記憶」で肉付けするのが理想で、「丸暗記」だけに頼った詰め込みでは早晩行き詰る。
 私の場合、かなり読書はしていて現代文は得意だったし、数学も嫌いではなかった。
 骨格にあたる「論理」方面ではそれなりに力を付けていたと思うのだが、そこから先の「記憶による肉付け」が続かず、学業は低迷した。
 とくに高等部に入ってからは毎年留年の危機を繰り返すようになってしまった。
(続く)
posted by 九郎 at 16:30| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

青春ハルマゲドン4

 ここまで、90年代に20〜30代であった「若者」の成育過程にあたる、70〜80年代の世相やサブカルチャーの状況について、過去記事から抜粋しながら振り返ってきた。
 それは90年代にテロ事件を起こしたかの教団の主要な信者層が、入信前に見てきた時代風景であり、当時20代であった私の中高生時代ともほぼ重なる。
 率直に言って私は、かの教団信者とかなり近似した傾向を持っていたという自覚がある。
 サブカルチャーとして「終末」も「オカルト」も存分に享受して育っていたし、生い立ちに絡んで宗教への関心は強くあった。
 世間一般のレジャーや「明るい青春の謳歌」には何となく馴染めず、もっと深く自分を見つめ、燃焼させ得るものを求めていた。
 だからこそ90年代の真っ只中、阪神淡路大震災に被災し、カルトに騒然となった時期には強い衝撃を受けたのだし、その後の二十年以上、何らかの「おとしまえ」をつけようと足掻いてきた。

 私と、かの教団に入信した多くの同世代。
 彼我を分けたのは何だったのか?
 あるいは、分けるものなど何もなかったのか?
 そろそろ、見えかけてきたことがある。

 何度か書いてきたことだが、私は中高生の頃、中堅受験校に通っていた。
 関西の片田舎にある私立の中高一貫校。
 創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
 同じ通学圏内にはいくつかの「名門」と呼ばれる中高一貫校があったが、私が通っていた当時の母校は創立二十年ほどで、受験ランクではまだまだ発展途上だった。

――本物のエリート校に入れなかった生徒の受け皿。

 そんな認識を、教師も父兄も、生徒自身も持っていた。
 その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて合格実績を上げる、超スパルタ方針をとっていた。
 80年代当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような、戦前回帰の指導が行われていたのだ。
 教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
 先生方の中には体罰を好まない人もそれなりにいたはずだが、他ならぬ創立者の園長先生がバリバリの体罰教師だったので、それが「校風」になってしまっていた。
 顔や尻が腫れ上がったり、鼻血が出たり、鼓膜が破れたりするのも、さして珍しくなかった。
 体罰の理由としては、素行不良はもちろんだが、「宿題をやっていない」「忘れ物をした」「テストの点が悪い」等の、学業不振への罰であることが最も多かった。
 厳しい校則と体罰と留年規定で縛り上げ、山ほど宿題を出し、難しい試験を受けさせ、とにかく詰め込むのが、当時の我が母校のスタイルだった。
 生徒が恐怖で金縛りになり、萎縮し切った中で行われる授業が、全時間割の半分近くを占めていた。
 劣等生の一日は、まずシバかれることから始まるのである。
 平手によるビンタで済めばまだマシな方で、グーで殴られることや、棒で頭や尻を打たれることも多かった。
 粗いコンクリートの上や、硬いプラスティックの泥落としの上に正座させられることもあり、「カムイ伝」読者であった当時の私は(ソロバン責めか!)と心の中で突っ込んでいた。
 在校中の恐怖は深く生徒の心に刻み込まれる。
 卒業後、かなり年月が経っても「授業中に恐怖に震える悪夢」を見たというOBは数多い。

 今このように列挙すると「話を盛ってる?」と思われるかもしれないが、実態はもっと凄惨だった。
 昔のこととはいえ、書くのがはばかられることもいっぱいあるのだ。
 私はわりと最近まで感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセント以上は、「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じていた。
 今はそれが異常なことであると普通に感じられるようになってきたので、三十年越しにようやくマインドコントロールが解除されてきたのかもしれない。

 時代錯誤な校風、しかもほぼ男子校(女子も少しだけはいた)、中学部だけでなく高等部も坊主刈りだったので、巷にあふれる青春物語等とは全く無縁な学校生活だった。
 ちょうどマンガ「魁!男塾」の連載が始まった頃で、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていた。
 これも当時連載されていたマンガ「BE FREE!」の超管理教育の描写なども、「あるあるネタ」として読まれていた。
 ずっと後になって北朝鮮の群体の様子が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったものだ。

 そしてもう一つ、90年代にカルト教団によるテロ事件が起きた時にも、当初は報道で流れる教団信者の生活を「どっかで見た風景やなー」と笑い合っていたのだが、すぐに笑い事では済まなくなった。
 卒業生の中に、かの教団の主要メンバーがいるらしいことが分かってきたのだ。
 事件後しばらくすると、直接の面識は無いものの、何年か上の先輩にあたるその人の名が、度々報じられるようになった……
(続く)
posted by 九郎 at 23:36| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする