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2025年11月29日

実話怪談から広がる読書の世界

 小さい頃から本好きだった娘が、読書から離れ気味だった一時期があった。
 別に本など読まなくても良いといえば良いのだが、できることなら中学生の頃の読書体験はそれなりにあってほしい。
 そう言えば小学生の頃「本当にあった怖い話」の類の本が好きでよく読んでいたなと思い出し、そして私自身がこの七年ほど、川奈まり子の実話怪談にハマっていることに思い至った。
 興味の範囲が重なりそうなので、手持ちの川奈作品からいくつかを勧めてみた。
 中学生だった娘がまださほどこだわりなく父親と話してくれる幸運に感謝しつつ、手始めに『少女奇譚』『少年奇譚』の中の冒険譚的なエピソードを拾って読んでみた。
 調子が出てきたので、続いて『一〇八怪談』のシリーズ。
 川奈作品はわりに音読向きで、とくに『一〇八怪談』は見開き二ページ程度の短い作品の連続なので、日々15〜20分の時間をとって音読しやすい。
 内容も現代の実話怪談を入り口に、その土地の歴史や信仰にまで遡るエピソードもあり、淡々と音読を続けているうちに視野が広がってくる。
 私が川奈作品を読み始めた頃、初見から「民俗学っぽいな」という印象を持った。
 後に『迷家奇譚』を手にとって、なぜそうしたアプローチになっているのか納得したものだった。
 ひとしきり川奈作品を読んだ後、娘との読書は小泉八雲や柳田国男、宮沢賢治の童話、芥川龍之介の古典再話にも、自然に進んでいくことができた。
 川奈作品は、日本文学の流れとしっかり地続きなのだ。


 そして今年の夏、そんな「地続き」ぶりがよくわかるアンソロジーが刊行された。

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●『雪の怪談・冬の怪』(河出文庫)
https://amzn.to/3XVSFVz

 日本の実話怪談の流れも俯瞰できる一冊。
 収録作家を目次順に紹介すると、小泉八雲、鈴木牧之、志賀直哉、岡本綺堂、加藤博二、柳田国男、泉鏡花、辻まこと、下村千秋、寺田冬彦、国枝史郎、芥川龍之介、田中貢太郎、片山英一、上田哲農、上原義広、トリが川奈まり子。
 いつか読みたいと思いながらまだ手を出せていなかった著名作家の作品が並んでおり、これでまた読書の幅が広がりそうだ。


 中学生の頃の娘と、毎日少しずつでも音読の時間が持てたことは、本当に良かったと思っている。
 そもそもは七年ほど前、たまたま旧Twitterで御本人と私立中高一貫男子校について他愛のない雑談をさせていただいたことをきっかけに、私の川奈まり子読書は始まったと記憶している。
 ちょっとした偶然から、多くの気付きをもらったこの七年である。
posted by 九郎 at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 怪異 | 更新情報をチェックする

2025年11月05日

中世物語への扉

 日本や中国の古典の入門として、中高生からでも読みやすい素晴らしいシリーズがある。
 角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシックスである。
 何が素晴らしいかといえば、誰もがタイトルを知っている有名古典を、予備知識ゼロでも読み始められるようにしてある点だ。
 解説を加えて手ごろな厚みの文庫本一冊にまとめてあるので、多くの作品はダイジェストではある。
 しかし有名エピソードなどの要所は原文で収録してあり、むしろその原文をよく味わい、楽しく音読するための編集になっている。
 私は昔から古典に興味を持ちつつも、興味の対象の作品やエピソードを狭く深堀りする方向で今まで過ごしてきたので、あまり幅広くは読んでこなかった。
 五十代半ばになってしまった今から「幅広く」読むには、もう人生の残り時間が少なすぎる。
 しかしこのビギナーズ・クラシックスならば色々読んでいけそうで、ここ一年ほどあらためて手を伸ばしているところだ。

 日本と中国の古典が幅広くラインナップされている中で、このカテゴリ中世物語で扱えそうな古典も多数ある。
 目録からざっと目につくだけでも『竹取物語』『伊勢物語』『うつほ物語』『源氏物語』『大鏡』『今昔物語集』『太平記』『とりかへばや物語』『平家物語』『堤中納言物語』『謡曲・狂言』などがピックアップできる。

●『今昔物語集』(角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス)
 https://amzn.to/4hEzIzG

 今更ながら、古典は面白い。
 そしてビギナーズ・クラシックスは、私たち中高年の古典への入り口になるし、もっと若い中高生のための絶好の入門書でもある。
 親子で読んでみるのも一興だ。
posted by 九郎 at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世物語 | 更新情報をチェックする

2025年10月12日

旧制高校幻想への挽歌

 当ブログで過去に何度か取り上げてきたが、この一年ほどの間に認識を新たにした点が多々あったので、カテゴリ青春文学で改めて紹介したい本がある。
 北杜夫『どくとるマンボウ青春記』である。

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 中高生の頃の私が繰り返し読んだのは、上掲画像の中公文庫版。
 今現在入手しやすいのは新潮文庫版になるだろう。

●『どくとるマンボウ青春記』北杜夫(新潮文庫)
https://amzn.to/3J6ox68

 記事を書くために、久々に読み返してみた。
 中高生の頃読んだ時は、作中の旧学制のことがよくわかっておらず「えらい大人びた高校生やな」と思っていた。
 実際の旧制高校性は現在の高校生より最低でも二〜三年は年上、二十代前半ぐらいまでの幅の年齢層だったはずなので、そう感じても無理はない。
 一口に「旧制高校気質」といっても半世紀ほどの歴史の中でかなり幅があったようで、北杜夫が体験したのはその末期に近い敗戦直後の数年間。
 戦後の劇的な世相の変化の中、旧制高校の末期の五年間は急激な気質の変化とともにあったようだ。
 狂騒の過ぎた高校後半からは、なんとなく沈んだ日々が続いてような記憶があったが、筆者生来の性格であろうか、最後までどことなく軽みのある滑稽譚は続いた。
 筆者が傾倒したトーマス・マンについての記述を懐かしく読み、『トニオ・クレーゲル』なんかは、自分でもすっかり読んだ気になっていたが、実はまだ読んでいなかったのではないかと四十年越しで気付いた(笑)
 旧制中学から始まった『青春記』の記述は、医学部入学、インターン時代、愛と性に出会い、父・斎藤茂吉の死、最初の長編の完成間際のシーンで終わる。

 中高生の頃から何度となく開いた本で、あの頃の読みはそれはそれで瑞々しいものであったはずだが、「わかる」という意味では一番多くを受け取れた再読だったと思う。
 作中で描かれる北杜夫の青春時代、第二次大戦直後の旧制高校の描写がとにかく懐かしい。
 自分が十代の頃親しんだ描写に再会した懐かしさがあり、また、描かれる旧制高校の風景に対する懐かしさもある。
 70年代生まれの私が、旧制高校そのものを実体験しているわけではない。
 懐かしさの理由は、私の出身の私立中高一貫校にある。
 創立者の園長先生が青春時代を過ごした最末期の旧制高校の校風を再現することを目指した学校だったのだ。
 当時はまだ受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて合格実績を上げる方針をとっていた。
 その結果、80年代当時ですら時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
 漫画『魁!男塾』の連載開始はまさに私の高校生時代だったのだが、あのファンタジックな内容が、仲間内では「あるあるネタ」として盛り上がっていた。
 ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりしたものだった。
 ほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語とは無縁で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の文章の方が、かえって共感できた。
 そんな本の代表が『どくとるマンボウ青春記』だったのだ。
 今回の再読でも内容の懐かしさとともに、自分の中高生の頃の記憶も一気に蘇ってきて、本の内容と記憶を重ねつつ読んだ。

 成績別クラス編成で最下位クラスに入った高一の頃のこと。
 地頭は良いが、どこか壊れたメンバーの集まったクラスで、毎日狂的な馬鹿騒ぎを繰り返していたこと。
 当時の友人の部屋に転がり込んで、意味なく時間を過ごしたこと。
 その後学校を去ったその友人と、ずっと後になって再会したことなどなど……
 取り憑かれたような熱狂はいずれ覚める時が来る。
 学年が進み、その熱狂を主導していた友人が一人、二人と去るうちに、魔法のような「場」の空気は消え去っていく。
 楽しくてやがて寂しき、それでも最後はたった一人で先に進まなければならない。
 誰もが通る十代の道筋だ。
 私は高一の時点で勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
 受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だった。
 所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
 窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
 校歌や応援歌も聞こえてきたが、私は断然、寮歌が好きだった。
 寮生ではなく自宅通学の私でも、かつて旧制高校生気質を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える、哀調を帯びたメロディは魅力的に聞こえた。

 ダン、ダン、ダンダンダン……

 叩きつける大太鼓とともに流れてくる蛮声。
 創立者が自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩が作詞作曲したものとも伝えられていた。
 エリート候補の中にも、昔から少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
 今回再読した『どくとるマンボウ青春記』でも、「どんな音痴でも寮歌だけは歌える」というような内容があった。
 音痴でも歌えるのには、ちゃんと理由があると思う。
 音痴には「リズム音痴」と「音程音痴」があるが、寮歌の場合は力任せに叩きつける大太鼓で、リズムは強制的に補正される。
 また、声を限りの蛮声による合唱なので、こまかいメロディの間違いなどは気にならない。
 結果として、「寮歌なら歌える」という現象がおきるのだ(笑)

 あれからはるかに時が流れた今でも、夕暮れ時になるとなんとなく寮歌を口ずさむことはあったが、久々に『どくとるマンボウ青春記』を再読してからその頻度が上がっている。
 しかし口ずさみながらも、これまでのようにただ懐旧に浸るだけとはいかなくなった2025年の今現在である。
 というのも、この一年ほどカテゴリ教養文庫で読書を続けてきて、日本の旧学制についても認識が深まり、その結果、旧制高校の在り方への総括が、自分の中で出来てきたのだ。

 近代公教育についてあらためて考える二冊

 学力で選抜された若者が大学の専門課程に進む前の三年(最大六年)間に、じっくり外国語や人文系の幅広い教養を身に付け、多くの知的人材を輩出したことは評価されるべきだろう。
 しかし元々社会的に恵まれた層の子弟を、国が更に男尊女卑で優遇したという面は否めず、一応近代教育を装いながらも問題を抱えたままであった。
 現代においては懐古趣味以外の意味を見出すような制度ではないと、はっきり認識したのだ。

 私の中高六年間は旧制高校のミソジニーやホモソーシャル、男尊女卑の坩堝のような状態をそのまま引き継ぎ、有体に言えば、まあろくなものではなかった。
 現代日本で影響力を行使する立場にありながら、社会の進展を阻み続ける私立中高一貫出身者の数々を見るに、その「毒」の部分ははっきりさせておかなければならないと思う。
 そして同様の毒は、今の私自身の中にも残留していると認めざるを得ないのだ。

 では、私の思春期は、何の価値もないただ間違っただけの一時期であったのか?
 それでも輝くなにものかの欠片はあったのか?
 時代を超えて変わらぬ青春の宝とは何か?

 中世の古典作品は現代の眼で見れば迷信まみれで、その点からだけ見れば「過去の遺物」でしかないが、そうした時代性は認識しつつもなお読む価値がある。
 同様の切り分けは、昭和の青春物語や自分の思春期でも可能ではないか?
 久々に私の「青春文学」の原点を味わいつつ、今後も自分に問うていくことが、人生の残り時間の課題である。
posted by 九郎 at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 青春文学 | 更新情報をチェックする

2025年10月07日

現代文の点数を上げる方法

 むかし塾講師や家庭教師をよくやっていた期間があり、主に数学と現代文を教えていた。
 数学については「極論すれば、学年順に基礎からコツコツやるだけ」という、身もふたもない「正解」が一般にもよく知られていると思う。
 一方で国語、とくに現代文については、「何を勉強したら良いのかわからないし、やらなくてもなんとかなる気がする」からの「でもやっぱりできなかった。おっかしーな……」で終わりがちだ。
 実は国語にも「何でもいいから日常的に本をたくさん読みましょう!」という身もふたもない正解はある。
 しかしこれはなぜか「本が好き=良い子」的な道徳を説いたみたいに受け止められがちで、国語科の学力の話だと認識されていないことが多い。

 私たちは日常的に日本語でコミュニケーションをとっているが、話し言葉と書き言葉は違う。
 とくに小学生で国語のテストの点が取れないのは、そもそも書き言葉に慣れていないケースがほとんどだ。
 小中学生の国語力について言えば、児童〜ジュニア向けのエンタメ作品で良いから、図書館/図書室でガンガン借りて読みまくればそれでOKだ。
 とくに人気の長期シリーズにハマってもらえれば言うことはない。
 二十冊以上続いているような人気作だと、そのシリーズの中で様々なジャンルが扱われ、一巡するので、その後の読書の幅を広げてくれる。
 楽しんで日常的に書き言葉に触れていれば、「読解力」については十分クリアできる。

 学校で課されるペーパーテストで「点を取る」ということに関して言えば、以下の注意点を心に刻んで解答すればよい。

・ペーパーテストでは「本文にどう書いてあるか」以外に問われることはほぼない。
・漢字や文法等は要暗記。

 私は小学校高学年の頃、国語のテストを受けていて「あ! 問題文の中に全部答えが書いてある!」と気付いた瞬間があり、以後誤答しなくなった覚えがある。
 中学生以降はさすがに「全問正解」とまでは行かなくなったけれども、「出題者の狙い」に注意して解答する習慣が出来ており、読書は好きだったので、以後ずっと得意科目だった。
 大学入試の一次マーク試験でも9割取れていた。
 よく「本は読んだ人の数だけ正解がある」と言われるのはあくまで「感想」についてであって、現代文のテストで問われるのは論理的に正解が一つに確定する箇所だけなのだ。

 小中の間は「普段から楽しんで読書」「テストの時は本文をよく読む」で十分だが、高校からはそれだけでは通用しなくなる。
 評論文のレベルが上がり、解答するにあたって論理思考、抽象思考の訓練が必要になってくる。
 近代化や思想、東西の文明比較といったテーマについて、予備知識無しに問題文だけから自力で解こうとしても困難になってくるのだ。
 小中から「読書好き」で国語が得意だった子が高校に入って一部つまずき、読書習慣が無くても「勉強」で知識を積める秀才タイプの子の点数が追い付いてくるのはこのためだ。
 現代文の問題を解くことは、イコール上質な日本語を熟読することなので、問題演習をこなせば密度の濃い読書体験と同様になるのだ。
(エンタメ作品中心の読書であっても、歴史や思想を素材として扱っている作家やシリーズにハマっていれば、高校国語に対応できる)
 数学で論理の詰め方を学んだり、今なら高一の歴史総合で世界各国の近代化をがっちり学んでおけば、それはそのまま現代文の読解力につながる。
 楽しみのため、あるいは興味を満たすための自主的な読書はもちろん大切で、それこそが単なる「お勉強」を超えた勉強だと思うが、年齢なりの一般教養を身に付けるため、少し背伸びをした内容を読む訓練をしておいて損はない。

 高校生として何か幅広く読み始めてみたい人には、以下の二冊をお勧めしたい。

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●『高校生のための文章読本』
https://amzn.to/4q18Mhg
●『高校生のための批評入門』
https://amzn.to/46QFmLD
 ともに、梅田卓夫/清水良典/服部左右一/松川由博―編(ちくま学芸文庫)

 一冊目は「文章読本」ということで、70作のあらゆるタイプの表現に触れることで、文章の世界の広さ、深さ、楽しさ、美しさを再認識できる。
 中には自分でも文章が書きたくてうずうずしてくる生徒もいるだろう。
 二冊目は「批評読本」ということで、「ものの観方の多角化、拡張」に力を注いで編集した51作とみた。
 どちらも古今東西の名文・良文そのものを存分に味わえるのが非常に良い。
 本文と、それに対応する後半掲載の解説を合わせ、15〜30分程度で読めるので、一日一作品を淡々と味わう日々を過ごすことができる。
 二冊で4〜6か月程続けると、自然に読解力が身に付き、見識が広がり、さらなる読書の海へ誘い出されるだろう。
 おっさんの私が手にとってみても、昔から名前だけは知っていたが読まないままになっていた多くの書き手の文章に初めて触れることができ、とても良い機会になった。
 世の中にはまだまだ読むべき書き手がいるのだ。

 現代社会は表面上はテキスト情報に溢れ、スマホを通して日々膨大な「文章」を浴び続けることになるのが、その大半は(あえて言えば)ゴミだ。
 SNSの素人の書き散らしや、「それっぽさ」だけに特化したAI生成の長いだけで無内容な鈍ら文章だけでは、頭の中の言葉は磨かれない。
 人の手が紡ぎ出した極上の文章に触れてこそ、到達できる領域がある。

 この記事、とっつきやすいようにタイトルを「現代文の点数を上げる方法」とし、その態で書き進めてきているが、本当に伝えたいのは「名文を楽しみながら、言葉で思考を組み上げることのススメ」だ。
 そのおまけとして「たかが現代文のテストの点数ごときは勝手に上がる」のである。
posted by 九郎 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする

2025年09月28日

壺井栄と向き合う3

 壺井栄読書の過程で、しばらく前に確保していたアンソロジーを確認してみると、壺井栄と徳永直の作品が収録されていた。
 壺井栄の年譜に登場する作家が、他にもけっこう収録されている。
 プロレタリア文学は以前から興味は持ちながら、中々手を出せずにいたジャンルだ。
 この機会に少し読み始めてみる。

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●『プロレタリア文学セレクション』荒木優太編(平凡社ライブラリー)
https://amzn.to/42TFB5T

●『欲しくない指輪』徳永直
 製本女工の描写はさすがで、ごく短い作品ながら労働現場のリアルが見える。

●壺井栄『種』
 小林多喜二の虐殺に材をとった短編。
 子を失った母との交流と、そこから継承するものを描く。
 仲間の死でさえも、男たちは時の流れで風化させる。
 それでも最後まで残る女たちの想いを拾い上げるのが作者の流儀か。

●『誰かに宛てた記録』小林多喜二
●『穴』黒島伝治
 見聞きした地獄を、「地獄である」と書くことが罪に問われた時代。
 そして同じような地獄は今も変わらず在る。

●『雲母片』宮本百合子
 短いエッセイながら、隠しきれないラスボス感。
 宮本百合子は壺井栄と同年生まれ(壺井の公称では壺井が一つ下)で、生い立ちは全く違うが、密な交流のあった姉貴分。
 


 壺井栄関連で何作か読んでみて、この本の楽しみ方がちょっと分かってきた。
 当時の書き手と状況、時代の雰囲気を詰め込んだ、雑誌とか同人誌のような感じだろうか?
 他の収録作もゆっくり読んでいきたい。

 巻末解説で戦前左翼運動の「ハウスキーパー」に触れてある。
 潜伏先で素性を隠すために協力者の女性と夫婦を装うもので、性加害もあったという。
 当然、壺井栄も見聞きしてきたはずで、女をもの扱いにする体質への反発は『妻の座』『岸うつ波』に繋がるのだろう。
 大義名分のために「女をもの扱いにする」というのは、左翼運動の問題点というより日本社会そのものの体質だ。
 本来は女性の権利を確立する方向であるべき運動の中でも、その体質に大差は無かったということの絶望感。
 劇場アニメ『この世界の片隅に』で、出征直前の幼馴染が主人公宅を突然訪れ、夫がそれを許容するシーンの意味が長らく分からなかったのだが、ようやく腑に落ちた。


 アンソロジーを少し読み始めてみて、宮本百合子が気になり過ぎたので、タイトルだけは知っていた作品も手にとってみる。

●『播州平野』宮本百合子
https://amzn.to/42UOE6D

 軍国主義とプロレタリア文学運動に偶然居合わせた稀有の才能が、小説の体裁で書いた敗戦前後の手記という雰囲気。
 書き手が観察眼の極めて鋭い女性であること自体が、男尊女卑の戦争文化で塗りこめられた大日本帝国に対する、強力な批評になっている。
 優れた文学にならないわけがない。

 敗戦直後の混乱を現場から実況中継するように描写が進む。
 国際情勢や国内政治に対する認識が著者の中にしっかりとあり、筆致が醒めた味わいになっている。
 これだけ透徹してしまうと、軍国主義の席巻する日常では、色々支障が出ただろう。
 短いエッセイと本作を読んだだけの妄想だが、宮本百合子は子供の頃から話し相手が極端に少なかったのではないだろうか。
 壺井栄を作家仲間に引っ張り込んだのは、自分にはない生活者の視点も持った対等の話し相手として、見込んでのことかもしれない。

 夫が思想犯として獄中の人となる回想シーンに入る。
 戦況の悪化とともに夫を兵隊に奪われ、連絡も取れない多くの妻たち。
 獄中の夫は少なくとも生死は分かり、手紙のやりとりもできることが、相対的には「マシ」になってしまう狂った状況。
 夫の故郷で思想犯解放の報に触れ、東京へ帰る決意をする主人公。
 しかし敗戦の秋、山陽道を広く水害が遅い、鉄道は寸断される。
 無計画で行き当たりばったり、歴史や自然条件を無視した軍主導の国家運営・軍事開発のつけが、戦後の混乱を悪化させる様がこれでもかと描き出される。
 見通しのないままに出発し、復旧区間をぬいながら帰還する終盤の展開が、タイトルに繋がっているのだろう。
 姫路〜加古川〜明石の鉄道、国道二号線沿いの、古来の山陽道とほぼ重なる風景は、私にとっては地元感覚でありありと浮かんでくる。
 終戦後の姫路のシーンでは、そこから歩いて小一時間ほどの範囲に、私の亡父の乳幼児期の生活があったはずで、感慨深かった。
 主人公が加古川付近で見かけた異様な「少年兵」の一団は、あるいは同年の終戦直前、姫路や加古川の空襲で焼け出された孤児たちの姿であろうか。
 穀倉地帯として長い長い歴史を重ねてきた播州平野の、だだっ広く溜池の点在する田園風景が、最後に印象的に描かれる。

 壺井栄を再読することから始まった読書で、恥ずかしながら未読だったこの作品までたどりつけて良かった。
 この流れと今の私の年齢でないと、おそらく楽しめなかっただろう。


 プロレタリア文学運動周辺の作家の作品は「新しい戦前」の危機感漂う2020年代の現在、再評価されるべきジャンルだ。
 アンソロジーを少し開いてみただけでも、このジャンルの中で多様な作風があることを知った。
 壺井栄はこれまでその流れの中では認識されてこなかったが、あらためて読んでみると時代を超えた多くのテーマを含んでいると感じた。
 私が壺井作品を読み進めていた今年6月、中国で日本未刊行の作品集が発見されたとの報が流れた。

●『絣の着物 壺井栄戦争末期短編集』 (琥珀書房)
https://amzn.to/3KhGteq

 こちらも是非、手にとってみたい。
(終)
posted by 九郎 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 教養文庫 | 更新情報をチェックする