2017年06月24日

夢仙人、つげ義春

 作家、画家などの表現者が、「夢」というテーマにこだわりを持つケースは数多い。
 マンガ家のつげ義春もそんな表現者の中の一人だ。
 単に「夢をよく描くマンガ家」というだけでなく、名人とか達人クラスを超えて、「夢仙人」みたいな高みにいるのではないかと思っている。
 夢を夢としてマンガで描くための画風、文体を確立したのが、他ならぬつげ義春なのだ。
 そんな作品の多くは、以下の文庫版に収録されている。


●「ねじ式/夜が摑む」(ちくま文庫)

 夢を作品の形にまとめるにはいくつかの段階を経なければならず、作品に含まれる「夢の濃度」はそれぞれの夢の持ち味に対して最適である必要がある。
 つげ義春の夢作品をまとまった編集で鑑賞すると、その匙加減の妙が存分に味わえる。
 マンガとして完成された作品に加え、スケッチと文章による「夢日記」も、かなりの分量が書籍化されている。
 現在はやはりちくま文庫版の一冊が手に取りやすい。


●「苦節十年記/旅籠の思い出」(ちくま文庫)

 ここまで豊富なネタがあるなら、もっとマンガが描けるのでは?
 そんな風に考えていた時期もあったが、面白い夢を見たからと言って、それが作品に直結するわけではないことは、自分でも夢の記録をとってきた今の私にはよくわかる。
 公開され得ない夢日記もかなり多いだろうし、公開に当たって「編集」された内容もあるだろう。
 さらに、夢日記として記録されなかった夢の世界はもっと膨大になるだろう。
 マンガとして描かれた夢は、様々な段階で濾過され、純度を挙げた、奇跡のような結晶体なのだ。
 いくつかの極上の夢マンガが描かれ、かなりの分量の濃密な夢日記が公開されただけでも稀有な事例なのである。

 繰り返しになるけれども、夢を夢として記すには、それに相応しい「文体」が必要だ。
 その文体は、夢をテーマに扱う表現者の作品を鑑賞すると、ある程度共通した「雰囲気」として伝わってくるだろう。
 中でもつげ義春は、第一人者ではないかと思うのである。
posted by 九郎 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

朝から笑かしよんな


 「はげええええええええ!!!!!」 

 NHK朝のニュースで鳴り響く、ブチ切れたおばはんのシャウトである。
 笑う以外、どのようなリアクションがあろうか。
 おかげで今日一日、思い出し笑いしていた。

 週刊誌報道、音声の公開とともにおばはん議員本人は病院へ直行、自民党には離党届をだしたとのこと。
 議員を続行できる病状ではなさそうにお見受けする。
 早々に職を辞し、落ち着いた環境で加療されんことを。

 議員というのは紛れもない権力者である。
 権力を持つものが抵抗できない立場の者に暴行を働くのは、許されない犯罪行為という以前に、醜い。
 いくら病人とは言え責任能力までは喪失していないであろうから、醜い振舞いの代償は払わねばならないだろう。
 さすがにネット右翼どもも、このおばはんはかばいようがないようだ。

 このおばはんの件の前には、おっさんの動向も注目されていた。
 籠池のおっさんである。
 某総理大臣の責任転嫁記者会見にちょうどかぶせるように、おっさん周辺には突然ガサ入れがあった。
 逮捕も間近ではないかという報道へのリアクションをとった格好で、籠池のおっさんは総理の嫁はんの居酒屋等を、「寄付の百万を返したい」として巡回して回ったのだ。
 もちろん受け取りは拒否される。
「おっさんそれ百万ちごて二万ちゃうか?」
 そんなネタまで込みのアポなし訪問である。

 おっさんの振舞いにも笑かしてもらったが、おばはんのような醜悪さは感じなかった。
 このおっさんも、ほんの数か月前までは権力をカサに着る不愉快な糞右翼だったわけだが、今は違うからだ。
 現在のおっさんは、地位も仲間も財産も全て失った素浪人に過ぎない。
 権力を無くしたおっさんが、「関西の苦労人のおっさん」という己の素の才覚だけで国家権力と駆け引きしている姿には、どこか愛嬌が感じられる。
「これ以上追い込むんやったら、何するやわかりまへんで」
 胡散臭い札束というシャレも利かせつつ、しぶとく抵抗するおっさんに、かつての醜悪さは無い。
 籠池のおっさん。
 決して応援はせーへんけど、まあ気張りや!

 やるなら、身一つの素浪人として。
 前川喜平さんの言動に説得力が感じられるのも、一人の人間として振舞っているからだろう。
posted by 九郎 at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年06月19日

モノクロ原稿、印刷、カラー化

 久々につげ義春の作品をまとめ読みしてみて、マンガの絵について色々思うところがあったので、覚書にしておく。

 まず、つげ義春というマンガ家に絞って言えば、「モノクロ印刷」の状態こそ、最も味わい深い状態だと思った。
 原稿の写真版も何作品分か見たことがあるが、ペン、ベタ、ホワイト、トーン等の詳細が分かるのは大変勉強になったけれども、それは「舞台裏」への興味であって、素直な作品鑑賞とは違う。
 つげ義春の絵を存分に堪能するなら、黒は黒、白は白ではっきりと印刷された状態が最上で、つげ義春自身も当然そうなるように意図して原稿を作成していることだろう。
 しっとり黒い闇や、繊細なペンタッチは、やはり状態の良い印刷物として鑑賞したい。
 マンガ家やイラストレーターは、印刷物になった段階で完成するように計算しながら原稿を描くものだ。
 中には手塚治虫や永井豪のように、原稿段階の絵に独特の魅力が感じられる描き手もいるけれども、つげ義春はそうしたタイプとはまた違う。

 日本のマンガは基本的にモノクロのペン画表現だ。
 これはやはり、戦後の手塚治虫らの活躍により「子供向けでストーリー主体の長編マンガ」が主流になってきたためで、ページ数の多いマンガを安価に売ろうとすれば、必然的にこの形態になる。
 雑誌媒体に発表し、後に単行本として発行する利便性もあって、日本のマンガは版下原稿作成術の進化形として発展してきた。
 原稿はあくまで「版下」で、真筆としての価値はもちろんあるけれども、完成品ではない。
 印刷物こそが「作品」になる。

 つげ義春のペンタッチに酔いたい時は、ある程度のサイズが必要だ。
 文庫版はちょっと小さすぎる。
 なるべく大きなサイズの版型で、とにかく「黒」を美しく出してほしい。
 青林工芸舎の作品集は、サイズも収録作品も申し分ないのだけれども、大変惜しいことに印刷が「紺色」なのだ。


●「ねじ式―つげ義春作品集」(青林工芸舎)

 代表作「ねじ式」は、初出が二色カラーだったこともあって、近年の出版物では二色カラーとして印刷されることが多いが、私はモノクロの方が好きだ。
 赤が入っているのも面白いのだが、ペンタッチがピークの時期の絵を堪能するには、色は「夾雑物」ではないかと感じてしまうのだ。

 つげ義春の作品は「ねじ式」以外にもいくつかカラー化されたものがあり、以下の作品集に二色版が収録されている。


●「紅い花 つげ義春カラー作品集」(双葉社)

 再読体験として楽しめることは楽しめるのだが、「やっぱりつげ義春はモノクロがベスト」という思いを新たにした。
 中には「紅い花」のような、いかにも二色カラー向きに思える作品もあるのだが、不思議にモノクロの方が「深い紅」を感じる。

 唯一の例外は「外のふくらみ」だ。
 この作品は元々原稿段階から絵の具で着彩された状態で描かれており、モノクロ印刷では伝えきれていない要素が見受けられた。
 現在入手しやすい中では以下の本にカラー版が収録されている。


●「つげ義春: 夢と旅の世界」(とんぼの本)

 もともとモノクロ前提で完成した原稿は、質の良いモノクロ印刷で鑑賞するのがやっぱり良い。
 後付けでカラー化すると、トゥーマッチと言おうか、画面がうるさすぎになり、絵の焦点がぼけるということはよくある。
 大友克洋の「AKIRA」がオールカラー化され、横書き右開きになった「国際版」が刊行された時も、期待に震えながら手に取ったが今一つだった。
 大変な労作であることは分かるし、これが世界中で絶賛されるであろうことも分かったけれども、どうしても作品に入り込めなかった。
 これなら印刷が今一つの「日本版」全6巻を、モノクロのまま品質アップしたものを出してほしいと思ったものだ。



 つげ義春で言えば、一冊の本の中にどんな作品を、どの順で収録するかも大切だ。
 レコードのアルバム作りのように丁寧な編集の本は、何度もしみじみと読み返すことができる。
 私が好きなのは、以下の作品集。
 サイズ、厚み、収録作品、収録順が実に良いのだ。


●「定本・夢の散歩」
●「隣りの女」


 つげ義春の作品を、自分で選んで自分で並べ、品質の高いモノクロ印刷で本にしてくれるサービスがあったら、多少高くても絶対注文する!
 一生の宝にするだろう。

 このサービス、実際にあったら私だけでなく軽く万単位で需要は見込めると思うのだが、どこかでやってくれないかなあ。
posted by 九郎 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 神仏絵図覚書 | 更新情報をチェックする

2017年06月17日

キネマ旬報

 謝んな!

 投稿者の「松」さんは、もしかしたらあの人かな。
 俺は断固支持する。
posted by 九郎 at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年06月16日

昭和に見えるか見えないか

 最近というか、もう何年も前からだと思うが、映画やドラマで「昭和の風景」が描かれているのをよく目にする。
 終戦直後から高度成長期あたりは、朝ドラの定番になっている感じだ。
 たぶん二通り鑑賞の仕方があって、昭和生まれはわりと「同時代」を感じながら観ているだろうし、平成生まれの若い世代はそうした作品を完全に「時代劇」として観ているだろう。
 70年代生まれの私は、感覚的に微妙な面もあるが、どちらかと言えばやっぱり「昭和」派だ。
 これが80年代生まれになると、たとえ生年が昭和元号であっても感覚は平成寄りになるだろう。
 分岐点は多分1980年前後ではないだろうか。
 
 ちょっと興味があるのは、私より上の世代が今現在制作されている「昭和」ドラマを観て、果たして本当に「昭和」を感じているのかどうかだ。
 私は正直、あまり感じない。
 背景セットやファッション、小道具、流行語などは一応おさえてあるのだろうけれども、あまり「昭和」には見えないものが多い。
 スタッフの主力はもう80年代生まれ以降になっているのかもしれないが、なんというか、私の体感してきた「昭和」の空気感とは重ならないのだ。

 これは作品が面白いか面白くないかとはまた別の話だ。
 ハリウッド映画の描く「日本」が多少ヘンテコでも、面白い映画は面白い。
 同様に、「昭和」を感じられなくとも面白く観ている作品はいくつもある。

 しょせん実体験していない時代は描けない、という話でもない。
 戦中派の皆さんに懐かしがられた映画「この世界の片隅に」という凄い例もある。

 こんなことをつらつら考えているのは、このところ、つげ義春のマンガを再読していたからだ。
 つげ義春の作品の空気感は、まさに「昭和」だ。
 はっきり時代背景がわかる作品は戦後から高度成長期あたりのものが多いし、わからない作品もどう見ても「昭和」で、ケータイなど影も形もない。
 そもそも平成に入る前にマンガの筆は置かれているのだ。
 そんなつげ作品を読むと、私は作者より世代的にかなり下るにも関わらず、「懐かしさ」を感じる。
 私が子供時代を過ごした「70年代の地方」には、まだまだ田んぼや自然はたくさん残っていたし、鉄工所などの製造業も活気があったし、子供はたくさんいたし、お祭りなどの民俗行事も残っていた。
 子供の頃の体験というものは、深層意識にまで浸透している。
 たとえば私は夢の中に出てくるのは今でもダイヤル電話で、スマホはおろか、ガラケーすら出てきたことがない。
 つげ作品に描かれる風景は、私にとってごく自然に感情移入できるのだ。
 本当の「昭和」に浸りたい時は、つげ義春を読めばいい。


●「大場電機鍍金工業所/やもり」つげ義春(ちくま文庫)

 ここまで書いてもう一つ思った。
 平成生まれの若い世代は、つげ義春をどう読むのだろうか?
posted by 九郎 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする