2019年07月01日

70年代サブカル前史「60年代の怪と異」

 1950年代から60年代半ばにかけて、活動の最初のピークをむかえていた「マンガの神様」手塚治虫。
 とくに63〜66年、国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映期間は、絶頂期にあったと言って良い。
 ほぼ同時期のTVアニメ「鉄人28号」「エイトマン」は、競合作であると共に、「SF・ロボット」というジャンルを盛り上げる同志的作品でもあった。
 真の意味で子供向けTV番組の王座から手塚治虫を追い落としたのは、同じロボットアニメではなく、特撮による「怪獣」であったのではないだろうか。

【60〜70年代映画ゴジラシリーズ】
 怪獣の始祖にして王者である「ゴジラ」は、マンガ版「鉄腕アトム」連載開始から二年後の54年に映画第一作、翌55年には第二作「ゴジラの逆襲」が公開され、一世を風靡した。
 映画のゴジラシリーズが復活したのは62年の第三作「キングコング対ゴジラ」からで、64年の第四作「モスラ対ゴジラ」以降、75年の第十五作「メカゴジラの逆襲」まで毎年映画が公開された。
 60年代以降は、ゴジラと他の怪獣の対決を描くバトル路線の導入で人気が安定したのである。
 TVでも折々で放映された一連のゴジラ映画や、その他にも多数制作された怪獣映画により、「怪獣」は子供向けエンタメの定番の一つとして、がっちり定着したのである。
 
【60年代初期ウルトラシリーズ】
 そしてゴジラが切り開いた「怪獣」「特撮」というジャンルをより深く子供たちの心に食い込ませたのが、TVで毎週放映の30分番組としての「ウルトラシリーズ」だった。
 現在に続くウルトラシリーズの原点になった60年代の初期作は、円谷プロ制作の以下の三作品。
●「ウルトラQ」(66年1月〜7月、全28話)
●「ウルトラマン」(66年7月〜翌4月、全39話)
●「ウルトラセブン」(67年10月〜翌9月、全49話)
 第一作「ウルトラQ」では「毎週30分の特TV撮番組」という高いハードルが克服され、「鉄腕アトム」で実現された「毎週30分のTVアニメ」と並ぶ子供向けエンタメジャンルの柱となった。
 同時期にTVアニメ制作の渦中にあった手塚治虫は「毎週違うゴジラが出る特撮TV番組」が準備中という噂を聞きつけ、脅威を感じたという。
 実際、この初期ウルトラシリーズの人気沸騰が「アトム」を過去の作品にしてしまった面はあるだろう。
 第二作から登場したヒーロー「ウルトラマン」の存在も極めて大きい。
 それまで巨大怪獣の脅威を前に右往左往するしかなかった人類に、強力な味方が現れたのだ。
 東洋の仏像を思わせる「光の巨人」としてのヒーローデザインも素晴らしく、子供の持つ変身ヒーローへの憧れを巧みにすくい取り、敵味方の分かりやすいシンプルなバトルの構図が完成した。
 以後「怪獣退治する巨大変身ヒーローの特撮番組」という形式は定番化し、幾多の作品、シリーズが生み出されていくことになる。

 近未来SFの描く科学文明の光の反作用のように、そしてお茶の間に毎週襲来する巨大モンスターが呼び水となったように、高度経済成長に打ち捨てられた土俗の暗闇から蘇ってくる「怪異」もあった。
 妖怪である。

【水木しげるの妖怪ブーム】
 水木しげる(本名:武良茂)は1922年生まれ。
 幼少期を鳥取県境港で過ごし、43年には帝国陸軍に召集、ラバウルに出征した際、左腕を失う。
 46年、24歳で幅員し、美術を学びながらも職を転々とする。
 1950年頃から神戸でアパート経営の傍ら紙芝居制作を開始、51年には「水木しげる」のペンネームで紙芝居作家としての活動を始める。
 その後、急速なTVの普及と共に衰退した紙芝居に見切りをつけ、マンガ家への転身を目指し、57年に35歳で上京。
 雑誌マンガに圧され、こちらも斜陽の貸本漫画の世界で貧窮しながらも、60年代前半には「墓場鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」等、後の代表作となる作品の数々を執筆。
 幼少の頃からの怪異体験や、戦地ラバウルでの現地人たちとの交流が、浮上の契機を作っていく。
 そして苦節後の65年、43歳にして講談社「別冊少年マガジン」でメジャーデビューし、看板雑誌「週刊少年マガジン」にて『墓場の鬼太郎』連載開始。
 翌年には水木プロダクション設立され、「悪魔くん」のTVドラマ化。
 68年、「墓場の鬼太郎」から改題した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化、妖怪ブームを巻き起こし、古の精霊たちが大挙して戦後日本に復活した。

 アトム、怪獣、妖怪、それぞれに、本来の構図としては「文明批評」というメインテーマが含まれていたのだが、人気が定着するにあたって最も機能したのは「バトル要素の導入」であった。
 子供、とくに男の子向けのエンタメにおいて、バトルは極めて強い訴求力を持つのだ。
 バトル路線以外で人気が取れるとすれば、それはやはり「笑い」になってくる。
 60〜70年代の代表的な児童ギャグマンガ家の軌跡を見ておこう。

【赤塚不二夫のギャグマンガ】
 赤塚不二夫は1935年、満州生まれ。
 敗戦により大陸から引き揚げ、困難な暮らしの中で幼少の頃からマンガを描き続けた。
 中学卒業後は働きながら「漫画少年」に投稿を続け、18歳で上京した後、56年頃から貸本漫画家としての活動を開始。
 当時は少女漫画を執筆していた。
 メジャー誌で活躍し始めた62年、「おそ松くん」(週刊少年サンデー)、「ひみつのアッコちゃん」(りぼん)で一躍人気マンガ家になる。
 66年「おそ松くん」TVアニメ化、67年「天才バカボン」」(週刊少年マガジン)「もーれつア太郎」(週刊少年サンデー)連載開始、69年「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」TVアニメ化、71年「天才バカボン」TVアニメ化と切れ目なくヒットが続き。ギャグマンガ家としての人気が不動になる。
 初期には日常生活の中に侵入してくる異形のキャラクター達の面白さ、魅力で人気を集め、70年代には次第にそうした「生活ギャグ」から離陸し、スラップスティック、シュールの領域へ踏み込んでいく。

【藤子不二雄】
 ペンネーム「藤子不二雄」は、藤本弘(1933生)と安孫子素雄(1934生)のコンビ名でもある。
 二人は富山県高岡市出身、小学校時代からの同級生だった。
 子供の頃からマンガを通して友人関係を築き、高校時代からは合作で作品を執筆するようになる。
 54年、二人で上京してからは、主に手塚治虫の影響下にあるシリアスな作品を制作し続ける。
 64年連載開始の「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー〜66年)が大ヒットした後は、ギャグマンガ家として広く人気を博すようになる。
 この「オバQ」で創案された、平凡な主人公の少年の家庭に「異物」としてのキャラクターが居候し、騒動と笑いを巻き起こすスタイルは藤子不二雄マンガの定番となり、数多くの作品が描かれた。
 その中にはデビュー以来の本来の持ち味であるSF的なアイデアを存分に盛り込んだ「モジャ公」(69〜70)がある。
 ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれ、単行本ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われた傑作であったが、ハードなSFに振れ過ぎたせいかヒットとはならなかった。
 その直後に連載開始された「ドラえもん」(70〜)では、SFセンスと大衆性は巧みにバランスされ、「オバQ」を超える代表作へと成長していくことになる。

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 手塚治虫が切り開いた戦後児童マンガ、TVエンタメの世界は、60年代後半には手塚治虫によって誘引された多数の優れた才能により「世代交代」が起こった。
 そして、児童マンガで育った世代が青年期を迎える頃には、その受け皿になる対象年齢高めの作品が求められるようになって行った。
 60年代後半から加速する「劇画」の隆盛も、その顕れ方の一つだった。
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2019年06月14日

70年代サブカル前史:60年代TVアニメの誕生

 クリエイターにとっての20代後半〜三十代前半という期間は、デビューの初期衝動そのままに上り詰めた、最初のピークにあたっているケースが多い。
 わが日本の誇る「マンガの神様」手塚治虫の場合はどうだったか?
 主要な作品制作についてのトピックを挙げてみよう。

 52年(24歳)「鉄腕アトム」開始。
 53年(25歳)「リボンの騎士」開始。
 54年(26歳)「ジャングル大帝」完、「火の鳥」開始。
 56年(28歳)「ライオンブックス」開始。
(この頃から当時台頭していた劇画を意識し始める)
 61年(33歳)アニメ「ある街角の物語」制作開始。
 63年(35歳)国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映開始。
 65年(37歳)国内初のカラーTVアニメ「ジャングル大帝」開始。
 66年(38歳)アニメ「鉄腕アトム」完。
 67年(39歳)雑誌「COM」創刊。
 68年(40歳)マンガ「鉄腕アトム」完。

 初期の単行本書き下ろしスタイルから雑誌連載に本格的に移行し、代表作「鉄腕アトム」の執筆開始から、日本初の30分枠TVアニメ化に至るまでの過程が、まさにその年齢にあたっているのがわかる。
 そもそも日本のTVアニメは、近未来SFロボットアニメから始まったのだった。
 手塚治虫によって、週一回30分のアニメ制作が可能であること、それがどうやらキャラクタービジネスに結びつくらしいことが実証されたが、それは多分に「マンガの神様」の天才と狂気に負うところが大きかった。
 手塚治虫は戦後日本のマンガ・アニメの生みの親であると同時に、現在の、とくにアニメ制作現場が抱える様々な問題点、劣悪な労働環境も生み出してしまった。
 作品そのものに含まれる要素で考えるなら、「鉄腕アトム」には後のロボットアニメに継承される根幹部分は全てそろっていた。
 内容的には人間とコミュニケーション可能な知能を持つ等身大ロボット、巨大ロボット・バトル、後発のロボットアニメは「アトム」の要素を受け継ぎ、一部を抽出したり、新たな要素を次々に添付することで発展したと言ってよいだろう。
 低予算手法としてのリミテッド・アニメの制作は、数々の有能な人材を輩出し、後の日本アニメの基礎を形成した。
 ビジネスモデルとしてのメディアミックス、キャラクターグッズ展開は、「ロボットモノ」の枠を超え、子供向けエンタメの世界に広く浸透していくことになる。

 アトムの成功の直後、さっそく二つの「競合作」がTVアニメ化された。
 マンガ「鉄人28号」「8マン」である。

●「鉄人28号」横山光輝
 マンガ「鉄人28号」の連載開始はかなり早く、「マンガ「鉄腕アトム」の開始から四年後の1956年、月刊誌『少年』で執筆が始まり、66年まで続いた。
 59年のラジオドラマ、60年の実写TVドラマの後、「アトム」のアニメ化と同年の63年10月、モノクロアニメ「鉄人28号」放送が開始された。
 原作マンガの執筆時期からアニメ放映期間(63〜66)を通じ、「アトム」の最大の競合作の趣がある。
 原点である「アトム」から巨大ロボット・バトルの要素を抽出し、リモコンで「人間が操る」という要素を加えることにより、「意思の無い兵器としての操縦型巨大ロボット」の流れが分岐した。
 この流れこそが、後の70年代巨大ロボットアニメの水源と言えるだろう。

●『8マン』(原作:平井和正/マンガ:桑田二郎)
 週刊少年マガジンの看板作品とすべく、編集主導で原作と作画が選抜され、1963〜65年まで連載された。
 TVアニメ版「エイトマン」は連載開始と同63年〜64年まで放映、先行する「アトム」「鉄人」とデッドヒートを繰り広げた。
 成人男性を主人公とした変身ヒーロー、世を忍ぶ仮の姿は探偵という構図は先行する「月光仮面」から受け継ぎ、「アトム」からはコミュニケーション可能な等身大メカニックの要素を受け継ぎ、さらに「人間と機械の融合」という要素を加えた「エイトマン」の創出した流れは、後のサイボーグテーマのマンガやアニメ、特撮作品に継承されて行った。

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 60年代中盤、TVアニメの創成期に繰り広げられた激しい視聴率争いは、結果として手塚治虫の本業をも消耗させてしまった感はある。
 手塚治虫は本質的には「SF作家」であり、「鉄腕アトム」の物語は「人間に似たロボットを通した文明批評」の構造を持つが、人気の要素として強かったのはあくまで「ロボット・バトル」の部分だった。
 とくにアニメの「アトム」はバトル要素を増やさざるを得ず、手塚治虫が本来志向していたSF的な内容からは離れることが多くなった。
 そして同じSFマンガ・アニメの土俵上にある「鉄人」「エイトマン」だけでなく、60年代後半から70年代初頭にかけて他にも次々と台頭してくる子供向けエンタメ作品の奔流に、「マンガの神様」と言えども抗いがたく「低迷」の時期を迎えることになるのだ。
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2019年06月07日

70年代サブカル前史:敗戦〜50年代

 70年代に地方で幼少期を過ごした私の原風景は、基本的には昔の子供とあまり変わらないものが多かったのではないかと思う。
 車道のアスファルト舗装は一通り終わっていたが、近所に田んぼや草むら、山林や河川、ため池などは残されており、四季の植物や生き物はとても身近な存在だった。
 今で言うところの「昔遊び」(コマ、剣玉、凧、ビー玉、メンコ等)は、まだ「昔」ではなく現役バリバリだった。
 子供の生活、遊びの中で、70年代以前との一番大きな違いは、カラーTVの完全普及ではないだろうか。
 家庭で、基本的に無料で視聴できる映像メディアの浸透は、私を含めた子供の心理に多大なインパクトを与えたはずだ。
 50年代に発祥し、60年代を通じて生み出された子供向けTVコンテンツの数々は、70年代に入ると加速的に進化・爛熟していき、私たち子供はまともにその渦に巻き込まれていった。
 70年代の子供向けTVコンテンツの起源は、ほとんど全て50〜60年代まで遡ることができる。
 私はもちろん当時をリアルタイムでは知らないが、後の作品に影響を与えたヒット作は、再放送やリメイクなどでまだ十分に「現役」だった。
 前史として敗戦の45年以降の流れを抑えておこう。
 
 敗戦直後の46年、「サザエさん」連載開始。
 新聞四コマ発で「ファミリー向け」ジャンルを開拓していく。
 戦前からの幼年向けマンガ家たちも活動を再開し、その中の一人、杉浦茂は50年代半ばには活動の黄金期を迎える。
 53年、TV本放送開始。
 同時に力道山プロレス、街頭テレビ始まる。
 50年代後半からは高度経済成長期に入り、三種の神器「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」への需要が高まる。
 59年、当時の皇太子成婚、64年の東京五輪を経て、TVの普及は加速。
 それと同時に「お子様向け」番組も充実していく。

 50年代の段階で既に、今の子供向けサブカルコンテンツにも濃密な影響を残している三作品があり、いずれも映像(的)メディアの作品であることで共通している。

【月光仮面】変身・アウトロー・強さ
【ゴジラ】冒険・怪奇・異形
【鉄腕アトム」メカ・未来・SF

 結果論ではあるけれども、それぞれがとくに「男の子向け」コンテンツの「受ける」要素を代表していると思われる。
 以下にもう少し詳しく紹介してみよう。

●TVドラマ「月光仮面」(58〜59)
 故・川内康範が中心となって制作された和製TVヒーローの草分けである。
 勧善懲悪の仮面ヒーロー時代劇を、50年代当時の日本を舞台にアップデートした内容で、主人公は大人の探偵、変身した月光仮面はバイクを駆り、銃を操る。
 こうした要素は、後の変身ヒーローの属性として引き継がれていくことになる。
 川内康範は政治的にも右派のご意見番として名高く、薬害肝炎問題で当時の福田首相と直談判におよび、解決を促したエピソードで知られる。
 単なる「右翼」で済ませるには、あまりに懐の深い人物であったことは、数々の作品を見れば一目瞭然だ。
 実家はお寺で、幼少の頃から仏教には親しんできたそうで、月光仮面も薬師三尊の脇仏・月光菩薩に由来するという。
 あまりに有名な主題歌には「正義の味方」という言葉が出てくるが、これも造語。
 この世に完全なる「正義」は神仏以外にあり得ない。
 月光仮面はあくまで人間なのだから、絶対的な正義ではなく「正義の味方」に過ぎない。
 どこまでも「脇役」でしかない。
 これが「月光仮面」に対する位置づけで、番組キャッチコピーは以下のようなあまりに平和的なものだった。
「憎むな! 殺すな! 赦しましょう!」
 むき出しの「正義」に対する懐疑、逡巡は、以後の日本のエンタメ作品にも通奏低音のように受け継がれていく。
 川内康範は70年代以降も様々な形で、子供向けに限定されず、エンタメの世界に重要な関与をしていくことになる。

●映画「ゴジラ」(54)「ゴジラの逆襲」(55)
 ゴジラは初代から「核」であり、「放射能」であり、「人類の生んだ奇形生物」であり、台風のように、火山のように、地震のように、津波のように、そして原発事故のように、日本に突然現れ、破壊の限りを尽くし、善人も悪人も等し並みに蹂躙する巨大モンスター、名付けて「怪獣」だった。
 50年代の初期二作は完全にシリアスであり、必ずしも「子供向け」作品ではなかったが、その志の高さ、本気の表現は当然の如く子供にも届き、60年代以降のシリーズ化に向けた出発点となった。

●マンガ「鉄腕アトム」(52〜68)
 手塚治虫は1928年、大阪生まれで宝塚に育った。
 幼少の頃からマンガを描き続け、敗戦直後の46年、18歳でプロデビューし、翌47年には酒井七馬原案の赤本『新寳島』を刊行。
 スピーディーで「映像的」な画面作りとストーリー展開で当時の子供たちに衝撃を与え、累積40万部のヒットとなった。
 その後も医学生と両立しながら「ジャングル大帝」等を執筆し、52年24歳で医師免許取得、同時期「鉄腕アトム」の雑誌連載が開始され、68年の完結まで「日本初のTVアニメ化」をはさみつつ執筆が続けられた。
 手塚治虫が戦後のサブカル作品に及ぼした影響は極めて多岐にわたるが、子供向けエンタメの主要ジャンルとして、文明批評を含んだ近未来SFやメカ・ロボットアクション、そして美少女表現の要素を定着させた点は特筆されるだろう。

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 以上首相三作品以外にも、50年代後半には貸本漫画の世界で水木しげるや白土三平が活動を開始しており、60年代のヒットへとつながっていく。
 そして50年代も終盤に入った59年、「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」創刊。
 それまで月刊誌が中心だったマンガ連載の熱は一気に週刊誌に移行していくことになる。
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2019年05月22日

70年代、記憶の底9

 私が弱視であることが判明したのは三歳の頃。
 おそらく生まれつきの低視力だったはずだ。
 記憶の中に、母親が異常に気付いた時の情景が残っている。
     *     *     *
 自宅の居間である。
 私は一人、背もたれにカエルの顔のついた幼児用のイスに座り、低めのタンスの上のテレビを見上げている。
 番組は「仮面ライダー」か何かだったのではないかと思う。
 家事をしていた母が、ふとテレビを見上げる私の視線に違和感を持つ。
 顔を斜めにして見ていることに気付いたのだ。
 その時、何らかの会話があったと思うのだが、内容までは覚えていない。
     *     *     *
 事実関係として正確かどうかはわからない。
 全く別のシーンが混入しているかもしれないが、ともかく私の記憶の中では「そういううこと」になっている。
 その後、眼科を受診した結果、低視力の遠視で、右眼が左眼の半分程度しか視えていないことがわかった。
 比較的視えている左ばかり使う癖が出来ていたのだ。
 さっそく眼鏡を作ることになった。
 眼鏡をかけ始めた頃、食事時に私が言ったセリフを、母親から何度も聞かされた。
「ごはんのつぶつぶが見えるわ!」
 それまで視えていなかったのだ。

 子供の弱視は、数としてはけっこう多いという。
 生まれつきそれが常態の幼児にとっては、「あまり視えていない」ということ自体が認識できない。
 なるべく発達の初期段階で発見し、治療を行うのが望ましいが、全く視えていないわけではないので、年齢が低いほど周囲に気付かれにくい傾向がある。
 時代と共に幼児向けの検査方法が発達し、認識も広まってはいるが、見過ごされるケースもまだまだ多い。
 
 私の場合、幸運は二つあった。
 一つは、親が早い段階で気付いて眼科に連れて行ってくれたこと。
 目の前の茶碗のごはんつぶが視えないくらいの弱視でも、眼鏡をかければそれが視える。
 この「実際に視える」という体験が、発達の初期段階であるほど視力回復を促すのだ。
 そしてもう一つの幸運は、視力矯正の良い先生に巡り合えたことだ。
 三歳で眼鏡をかけることになった私は、訓練のため頻繁に眼科に通うことになった。
 長じてはあまり医者にかからなくなったので、これまでの人生で受診回数をカウントすると、眼科がダントツで多いだろう。
 幼児のことなので、検査する方も大変だったと思う。
 何しろ左右の区別もあやうい年齢である。
 視力検査票の輪っかマークの欠けている方向は、一々手に持ったマークで再現させなければならない。
 今は幼児向けの検査方法も進歩して、あの欠けた輪っかマークをドーナツに見立て、周囲に動物などのキャラクターを配して「ドーナツたべたのだあれ?」という質問形式になっているようだ。
 しかし、四十年以上前にはまだそんな工夫はなかった。
 小さい子の集中力はそんなに長く続かないので、うまくおだてながら進めなければならないのは、今も昔も変わらない。
 大人になった今の私は、幼児向けのお絵かき指導の機会があるたびに、小さい頃対応してくれた眼科の先生方のことを思い出すのだ。

 検査と訓練の過程で、幼い私はある「技」を習得していった。
 視力検査表を、実際に見えている以上に読み取ることができるようになったのだ。
 度重なる検査に飽き飽きしていた幼い私は、さっさと段取りを終わらせたいという思いや、少しでも現状を楽しもうという思い、「いい結果が出ると周りの大人たちが喜ぶ」という観察から、鮮明には見えていない検査表のマークを推測で読み取る技術を、なんの悪気もなく密かに磨き続けていた。
 具体的には、鮮明に見えているマークを焦点をぼかすことによって「ぼんやりとしたシルエット」に変換し、その印象と比較検討することによって小さくて見えにくいマークを読み取り、また検査表全体のマークの配置具合などからも総合的に判断する、というものである。
 言葉で説明するとものすごく難しそうに感じるかもしれないが、幼い子供はこのような「ゲーム」には驚くべき能力を発揮することがあるものだ。
 視力検査というのはあくまで「視力の実態」を知るためのものだというような大人の常識は、幼児には通用しない。
 当時の私にとっての視力検査は、完全に「高得点を上げるためのゲーム」と化しており、頭を高速回転させながら、実際より少しずつカサ上げされた検査結果を生み出していたのではないだろうか。

 幼い頃身につけたこの「技」は、けっこう習い性になってしまっている。
 数年前、久々の視力検査を受けたとき、無意識のうちに「技」を使ってしまっている自分に気づき、内心で苦笑した。
(あかんあかん! ゲームと違うんやから普通にせなあかんがな!)
 以後は普通に見えるものは見えるといい、見えないものは見えないと答えた。

 受診時の検査は眼科の皆さんの手練でなんとかクリアできるとして、日常的な矯正訓練にはもう少し「本人が積極的にとりくむ」要素が必要になる。
 とくに幼児の場合は「楽しさ」が無いとなかなか続かない。
 私の場合、どうやらこの子はお絵かきが好きらしいということで、そうした要素が取り入れられた。
 今でも覚えているのは、塗り絵などの線画にトレシングペーパーをかぶせ、上からなぞっていくというもの。
 今考えると、お手本の上に半紙をかぶせてお経や仏画を書き写す「写経」「写仏」の稽古そのものだ(笑)
 がんばって描くとほめてもらえるのがうれしくて、この訓練はわりと好きだった。
 単なる「なぞり書き」と侮るなかれ、あらゆる表現はモノマネから始まる。
 お手本をトレスして完成された線を体感するのは、絶好のスタートダッシュになるのだ。
 幼児の頃の「得意」は、要するに「自分で好きでやっている」回数とイコールだ。
 私は四才から保育園に通っていたが、同年代の中では(実際大した差はないのだが)「絵がじょうず」ということになり、その体験が、はるかに時が流れた現在につながっている。
 卵と鶏のように因果関係は微妙だが、弱視であったことが「絵描き」の私を作ったということもできるのだ。

 左右の視力にアンバランスがあり、とくに右目の訓練が必要だったので、視える方の左眼に「アイパッチ」を貼ることを勧められた。
 しかしさすがに幼児にとってはストレスが大きく、嫌がってあまり貼らなかったと記憶している。
 このアイパッチによる矯正訓練は今でも行われているようだ。
 子供向けの絵画指導をしていると、たまに片目に貼っている子を担当する機会がある。
(無理のない程度にがんばれ!)
 そんな風に心の中でエールを送っている。

 視力矯正が始まった幼児の頃から、母親はよく駅前市場で鶏の肝焼きを買ってくるようになった。
 これを食べると目にいいからと勧められるうちに、あの香ばしくほろ苦い味が好きになった。
 肝が目に良いというのは民間療法で昔から言われてきたことだと思う。
 数年前、雑賀衆に関する本を色々漁っている時、神坂次郎の小説の中に「雑賀衆が夜目遠目を効かせるために、地元の魚の肝を食べている」という描写を見つけたことがある。
「へ〜、やっぱり肝って眼にいいのか?」と、昔を思い出したものだ。
 ビタミン類の補給などで、それなりに科学的根拠はあるのだろう。

 当時、眼鏡をかけている子は非常に少なかった。
 通っていた保育園、幼稚園では他に見かけなかったし、もっと同級生の増えた小学校でも、入学当初は学年に何人もいなかったと記憶している。
 今のようにスマホは無かったが、TVもマンガもゲームも、視力を消耗するホビーは既に人気で、さらに学年が進んで学習時間が増えるとともに、徐々に近視で眼鏡をかける子は増えていったが、幼児の頃から弱視が原因で眼鏡をかける子は、今よりもっと少なかったはずだ。
 これは「時代と共に弱視の子が増えている」というより、検査法の発達により、早期発見のケースが増えたためではないかと思う。
 全ての年齢層で眼鏡をかけている人が増え、日常生活の中で接する機会が多くなると、眼鏡は「数ある個性の中の一つ」としいう認識が定着する。
 今はもう、大人も子供も眼鏡をかけているからと言って特別視されることは少ないだろう。
 しかし私が幼い頃は、まだ認識がそこまで至っておらず、大人にも子供にも珍しがられることが多かった。
 もっとはっきり書くと、好奇の目で見られ、バカにされることがけっこうあった。

 就学前の段階では、好奇の目はさほどでもなかった。
 保育園や幼稚園の子供同士では、「見慣れない容姿」を素朴に珍しがることはあっても、それが侮蔑につながることは少ない。
 むしろ、大人の好奇に満ちた視線に違和感を持っていた記憶がある。
 小学生になってからは、眼鏡をかけていることを理由にバカにされるケースが出てきた。
 眼鏡がなぜ侮蔑の対象になるのか、改めて考えると不思議だが、今ならわりと冷静に分析できる。
 さほど深い理由などなく、マンガなどの眼鏡キャラの類型を勝手に当てはめ、「がり勉」とか「運動音痴」とかのイメージを重ねることがきっかけになったのではないかと思う。
 とくに「メガネザル」と呼ばれるのが悔しかった。
 ずっと長くその名詞を耳にすると構えてしまうところがあったが、ある時期から「それはメガネザルに対して失礼だ」と気付き、こだわりは解消された。
 ただ、「バカにされる」と言っても単発で、継続的、集団的ないじめに発展することが無かったのは幸運だった。
 それもせいぜい3〜4年くらいまでのことで、5〜6年になって眼鏡をかける人数が増えてくると、反比例するようにからかいの対象になることは減っていった。

 結局私は、幼児の頃から中学にかけて、ずっと眼鏡をかけていた。
 訓練の甲斐もあって徐々に視力は回復し、中二ぐらいで眼鏡をはずした。
 左右の視力のアンバランスは残しつつも、高校生の頃には裸眼で右1.5、左2.0ほどになり、むしろ眼はよく見える方になった。
 高校以降の知り合いは、私に対して「眼鏡をかけている」というイメージは持っていないだろう。
 元は遠視だったこともあり、老眼になるのは早いだろうと、ずっと言われてきた。
 実際四十を過ぎたあたりから、そろそろ老眼鏡の世話になり始めている。
 これから私は、ゆっくり「視えない」という原風景に還っていくのだろう。
 別に何かを失うわけではない。
 元いた所へ戻るだけだ。

 色々あったが、今はもう、幼い頃眼鏡をかけていたことが原因で色々言われたことについて、痛みも怒りもほとんど感じない。
 無知無理解がそれをさせたのだということで、一応受け止められている。
 むしろ、子供の頃からマイノリティの気持ちを理解し得る立場にありながら、自分自身がやらかしてしまった差別の数々に、心の痛みを感じる。
 やってしまった当時は悪気が無く、それが差別であると思いもしなかった行為の数々が、どれだけ残酷であったかということに、ずっとあとになってから気付き、愕然としている。
 気付かないだけで他にもまだまだやってしまっているのだろうと思うと、後悔に身悶えしたくなる。
 そんなことが度々ある。
 なんのことはない、私も「やっている側」だったと気付いた時、幼少時の痛みの大半は消えた。

 差別やいじめは、人間の原始的な感情の領域に根差しているので、そうした衝動が心の中に生じること自体は止め難い。
 それを実際の発言や行動に移す前に自省、自制することは可能なはずで、なにより大切なのは知識、正しい認識だ。
 眼鏡をかけた児童が、以前ほど好奇の目で見られなくなったように、様々な差異が少しずつ「当り前の風景」の中に入っていけるよう、まずは知ることだ。
 今後の人生でも、私は無知無理解から繰り返しやらかしてしまうだろうけれども、それを減らす努力はしなければならない。
 記憶の奥底に今も確かに存在する弱視児童の自分に対し、せめて恥ずかしくないふるまいを。 

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2019年05月21日

70年代、記憶の底8

 幼児の頃、私は昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
 当時気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
 山の周囲のことはよく知っていた。
 いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
 だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたと言える。
 しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
 時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
 祖父の作った木彫りの妖怪たちも、その空想の格好の材料となった。
 蓄積された空想は噴出口を求めてマグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
 ある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……

 祖父母宅のあった地域は、広々とした平野に位置していた。
 あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
 岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
 その裏山も、子供が登れないことは無かったが、幼児であれば安全とは言いがたい。
 それでも私は登らなければならなかった。
 その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
 今となっては自分自身にも意味不明の、幼児特有の頑固さでそう思い定めていた。
 家の裏に迫った岩と岩の隙間の、子供の目には道らしく見える所を「ここが入り口か」と勝手に判断して、私は登り始めた。
 潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
 木や草や岩のトンネルを抜ける道行きは、最初は少し怖かったが、すぐに面白さの方が上回った。

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 登れば登るほどトンネルは延びていくようで、また少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
 怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
 それからどれぐらい登ったことだろう、時間にして見れば十数分、あるいはほんの数分のことだったかもしれないが、幼児にとっての主観的な時間経過はとてつもなく長かった。
 茂みのトンネルを抜け、視界が急に開けてきた。

 そこは静かな木立の中だった。
 しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
 一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
 自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
 そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
 そこは墓地だった。
 観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。

 大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
 私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎない。
 しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
 山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
 子供なりの世界観では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
 納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
 何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
 そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。

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 このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」を経験した。
 今から考えるとあぶない話だ。
 山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
 しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
 思い定めて山を登るときの酩酊感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は登山に関心を持ち続けることになる。
 登山部などに所属し、本格的に学ぶことは無かったが、中高生の頃の学校の裏山から始まり、近場の登山コース、果ては熊野の山々まで、時間を作っては歩き回るようになった。

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 大人になるに従って山の標高や日程はハードなものになっていったが、登る途中の興奮は幼い頃の「小さな冒険」とあまり変わっていないような気がする。
 山の向こうには何がある?
 その空想の答えも、まだ出ていない。

 この稿を書くにあたって、私は祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみた。
 あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
 記憶と違っているのは、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所ぐらいか。
 確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
posted by 九郎 at 00:03| Comment(0) | 青春ハルマゲドン | 更新情報をチェックする