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2025年09月03日

播州剖判ツアー8

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■高砂市周辺
 JR加古川駅から川を渡って姫路市に至るまでに、旧山陽道は高砂市域に入る。
 風土記においては加古川東岸を「賀古郡」、西岸を「印南郡」として、様々な地名エピソードが紹介されている。
 東の日岡山、西の升田山の間を通過した加古川は、下流域の地形を古代から変遷させてきた。
 西岸では今の法華山谷川筋あたりが加古川本流になったこともあるらしく、尉と姥で有名な高砂神社のあるあたりは、広い三角州の地形だったのだろう。
 この三角州は風土記の「南毘都麻(なびつま)の島」に見立てられている。

●八十の岩橋
 日岡陵のある日岡山から加古川を挟んだ対岸の升田山は、風土記に「八十の岩橋」として記述がある。
 山頂部に天然の「石段」のようなものがあり、往古には天まで届いていて、多くの天人が行き来していたという。
 実は私は幼少期、升田山のほど近くで過ごしていた。大人になってから通りかかった時、小さなサインに気付いて登ってみたことがある。
 標高は100mほどしかないが、「高さ」とは相対的なものだ。
 周りがまっ平らな平野であれば、ぐるりと播磨を見晴らせる「天の橋」に十分なりえる。
 岩橋のあたりからは今でも、東に加古川、南に播磨灘、北にダム湖の平荘湖を望み、天人の視点を体験することができる。

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●高御座山
 この地域の山はほとんど全部が「岩山」だ。
 中でも「播磨富士」と称される高御位山は、山頂に峩々たる磐座がそびえ、素晴らしい眺望が楽しめることで知られる。

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 こちらも標高は300m程度だが、西へとアップダウンの激しい連山が続き、「播磨アルプス」と称される。
 縦走するとそれなりにハードで、連山に囲まれた麓には鹿嶋神社がある。
 高御位山頂の磐座から南を見晴らすと、播磨灘にぽっかり浮かぶ小島が気になってくる。
 家島諸島の東端にあたる上島だ。
 こちらは風土記「揖保郡」に「神嶋」として比較的長い記述がある。それによると、この島の西には仏像のような「石神」があり、顔には五色の玉、胸には流れる涙があるという。
 さらに(少し怖い)エピソードは続くが、詳しくはいずれまた。
(続く)
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2025年09月02日

播州剖判ツアー7

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■明石から加古川へ
●印南野の溜池風景
 西明石からはJR神戸線、山陽新幹線、山陽電鉄の並びがついたり離れたりしながら姫路まで続く。国道2号線はJR線とほぼ並行している。
 西明石から東加古川までは、ちょうど印南野台地南部を横断することになるので、車窓から田園風景の中の溜池が多数眺められる。
 この地域は全国でもトップクラスに溜池が多く、地図で見ると「溜池の合間に農地がある」ような印象すら受ける。
 近世までに造られたものが多く、必ずしも古代の風景そのものではないが、風土記の巨人伝説の雰囲気が感じられるエリアだ。
 JR土山駅から北へ進むと、675年築造と伝えられる巨大な天満大池がある。

●大中遺跡
 JR土山駅で下車して遊歩道を20分ほど歩くと、この区間の眼玉の「大中遺跡」がある。
 この遊歩道は別府鉄道の廃線跡だ。別府鉄道は土山〜別府港、別府港〜野口間の、当時の国鉄と山陽電車を斜めに繋ぐローカル線で、1984年に廃線。遺跡を整備した公園内の播磨町郷土資料館には、旧車両の静態展示や関連展示もある。

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 大中遺跡は弥生時代〜古墳時代初頭の住居跡や土器などが発掘された場所で、学術的な発掘以前から、農作業をしていると土器が出てくることは良く知られていたそうだ。
 弥生時代と言えば「稲作」のイメージだが、水が不足しがちな台地のことなので、当時はまださほど農耕が盛んではなかったらしい。
 足跡が池になったという風土記の巨人伝説の記述を何らかの史実の反映ととらえるなら、灌漑技術を持った渡来民の活躍は、古墳時代以降のことなのかもしれない。
 復元された竪穴式住居がいくつもあり、私は小学生時代から好きでよく立ち寄っていた。

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 遺跡に隣接して兵庫県立考古博物館がある。年少者でも楽しめる展示と解説で、播磨の歴史を辿るならぜひ立ち寄りたい。

●臨海工業地帯
 大中遺跡から山陽別府へと、整備された遊歩道ではなくなるが、廃線跡の道路は続く。
 別府から南には、近代に入ってから埋め立てられた大規模な工業地帯が広がる。
 最大規模の金沢町内には直接入れないが、加古川海洋文化センターや隣の新島側からその威容は眺められる。

●東加古川、加古川
 JR東加古川から北へしばらく進むと、加古川総合文化センターがある。郷土資料の展示が少しあり、加古川市内最大の図書館もあるので、資料探し目的なら立ち寄る価値はある。
 JR加古川からは、姫路へと続く神戸線から分岐し、谷川・福知山方面へ向かう加古川線が出ている。風土記巨人伝説の舞台はこの加古川線で北上した西脇市周辺での物語だ。
 加古川線日岡駅からは、風土記に記述がある「日岡陵」を含む日岡山公園に行ける。
 加古川駅からは、かつて別府鉄道と接続し、川を渡って高砂港へと続く高砂線が通っていた。
 旅客利用だけでなく貨物利用で高砂臨海部の産業を支えたが、1984年に廃線。

●鶴林寺
 鶴林寺は聖徳太子創建伝説のある地元の有名古寺で、かつては高砂線の最寄り駅もあった。
 加古川の下流は古代から川筋が定まらず、現在の形に安定したのは江戸期の治水による。
 高砂線より西は長らく砂洲で、山陽電鉄より南はすぐ海岸線だっただろう。
 鶴林寺が海のすぐ近くにあったことをうかがわせる伝承は、地元で『あいたたの観音さま』という絵本になっている。
 盗賊が鶴林寺の観音像を盗み出し、すぐ舟で逃走するシーンは、今読むと非常にリアルに感じる。
 戦国末期には播磨の由緒ある寺社も争いに巻き込まれたが、鶴林寺は黒田家の説得で織田方に付き、戦火を避けたという伝承もある。
(続く)
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2025年09月01日

播州剖判ツアー6

 風土記に描かれるような古代播州が感じられる場所は、アクセスに苦労する所が多い。
 しかし旧山陽道沿いについては、現在JR神戸線、国道2号線とほぼ重なっており、かなり辿りやすい。
 今でも歴史が感じられるスポットを以下に概観してみよう。

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■須磨から明石へ
●須磨
 畿内摂津の西端・須磨には、源平合戦の史跡が多く残る。須磨浦公園、須磨寺や須磨離宮公園など、地元で親しまれたスポットも多く、六甲全山縦走コースの起点にもあたる。
 須磨浦公園から少し西へ進むと、摂津と播磨の境界にあたる堺川(境川)がある。
 鉢伏山西側の谷間がそれだが、今はほとんど水量が無く、山陽電車、国道2号、JR神戸線が上からかぶさって、川自体ほぼ見えない。
 かつてのあたりは山が海岸寸前まで迫っており、人が通るのがやっとで、馬などで通行する場合は鉢伏山を北側へ迂回していたという。 現在は斜面に沿ってあちこちが宅地開発されており、坂道や階段の景観マニアの間ではわりと有名な一帯だ。

●塩屋
 JR山陽ともに、駅を降りるとすぐ迷路のような路地に入る。 アップダウンあり、塩屋谷川沿いやジェームス山への眺めありで、ちょっとした探検のような散歩が楽しめる。

●五色塚古墳
 垂水駅を下車してしばらく進むと、舞子丘陵の麓にはこの区間の眼玉、五色塚古墳がある。
 古墳時代中期(4C末〜5C初)の前方後円墳で被葬者不明。兵庫県下最大規模の古墳を復元整備してあるので、かなり見応えがある。
 登ってみると、この古墳が「明石海峡と淡路島を眺望する」目的で建造されたであろうことが、はっきりと感じられる。かつては西に播州平野も見晴らせたはずだが、今は明石海峡大橋に続く自動車道が屏風のように立ちはだかっている。

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●明石
 明石駅のすぐ北側には明石城跡に広大な県立明石公園がある。元々天守が無い城で、石垣や堀等の遺構はよく残っている。桜の名所であり、各種施設が豊富で市民に親しまれている。
 公園内には県立図書館があり、郷土資料を調べる場合は立ち寄ってみたい。公園付近には明石市立文化博物館、天文科学館もある。
 駅の南を走る国道2号線を渡ると、昭和を感じさせる魚の棚(うおんたな)商店街があり、明石焼きや海産物が求められる。
 さらに南には漁港風景が広がっている。
(続く)
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2025年08月20日

播州剖判ツアー5

■播州へ続く道

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 古来より播州は、陸上海上ともに多くの道の交差点にあたり、播磨国風土記にも神や人の様々な往来が描かれている。
 風土記は地域ごとの地名由来が主な内容で、時代順には記述されていないが、「出雲から来た国津神の時代」と「大和朝廷の勢力下に入った時代」の記述が多い。
 姫路から津山盆地を経て出雲へ至るほぼ直通の「出雲街道」は、国津神の時代から往来があったはずだ。
 アシハラシコヲ、オホナムチなど、大国主の別名で表現される出雲出身の一族は、おそらく出雲街道を辿り、現在の佐用町から播磨に入ったのだろう。
 やがてこの一族は、宍粟や姫路一円を本拠とし、広く播磨に足跡を残しながら、「伊和大神」の神名を使うようになる。
 そこに朝鮮半島から瀬戸内海を通って船団で渡来した「天日槍命(アメノヒボコノミコト)」がライバルとして登場する。
 異国の神は最新技術で作った光輝く剣を揖保川河口の海水に突き刺し、グルグル攪拌して国譲りを迫る。
 伊保川流域で激しい戦いを繰り広げながら、なんとか伊和大神は天日槍命を但馬に追いやる。
 そして時は流れ、神話の時代が過ぎ去り、大和朝廷の勢力が増す人の時代に入ると、播磨国風土記の記述でも、古代の天皇や神功皇后の名が多く登場するようになる。
 その後の伊和大神は現在の宍粟市一宮町の「播磨一の宮」伊和神社に祀られており、ひっそりと「国譲り」が完了したことをうかがわせる。

 陸路と海路の両方から、そして西と東の両面から、強力な新興勢力が来訪して地元の民と交わり、時に戦い、土着していく播磨の勢力図は、古代以降も何度となく繰り返されていくことになる。
 交通網の要所にあたる播磨については、周囲とのつながりの理解が欠かせない。
 とくに注目すべきは瀬戸内の海上交通だ。
 世界史上における東西文化交流の大動脈、シルクロードは、地中海からスタートして最終的には大和の都まで到達する。
大陸の先進的な技術や思想は朝鮮半島経由で九州、瀬戸内を通ってもたらされた。
 瀬戸内海は穏やかな内海の「灘」と、島や狭い海峡の連なる「瀬戸」が繰り返される。
 当時の航海技術では度々停泊することになるので、道行きの各所でも交易は行われ、人や文物の種は撒かれた。
 九州北部、瀬戸内海両岸や島々は、意外と「先進地域」だったのだ。
 農業や漁業には天候に関する知識や暦の作成が不可欠だ。
 大陸から導入された道教や天文の知識は既存の思想とミックスされ、やがて陰陽道が成立した。
 備前、備中、備後、美作とその周囲を含む吉備と播磨は、民間陰陽道の本場になった。
 平安京で活躍した大陰陽師・安倍晴明のライバルと目される芦屋道満は、播磨を本拠としたと伝えられる。

 播磨内ではだいたい加古川流域を境に、西は吉備、中国地方の影響が強く、東は五畿内の影響が強い傾向は、中世以降も続いた。
 実は現在でもそうした雰囲気は少々残っていたりする。
 戦国末期の播磨は畿内の織田信長と中国の毛利に挟まれ、そこに大坂本願寺を中心とする一向一揆ネットワークも絡み、翻弄されることになる。
 そこで脚光を浴びるのが、織田方の羽柴勢に協力した知将・黒田官兵衛だ。
 この顛末については以前紹介したことがある。

 英賀合戦幻想

(続く)
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2025年08月19日

播州剖判ツアー4

■氷上回廊と播州の地理

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 播磨国風土記の記述を、現在の地理資料と見比べながら追っていると、意外な正確さ、合理性に気付いて驚くことが多々ある。
 巨人伝説の舞台の西脇・多可は、「氷上回廊」の真ん中あたりに位置する。
 氷上回廊は、日本海側の由良川〜竹田川を経て分水嶺を超え、加古川から瀬戸内海へと至るベルト地帯を指す。
 丹波市氷上町にある分水嶺「水分れ」の標高は約95m。
 北海道稚内から九州鹿児島まで、日本列島の尾根筋を縦断する「中央分水界」の中で最も標高が低い。
 動植物への影響はもちろんあり、日本の東西の分かれ目にあたっている。
 アップダウンが少なく川筋を辿れるので、古くから日本海側と瀬戸内海側を結ぶ主要な交通路として機能してきた。
 水運が盛んな江戸期や明治初期には、この分水嶺を運河で繋ぎ、日本海と瀬戸内海を直通させる計画もあったというが、実現される前に鉄道網が発達し、頓挫したままになった。

 近年の温暖化で都市部だけではなく、意外な箇所で夏季の高温が記録されている。
 兵庫県内では豊岡や丹波市で異様に暑くなることがある。
 普通に考えると山間部は涼しそうなものだが、丹波市の場合は氷上回廊の影響がありそうだ。
 川沿いの「回廊」で標高があまり上がらないままに日本海と瀬戸内海の両方から熱気が運ばれ、ぶつかり合って滞留するのが盆地である丹波市になるのだろう。

 地形を絵図にまとめてみると、風土記に描かれる巨人の彷徨のルートが、きわめて合理的に見えてくるのである。

 播磨の東側に視線を移すと、六甲山地が連続し、須磨で一旦海面下に潜り込んだ後、淡路島で再び首をもたげている。
 この一連の地形に沿って活断層帯も走っており、1995年には阪神淡路大震災を引き起こした。
 六甲山と海がほとんど接する須磨が、摂津と播磨の境となる。
 そこから明石川を経て、広大な印南野台地が広がり、加古川に至る。
 代表的な河川としては「播磨五川」と呼ばれる加古川、市川、夢前川、揖保川、千種川がある。
 中でも最長、最大水量を誇る加古川は、播磨平野の中心部を形成する。
 更に西へ進むと市川の流れがあり、加古川と並行して日本海側へと続いていく。
 そして夢前川、揖保川、千種川それぞれに播磨北部の山間に突き刺さり、それぞれの地域で生活圏が築かれている。
 西北には地域最高峰の氷ノ山を眺め、山間部は西の中国山地へと続いていく。
 地形に沿って歩きやすいルートは踏み固められて旧街道となり、人や文物の交流を担い、やがて初期の国道や鉄道に上書きされていった。
 南は穏やかな播磨灘に面し、海岸線は明石から赤穂へと弧を描く。
 地名である「播磨」の語源には諸説あるが、一説には、蘆原志挙乎命(大国主命)が姫路市白浜の麻生山に登った折、「弓を張ったようだ」と見立てたことから「張浜の国」と呼ぶようになったとされる。

 気候は温暖かつ穏やかで、自然災害は比較的少なく、天体観測の適地とされ、中世には天文を観る陰陽道が隆盛した。
 雨の少なさは稲作にはマイナス要素だったが、それを補うために印南野台地では数えきれないほどの溜池が掘られ、風土記の巨人伝説のイメージとも重なっている。

(続く)
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする