2018年08月15日

再掲:旧日本軍の大半は飢えと病で死んだ

 終戦の日という表現にはずっと違和感を持っている。
 本日は「敗戦の日」だ。

 70年以上前、政治力・外交交渉の敗北から日本が開戦に追い込まれ、多くの国民を失い、国土を灰塵に帰した後、敗戦が確定した日だ。
 戦争の真実は勇ましげな戦記だけでは理解できない。
 旧日本軍の大半は、ろくな補給もなされないままに、何の実効性もない精神論で追いたてられ、戦闘行為以前に飢えと病に倒れ、命を落としていった。
 そうした悲惨な現実は、実際に南方戦線に兵士として出征し、片腕を失って帰ってきた水木しげるの作品の中に、多数描き残されている。


●「総員玉砕せよ!」(講談社文庫)


●「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)


●「ねぼけ人生」(ちくま文庫)
 水木しげるは多くの自伝的な作品を描いているが、中でも定番ともいうべき一冊がこの「ねぼけ人生」だ。
 故郷である境港、その習俗のエキスパートである「のんのんばあ」に子守をしてもらった幼児期から、水木しげるの「妖怪人生」は始まっている。
 太平洋戦争に向けて徐々に窮迫する世相、南方戦線への出征、片腕を失った顛末など、昭和史の貴重な証言になっており、まさに今、読むべき内容と言える。
 特筆すべきは、ラバウルの戦場での現地の人々との交流の記録だ。
 ろくな補給もなく、玉砕前提の戦場で兵士の大半が餓死、病死していく中、水木しげる本人は現地人の間で「大地母神」のように慕われるおばあさんに気に入られ、辛うじて命をつなぐ。
 地獄の戦場のすぐ隣には、天国のような自然と共に生きる「土の人」の世界があったのだ。
 戦争が終り、すっかり気に入られた水木は村人たちに引き留められるのだが、上官に説得され、再び返ってくることを約束して日本に帰国し、やがてマンガの世界に飛び込むことになる……
 本書「ねぼけ人生」は人気の高いマンガ作品ではないけれども、水木しげるの作品世界に含まれる要素が全て詰まった、代表作と言える一冊である。



 先に紹介した中沢啓治「はだしのゲン」とともに、これらは今後もずっと長く読み継がれるべき作品だと思う。
 
 戦後七十年を越えてなお、我が祖国ニッポンは相も変わらず政治は無策、外交交渉は貧弱、国民に補給は与えず無意味な精神論ばかり押し付ける国であり続けている。
 このような状態で戦争をやれば、次も必ず負ける。
 国民目線から見れば、負ける戦争は決してやってはいけないのだが、積もり積もった失政のつけを戦争でチャラにしようと目論む奴等は、着々と準備を進めているのである。
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2018年08月14日

再掲、映画「この世界の片隅に」

 稀にみるロングランを続け、アナザーバージョンの公開も決定した映画「この世界の片隅に」について。

 噂にたがわぬ良い作品だった。
 戦争や原爆はテーマとして厳然とあるのだけれども、描写の中心は名もない庶民のごく普通の生活風景だ。
 ちょっとぼんやりした、絵を描くのが好きな女性「すずさん」の眼と手を通して、戦前から戦中、戦後の広島近辺の風景が、ていねいにていねいに描かれる。
 精緻を極めた絵作りがなされているはずなのに、原作マンガ家・こうの史代の画風もあって、観客の眼に入る映像はあくまでさりげない。
 絵作りに全力を傾注しているはずの作り手の熱意が、前面に出過ぎていないのがまた素晴らしい。
 そうした細やかな生活描写や、情のやりとりが描かれてこそ、徐々にスクリーンに侵攻してくる戦争の暴威が、強烈なコントラストを感じさせるのだ。

 映画を観ながら、なんとなく石牟礼道子の著作のことを思い出していた。
 水俣の語り部であるかの作家も、公害の惨禍だけでなく、それ以前の美しく懐かしい水俣の海山、民俗の在り様を作品として結晶させ続けてきた。
 作品に少し「異界」とか「幻視」の要素が含まれていることも、共通しているように感じる。
 理不尽な暴虐に対する時、失われたものの美しさを描き残すことこそが、もっとも強い力を発揮することもあるのだ。
 そう言えば3.11後の反原発デモでも、幾多の力のこもった演説にもまして多くの人の心を打ったのは、唱歌「ふるさと」だった。

 絵描きのハシクレとして観るならば、主人公のすずさんが空襲時に呆然と空を眺めながら「今絵の具があったら」と夢想するシーンが心に突き刺ささる。
 そう、絵描きはそのように感じるのだ。
 現実と並行してふと夢想が混ざり込み、そんな物語を描き留めたくなる感覚は本当によくわかる。
 それは絵描きの「業」だ。
 すずさんは状況的に描けなかったけれども、絵描きの業を背負った者は、できることならそんな時は、まわりにどう思われようと、やはり描いた方が良いのだ。
 

 あまり人には言わないけれども、私は毎日のように「絵を描く手がなくなったら」とか「目が見えなくなったら」と、ひとしきり想像する時間を持っている。
 実際そうなってみないと分からないが、もしそうなっても描けるようにと、そのような想定をする時間を持つように心がけている。
 明日何が起こるかわからないのが人生だ。
 元弱視児童であり、阪神淡路大震災の被災者でもある私は、そのことを身に染みて知っている。

 描き残す、そして書き残すということについて、深く感ずるところの多い、本当に良い映画だったと思う。

 印象的な画面が目白押しだったが、観てからかなりの時間が経過した今でも、たまに反芻するシーンがある。
 終戦の場面である。
 玉音放送を聴いた主人公・すずさんが、一人裏庭に出て、地面を叩きながら慟哭する。
 その時の独白が、言葉通りに受け取ると非常に「好戦的」で、まるで敗戦を悔しがり、戦い抜きたがっているかのようなのだ。
(あの大人しいすずさんが、なぜ?)
 そんな疑問を感じた人も、多かったのではないだろうか。
 その時すずさんが感じた「悔しさ」、私はなんとなくわかる気がするのだ。

 何度も書いてきたが、私は中高生の頃、カルト教団じみた、または戦前の軍国主義じみた、超スパルタ受験校に通い、過酷な体罰教育を受けてきた。

 青春ハルマゲドン

 もちろん中高生としての楽しい思い出もたくさんあったのだが、反発が大きすぎて、卒業後はなるべく母校とは距離を置き、関わらずに過ごしてきた。
 そして90年代、卒業から十年ほど経った頃、我が母校が進学実績の伸びと共に、ごく常識的な範囲の「普通の校風」に脱皮していったことを、風の便りに知った。
 それ自体は「良いこと」で、後輩たちのことを考えれば、まことに好ましい変化だ。
 しかし、私がその時反射的抱いたのは、「悔しさ」に似た感情だった。
 カルトな校風に馴染めず、卒業せずに去っていった友人たちのことや、どうにかサバイバルした自分の感情が蘇ってきた。
 そして、母校の「最高傑作」の一人でありながら、後にカルト教団に走ってしまった面識のない先輩のこと。
 映画館でラストに近づく画面を観ながら、そんなことを思い返していた。

 そう言えば映画の中のすずさんも、戦争で大切なものをたくさん失いながらも、淡々とした日常に還っていったのだった。
 あの終盤の流れ、映画館の暗闇でひっそり涙しながら、見入ってしまった。
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2018年08月10日

お盆休みの読書

 今年はやっぱりこれ!


●緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」

 意味不明な不誠実答弁が常態化した国会で、本当に久々の「すっきり論理が通った名演説」である。
 3時間近くの長丁場、しかも文字起こしするだけで本になる演説を、数枚のレジュメだけでやってのけた枝野代表の凄まじさ。
 後々の語りぐさになる一冊、しかも、「民主主義とは何か」を問う、教科書のような一冊である。
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2018年08月08日

今はただ

 沖縄のために戦い続けた翁長知事が、本日急逝された。

 今はただ、安らかに。

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2018年08月06日

マンガ「はだしのゲン」関連記事集成

 本日は8月6日。
 第二次大戦中、アメリカによって広島に原爆が投下され、何の罪もない非戦闘員が大量虐殺された日である。
 核という最悪の兵器が、非戦闘員の大量虐殺を目的に実際に使用されたのは、今のところ人類史上で日本の広島と長崎のみ。
 しかし核兵器自体は性能を格段に向上させながら、世界中に拡散し続けている。

 毎年この時期になると、当ブログで何度か投稿してきたマンガ「はだしのゲン」関連記事へのアクセスが延びる。
 これまでの関連記事を再編したまとめを、再浮上させておきたい。
 
 
 マンガ「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、2012年にお亡くなりになってしまった。
 その何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
 だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
 それにしても、子供の頃から読み耽ってきたマンガの作者の訃報を耳にすると、強いショックは感じた。
 
 よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
 ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
 以下、一部引用。
  
 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
 二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。


 私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
 それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
 この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
 それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
 こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。

 私はネットをはじめてそろそろ十五年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
 何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
 そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
 子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
 もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
 中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
 作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いで頑固な一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
 
 結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
 もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
 少し心配なのが、隆太だ。
 願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
 隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
 あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
 そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼んだことを覚えている。

 マンガ「はだしのゲン」と、その関連書籍の主なものは以下の通り。

●「はだしのゲン」汐文社版
 他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
 著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
 マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。

 昔は学級文庫にも「ゲン」や「カムイ伝」などの強烈な作品が置かれていたものだが、今はもうそんなことはないのだろうなあ……
 広島の原爆資料館のマネキン人形も撤去されたと聞く。
 3.11後の日本で、今後ますます大切になってくる作品だと思うのである。
 
 この時期になると、コンビニに漫画「はだしのゲン」の廉価版がよく並んでいた。
 かなり以前から恒例化していて、確か刊行されていない年もあったと思うのだが、ほぼ毎年店頭にあった。
 昔の「週刊少年ジャンプ」掲載分の「第一部」のみが集英社から刊行されることが多かったが、続編に当たる「第二部」も中公から廉価版で出されていた年もあった。
 今年はまだ見ていないが、そろそろ棚に並ぶかもしれない。

 何年か前、学校や図書館からの排斥運動が起こったりもしているけれども、何か騒ぎが起きる度に注目が集まり、逆に本は売れ、読者は増え続けている。
 世の中にはいじればいじるほどでかくなる不死身の怪物が存在する。(やや下ネタでスマン)
 漫画「はだしのゲン」もまさにそうした生命力をもつ怪物で、焚書しようと下手に手を出せば、必ず逆効果になる。 

 色々と議論はあっても、作品が数十年にわたって読み継がれるのには理由がある
 単純に、漫画としてむちゃくちゃ面白いのだ。

 反戦反核の内容であるということは、読み継がれている理由の一要素に過ぎない。
 内容が「重要だ」という理由だけでは、多くの人はわざわざ作品を手にとったりしない。
 人は日々生きることに忙しく、いくら重要な事柄が描かれた作品であっても、その重要さだけを理由に鑑賞する意欲を持つのは、よほど真面目な人だけである。
 唯一「読んで面白い」という要素だけが、多くの読者の財布の紐を緩ませ、ページをめくる時間を割かせるのである。

 作者の中沢先生には、そのあたりのことがよく分かっていたのだろう。
 大切なことを描いているということ自体に寄りかからず、甘えず、漫画としての面白さを保持しながら、血を吐くような自信の思いを込めて作品を紡ぐという離れ業をやってのけたのだ。
 その背景にはおそらく、原爆が投下された地獄の広島を、誰にも頼らず生き抜いてきた経験があったことだろう。
 地べたを這いずる庶民の乾いたリアリズムが、作品の内容にも制作姿勢にも貫かれているからこそ、エンターテイメントとして優れた作品が生まれたのだ。

 出版不況の中、コンビニ版が毎年のように刊行されたのも、それだけの売り上げが見込めるということだろう。
 資本主義社会において「エンターテイメントとして優れている」「面白い」ということは最強なのだ。
 売れる本は時代を超えて刊行され続け、いくら内容が良くても売れない本は消えていく。
 
 原爆地獄の広島で、家族や友人たちを虐殺され続けたかつての少年が、その怨念を背負ってたった一人、ペンをとった。
 単身、人類最強兵器や超大国に喧嘩を売ったのだ。
 戦時中の爆撃機VS竹槍どころではない、核兵器VSペンなのだ。
 まともに考えれば勝てるわけがないのである。
 事実、作者が希求した核廃絶への道のりはまだまだ遠い。
 核抑止論という極めて原始的なパワーバランスの在り方は、原始的であるだけに、突き崩すことは容易ではない。
 世界中の頭脳が知恵を結集しても、いまだこの野蛮な理屈をひっくり返せていない。
 それでも、「はだしのゲン」は世界中で読み継がれている。
 野蛮な最強兵器の存在に、ほんの一矢でも反撃し得ているのが、知識人の言説などではなく、一匹狼気質の被爆者が描いた「たかがポンチ絵」なのだ。
 これを「奇跡の善戦」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 野蛮で巨大な力に対抗できるのは、こちらも原始的な、虐殺された側の「怨」の一念という情動しかないのである。
 
 およそ勝てるはずのない喧嘩を売って、けっこう戦えてしまっている男を見たとき、たとえその男の政治的発言に考えの違うところがあったとしても、私の美意識では「およばずながら助太刀いたす」と呟くのが正しい。
 義侠心とか大和魂とか武士道とか、呼び方はなんでもかまわないのだが、腹をくくって戦いを挑む男を後ろから切りつけるような真似は美しくないのである。

 助太刀と言っても、せいぜいマイナーなブログで本を紹介し、自分でもコンビニ版を購入して再読するくらいしかできないのがなんとも歯がゆいのであるが。

 ともかく、「はだしのゲン」をもっと世界に!


【関連記事】
映画「この世界の片隅に」
posted by 九郎 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ・マップ | 更新情報をチェックする