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2023年08月13日

英賀合戦幻想1 三つの「本徳寺」

 ここまで戦後姫路小史として、私の父方祖父母が住んでいた姫路の戦後についてまとめてきた。
 こうした70年代の現実社会の風景とともに記憶に残っているのが、「心の風景」にあたるものだ。
 父方祖父は浄土真宗の僧侶で、代々ではなかったので寺ではなく「説教所」という寺に似た古い家屋で生活していた。
 旧街道沿いの正面には、「おみど」と呼ばれる祭壇を備えた広い座敷があり、その奥に普段生活する部屋がいくつかあった。
 盆暮れに祖父母宅に行くと、私たち家族は「おみど」に寝起きし、朝夕には「おつとめ」の読経をした。
 祖父の死後、僧侶の勤めは父が兼業で継いだ。
 私は結局継がなかったけれども、(このブログ読者の皆さんはご存じの通り)仏教などへの関心は持ち続けており、それは幼少期に祖父母宅で過ごした折々の経験が原点になっている。

 姫路には播州一円を代表する浄土真宗寺院の「亀山本徳寺」がある。
 地元では「御坊さん」と呼ばれて親しまれ、祖父母宅からそう遠くなかったので、私も子供の頃から何度か参拝した。
 過去記事で紹介したこともある。

 この御坊の歴史は古く、中世まで遡る。
 元は戦国時代、現在地のずっと西、夢前川と水尾川の合流地点である英賀(あが)の地にあった。
 当時はかなり地形が違っており、大まかにいえば今の山陽電鉄より南はほとんど遠浅の海だったはずだ。

(クリックすると画像が拡大)
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 江戸期の新田開発、更に近現代の工業用地埋め立てで様変わりし、現在の英賀はかなり奥まって感じるが、戦国時代は河口湿地帯に浮かぶ三角州のような状態だったらしい。
 南に広く播磨灘が開けた地形を利用して港と広大な城が築かれ、瀬戸内海の物流の要所として栄えた。
 その英賀城西端に本徳寺があり、播磨の本願寺信仰の中心として、また大坂本願寺ネットワークの中継地点として重要であった。
 しかし織田信長と大坂本願寺の十年戦争石山合戦の過程で、羽柴秀吉による播磨侵攻の折、地元の織田方協力者である黒田官兵衛の指揮もあって陥落。
 その攻防を「英賀合戦」と呼ぶ。
 その後、本徳寺は亀山に移され、港の機能と英賀衆の多くは飾磨港へ移動。
 やがて本願寺の東西分立の影響下、もう一つの本徳寺が姫路城西に「船場本徳寺」としてスタートすることになる。

 英賀合戦は「織田方の播磨侵攻の中の地味な合戦の一つ」というイメージで、知名度のある登場人物が黒田官兵衛くらいしかいないこともあり、フィクションの中でもスルーされるか、地味な扱いになることがほとんどである。
 陸上の領地争いの観点ではその通りなのだが、「石山合戦」「海上交通」に注目すると意義は全く変わってくると考える。
 この機会に絵図、スケッチもふくめてまとめておきたいと思う。

 歴史で上書きされた播磨臨海工業地帯の海岸線を取り払い、広く開けた海の情景とともに英賀合戦の幻想を描いてみたい。


 英賀本徳寺、英賀合戦については、亀山本徳寺内のサイトでもわかりやすい解説がある。
 pdfファイルが多いが、一通り読むと英賀合戦の輪郭が見えてくると思う。
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2023年08月09日

戦後姫路小史5 曲がり角

 私の幼児期は姫路モノレールの営業期間とぎりぎり重なっており、実際に見たのかどうか定かではないが、山陽新幹線の高架を潜りながら軌道を進むモノレールの映像記憶が残っている。
 普段播州の田園地帯で生活していた私にとって、たまに父方祖父母宅に行く折に姫路市街の風景を見ることは、「都会」とか「未来」を感じる体験だった。

 モノレールの軌道は90年代ごろから順次解体されつつ、今もごく一部残存している。

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 五期にわたって姫路の戦後と高度経済成長期を牽引した岩見は、姫路大博覧会開催を花道に、放漫財政の責任を問われた67年の六期目を目指す選挙に大差で落選。
 誰がやっても難渋したであろう戦後の都市計画をともかく遂行し、とりわけ大手前通りを完成させた功績は称賛されるべきだろう。
 反面、あまり緻密とは言えない案を強行し、時に市政の私物化ともとられかねない施策も多かった。
 原発の誘致などは、「頓挫して良かった愚策」ということになるだろう。
 戦後日本の転機となった70年代に入る前に、批判されるべきを批判され、市長としての役割を終えたのだ。

 その後の石見は実業家として活動するが、76年に病死。
 墓所は自身が開発した名古山霊園にあり、同じく開発を手掛けた手柄山に銅像がある。
 山頂の姫路大博覧会で建設した「御伽の国」を模した建物の奥、銅像は意外に飄然とした佇まいで市街を望んでいる。

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 折しも高度経済成長のマイナス面である大気汚染、河川や瀬戸内海の水質悪化が問題になり始め、70年代に入ってからは製鉄業が低迷、オイルショックが立て続けに経済を揺るがした。
 歴史上ながらく播州陸上交通、東西の中心軸だった西国街道は舗装され、国道2号が上書きされていたが、モータリゼーションの大波であっという間に交通量がオーバー。
 バイパス道路その他が次々に整備されて行った。
 南北で言えば、飾磨街道/銀の馬車道は戦後しばらく経つと役割を終え、西の産業道路と東の駅前大通に幹線が移った。
 鉄道では山陽新幹線が開通したが、一方では播州の小規模ローカル線はバタバタと使命を終えていった。
 第二次ベビーブームの始まりとともに、戦後日本が曲がり角を迎えていた時期だったのだ。

 私の幼児期の原風景にあたる姫路のイメージは、このあたりからスタートしている。

●70年代姫路(クリックすると画像が拡大)
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(以上、「戦後姫路小史」了)
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2023年08月07日

戦後姫路小史4 未来への夢想

 50年代後半の三期目以降は高度経済成長の波ともかみ合い、石見の公共事業路線は続く。
 姫路城の「昭和の大修理」、書写山ロープウェイ開通、そして駅南西の手柄山の開発にも着手する。
 手柄山には56年の戦災慰霊塔建立から始まり、球場、厚生会館建設後、66年の姫路大博覧会のメイン会場としている。
 文化教育スポーツ等の施設を集め、博覧会後も長らく市民のレクリエーションの場として愛されることになる。

(クリックすると画像が拡大)
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 姫路大博覧会は姫路城の昭和の大修理完成を記念して、手柄山をメイン会場に、姫路城大手前公園の城南会場、名古山会場とともに開催され、戦後地方博覧会の嚆矢となった。
 地場産業や明るい未来予測の展示が多かったようだが、とくに城南会場は「防衛館」として自衛隊装備の展示が行われている。
 手柄山や名古山にも戦没者慰霊施設があることを考えると、軍都時代の人脈への何かしらの配慮があったのかもしれない。

 博覧会メイン会場の手柄山と姫路駅をつないだのが、後に問題になるモノレールだ。
 本来は開催に合わせて会場の姫路城、名古山霊園も繋ぎたかったはずだが、結局実現したのは駅から手柄山までだけで、それも開会時には間に合わず、途中からの開通になってしまった。
 料金が高めの設定だったことも祟って、博覧会終了後は利用客数が低迷、わずか8年で休止されてしまう。
 せめて早急に姫路城まで延伸できていれば、また違った展開が見えただろうけれども、60年代に入って高度経済成長のピークを過ぎると、石見の神通力にも陰りが見え始めていた。
 延伸案はいくつかあったようだが、石見の構想では市内を広く周回し、さらに山陰までをつなぐ荒唐無稽な夢も描いていたという。
 もう少し現実的な案としては、手柄山から南へ延伸して沿海工業地帯と繋ぎ、北へは姫路城から名古山を通って書写山まで通し、ロープウェイと連絡したかったようだ。

 石見は戦後の早い時期に海外視察に行き、ディズニーランドにも足を運び、この体験がその後の施策に影響を与えたという。
 名古山や手柄山のテーマパーク的な開発や、博覧会開催、モノレール建設で「子供たちに未来を見せたい」という動機自体には、嘘はなかったはずだ。
posted by 九郎 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年08月06日

戦後姫路小史3 五十米道路

 官選市長になった翌年の1947年、初の市長選に大差で勝利した岩見元秀は、「市営企業論」をぶち上げ、公共事業に力を入れた。
 市街の再建にはどのみち大規模公共事業は必要であり、既に始まっていた第一次ベビーブームを支える働き手に仕事を与えるためにも、野心溢れる土建屋が指揮を執ったことはプラスに作用した。
 中でも姫路駅から城までをぶち抜く、道幅50m、全長840mの幹線道路を通す荒業は、他の誰にも不可能だっただろう。
 通称「五十米(メートル)道路」(後の大手前通り)は、当時「飛行場でも作る気か?」と揶揄されながらも、交通量の確保、電線の地下埋設による駅から城までの景観確保など、現在でもその先見性を高く評価されている。

 姫路市街中心部の戦後復興にあたり、避けて通れないのが無秩序に繁盛した闇市の始末だった。
 とくに駅すぐ北の焼失した光源寺、光源寺前町には大小数限りない仮設店舗が軒を連ね、中世寺内町もかくやと思わせるものだったかもしれない。
 闇市の立ち退きと戦後の都市計画については各戦災都市ともに難儀しているが、自らも苦労人の石見は、交渉にあたってまずまず適任だったはずだ。
 五十米道路計画にまともにぶつかっていた光源寺は西に400メートルほど移転し、光源寺前町の闇市は新たな駅前商業地に入るなど、こちらも移転が進んだ。
 市長任期一期目終盤の50年から、55年に二期目を終えるまでに工事は完了し、同時に立ち退きや区画整理の基本も完了させた。
 ちょうど同じ時期に朝鮮特需があり、沿海部の製鉄業をはじめとする地元産業は、隣国分断の悲劇を踏み台に盛り上がった。

 戦後闇市を偲ばせる懐かしくも猥雑な風景は、90年代くらいまで姫路市街中心部のそこここに残っていた。
 中でも大手前公園南の「お城マート」は異彩を放っていたが、今はもう現存しない。
 山陽姫路駅高架周辺の商店街や、JR姫路駅西を通る「おみぞ商店街」などに、わずかに昭和の気配を残すのみになっている。

 明治生まれで軍都に育った人間として、石見は学問や文化に対する素朴な敬意は持っていたようだ。
 やることが一々大風呂敷であったが、出身である土建業の利害と絡めつつも、文化教育分野への投資にはわりと熱心であった。
 二期目には姫路城内の元軍用地に動物園を開設。
 70年代に幼少期を過ごした私も、始めてゾウなどの動物を観たり、遊園地の楽しみを知ったのは、ここだった。
 この「お城の動物園」は、遊具とともに昭和の雰囲気を残したまま低料金で運営されており、長く姫路近郊の子育て世帯に愛され続けている。

 区画整理や寺の移転で問題になった市街各所の墓地を、城西方の名古山に集約する霊園開発も行っており、ここにも石見のキャラクターは反映された。
 単に戦災で破壊された墓地を統合するだけでなく、仏教の須弥山宇宙観を模した庭園を造成し、インドから仏舎利を招来し、仏教美術を展示した仏舎利塔を建造してテーマパーク化したのだ。
 江戸期からの寺や墓地を整理集約するには、このくらい大風呂敷を広げる必要があったのかもしれない。
 名古山霊園は後に開催された姫路大博覧会の会場の一つにもなった。

(クリックすると画像が拡大)
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 この霊園には私も子供の頃からよく墓参に行き、通常の墓地とは異質なものを感じ、「遊園地みたいやな」という感想を持っていた。
 仏教の須弥山宇宙観を勉強してから昔の記憶を辿ると「あれはこういうことだったのか!」と納得することも多い。
 市街中心から「西方」にあたる小高い丘という立地が良いし、周縁に配置されたオーソドックスな墓石や無縁塔、供養塔の類から、中心にあたる仏舎利塔や須弥山を空に見上げる曼荼羅的な構成も巧みだ。
 開発計画にはさぞ名のある仏教者が関与していたのだろうと確信している。
posted by 九郎 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年08月03日

戦後姫路小史2 焼け野原と闇市

 終戦の1945年、軍都姫路は二度にわたって激しい空襲を受けた。
 一回目は6月22日午前、城東の京口駅あたりを中心に爆撃機50機以上、二回目の7月3日夜間の空襲では、100機を超える爆撃機が2時間にわたって市街全体とその周辺を焼き払った。
 姫路城天守は奇跡的に無傷だったが、これは投下された焼夷弾がたまたま不発だったたこと、当時のレーダーの性能では堀に囲まれた天守が「湿地帯」と認識されたらしいためで、「貴重な文化財なので標的にされなかった」ということではなさそうだ
 焦熱地獄から一夜明け、立ち尽くす市民の中には、変わらぬ姿の城に勇気づけられる者も多かったという。

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 二度の空襲の影響で、姫路市街中心部には戦前からの建物はほとんど残っていない。
 往時の町屋の風景を求めるなら、姫路駅から南の海側に続く飾磨街道沿いの方が、まだ残っているだろう。

 そして空襲から一カ月後には敗戦。
 一面焼け野原と化した姫路市街には、生き残った住民や引き上げ者が集まり、バラック小屋を建て、生きるために闇市が開かれた。
 戦後の混沌の中で、違法な闇市をアウトローが仕切るのは、庶民が生きるために当然のことだ。
 国家と法が国民の生命財産を守る機能、正当性を失った状態では、それは「必要悪」ですらなく、単に「必要」でしかない。
 バラックと闇市は復興の過程でいずれ解消されなければならないが、それは強権による排除ではなく、代わりの住まいや収入を保障した上でなければ、スムーズに進むものではない。

 敗戦の翌年、戦後初の官選市長としてその任に当たったのが、岩見元秀(いわみ もとひで)だった。
 石見は1900年、飾磨郡余部村生まれ。
 姫路市街近郊ではあるが、中心からは距離がある。
 旧制中学卒業後、代用教員を務めたり、土木工事現場で働いたりした後、26歳で東京に建設業の会社を立ち上げ、ダムや鉄道工事を手掛けたという。
 当時としてはそこそこ恵まれた成育歴にも見えるが、「毛並みの良いエリート」とまでは言えない。
 何度か満洲での事業に挑戦しているが、既に敗色濃厚な終戦の二年前まで現地で苦闘しているところを見ると、正確な戦況を知りうるような立場には無かったのだろう。
 或いは「無理を承知でリスクをとらなければのし上がれない」という思いがあったのかもしれない。
 1943年には戦況の逼迫から引き揚げ、以後郷里で会社経営に従事していたという。
 明治に生まれて少年期を過ごした播州人が、大正期に土建業で身を立てることを目指し、昭和に入ってからは大陸に夢をかけ、挫折していったん故郷へ……
 そんな人物像が浮かんでくる。
 行政経験皆無の地元土建屋がなぜ官選市長になれたのかと言えば、軍都の主要な人脈が敗戦を契機に排除され、有能であっても大人しい文官には「闇市の始末」は手に余り、軒並み断られたということだろう。
 46才というまだぎりぎり「体を張れる」年齢であったことなど、様々な巡り合わせの中で、岩見元秀というアクの強い個性が闇市姫路で浮上したのだ。
posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする