2018年07月31日

明日は「二の丑」#うなぎ絶滅キャンペーン!

 ツイッターの「#うなぎ絶滅キャンペーン」というハッシュタグにショックを受け、勝手に応援し始めた顛末は依然記事にした。

 勝手に応援「うなぎ絶滅キャンペーン」

 続報として、以下に本日の私のつぶやきを総集しておこう。

-------------

 各種統計から「若者のうなぎばなれ」の実態が明らかに!
 ここは一つ、

「若者の〜ばなれは、ほとんど低賃金が原因」

 などと冷静に分析せず、

「近頃の若者は車にも乗らず、物欲もなく、一家も構えない!
 ろくにうなぎも食わんから覇気がないのだ!」

 と、頭ごなしに説教しましょう!

 さらに、こんな説教も有効です!

「近頃の若者は伝統軽視!
 土用丑にはうなぎを食って、
 日本に生まれた幸せを噛み締めよ!」

 間違っても、

「土用丑にうなぎを食べるのは、
 夏場に味が落ちるうなぎを売るためのキャンペーンが発祥」

 などと知恵をつけてはいけません!!!!

 ということで、明日8月1日は今年二度目の土用丑。
 今も昔も変わらず企業の販促キャンペーンに踊らされ、
 うなぎを絶滅に追い込みましょう!

 あと一歩です!!!!

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2018年07月30日

抜け忍サブカルチャー4:何から抜けて、何処へ行く?

 ハリウッド映画ヒット作から、再び日本国内のマンガ作品に視点を戻してみよう。

 これはマンガというジャンルに限定されないが、60〜70年代サブカルを存分に享受してきた世代が80〜90年代以降「作り手」に育ち、新たな感性を加えてリバイバルする流れが出てきた。
 この章で扱ってきた「抜け忍モノ」についても、一〜二回目の記事で紹介した作品の影響下で、多くの優れた作品が制作された。
 いくつか、当時の私がとくに好きだった作品を紹介してみよう。


●「ムジナ」相原コージ(93〜97週刊ヤングサンデー連載)
 90年代初頭、竹熊健太郎とのコンビで「サルでも描けるまんが教室」を描き上げた直後の連載作品である。
 相原にとっても竹熊にとっても、執筆時の年齢、作品の質ともに「サルまん」が「完全燃焼」の作品だったであろうことは想像に難くない。
 内容的にも「まんがを描くこと」自体をテーマにしたメタフィクションであり、時として創作者に勃発する「脳内ハルマゲドン」とでも呼ぶべき、あやうい作品だったはずだ。(改めて考えてみれば連載内連載「とんち番長」は、まさに「抜け忍モノ」そのものだった)
 その「サルまん」後、おそらくペンペン草も生えない荒涼とした心象風景の中、相原が選んだテーマは、子供の頃から大好きだったという「忍者マンガ」だった。
 全てを出し尽くした後は、一度「原点」に立ち返ることが必要だったのかもしれない。
(同時期、「サルまん」コンビの竹熊健太郎は、「私とハルマゲドン」という、これも自身の原点を振り返る本を執筆している)
 白土三平タッチの筆致に実験的なギャグを週替わりで加味しながら、「サルまん」でバラバラに分解された「創作の破片」を、一つ二つと拾い集めるように連載は進む。
 しかし、コツコツとページを重ねて世界観を構築しても、そこに現れるのは、どこにも逃げ場のない閉塞した忍者社会だ。
 相原流のギャグに彩られてはいるものの、主人公の忍者少年ムジナは肉親を失い、友を失い、何重にも張り巡らされた謀略と裏切りに翻弄され、ストーリーは限りなく鬱展開にはまり込んでいく。
 そんな先の見えないサバイバルを経て、ムジナは最後に持てる全ての技を駆使し、がんじがらめの忍者の世界を食い破る戦いに挑む。
 それまで一貫して受け身の戦いであったムジナが、並みいる強力な敵を食い破る。
 隠された能力を全開にして食い破る。
 ただ生き残るためだけに必死だった自分の生き方をも、食い破る。
 父に与えられた「愛する者を作るな」という生き方は、これまでムジナを生き残らせてきたが、ムジナをがんじがらめに縛る「呪い」でもあった。
 その呪いを、同じ父に与えられた「技」で、愛する少女を守るために、食い破る。
 そうした主人公の姿に、作者相原コージの感情移入がダブって見えてくる。
 スタート地点のやや斜に構えたギャグの枠を食い破り、あの相原が、真正面から壮絶なバトルを描き切る。
 連載を追いながら、その様を目のあたりにした私は、戦慄を覚えていた。
 そして凄惨な戦いの果てに、ムジナは満身創痍になりながらも生き残り、守るべき少女と共に、完全に「抜け切った」のだ。
 直球ど真ん中のカタルシスと感動が、そこには確かにあった。

*     *     *

 もう一つ、同時期の作品の中から。


●「覚悟のススメ」山口貴由(94〜96週刊少年チャンピオン連載)
 舞台は核戦争と環境汚染に荒廃した近未来。
 主人公・葉隠覚悟は、旧日本軍で編み出された「零式防衛術」と、秘密兵器「強化外骨格・零」を伝承する少年。
 第二次大戦中、凄惨な人体実験を繰り返し、強化外骨格の技術を作り上げた悪魔的軍人・葉隠四郎を曾祖父に持つ。
 祖先の罪と「力」を背負いながら、力なきもののために専守防衛の戦いを続ける正統派抜け忍ヒーローである。
 対する「悪のヒーロー」は、覚悟の実の兄・散(はらら)。
 最強の強化外骨格「霞」に宿る、人体実験で惨殺された母子の怨念に導かれ、人間であることを捨てる。
 そして地球を汚染し、他生物を殺し続ける人類を抹殺する「星義」を掲げ、現人鬼(あらひとおに)となる。
 熱血少年とクールな美少年、努力型と天才型、直線的な力と曲線的な技、兄に憧れる弟と弟に立ちはだかる兄など、少年マンガ的な主人公とライバルの対比を贅沢にフル装備しながら、人類とその他の生物の存在意義を賭けた壮大な兄弟喧嘩が描かれている。
 70〜80年代の抜け忍ヒーロー像を自在に引用、再構成しながら、90年代的な世紀末感覚、メカデザイン、エログロ描写を加え、さらに旧日本軍的アナクロセンスをトッピングした、ある意味「集大成」のような作品である。
 この作品で特筆すべきは、宿命の兄弟喧嘩の「その先」まで描かれていることだ。
 葉隠兄弟は戦いの果てに和解し、手を携えて、その「力」にして「呪い」である強化外骨格の開発者、葉隠四郎を倒す。
 その後、怨霊から解放された兄・散は、本来の力を取り戻して地球再生の旅に出、弟・覚悟はあくまで力無きものを守るための戦いを継続する。
 週刊連載マンガでここまで描き切り、また余計な引き延ばしに手を出さなかったのは、「美事」という他ないのである。

*     *     *

 私は幼い頃から「抜け忍モノ」サブカルチャーに心惹かれ、成育の各過程でそれぞれに多大な影響を受けた作品に出会ってきた。
 発端は、自分と周囲の子供たちの間に距離を感じていた原風景と、孤独なストーリー展開が同期したことだったのではないかと思う。
 超スパルタ受験校で過ごした中高生の頃も、抜け忍ヒーローの姿に勇気づけられ、キツい生徒指導に耐えながらひたすら「技」を磨き、無事卒業できた時には「ついに抜けた!」と思った。
 学生時代から成人後、「抜け忍」となった後も、その時の「技」でなんとか凌いできた。

 抜け忍の物語、そしてその物語に心惹かれる心情というのは、どこか「呪い」の要素があると感じられる。
 作中の抜け忍は、多くの場合、逃れられない宿命の中で、暴力的な「悪の力」を心身に刻印される。
 そして自分の意志でその「悪の集団」から抜け、孤独な戦いの生き方を選ぶことになる。
 60〜70年代の「抜け忍モノ」では、そうした戦いの呪縛の構図が十分に解除されないまま、物語が終息するケースが多かったのではないかと思う。

 呪いはいずれ解かれなければならない。

 90年代以降の「抜け忍モノ」は、そうした先行する物語の「語り残し」に対し、影響を受けた表現者たちが自分なりに回答する試みだったのではないだろうか。
 先に紹介した「ムジナ」「覚悟のススメ」は、その好例であると感じる。
 ムジナは、忍者であることからも抜け切って、伴侶を得たカムイである。
 覚悟は、美樹を守りきり、闘いの果てに了と和解し、ともに理不尽な父神を倒したデビルマンである。
 そして前回記事で紹介した映画「ダークナイトトリロジー」は、「呪い」に捕らわれた抜け忍が、最後に抜け忍であることからも抜け、幼い頃受けた「呪い」を自ら解除する物語であった。

 呪いに巻き込まれたままではいけない。
 守るべきものを持ち、呪いの力をもって呪いを断ち切れ。

 サブカルチャー作品とは言え、そこに込められた寓意は大きいと思うのだ。

 本章一回目で紹介した「カムイ伝第二部」でも、第一部の一揆で壮大に挫折したカムイ、正助、竜之進の三人は、様々な道のりの末、再会する。
 カタルシスの中でなく、当たり前の日常の中で、なおしぶとく志を持続し、次代に伝える姿が、そこにある。
 それぞれに呪縛が解かれ、さばさばとした表情が、今読み返すとなんとも味わい深い。

*     *     *

 最後にもう一つ、作品紹介をしておきたい。


●「仮面ライダーSPIRITS」石ノ森章太郎/村枝賢一(01〜09月刊マガジンZ連載)
 いわゆる「昭和ライダー」の続編として描かれた作品。
 本章二回目の記事で紹介した山田ゴロ版の続編として読むことも可能だと思う。
 全ての戦いが終わり、ライダー達が姿を消した世界。
 第一作に登場したFBI捜査官・滝和也は、ライダーの後を引き継いで、一人のただの人間として孤独な戦いを続けていた。
 ある時、過去の亡霊のような「怪人」集団の引き起こす事件と遭遇する。
 巻き込まれた子供たちを救おうと「仮面ライダー」に成り代わって奮戦するが、空手とバイクの達人である滝の力も、人間の範疇を超えた敵には通用しない。
 絶体絶命の危機。
 そこに、風のようにかつての友、本郷猛が現れる。
「スマンな滝、遅くなった」
 本物の仮面ライダーに、変身。
「敵は多いな、滝」
 仮面ライダー1号がつぶやく。
「いや、大したことはないか
 今夜はお前と俺で、ダブルライダーだからな」

 この第一話、このシーンを読んだ時、私は既にいいおっさんになっていたのだが、不覚にも涙ぐんでしまったことを覚えている。
 あれは、本当にいいシーンだった。

――「仮面ライダーSPIRITS」は、第一話が飛びぬけて良かった。

 こんな感想が目に入ると作者は不本意かもしれないが、作品の最後の一筆は読者が加えるもの。
 年食った「大きなお友達」が過剰反応するマンガを描く方が悪いのだ(笑)

 
 このエピソードを読んでから数年後、熊野遍路の途中でふと思いついた。

(ああ、あれは同行二人の物語だったんだな……)

 遍路でよく使われる言葉に「同行二人」というものがある。
 これは「どうぎょうににん」と読み、金剛杖にも書かれている。
「遍路の道行きは、御大師様と二人連れ」
 そんな意味がある。
 弘法大師空海と二人連れということは、実際歩むのは自分ただ一人ということだ。
 歩むも止まるも野垂れ死ぬも、たった一人。
 一人の覚悟が決まってはじめて、「同行二人」は成立する。

 心の仮面ライダー、心のカムイと、同行二人。
 馬齢を重ねつつ、ぼちぼちその程度の覚悟は定まったと思うのだ。

(「抜け忍サブカルチャー」の章、了)
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2018年07月27日

抜け忍サブカルチャー3:学生時代から成人後

 90年代以降、学生時代から成人後にかけては、「抜け忍モノ」の構造を持つハリウッド映画に心惹かれることが多かった。
 映画については、ヒット作以外に渉猟して観るほどのファンではない。
 CMなどで目に付く作品の中から好みのものを拾っていくうちに、後から振り返ってみると「抜け忍モノ」が多くなっていたということだと思う。

 ちょうど成人したくらいのタイミングで観て印象に残ったのが、「ブレードランナー」だった。


●映画「ブレードランナー」リドリー・スコット監督(82公開)
 労働用に生産された人造人間「レプリカント」の逃亡者チームと、それを追う捜査員「ブレードランナー」の攻防を描く作品。
 82年初公開時からカルト的な人気を誇っていたが、当時の私はまだ子供で、この大人びた作品は興味の対象外だった。
 その後の中高生の頃、同じリドリー・スコット監督の「エイリアン」には強烈な印象を受けていたが、「ブレードランナー」の方は「噂で聞いている」という程度だった。
 確実に印象に残っているのは、92年の「ディレクターズ・カット版」で、こちらは何度も繰り返しビデオで観た。
 年齢的に、私はその頃ようやく「ブレードランナー」鑑賞の「適齢期」になっていたのだろう。
 自分の人格とか記憶と言ったものが、さほど確固としたものではなく、もしかしたらフェイクかもしれない――
 ふとそんな感覚を抱き、そうした疑念をテーマにした作品にどっぷりハマるには、それぞれが相応の発達段階になっていることが前提になる。
 そうしたタイプの作品については、以前にも一度記事で触れたことがある。

 フェイクがどうした!

 この「ブレードランナー」は、初公開時興行的にはふるわなかったものの、80年代における「その種の作品」の本家本元みたいなカルト映画だった。
 作中の設定年代に、そろそろ現実が追い付こうとしているが、それでも時代を超えて古びない映像と、観る者の想像に任せる「余白部分」の多さが、繰り返しの鑑賞を可能にしているのだと思う。
 沈鬱と優しさ、感傷。
 映像が極めて重要な作品ではあるけれども、それに留まらない多様な「読み方」ができる、陳腐な表現になるが、やはり「文学的」という他ない映画なのだ。
 主人公のデッカードがレプリカントであるかどうかについては、劇中では明確にされておらず、ファンの間でも様々な受け止め方があるが、監督の意識の中でははっきりと答えがあるようだ。
 敵役のレプリカントチームのまとう悲劇的な雰囲気は間違いなく「抜け忍モノ」である。
 また、デッカードの出自や恋人レプリカントのレイチェルと逃亡するラストシーンを考えると、「抜け忍」のイメージはかなり重層的になってくる。

 そして、三十年以上の時を経て昨年公開の「ブレードランナー2049」は、作中でも三十年が経過した正統な続編にあたる。
 監督が交代したと言うことで、ちょっと不安を抱いていたけれども、全くの杞憂だった。
 単独でも楽しめるし、観ることがそのまま第一作の観方を豊かに掘り下げることになる、そんな上質の続編である。


●映画「ブレードランナー2049」ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(17公開)

     *    *     *

 ハリウッド映画のヒットのパターンの一つに、西欧文化圏の若者が他民族社会に「進駐」したものの、その世界に魅了され、配偶者を得ることで「裏切者」になるというものがある。
 私が今すぐに思いつくのは以下の三作。


●映画「ダンス・ウイズ・ウルブズ」ケビン・コスナー監督(90公開)
●映画「ラストサムライ」エドワード・ズウィック監督(03公開)
●映画「アバター」ジェームズ・キャメロン監督(09公開)

 制作年も監督も主演も異なるが、物語の構造はほぼ同一で、にも関わらず吸い寄せられるように観て、同じように面白かった。
 主人公の若者は、西欧文明由来の戦闘力を持ちながらも、滅びゆく民族文化を守るための戦士となる。
 この構図は、今から考えると「抜け忍モノ」そのものだったのだ。
 ここに挙げた三作は、一応リアルを志向した作品から完全なファンタジーまで、フィクションの度合いに濃淡がある。
 しかし、いずれも滅びゆく豊かな世界への郷愁が描かれ、対照的に近代文明の本質的な暴力性が描かれることは共通している。
 主人公が「抜ける」対象が、「悪の組織」ではなく、今現在自分が属している文明社会そのものであるという点が、この種の物語では特筆される。
 しかし考えてみれば前回記事で挙げた「デビルマン」「死霊狩り」等でも、主人公は最終的に人間社会自体の暴力性に気付き、そこから「抜ける」構図を持っていた。
 70年代日本サブカルの先見性も、同時に確認しておきたい。

     *     *     *
 
 そして、この十年ほどの間で一番ハマった「抜け忍モノ」ハリウッド映画といえば、やはりこちらになる。


●映画「バットマン ダークナイト三部作」クリストファー・ノーラン監督(05、08、12公開)
1「バットマン ビギンズ」
2「ダークナイト」
3「ダークナイト ライジング」

 実写版のアメコミヒーロー映画には多数のシリーズがある。
 私はその全てをチェックするほどのファンではないが、それでも好きなシリーズはある。
 サム・ライミ監督の「スパイダーマン三部作」や、とりわけこの「ダークナイト三部作」シリーズは大好きだった。

 アメコミヒーローを扱ったシリーズではあるけれども、対象年齢はかなり高めに設定されているようだ。
 たとえば先に挙げたサム・ライミ版「スパイダーマン」シリーズなら、親子連れでも十分に楽しめるだろうし、デートで観に行くのも十分ありだろう。
 しかしこの「ダークナイト」シリーズは、そうした「楽しい」鑑賞には全く向いていない。
 いかにもマンガ的な「バットマン」という素材を、手抜き無しで徹底的に「リアルなバイオレンスアクション」として成立させることを志向しており、ロマンスやセクシー要素すら排除されている。
――腕は超一流だが極めて愛想の悪い料理人
 そんな趣のあるシリーズで、いい年のおっさんが十分にハマれる内容なのだ。
 個人的に一つだけ難点を挙げると、それはやはりハリウッド映画にありがちな「ヘンテコ東洋」の描写になるだろう。
 第一作「ビギンズ」と第三作の完結編「ダークナイトライジング」は、そのヘンテコ東洋が物語の基本構造に組み込まれてしまっているので、そこでぎりぎり興が削がれてしまうところがある。
 ただ、第二作「ダークナイト」について言えば、ヘンテコ東洋の設定から一応切り離されており、シリーズ中でも突出した完成度になっている。
 中でも宿敵ジョーカー役のヒース・レジャーのブチ切れた狂気の演技は素晴らしい。
 映画の中のカリスマ的な悪役と言えば、すぐに「羊たちの沈黙」シリーズのレクター博士が思い出される。
 この作品のジョーカーはそれに迫る水準に達していると思うのだが、残念ながらヒース・レジャーは映画の完成を待たず、急死。
 この第二作単独でも鑑賞可能なので、未見の人はぜひ。 



 ダークナイト三部作の主人公ブルース・ウェインは、大富豪の一人息子。
 幼い頃に両親を犯罪者に殺され、「悪を倒し、恐怖に打ち勝つ力」を求めて放浪する。
 やがて狂信的なカルト集団と出会い、厳しい戦闘訓練を経た後、決裂。
 抜け忍として故郷に帰還し、財力に物を言わせた装備でゴッサム・シティ―に巣食う「悪」と戦う、「バットマン」に変身する。
 しかし、超法規で闘うバットマンは決して「正義」ではあり得ない。
 毒を持って毒を制する「闇の騎士」でしかなく、そのことを自分でも承知している。
 悪と戦うが、最終的には悪と戦う自分が消滅することを望んでいるのだ。
 シリーズを通じて常に圧倒的な敵役に翻弄され、防戦一方で、気持ちよくは勝利できない。
 戦闘力を高め、「悪」を退けようともがけばもがくほど、より強力な「悪」を呼び込んでしまう。
 幾多の戦いで満身創痍となり、幼馴染のヒロインは救えず、恋も実らない。
 とてつもなく苦い、挫折と絶望の物語である。
 第三作のラストで、富豪一族として代々守ってきた都市が再建され、後継者を得たことを確認した主人公は、「闇の騎士」であることからようやく解放される。
 遠く離れた地で、長い戦いの中で得たささやかな安息が描かれ、長尺のシリーズは幕を閉じる。
 バイオレンスアクションの大作であるけれども、大人が、一人静かに味わうための映画だと思う。

     *     *      *

 思い返してみると、成人後の私が何とか食い扶持をひねり出してこれたのは、中高生の頃に必死で身に付けた写実デッサンの技術とともに、皮肉なことに超スパルタ受験校で身に付けた受験勉強の技術のおかげであった。
 美術系の仕事と共に、家庭教師や塾講師などの受験指導ができる大小二本差しだったことが、私をサバイバルさせてくれた(苦笑)
 高校卒業後、学生時代から成人後も、私はずっと変わらず「抜け忍」であったのだ。
(続く)
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2018年07月26日

心が凍りつく

 本日、残りのオウム死刑囚の執行があった。
 今月六日とあわせて13人。
 様々な見方があろうけれども、私にとっては「心が凍りつく」と表現するほかない。
 決してかの教団を肯定するわけではないが。

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 そして本日は相模原市の施設で凄惨な事件が起こってから二年。

 今夜は祈るしかない。

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posted by 九郎 at 23:39| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年07月24日

抜け忍サブカルチャー2:中二病期

 思い返すと夢の中の出来事のような「子供時代」を過ぎ、ある程度現在の自分と連続性の感じられる思春期に入った頃、私は衝撃的な「抜け忍モノ」と出会ってしまった。



●マンガ版「デビルマン」永井豪(72〜73週刊少年マガジン連載)

 読んだ年齢、作品内容、全てが噛み合って、生涯最もハマった作品になった。
 この作品については、これまでにも度々記事にしてきた。

 70年代永井豪の「魔神懸かり」

 過去作ではなく、リアルタイムの連載作品としては、「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズを生み出す直前の荒木飛呂彦の短期連載が物凄く面白かった。


●「バオー来訪者」荒木飛呂彦(84〜85週刊少年ジャンプ連載)
 軍事秘密組織の人体実験から脱出した少年少女の逃避行を描く、「抜け忍モノ」の王道を行くような設定。
 80年代的なバイオテクノロジー描写と、おそらく古代呪法「蟲毒」を接ぎ木したショッキングなバイオレンス描写の秀作である。

 80年代後半には「抜け忍モノ」をSFとして再生させた中興の祖、仮面ライダーシリーズも復活した。

●TV特撮「仮面ライダーBLACK〜RX」(87〜89放映)

 平成直前、昭和ライダーの集大成にして原点回帰、シリアスでよくできた作品だったと思うが、放映当時の私は、年齢的に「子供向け」からは少し距離を置きたい段階に入ってしまっていた。
 この前年の86年、「機動戦士ガンダムダブルゼータ」でリアルロボットアニメからも「途中下車」しており、そろそろ「大人向け」の小説やマンガ、映画に関心が移りつつあったのだ。
 とくに続編RXの「より低年齢向け」の路線変更を機に、ライダーシリーズからは完全に卒業した。
 ブラックについて言えば、例によって「暴走」した石森マンガ版の方がより印象に残っている。


●「仮面ライダーBlack」石森章太郎(87〜88週刊少年サンデー連載)

 より歯ごたえのある作品を求める内に、子供の頃から好きだった元祖抜け忍カムイの「本編」の方に手が伸びた。


●「カムイ伝 第一部」白土三平(64〜71月刊漫画ガロ連載)

 中高生当時、ちょうど私は超スパルタ受験校に通っていた。

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 当時ですら異様な戦前回帰教育、時代錯誤のキツい体罰に日々晒されており、作中の被支配階級の民衆や、逃亡者となったカムイに、あらためて深く感情移入していた。
 同時期、リアルタイムで「カムイ外伝」の続きが連載されていた。
 絵柄も内容も完全に「大人向け」になっており、私は本編「第一部」の後日譚として、あるいはいずれ開始されるであろう「第二部」への序章として、本編に続けて読み耽った。

●「カムイ外伝 第二部」白土三平(82〜87ビッグコミック連載)



 80年代半ばには、永井豪「デビルマン」と並ぶ、もう一つの衝撃があった。
 SF作家・平井和正の作品との出会いである。
 平井作品には私好みの「孤高のヒーロー」が多数登場するが、「抜け忍モノ」の系譜に連なる作品としては、「死霊狩り(ゾンビ―ハンター)」がある。


●小説「死霊狩り(全三巻)」平井和正(72〜78)
 地球外生命体の侵略を受けた人類が、優れた身体能力と闘争心を持つ若者の中から、狂気のサバイバル試練で「不死身の怪物」と言えるメンバーを選抜し、戦いに赴かせるバイオレンス・ストーリー。
 主人公の元レーサー・田村俊夫が最後に「抜ける」のは、何からか。
 70年代の平井和正は、マンガ原作で磨き上げたエンターテインメント性と、生来の情念滾る作風がバランスよく噛み合った傑作を連発している。
 80年代以降は「エンタメの定型」を崩す方向に進化して読者を選ぶようになり、実は私はそちらの方向性も熱愛しているのだが、少なくとも70年代半ばまでの平井作品は万人に全力でお勧めできるのである。
 とくに本作は「未完の帝王」と呼ばれた作者の、当時としては珍しい「完結長編作品」であった。
 全三巻でコンパクトにまとまっているので、今まさに孤独な青春を送っている若者にはぜひ手に取ってほしい。
 つい先ごろ、ハヤカワ文庫から全三巻を一冊にまとめたものが復刊されたので、今なら非常に手に取りやすい。

 この作品、小説の初出は72年だが、60年代末には先行して桑田二郎作画「デスハンター」として、ほぼ同内容のマンガ版が制作されていた。
 マンガ版の原作がそもそも小説形態で書かれており、マンガ完結後に加筆と構成変更を経て完成したのが小説版と言うことのようだ。
 個人的に、「8マン」から始まる平井/桑田コンビのマンガ作品としては、この「デスハンター」が最高傑作ではないかと思っている。
 写実の要素を盛り込んで研ぎ澄まされた描線が、この時期の平井和正の世界観と完全にシンクロしているのだ。


●マンガ「デスハンター」平井和正/桑田二郎(69週刊ぼくらマガジン連載)


 中学生の頃の「デビルマン」ショックを通過した80年代後半の高校生時代、私が最も読み耽ったのが平井和正とカムイ伝だった。
 平井和正は当時よく遊んでいた友人の本棚で知った。
 厳しい生徒指導と進級基準で、その友人も含めた同級生が次々と学校を去る中、私は教育系の美術志望に切り替えた。

 このスパルタ地獄から必ず生還してやろう。
 それにはとにかく「力」が必要だ。
 そう考えて、ひたすら技術を磨いた。

 デッサンと見取り稽古

 なんとか卒業までサバイバルし、受験も乗り切った時には、冗談ではなく「ああ、俺はついに抜けたのか」と解放感を味わった。
 それからずっと、今に至るも「抜け忍気分」は続いている。
(続く)

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