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2023年08月06日

戦後姫路小史3 五十米道路

 官選市長になった翌年の1947年、初の市長選に大差で勝利した岩見元秀は、「市営企業論」をぶち上げ、公共事業に力を入れた。
 市街の再建にはどのみち大規模公共事業は必要であり、既に始まっていた第一次ベビーブームを支える働き手に仕事を与えるためにも、野心溢れる土建屋が指揮を執ったことはプラスに作用した。
 中でも姫路駅から城までをぶち抜く、道幅50m、全長840mの幹線道路を通す荒業は、他の誰にも不可能だっただろう。
 通称「五十米(メートル)道路」(後の大手前通り)は、当時「飛行場でも作る気か?」と揶揄されながらも、交通量の確保、電線の地下埋設による駅から城までの景観確保など、現在でもその先見性を高く評価されている。

 姫路市街中心部の戦後復興にあたり、避けて通れないのが無秩序に繁盛した闇市の始末だった。
 とくに駅すぐ北の焼失した光源寺、光源寺前町には大小数限りない仮設店舗が軒を連ね、中世寺内町もかくやと思わせるものだったかもしれない。
 闇市の立ち退きと戦後の都市計画については各戦災都市ともに難儀しているが、自らも苦労人の石見は、交渉にあたってまずまず適任だったはずだ。
 五十米道路計画にまともにぶつかっていた光源寺は西に400メートルほど移転し、光源寺前町の闇市は新たな駅前商業地に入るなど、こちらも移転が進んだ。
 市長任期一期目終盤の50年から、55年に二期目を終えるまでに工事は完了し、同時に立ち退きや区画整理の基本も完了させた。
 ちょうど同じ時期に朝鮮特需があり、沿海部の製鉄業をはじめとする地元産業は、隣国分断の悲劇を踏み台に盛り上がった。

 戦後闇市を偲ばせる懐かしくも猥雑な風景は、90年代くらいまで姫路市街中心部のそこここに残っていた。
 中でも大手前公園南の「お城マート」は異彩を放っていたが、今はもう現存しない。
 山陽姫路駅高架周辺の商店街や、JR姫路駅西を通る「おみぞ商店街」などに、わずかに昭和の気配を残すのみになっている。

 明治生まれで軍都に育った人間として、石見は学問や文化に対する素朴な敬意は持っていたようだ。
 やることが一々大風呂敷であったが、出身である土建業の利害と絡めつつも、文化教育分野への投資にはわりと熱心であった。
 二期目には姫路城内の元軍用地に動物園を開設。
 70年代に幼少期を過ごした私も、始めてゾウなどの動物を観たり、遊園地の楽しみを知ったのは、ここだった。
 この「お城の動物園」は、遊具とともに昭和の雰囲気を残したまま低料金で運営されており、長く姫路近郊の子育て世帯に愛され続けている。

 区画整理や寺の移転で問題になった市街各所の墓地を、城西方の名古山に集約する霊園開発も行っており、ここにも石見のキャラクターは反映された。
 単に戦災で破壊された墓地を統合するだけでなく、仏教の須弥山宇宙観を模した庭園を造成し、インドから仏舎利を招来し、仏教美術を展示した仏舎利塔を建造してテーマパーク化したのだ。
 江戸期からの寺や墓地を整理集約するには、このくらい大風呂敷を広げる必要があったのかもしれない。
 名古山霊園は後に開催された姫路大博覧会の会場の一つにもなった。

(クリックすると画像が拡大)
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 この霊園には私も子供の頃からよく墓参に行き、通常の墓地とは異質なものを感じ、「遊園地みたいやな」という感想を持っていた。
 仏教の須弥山宇宙観を勉強してから昔の記憶を辿ると「あれはこういうことだったのか!」と納得することも多い。
 市街中心から「西方」にあたる小高い丘という立地が良いし、周縁に配置されたオーソドックスな墓石や無縁塔、供養塔の類から、中心にあたる仏舎利塔や須弥山を空に見上げる曼荼羅的な構成も巧みだ。
 開発計画にはさぞ名のある仏教者が関与していたのだろうと確信している。
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2023年08月03日

戦後姫路小史2 焼け野原と闇市

 終戦の1945年、軍都姫路は二度にわたって激しい空襲を受けた。
 一回目は6月22日午前、城東の京口駅あたりを中心に爆撃機50機以上、二回目の7月3日夜間の空襲では、100機を超える爆撃機が2時間にわたって市街全体とその周辺を焼き払った。
 姫路城天守は奇跡的に無傷だったが、これは投下された焼夷弾がたまたま不発だったたこと、当時のレーダーの性能では堀に囲まれた天守が「湿地帯」と認識されたらしいためで、「貴重な文化財なので標的にされなかった」ということではなさそうだ
 焦熱地獄から一夜明け、立ち尽くす市民の中には、変わらぬ姿の城に勇気づけられる者も多かったという。

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 二度の空襲の影響で、姫路市街中心部には戦前からの建物はほとんど残っていない。
 往時の町屋の風景を求めるなら、姫路駅から南の海側に続く飾磨街道沿いの方が、まだ残っているだろう。

 そして空襲から一カ月後には敗戦。
 一面焼け野原と化した姫路市街には、生き残った住民や引き上げ者が集まり、バラック小屋を建て、生きるために闇市が開かれた。
 戦後の混沌の中で、違法な闇市をアウトローが仕切るのは、庶民が生きるために当然のことだ。
 国家と法が国民の生命財産を守る機能、正当性を失った状態では、それは「必要悪」ですらなく、単に「必要」でしかない。
 バラックと闇市は復興の過程でいずれ解消されなければならないが、それは強権による排除ではなく、代わりの住まいや収入を保障した上でなければ、スムーズに進むものではない。

 敗戦の翌年、戦後初の官選市長としてその任に当たったのが、岩見元秀(いわみ もとひで)だった。
 石見は1900年、飾磨郡余部村生まれ。
 姫路市街近郊ではあるが、中心からは距離がある。
 旧制中学卒業後、代用教員を務めたり、土木工事現場で働いたりした後、26歳で東京に建設業の会社を立ち上げ、ダムや鉄道工事を手掛けたという。
 当時としてはそこそこ恵まれた成育歴にも見えるが、「毛並みの良いエリート」とまでは言えない。
 何度か満洲での事業に挑戦しているが、既に敗色濃厚な終戦の二年前まで現地で苦闘しているところを見ると、正確な戦況を知りうるような立場には無かったのだろう。
 或いは「無理を承知でリスクをとらなければのし上がれない」という思いがあったのかもしれない。
 1943年には戦況の逼迫から引き揚げ、以後郷里で会社経営に従事していたという。
 明治に生まれて少年期を過ごした播州人が、大正期に土建業で身を立てることを目指し、昭和に入ってからは大陸に夢をかけ、挫折していったん故郷へ……
 そんな人物像が浮かんでくる。
 行政経験皆無の地元土建屋がなぜ官選市長になれたのかと言えば、軍都の主要な人脈が敗戦を契機に排除され、有能であっても大人しい文官には「闇市の始末」は手に余り、軒並み断られたということだろう。
 46才というまだぎりぎり「体を張れる」年齢であったことなど、様々な巡り合わせの中で、岩見元秀というアクの強い個性が闇市姫路で浮上したのだ。
posted by 九郎 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年08月01日

戦後姫路小史1 軍都姫路

 昨年からぼちぼち幼時に見た父方原風景をスケッチしてきたのだが、関連資料を開くうちに、戦後から私が生まれる70年代までの姫路に俄然興味が出てきた。
 絵図やスケッチを試作しつつ、前史としてまとめておきたい。

●昭和初期 軍都姫路絵図(クリックすると画像が拡大)
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 1868年の明治維新後の姫路城は、天守を含む内曲輪は残されたものの、中曲輪の武家屋敷跡地は陸軍の駐留する軍用地化が進み、南と東に展開する外曲輪の市街地とともに姫路の中心として発展することになった。
 1871年、生野鉱山と飾磨港をつなぐ「銀の馬車道」が開通。
 北から南へ市街の輪郭をなぞった後、飾磨街道につながって物流を担い、馬車の往来は戦後しばらくまで残っていたという。
 1900年代までには山陽鉄道の姫路駅が開設、播但線は飾磨港まで延伸し、後に山陽電鉄も南から乗り入れた。(姫路駅は江戸期の姫路城南正面「飾磨門」、播但線京口駅は東正面「京口門」に近接する)
 市街を東西に横切る西国街道筋には金融、娯楽が多く軒を連ねたが、鉄道が開設されたことにより姫路駅と城を南北につなぐ行幸通(みゆきどおり)に繁華街の中心軸は移った。
 外曲輪の市街には江戸期からの寺町もまだ各所に残っており、公官庁や多くの学校が集まった。
 城の北西には姫路高等学校が出来、エリート候補のバンカラ高校生たちが市中を闊歩した。
 外曲輪周辺は宅地化や工業用地化が進んだが、穀倉地帯播磨のこと、市街中心部以外は広大な田園が広がっていた。
 富国強兵、殖産興業、そして教育に対する熱、立身出世の夢。
 維新後の近代日本の縮図のような、「軍都姫路」の風景だった。
posted by 九郎 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年06月18日

溜池ハルマゲドン

 今月6月1日から、アメリカザリガニとミシシッピアカミミガメの法律上の取り扱いが変わり、無断放流が禁止になった。
 捕獲と飼育はこれまで通り合法だが、放流が厳罰化されたとのことで、NHKニュース等でも紹介されていた。
 ただ、ニュースや各種解説を見ても「子供がザリガニ釣りを楽しんだ後」の対処についてははっきりしない。
 厳密にいえば「釣ったらリリースできない」になるはずだが、そこはグレーゾーンとしてボカしてあるのかもしれない。

 わが原風景たる播州平野は、往古の播磨国風土記の記述にもある通り、田んぼだらけのわりに降水量が少なく、溜池や用水路だらけの土地柄である。

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 私が子供の頃の70年代は、件のアメリカザリガニやミシシッピアカミミガメをはじめとする外来生物が、どんどん広まる時期にあった。
 当時すでに私たちが「ザリガニ」と呼んでいたものはほぼ100%アメリカザリガニであったし、ミシシッピアカミミガメのかわいらしい幼体が「ミドリガメ」と称して縁日の夜店などで盛んに販売され、飼いきれなくなると近所の池などに悪意なくどんどん放流されていた。
 80年代に近くなると、ルアー釣りブームとともにブラックバスやブルーギルが次々と無断放流で広がっていった。
 大人たちは多少その異様さを感じていたと思うが、私たち子どもにとっては在来の魚類や水棲昆虫とともに「普通に生息している」生き物であった。

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 フナもコイもいるし、雷魚やブラックバス、ブルーギルもいる。
 両生類にイモリもアマガエルもトノサマガエルもウシガエルもいる。
 水棲爬虫類ではイシガメもクサガメもミドリガメもいる。
 岸近くには水生植物が繁茂し、水棲昆虫が生息していて、トンボやイトトンボも飛び回っている。
 私たち子どもは大いに釣りや虫捕りに精を出し、駆け回っていた。
 それが普通の風景だったので、ずっとそのまま続くと思っていた。

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 しかし、そんな風景は長くはもたなかった。
 2000年代に入った頃には、近所の溜池の多くは様変わりした。
 植物はなくなり、ドロッと濁った水にコイとミシシッピアカミミガメだけが泳いでおり、たまにザリガニ釣りの子供が散見される程度。
 他の生き物はほぼ姿を消した。
 アメリカザリガニ、アカミミガメにコイも加えた外来生物三種は、雑食で極めてしぶとく繁殖する。
 一時期猛威を振るったブラックバスやブルーギルは「捕食者」なので、エサがなくなれば早々に姿を消すのだが、雑食生物は始末が悪い。
 池の植物まで食べつくしても、近所の人のエサやりなどがあれば、そのまま増え続ける。
 かくして播州平野のかなりの溜池や水路は、最終的にこの三種の天下となり、他の生物は消滅していく。
 元の多様な生物相を復活させるには、「無断放流の禁止」だけでは全く足りず、積極的な駆除が必要ではないだろうかと思う。

 団塊世代とそのジュニア世代前後(私も微妙にそこに引っかかっている)は、あまりに無邪気に原風景すら消費しつくしてしまったのだ。
 そしておそらく、消費しつくし、後に何も残さなかったのは、溜池の原風景についてだけではない。

 つらつらそんなことを考える、出生率1.26の今日この頃である。
posted by 九郎 at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする

2023年06月05日

播州剖判

 播州平野について、『播磨国風土記』にこんな一節がある。
 託賀の郡。右託賀と名づくる所以は昔大人在りて常に勾り行きき。南海より北海に到り東より巡り行きし時、この土に到り来て云ひしく「他し土は卑かければ常に勾り伏して行きしに、この土は高ければ申びて行く。高き哉」といひき。故れ託賀の郡と曰ふ。その踰みし迹の処数々沼と成れり。


 意訳してみると以下のようになる。(大きくは間違っていないはず)
 むかし並外れて大きな人がいて、常にかがんで進んでいた。
 南海から北海にいたり、東から巡って来た時に、この土地に着いて言った。
「他の土地は低いのでかがまり伏して来たが、この土地は高いのでのびて行ける。高いなあ」
 だから多可郡と言われる。
 ふみあとはたくさんの沼に成った。


 足跡が沼に成るくらいだから「大人(おおひと)」はそうとうな「巨人」なのだろう。
 海を渡って南から北へ、そして東から播磨に来て、現在の多可町に至ったということは、神戸大阪方面から印南野を通り、加古川を遡上して小野、西脇を通過したルートだろうか?
 多可郡の「高ければ」に対して、それまで通ってきた土地は「卑(みじ)かければ」と表現されている所に、単に「低い」という以外のニュアンスがありそうだ。
 太古の昔のことであれば、海岸線は今よりずっと北にあり、加古川流域はまだ固まりきらない湿地帯だったかもしれない。

 このあっさり短い記述を「播磨国の修理固成神話」と読む人もおり、そうなると「大人」のイメージもかなり雄大なものになる。
 くらげなすただよえる湿地帯を神話的な巨人が歩き回る。
 あちこちに穿たれた巨大な足跡には水分が流れ込み、その周囲は乾いて固まる。
 巨人の旅によってつくり固め成されたエリアが、広大な播州平野となる……
 
 三十年ぐらい前、はじめてこの箇所を読んだ時、低い土地でかがみ、高い土地で背筋が伸びるのは「逆じゃね?」と思った。
 空の高さが同じなら、高い土地の方が窮屈になりそうに思ったのだ。
 巨人なりの感性なのかなとか、独特のノリの「巨人ギャグ?」などと妄想したりした。

 合理的な解釈では、「湿地帯で転ばないよう腰をひいておそるおそる進んでいく様子」とされている。
 上流に至って土地がしっかりすると、足元の心配なく気持ちよく堂々と歩けるようになったということだ。

 登山などをしている時に思ったこともある。
 普段平地で暮らしていると、空の高さを感じにくい。
 しかし高低差があり、見晴らしがよいところを移動していると、平地と空の間に、どこまでも空間が広がっているのを体感できる。
 我らが「大人」は、山間部に入ってそれと同じように感じたのではないか?

 播州平野はだだっ広い平地が広がるばかりで、せいぜいなだらかな丘陵や、さほど深い森にはならない低い岩山がぼこぼこと点在する程度。
 今ではそれなりに市街化の進んだ地域もあるが、昔から田んぼが多く、そのわりに雨が少ないので溜池や用水路が数多い。
 風土記のあっけらかんとした「巨人伝説」は、そんな風景に相応しく、地元の人間には自然に受け入れやすいのである。

 ずっと前から知っていた逸話だが、最近ふと気になって読み返し、スケッチも描いてみた。

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(クリックすると画像は拡大)


●『風土記』(平凡社ライブラリー)
 風土記はどこを読んでも面白いエピソード満載なのだが、手軽に親しむには現代語訳され、廉価な平凡社ライブラリーがお勧め。

●『風土記』(岩波文庫)
 風土記は日本の古典の中でも最古層に属するが、内容的にはさほど難解なものは無い。より原典に近い雰囲気を感じ取るには岩波文庫版がお勧め。
posted by 九郎 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 原風景 | 更新情報をチェックする